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9/12

捌 顔のない客 カオノナイキャク

海道は、夕方になると道へ少しだけはみ出す。 店というほど立派なものではない。お雪の家の軒先へ板を渡し、低い腰掛けを並べ、日が傾けば燗酒と肴を出す。それだけである。

煮た大根、焼き味噌、豆腐、魚の端、漬物。 腹を満たすというより、一日の終わりに酒を一本ひっかけるための場所だった。

お雪は客の名を訊かない。 来れば出す。喋れば聞く。黙っていれば放っておく。 それで困ったことは、ほとんどなかった。

その男が来るようになるまでは。


「燗を一本」


初めて来た晩、男はそう言った。

笠を深く被り、鼠色の羽織を着ていた。三十を少し過ぎたくらいに見えたが、顔はよく分からない。

お雪は徳利を湯へ入れた。

「肴は」

「いらん」

「そう」

それだけだった。

男は軒のいちばん端へ座り、一合を飲み、銭を置いて帰った。

次の晩も来た。 同じ時刻だった。

「燗を一本」

三日目も。 四日目も。 言うことまで同じだった。 五日目になると、常連の一人が笑った。

「雪さん、あいつ置物じゃねえのか」

「置物が酒飲むかい」

「毎晩同じじゃねえか」

お雪は徳利を洗いながら答えた。

「毎晩来る客なんて珍しくもないよ」

「でもよ、顔見たことあるか?」

言われて、お雪は男を見る。

笠の縁が邪魔をして、やはり顔はよく見えない。

「顔で酒飲むわけじゃないからね」

常連は笑った。 その晩も男は一合飲み、帰った。


七日目、三太郎が来た。 乃維助についてきたのではない。一匹で海道まで歩いてきて、お雪の足元へ当然のように座った。

「三太郎、また来たのかい」

お雪は魚の尾に近いところを小さくちぎって投げた。

三太郎は空中で受けた。

「客には出さないとこだぞ」

隣の客が言う。

「この子は文句言わないから」

「俺だって言わねえよ」

「あんたは言うよ」

そこへ、例の男が来た。

「燗を一本」

お雪はいつものように徳利を湯へ入れた。

三太郎が顔を上げた。


男を見る。


鼻を動かす。


それから、ふいと興味をなくしたように伏せた。 お雪は酒を出した。

男は猪口を左手で持ち、一口で半分ほど飲んだ。

「熱くないの」

お雪が初めて声をかけた。

男は一瞬止まった。

「熱い方が好きだ」

「そう」

お雪はそれ以上訊かなかった。

だが、男が帰ったあと、空いた徳利を持ったまましばらく道を見ていた。


翌日、乃維助と由ノ吉が海道へ来た。 まだ客の少ない刻だった。 由ノ吉の横には三太郎がいる。

「珍しいね。二人揃って」

「酒」

乃維助が座った。

「まだ日が高いよ」

「だからいいんじゃねえか」

「何がいいんだか」

お雪は徳利を一本つけた。 由ノ吉が軒先を見回す。

「ここに毎晩来てる男がいるだろ」

お雪の手が止まった。 ほんの少しだけだった。

「男なら毎晩何人も来るよ」

「鼠色の羽織。笠を深く被って、一合だけ飲む」

「いるね」

乃維助が猪口を口へ運んだ。

「顔は?」

「知らない」

「見てねえのか」

「見せないんだから仕方ないだろ」

「名は」

「訊いてない」

乃維助がため息をついた。

「役に立たねえな」

お雪は乃維助の猪口へ酒を足した。

「なら勘定払って帰んな」

由ノ吉が笑った。

「のいさん、聞き方が悪い」

「じゃあお前が聞け」

由ノ吉は少し考えた。

「毎晩、同じ男が来てた?」

お雪は由ノ吉を見た。 それから言った。

「同じ羽織なら来てたよ」

乃維助の猪口が止まった。

「何?」

「同じ笠。同じ羽織。同じ時刻に来て、同じこと言って、一合飲んで帰る」

「同じ男じゃねえのか」

「知らない」

「七日も見てて?」

「だから、顔は知らないって言ってるだろ」

由ノ吉の目が少し細くなる。

「でも、同じ男じゃないと思ってる」

お雪は燗を見た。

「一日目の男は、酒が熱すぎて猪口を二度置いた。二日目は少し冷ましてから飲んだ。三日目は最初から右手。四日目は左手」

乃維助が黙った。

「五日目の男は酒を飲む前に必ず口を拭いた。六日目は何もしない。昨日のは左で持って、熱いのを平気で飲んだ」

「……全部覚えてたのか」

「毎日酒出してるからね」

「何で言わなかった」

お雪は眉を上げた。

「誰に?」

乃維助が詰まった。

「客が何人で同じ羽織着ようが、私には関係ないよ」

「今までは、でしょ?」

由ノ吉が言った。 お雪は返事をしなかった。

代わりに三太郎へ目を落とした。

「この子も昨日は匂い嗅いでた」

乃維助が三太郎を見る。

「前の日は?」

「いなかった」

「役に立たねえな」

三太郎が顔を上げた。

「犬にまで言うなよ」

由ノ吉が呆れた。


三日前から、吉原の外れで小さな押し込みが続いていた。 狙われたのは両替屋と古着商、それから薬種屋。 いずれも暮六つから戌の刻までの間。

盗られた金は多くない。

妙なのは、三軒とも用心棒や奉公人に顔を見られていることだった。

鼠色の羽織。

深い笠。

三十過ぎの男。 そして、薬種屋では逃げる際に笠がずれ、右の頬に大きな痣があるのを見られた。 その男に似た者として名が上がったのが、棒手振りの佐平だった。 右頬に痣がある。 だが佐平には、毎晩同じ刻に海道で酒を飲んでいたという話があった。

「誰が言ったの?」

お雪が訊いた。

「お前んとこの客だ」

乃維助が答えた。

「毎晩、鼠色の羽織の男がここにいたってな」

「私には訊きに来なかったね」

「客が三人もそう言や充分だと思ったんだろ」

お雪は鼻で笑った。

「酒飲み三人で充分たあ、ずいぶん簡単な世の中だね」

「で、佐平を知ってるか」

「知らない」

由ノ吉が懐から人相書きを出した。お雪は見た。 右頬に痣のある男。

「見たことある?」

「待ってな」

お雪は家の奥へ入った。

しばらくして、古い欠けた猪口を一つ持って戻った。

「何だそれ」

「昨日の客が使った」

「洗ってねえのか」

「欠けてたから避けといたんだよ」

猪口の縁に、小さな黒いものが付いていた。 由ノ吉が顔を近づける。

「何これ」

「脂」

お雪が言った。

「髪につける油?」

「たぶん。でも昨日の男、髪からじゃない」

猪口を指す。

「左の指に黒い汚れがあった。酒飲むたびにここへ付いた」

乃維助が指で触った。

「煤?」

「鍋触ってる人の手とは違う。もっと粘る」

由ノ吉が匂いを嗅いだ。

「松脂?」

お雪が頷いた。

「たぶんね」

乃維助が立ち上がった。

「昨日の押し込みは薬種屋だったな」

「そう」

「その近くに何がある」

由ノ吉が考える。

「船着き場」

乃維助は猪口を置いた。

「縄だ」

船荷を扱う者は、縄や綱を補修するため松脂を使うことがある。 佐平は棒手振りだ。 だが、昨日海道へ来た男は船着き場で働く者かもしれない。

「毎晩違う奴が佐平の格好をして、ここで酒を飲む」

由ノ吉が言う。

「本物の佐平が押し込みに入ってる間に」

乃維助が続けた。

「海道の客に見せるためだけにな」

お雪は少し考えた。

「逆かもしれないよ」

二人がお雪を見る。

「何が」

「押し込みに入ってるのが佐平とは限らない」

乃維助の顔が変わった。 お雪は人相書きを指した。

「痣なんて作れるだろ」

「……なるほどな」

「毎晩ここに来る方も偽物。押し込みに入る方も偽物」

由ノ吉が呟いた。

「じゃあ佐平は?」

「さあ?」

お雪は徳利を湯から上げた。

「そこから先はあんたたちの仕事だろ」


佐平は、その日のうちに見つかった。

浅草の裏長屋で、三日前から熱を出して寝込んでいた。 頬の痣は本物だった。 だが歩くことも難しい。 海道へも来ていない。 つまり、誰かが佐平の姿を借りていた。 押し込みの時刻には別の男が海道に座り、「佐平はここにいる」という記憶を作る。 一方、別の仲間が頬に痣を描いて押し込みに入る。 顔を見られても、人相から佐平へ辿り着く。 しかし佐平には海道で酒を飲んでいたという証人が何人もいる。 人相も証言も揃っているのに辻褄だけが合わない。 その混乱の間に、仲間は逃げるつもりだった。


仕掛けたのは四人組だった。

一人は船着き場の人足。

一人は古着屋の手代。

一人は元薬種屋奉公人。

そしてもう一人は、佐平と以前喧嘩をして恨みを持っていた男だった。


「ずいぶん面倒なこと考えたな」

夜、海道へ戻った乃維助が言った。 お雪は焼き味噌を炙っていた。

「面倒なことする人ほど、自分は頭がいいと思ってるからね」

由ノ吉が楽しそうに笑う。

「雪さん、結構言うね」

「好きで言ってるわけじゃないよ」

「出た」

「何が」

「何でもない」

三太郎はお雪の足元にいる。少し離れたところには、お雪の飼っている大きな雌犬が伏せていた。 二匹とも魚の焼ける匂いだけを気にしている。

乃維助が猪口を差し出した。

「しかし、客のこと見てねえようで見てんだな」

「見てないよ」

「見てるだろ」

「顔は見てない」

お雪は酒を注いだ。

「酒を出してれば、嫌でも分かることがあるだけ」

「右で飲むとか左で飲むとか?」

「それも」

「熱いのが好きとか?」

「それも」

由ノ吉が言った。

「話したことまで覚えてる?」

お雪は少しだけ手を止めた。

「覚えてても、言わない」

「何で」

「喋った本人が、私に聞かせたんだから」

「犯罪でも?」

「誰かが死ぬなら別」

お雪は由ノ吉を見る。

「だから今回は話した」

乃維助が鼻で笑った。

「線引きが雑だな」

「細かく決めとくと、面倒だろ」

「お前らしい」

「褒めても酒は増えないよ」

「褒めてねえ」

その時、一人の男が海道の前で立ち止まった。

鼠色の羽織。

深い笠。

乃維助と由ノ吉が同時に男を見る。

三太郎も顔を上げた。

お雪だけが動かなかった。

男は軒先へ座った。

「燗を一本」

海道が静かになった。 乃維助が腰を浮かせる。 お雪は片手で制した。

「待ってな」 いつものように徳利を湯へ入れる。 男の前へ置く。 男は右手で猪口を持った。 一口飲む。 熱そうに顔をしかめた。


お雪が言った。

「久しぶりだね」

男の手が止まった。

乃維助が見る。

「知ってるのか」

男はゆっくり笠を上げた。

右の頬に、大きな痣があった。 佐平だった。

「ここへ来たことあるの?」

由ノ吉が訊いた。

佐平は首を振った。

「初めてだ」

乃維助がお雪を見る。

「じゃあ何が久しぶりなんだよ」

お雪は少し考えた。

「さあね」

「おい」

「似た飲み方する人を、昔見た気がしただけ」

佐平は怪訝そうな顔をしたが、それ以上訊かなかった。 お雪も何も訊かなかった。 佐平は一合をゆっくり飲み、銭を置いて帰った。

三太郎は最後まで吠えなかった。

男の姿が道の向こうへ消えてから、由ノ吉が言った。

「本当に初めてだと思う?」

「本人がそう言ってるんだから、そうなんじゃない」

「でも雪さん、久しぶりって」

お雪は空いた猪口を洗った。

「人の顔なんて、案外あてにならないよ」

「じゃあ何を覚えてる」

お雪は答えなかった。

洗った猪口を伏せる。 軒の外には夜が落ちていた。

海道の大きな雌犬が寝返りを打ち、三太郎もその横へ顎を置いた。

お雪は二匹を見て、小さく笑った。

「飲み方くらいでいいんじゃないかね」

海道にはまた別の客が来た。

「雪さん、燗一本」

「待ってな」

お雪は徳利を取った。

誰がどんな名で、どこから来て、何を隠しているのか。 訊かなければ、知らなくて済むこともある。

けれど知らないことと、見ていないことは、同じではなかった。

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