捌 顔のない客 カオノナイキャク
海道は、夕方になると道へ少しだけはみ出す。 店というほど立派なものではない。お雪の家の軒先へ板を渡し、低い腰掛けを並べ、日が傾けば燗酒と肴を出す。それだけである。
煮た大根、焼き味噌、豆腐、魚の端、漬物。 腹を満たすというより、一日の終わりに酒を一本ひっかけるための場所だった。
お雪は客の名を訊かない。 来れば出す。喋れば聞く。黙っていれば放っておく。 それで困ったことは、ほとんどなかった。
その男が来るようになるまでは。
「燗を一本」
初めて来た晩、男はそう言った。
笠を深く被り、鼠色の羽織を着ていた。三十を少し過ぎたくらいに見えたが、顔はよく分からない。
お雪は徳利を湯へ入れた。
「肴は」
「いらん」
「そう」
それだけだった。
男は軒のいちばん端へ座り、一合を飲み、銭を置いて帰った。
次の晩も来た。 同じ時刻だった。
「燗を一本」
三日目も。 四日目も。 言うことまで同じだった。 五日目になると、常連の一人が笑った。
「雪さん、あいつ置物じゃねえのか」
「置物が酒飲むかい」
「毎晩同じじゃねえか」
お雪は徳利を洗いながら答えた。
「毎晩来る客なんて珍しくもないよ」
「でもよ、顔見たことあるか?」
言われて、お雪は男を見る。
笠の縁が邪魔をして、やはり顔はよく見えない。
「顔で酒飲むわけじゃないからね」
常連は笑った。 その晩も男は一合飲み、帰った。
七日目、三太郎が来た。 乃維助についてきたのではない。一匹で海道まで歩いてきて、お雪の足元へ当然のように座った。
「三太郎、また来たのかい」
お雪は魚の尾に近いところを小さくちぎって投げた。
三太郎は空中で受けた。
「客には出さないとこだぞ」
隣の客が言う。
「この子は文句言わないから」
「俺だって言わねえよ」
「あんたは言うよ」
そこへ、例の男が来た。
「燗を一本」
お雪はいつものように徳利を湯へ入れた。
三太郎が顔を上げた。
男を見る。
鼻を動かす。
それから、ふいと興味をなくしたように伏せた。 お雪は酒を出した。
男は猪口を左手で持ち、一口で半分ほど飲んだ。
「熱くないの」
お雪が初めて声をかけた。
男は一瞬止まった。
「熱い方が好きだ」
「そう」
お雪はそれ以上訊かなかった。
だが、男が帰ったあと、空いた徳利を持ったまましばらく道を見ていた。
翌日、乃維助と由ノ吉が海道へ来た。 まだ客の少ない刻だった。 由ノ吉の横には三太郎がいる。
「珍しいね。二人揃って」
「酒」
乃維助が座った。
「まだ日が高いよ」
「だからいいんじゃねえか」
「何がいいんだか」
お雪は徳利を一本つけた。 由ノ吉が軒先を見回す。
「ここに毎晩来てる男がいるだろ」
お雪の手が止まった。 ほんの少しだけだった。
「男なら毎晩何人も来るよ」
「鼠色の羽織。笠を深く被って、一合だけ飲む」
「いるね」
乃維助が猪口を口へ運んだ。
「顔は?」
「知らない」
「見てねえのか」
「見せないんだから仕方ないだろ」
「名は」
「訊いてない」
乃維助がため息をついた。
「役に立たねえな」
お雪は乃維助の猪口へ酒を足した。
「なら勘定払って帰んな」
由ノ吉が笑った。
「のいさん、聞き方が悪い」
「じゃあお前が聞け」
由ノ吉は少し考えた。
「毎晩、同じ男が来てた?」
お雪は由ノ吉を見た。 それから言った。
「同じ羽織なら来てたよ」
乃維助の猪口が止まった。
「何?」
「同じ笠。同じ羽織。同じ時刻に来て、同じこと言って、一合飲んで帰る」
「同じ男じゃねえのか」
「知らない」
「七日も見てて?」
「だから、顔は知らないって言ってるだろ」
由ノ吉の目が少し細くなる。
「でも、同じ男じゃないと思ってる」
お雪は燗を見た。
「一日目の男は、酒が熱すぎて猪口を二度置いた。二日目は少し冷ましてから飲んだ。三日目は最初から右手。四日目は左手」
乃維助が黙った。
「五日目の男は酒を飲む前に必ず口を拭いた。六日目は何もしない。昨日のは左で持って、熱いのを平気で飲んだ」
「……全部覚えてたのか」
「毎日酒出してるからね」
「何で言わなかった」
お雪は眉を上げた。
「誰に?」
乃維助が詰まった。
「客が何人で同じ羽織着ようが、私には関係ないよ」
「今までは、でしょ?」
由ノ吉が言った。 お雪は返事をしなかった。
代わりに三太郎へ目を落とした。
「この子も昨日は匂い嗅いでた」
乃維助が三太郎を見る。
「前の日は?」
「いなかった」
「役に立たねえな」
三太郎が顔を上げた。
「犬にまで言うなよ」
由ノ吉が呆れた。
三日前から、吉原の外れで小さな押し込みが続いていた。 狙われたのは両替屋と古着商、それから薬種屋。 いずれも暮六つから戌の刻までの間。
盗られた金は多くない。
妙なのは、三軒とも用心棒や奉公人に顔を見られていることだった。
鼠色の羽織。
深い笠。
三十過ぎの男。 そして、薬種屋では逃げる際に笠がずれ、右の頬に大きな痣があるのを見られた。 その男に似た者として名が上がったのが、棒手振りの佐平だった。 右頬に痣がある。 だが佐平には、毎晩同じ刻に海道で酒を飲んでいたという話があった。
「誰が言ったの?」
お雪が訊いた。
「お前んとこの客だ」
乃維助が答えた。
「毎晩、鼠色の羽織の男がここにいたってな」
「私には訊きに来なかったね」
「客が三人もそう言や充分だと思ったんだろ」
お雪は鼻で笑った。
「酒飲み三人で充分たあ、ずいぶん簡単な世の中だね」
「で、佐平を知ってるか」
「知らない」
由ノ吉が懐から人相書きを出した。お雪は見た。 右頬に痣のある男。
「見たことある?」
「待ってな」
お雪は家の奥へ入った。
しばらくして、古い欠けた猪口を一つ持って戻った。
「何だそれ」
「昨日の客が使った」
「洗ってねえのか」
「欠けてたから避けといたんだよ」
猪口の縁に、小さな黒いものが付いていた。 由ノ吉が顔を近づける。
「何これ」
「脂」
お雪が言った。
「髪につける油?」
「たぶん。でも昨日の男、髪からじゃない」
猪口を指す。
「左の指に黒い汚れがあった。酒飲むたびにここへ付いた」
乃維助が指で触った。
「煤?」
「鍋触ってる人の手とは違う。もっと粘る」
由ノ吉が匂いを嗅いだ。
「松脂?」
お雪が頷いた。
「たぶんね」
乃維助が立ち上がった。
「昨日の押し込みは薬種屋だったな」
「そう」
「その近くに何がある」
由ノ吉が考える。
「船着き場」
乃維助は猪口を置いた。
「縄だ」
船荷を扱う者は、縄や綱を補修するため松脂を使うことがある。 佐平は棒手振りだ。 だが、昨日海道へ来た男は船着き場で働く者かもしれない。
「毎晩違う奴が佐平の格好をして、ここで酒を飲む」
由ノ吉が言う。
「本物の佐平が押し込みに入ってる間に」
乃維助が続けた。
「海道の客に見せるためだけにな」
お雪は少し考えた。
「逆かもしれないよ」
二人がお雪を見る。
「何が」
「押し込みに入ってるのが佐平とは限らない」
乃維助の顔が変わった。 お雪は人相書きを指した。
「痣なんて作れるだろ」
「……なるほどな」
「毎晩ここに来る方も偽物。押し込みに入る方も偽物」
由ノ吉が呟いた。
「じゃあ佐平は?」
「さあ?」
お雪は徳利を湯から上げた。
「そこから先はあんたたちの仕事だろ」
佐平は、その日のうちに見つかった。
浅草の裏長屋で、三日前から熱を出して寝込んでいた。 頬の痣は本物だった。 だが歩くことも難しい。 海道へも来ていない。 つまり、誰かが佐平の姿を借りていた。 押し込みの時刻には別の男が海道に座り、「佐平はここにいる」という記憶を作る。 一方、別の仲間が頬に痣を描いて押し込みに入る。 顔を見られても、人相から佐平へ辿り着く。 しかし佐平には海道で酒を飲んでいたという証人が何人もいる。 人相も証言も揃っているのに辻褄だけが合わない。 その混乱の間に、仲間は逃げるつもりだった。
仕掛けたのは四人組だった。
一人は船着き場の人足。
一人は古着屋の手代。
一人は元薬種屋奉公人。
そしてもう一人は、佐平と以前喧嘩をして恨みを持っていた男だった。
「ずいぶん面倒なこと考えたな」
夜、海道へ戻った乃維助が言った。 お雪は焼き味噌を炙っていた。
「面倒なことする人ほど、自分は頭がいいと思ってるからね」
由ノ吉が楽しそうに笑う。
「雪さん、結構言うね」
「好きで言ってるわけじゃないよ」
「出た」
「何が」
「何でもない」
三太郎はお雪の足元にいる。少し離れたところには、お雪の飼っている大きな雌犬が伏せていた。 二匹とも魚の焼ける匂いだけを気にしている。
乃維助が猪口を差し出した。
「しかし、客のこと見てねえようで見てんだな」
「見てないよ」
「見てるだろ」
「顔は見てない」
お雪は酒を注いだ。
「酒を出してれば、嫌でも分かることがあるだけ」
「右で飲むとか左で飲むとか?」
「それも」
「熱いのが好きとか?」
「それも」
由ノ吉が言った。
「話したことまで覚えてる?」
お雪は少しだけ手を止めた。
「覚えてても、言わない」
「何で」
「喋った本人が、私に聞かせたんだから」
「犯罪でも?」
「誰かが死ぬなら別」
お雪は由ノ吉を見る。
「だから今回は話した」
乃維助が鼻で笑った。
「線引きが雑だな」
「細かく決めとくと、面倒だろ」
「お前らしい」
「褒めても酒は増えないよ」
「褒めてねえ」
その時、一人の男が海道の前で立ち止まった。
鼠色の羽織。
深い笠。
乃維助と由ノ吉が同時に男を見る。
三太郎も顔を上げた。
お雪だけが動かなかった。
男は軒先へ座った。
「燗を一本」
海道が静かになった。 乃維助が腰を浮かせる。 お雪は片手で制した。
「待ってな」 いつものように徳利を湯へ入れる。 男の前へ置く。 男は右手で猪口を持った。 一口飲む。 熱そうに顔をしかめた。
お雪が言った。
「久しぶりだね」
男の手が止まった。
乃維助が見る。
「知ってるのか」
男はゆっくり笠を上げた。
右の頬に、大きな痣があった。 佐平だった。
「ここへ来たことあるの?」
由ノ吉が訊いた。
佐平は首を振った。
「初めてだ」
乃維助がお雪を見る。
「じゃあ何が久しぶりなんだよ」
お雪は少し考えた。
「さあね」
「おい」
「似た飲み方する人を、昔見た気がしただけ」
佐平は怪訝そうな顔をしたが、それ以上訊かなかった。 お雪も何も訊かなかった。 佐平は一合をゆっくり飲み、銭を置いて帰った。
三太郎は最後まで吠えなかった。
男の姿が道の向こうへ消えてから、由ノ吉が言った。
「本当に初めてだと思う?」
「本人がそう言ってるんだから、そうなんじゃない」
「でも雪さん、久しぶりって」
お雪は空いた猪口を洗った。
「人の顔なんて、案外あてにならないよ」
「じゃあ何を覚えてる」
お雪は答えなかった。
洗った猪口を伏せる。 軒の外には夜が落ちていた。
海道の大きな雌犬が寝返りを打ち、三太郎もその横へ顎を置いた。
お雪は二匹を見て、小さく笑った。
「飲み方くらいでいいんじゃないかね」
海道にはまた別の客が来た。
「雪さん、燗一本」
「待ってな」
お雪は徳利を取った。
誰がどんな名で、どこから来て、何を隠しているのか。 訊かなければ、知らなくて済むこともある。
けれど知らないことと、見ていないことは、同じではなかった。




