39.新たな命
エヴァが体調を崩して病院に運ばれた。母親の死から数週間が経過し、かろうじて大学に通えるようになっての出来事だった。
連絡を受け、慌てて駆け付けた直哉。やはりまだ無理があったのだろうと思った。本人は大丈夫と言っていたが、心労が溜まっていたに違いない。軽はずみに許してしまった自分を責めた。
大学近くの総合病院。治療室のベッドで横になっていたエヴァ。入って来た直哉を見咎める。その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。慌ててその手を取り上げた直哉。ぐっと握り締めるも、違和感を覚える。彼女の表情から感情が読めないのだ。頬の緊張。小刻みな震え。何かで苦しいのかと思ったが、そうでもないようだ。
すると、エヴァは戸惑ったような表情で口角を上げた。更に困惑する直哉。眉間に皺を寄せ小首を傾げる。次に彼女。ふと、呟いた。
「(……おめでた……だって)」
直哉は理解できなかった。口を開けたまま固まってしまう。滑稽な表情だった。それにつられてか、エヴァは穏やかな微笑みを見せる。
一呼吸おいて、直哉は事態を飲み込んだ。理解した途端、鼓動が高鳴って妙な汗が噴き出した。狼狽する。
「(……こ、子供ってことか?)」
「(そう……私たちの、赤ちゃん)」
直哉の手が僅かに震え出す。それが伝わったエヴァは強く握り返すが、複雑な表情はそのままだ。突然だが、ともかく直哉は父親になった訳である。感情を抑えきれるはずもなく。エヴァの躰を引き寄せ、ぎゅっと抱き締める。
強くて暖かい抱擁だった。エヴァ。直哉の衝動に心が震えた。嬉しかった。気持ちが和らぐと同時に、堰を切って涙が溢れ出した。ただ、その声はくぐもってしまう。言葉も素直に出ない。
「(……でも、今……こんなことって……)」
「(何も言わなくていいよ)」
優しく遮った直哉。エヴァの頭を大きな手でそっと支え頬を寄せた。彼女の気持ちを噛み締める。
心の整理が付かないのは当然だ。人生は予定通りに運ばないものだが、何故こんなタイミングでとも思うだろう。でも、自分自身を戒めるような言葉を口にして欲しくはなかった。悲しみと喜びに優劣など付けられない。そこに折り合いも必要ない。ただ、素直な気持ちで受け入れて欲しかった。イゼルが生きていたら、きっと喜んでくれるはずだから。
「(俺は嬉しいよ……嬉しい……だから、何も言うな)」
エヴァは瞠目し息を呑んだ。喉元まで上がっていた感情をを押し留める。改めて気付かされた。こんなに自分を想ってくれている人が傍にいる。そして、授かったのは二人にとって掛け替えのない命。
彼の言う通りだ。こんなに嬉しいことはない。また前に進んで行ける。今度は家族三人で。イゼルの分まで強く生きていこう。
二人の娘はトモコと名付けられた。エヴァが日本の名前を希望し直哉が決めた。篠崎友子は米国で生まれた。
父親から貰った黒髪。愛らしい赤ん坊は無邪気に笑う。くっきりとした二重は母親譲り。直哉は目に入れても痛くないという言葉の意味を知った。エヴァは我が子を抱き締めることの喜びを知った。エヴァがそうであったように、友子も両親の有り余る愛情を注がれながら、すくすくと育っていった。
直哉の仕事は順調だった。日本人相手の営業も、今になってみれば妻子持ちには都合が良かった。子育ての時間も取れ、充実した毎日を過ごしている。気にしていることといえば、自分の両親に友子を会わせていないことぐらいだが、それもそのうち叶うだろう。自分に挑戦する目的で渡米して来た訳だが、こんなかたちで落ち着いてしまった。ただ、それも悪くないと感じていた。
エヴァの方も出産の為に少しの間休学したものの、復学した後は持ち前の能力であっという間に挽回してしまった。名門大学で在学中に出産などとなれば眉をひそめる者もいる。だが、一向に気にしないエヴァは容易くやって退けた。娘を得た彼女にとって、それは大した障害ではなかったようだ。
何より、イゼルのショックから立ち直ってくれたことが、直哉にとっては一番嬉しかった。母は強しである。だからといって、母親の自殺に納得した訳ではない。友子の大きな存在が自然とそれをぼかしているのである。
ともあれ、直哉とエヴァにとって幸福以外のなにものでもない忙しい毎日が続いた。
ある日の夕方。仕事から帰宅した直哉は自宅の玄関ドアを開けて足を止めた。驚いた表情は、すぐに緊張を解いた。緩んだといっていい。
友子は一歳の誕生日を既に迎えていた。その子が目の前に立っている。あどけない上目遣いの顔。直哉を見て、はにかみ笑っている。
「独りで立ってる……」
思わず日本語が口から出る。手から滑り落ちたバックが足元に落ちた。すると、奥の陰から顔を覗かせたエヴァ。腰に手を当て、してやったりの笑顔。
「(どう? 彼女は優秀よ、どんなことでもね)」
「(ああ、凄いぞ。トモコ)」
直哉は顔をほころばせ友子を抱き上げた。その頬にキスする。
「(そのうち、パパとお散歩ができるな。楽しみだ)」
上機嫌の直哉。エヴァに歩み寄ってキスを交わす。彼女も嬉しそうに微笑む。
「(あなたを驚かせようと、練習したの。彼女は頑張り屋さんよ。我が子ながら将来が楽しみね)」
「(そうか。偉いぞ、トモコ)」
にやけ顔の直哉が、また友子にキスをする。その頬ずりを少し嫌がる友子。エヴァに手を伸ばす。
「(いらっしゃい)」
溺愛を見兼ねたエヴァが友子を抱き取った。飽き足らない直哉。追い駆けるように友子の頭に手を伸ばして撫でる。
「(パパはあなたにメロメロですよ。私もだけどね)」
今度はエヴァが友子の頬にキスをする。
微笑ましく見詰める直哉。その視線を感じたエヴァ。何も言わず微笑する。通じあう二人に言葉はいらなかった。突然、友子が甲高く笑う。両親の気持ちを感じ取ったのか、それは絶妙なタイミング。顔を合わせた直哉とエヴァ。くすっと噴き出す。
エヴァは一層愛しく友子を抱きしめた。
「(本当に大丈夫?)」
食事の最中。ダイニングテーブルでスープを口に運ぶ直哉にエヴァが問い掛ける。今日のメニューはチョルバ・デ・ポルク。ルーマニア料理は彼女の得意料理となっていた。直哉は顔を上げる。
現在、エヴァは卒業後の進路を見据え就職活動の真っ最中。来週からのインターンシップが始まると、泊まりで家を空けることが多くなる。友子の面倒を見る直哉を心配していた。
「(大丈夫だよ。ハリソンさんにも頼んであるし)」
ベテランベビーシッターの名前を出して安心させようとした直哉だが、エヴァは浮かない表情だ。どちらかというと、単に友子と離れるのが寂しいだけなのかもしれない。でも、ここは割り切らなくてはならない。それはお互いに分かっている。
「(そうね……)」
心なく呟くエヴァ。直哉は話題を変える。
「(政府機関への就職か……でも、俺は日本人のままだし、そのことで支障はないのか? 君の希望はCIAかNSAなんだろう?)」
「(今のところ、問題ないわ。そういう機関でも、際どい案件に関わるのは極限られた人達のみ)」
「(皆がみな、スパイになる訳じゃないってことか)」
「(そうね。セキュリティクリアランスにもランクがあるの。私の希望する部署はそれほど厳しくない)」
「(なるほど)」直哉は感心した素振りで頷いた。「(CIAの中にはゴシップ雑誌の記事を収集している部署もあるっていうからな。それこそゴシップかもしれないけど……)」
「(ふふ……まあ、それが本当かどうかは、私が入ってから真実を教えてあげるわ)」
エヴァはやっと口角を上げて見せた。その反応にほっとした直哉。視線を向ける。
「(大丈夫だよ。安心して行って来ればいい)」
「(……ありがとう)」
エヴァは微笑んで、こくりと頷いた。
「(しかし、会社の連中には黙っておかないといけないな。CIAだったら)」
直哉は肩をすぼめた。小首を傾げるエヴァ。
「(どうして?)」
「(それはね。中東帰りのPMC連中は、こぞってカンパニーのことを良く言わないからだよ)」
「(カンパニー? あ、CIAのことね。でも、どうして嫌うの?)」
「(まあ、最前線での限られた話だけど、関わった奴らの印象は相応にして悪い。国益の為には汚いことでも進んでする、砂漠の真ん中で特殊な任務をこなしている連中は普通じゃないってことさ。好かれる方がおかしいのかもしれない)」
「(価値観の違い?)」
「(良く言えばそうかもしれないが、上から目線が気に障るって奴も多いよ)」
「(プライドが高いってことね)」
「(そう、世界は自分達が動かしてる的なね)」
「(ふーん)」
「(……イメージが悪くなった?)」
「(いいえ……そういう感覚はないわ。ただ、興味が尽きない面白い組織ではあるみたいね)」
どこか感慨深い表情のエヴァ。噴き出す直哉。
「(何よ?)」
眉根を寄せて口を尖らせたエヴァ。
「(違うちがう。失笑じゃない、感心したんだ)」
微笑む直哉。エヴァは魅力ある女性だが、それ以上に掴みどころのない所が好きだった。奥が深いというか、二面性というか、人を飽きさせない。ガラスのように繊細かと思えば、鋼のように強靭でもある。CIAとなるとルーマニア革命のこともあるだろうに、彼女はそれを別の角度から見ることができる思考を持っている。まったくもって、感心させられることが多い。
テーブルには友子もいた。端に赤ちゃん用のテーブルチェアで座っている。先に離乳食を貰って満足そうな顔をしていたが、今はうとうとし始めていた。
「(……地政学に基づく世界情勢の分析)」エヴァは友子を愛しそうに見詰める。「(私がしたいのはそれ。大学でもいいのだけど、それではリアルに迫れない。私は……私は世界で起きていることの真実が知りたい)」
その瞳は何かを強く訴えていた。直哉は頬を強張らせた。過去のしがらみとでもいうのだろうか。もちろん、ルーマニアでの話は詳しく聞いていた。世界の真実。彼女にはその能力があるし決意を知っている。ともすれば、それは運命なのかもしれないとも思うくらいに。
「(……分かっているよ。君のやりたいようにすればいい)」
「(ありがとう)」
エヴァも直哉の気持ちを汲んでいる。だからこそ、甘えることにしたのだ。目的を果たしたい。その為の努力は惜しまない。
準備もある程度整えてあった。大学教授からの推薦も取り付けている。元々有名大学内には政府機関の息の掛かった人間がいて、優秀な人材を国の官職へと送り込むための仕組みが出来ている。エヴァもご多分に漏れずそのリクルートを受けていた。もちろん、学内でトップクラスの優秀な人材であることが不可欠である。
その手始めは官庁回りのインターンシップからだった。幸いにしてここからワシントンDCは近い。日帰りで行ける所もあるから、エヴァも少し安心していた。直哉の子守も心配だが、友子の顔を長い間見られないのは辛いからだ。
「(これから朝晩は涼しくなるから、コートの準備しておいた方がいいんじゃないか? ……今年の冬は寒いのかな……)」
直哉は捲ったばかりのカレンダーを見据える。2001年9月。初秋を迎えたばかりだが、いち早く想像してみた。クリスマスプレゼントは何がいいだろうか、友子と雪遊びができるくらい雪は降るだろうか、などと。自然と顔が緩む。
「(えっと、コートはクリーニング出してからどうしたかしら……)」小首を傾げたエヴァだが、上の空になっている直哉が目に留まる。「(……何が楽しいことでも?)」
本当は訊かなくてもなんとなく分かっていた。エヴァの表情も緩む。直哉はバツが悪そうにしながら微笑む。
「(ああ、これからも楽しいことばかりだ)」
「(そうね)」
何気なく。二人はテーブルチェアの友子に目を落とす。いつの間にかすやすやと熟睡していた。屈託のない表情。それは天使のようだった。
ふと、直哉が確認するように訊いた。
「(それで、最初のインターンシップは何処からだった?)」
「(先ずは国防総省、ペンタゴンよ)」




