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玖 飛脚の遠回り ヒキャクノトオマワリ

朝の道には水溜まりが点々と残り、江戸の町がところどころ昨日を踏み残しているようだった。仮の屋の軒からも、忘れた頃に雫がひとつ落ちる。

勇が上方から戻ったのは、そんな朝だった。

仮の屋へ顔を出し、左右衛門へ預かった金と返事を渡す。

話はそれで終わるはずだった。

「ご苦労さんでやす」

「じゃあな」

「もう行くんで?」

「用は済んだろ」

「勇さん、腹、減ってません?」

「減ってる」

「ほな砂丘屋はどうです?ここから近いでやす。飯は間違いないすよ」

勇は少し考えた。

「近いのか」

「そこ大事なんすか」

「金にならん遠回りは好かん」

「勇さんは根っからの飛脚やなあ」

勇は返事もせず、左右衛門に教えられた道へ出た。


砂丘屋は、通りから一本入ったところにあった。表へ出した小さな看板と、軒から上がる湯気。店へ近づくと、焼いた魚と味噌の匂いがした。


勇は戸を開けた。

「いらっしゃい」

女が振り返った。それだけだった。

勇は女の目を見たまましばらく黙った。女が手に持っていた徳利を置く。

「何してんの?」

「⋯⋯⋯ああ、飯」

「はいよ」

女は笑いもしなかった。

「突っ立ってないで座んなさいな。何がいい」

「早いもの」

「食べるのも早そうだね」

「何だそれ」

「そういう顔してる」

勇は女の顔を見た。

三十をいくつか越えたくらいだろうか。派手ではない。髪も着物も、吉原の女たちのような華やかさはない。手を動かしながら客を見ている目だけが妙に落ち着いていた。

「魚でいい?」

「何でも」

「何でもって言う客が一番面倒なんだよ」

「じゃあ魚」

「最初からそう言いなよ」

女は板場へ声をかけた。

「桑吉、鯵ひとつ」

奥から短い返事がした。

勇は腰を下ろした。

少しして飯が出た。白い湯気の立つ飯。鯵の開き。大根の煮たもの。味噌汁。それだけだった。

勇は箸を取った。

うまい。鯵は皮が薄く焦げ、身はふっくらとし絶妙に水気を残している。

大根は箸を当てるだけでほろりと割れ、出汁が芯まで入っていた。

勇は黙って食べた。女も何も言わなかった。それが楽だった。

上方まで走れば、道中いくらでも人に会う。宿で話しかけられ、茶屋で呼び止められ、荷の届け先では値や返事を何度も確かめられる。

黙って飯だけ食わせる店は、案外少ない。

気づけば膳は空になっていた。

勇は箸を置いた。

普段なら、ここで立つ。

銭を置いて、次へ行く。

だが立たなかった。

女が別の客へ酒を出している。

勇はそれを見ていた。

酒を注ぐ。

空いた皿を下げる。

暖簾の外へ一度目をやる。

客に何か言われ、短く笑う。

そのどれにも特別なものはない。

「まだ何か食べる?おかわりもあるよ」

女がこちらを見た。

勇は少し遅れて答えた。

「いや」

「酒?」

「いや、いい」

「じゃあ何?」

勇は答えられなかった。

女は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに別の客へ向き直った。

その時、戸が開いた。

「おう」

入ってきたのは乃維助だった。後ろに由ノ吉もいる。

乃維助は勇を見ると足を止めた。

「お前、もう戻ったのか」

「今朝」

「上方から?」

「ああ」

「で、何してんだ」

勇は眉を寄せた。

「飯」

「食い終わってるじゃねえか」

言われて、勇は空の膳を見た。

由ノ吉が吹き出した。

「のいさん、放っといてやれよ」

「何でだ」

「何となく」

「その何となくが気持ち悪りいんだよ」

女が三人を見る。

「知り合い?」

「仮の屋で一度な」

乃維助が答えた。

「こいつ、勇。飛脚だ」

「へえ」

女は勇を見る。

「勇さんっていうの」

「ああ」

「私は、わた。お綿」

勇はそこで初めて、その女の名を知った。

お綿。

頭の中で一度だけ繰り返した。

「覚えた?」

お綿が言う。

勇は少し間を置いた。

「たぶん」

「何だいそれ」

「人の名前はよく忘れる」

「何だいそれ。なら忘れたら」

もう一度言ってお綿は笑った。

勇はなぜか、それが気に入らなかった。

忘れろと言われたからではない。

なぜか忘れないだろうと思った。それが気に入らなかった。

仮の屋から頼まれた次の荷があった。日本橋へ寄り、神田へ回り、それから品川まで行く。歩けば面倒な距離だが、勇にはどうということはない。

砂丘屋を出てからいくらもしないうちに、さっきの女のことなど考えなくなった。 


翌日。

勇は日本橋から浅草へ荷を届けた。帰り道、気づくと砂丘屋の前にいた。

戸の前で立ち止まる。勇は通りを振り返った。明らかに遠回りだった。

「……何なんだ」

小さく言った。そのまま帰ろうとした。

「勇さん」

背中から声がした。

振り返ると、お綿が桶を抱えて店先に立っていた。

「何だ、寄ってかないのかい」

「通りかかっただけだ」

「そう」

お綿は気にする様子もなく、桶の水を路地へ撒いた。

「飯ならあるよ」

「腹は減ってない」

「そう」

あっさり店へ戻ろうとする。

勇が口を開いた。

「⋯⋯⋯茶は?」

お綿が振り返った。

「そりゃあるよ」

結局、入った。

茶だけ飲んだ。お綿はほとんど話しかけてこなかった。

それなのに帰り際、勇は昨日より長く店にいたことに気づいた。


あくる日。

勇は砂丘屋の前を通らなかった。別に行く必要はない。

飯ならどこでも食える。茶もどこでも飲める。店など江戸中にある。

その日は昼から夕方まで走り続けた。暮れ前、仮の屋へ荷を届ける。

左右衛門が包みを受け取りながら、勇の顔を見た。

「えらい機嫌悪そうでやすね」

「そうか?」

「腹減ってんちゃいます?」

「減ってない」

「砂丘屋でも行ったらええやないすか」

「何で?」

「昨日も行ってたでしょ」

「⋯」

「お陽が見かけた言うてました」

「⋯」

左右衛門が笑う。

「気に入りやした?」

「ああ。飯がうまい」

「飯だけ?」

「どういう意味だ」

「さあ」

左右衛門はそれ以上言わなかった。その言い方が気に障った。

勇は仮の屋を出た。家へ帰る。そのつもりだった。しばらく歩いていたら、また砂丘屋の前にいた。今度は自分でも言い訳が思いつかなかった。

「また通りかかったの?」

お綿が笑って言った。

店先で小さな犬に魚の骨をやっている。

勇は犬を見た。狆だった。

「犬いたのか」

「三太郎。昨日もその前もいたよ」

「気づかなかった」

「どこに目をつけてんだい」

お綿が笑った。勇は黙った。

お綿は三太郎の頭を撫でた。

「寄ってく?」

「ああ」

「今日は早いものじゃなくてもいい?」

「何でもいい」

「またそれ言う」

その日、出てきたのは鰤大根だった。脂の乗った身と、色の染みた大根。生姜の匂いが湯気に混じる。

勇は一口食べた。

「うまい」

板場の奥から桑吉が顔だけ出した。

「どうも」

それだけ言って引っ込んだ。

勇は少し驚いた。

「作ってんの、あの人か」

「そうだよ。桑吉」

「お綿が作ってるんじゃないのか」

「私が全部作れそうに見える?」

「見えない」

「なんか腹立つね」

勇は初めて笑った。声を立てるほどではない。口の端が少し上がっただけだった。お綿はそれを見て言った。

「笑うんだね」

「何だと思ってんだ」

「飛脚」

勇は箸を止めた。

「飛脚は笑わないのか」

「走ってばっかりだから、笑う暇ないのかと思って」

勇はまた笑った。

その夜、店を出た時にはもう暗かった。

(また通りかかったの?)

足を止めて振り返った。砂丘屋の灯りが路地へ細く漏れている。

 飯がうまい。それは本当だった。

 茶が飲める。それも本当だ。

 左右衛門に勧められた。それも本当だ。

だが、どれも理由になっていなかった。


翌朝。

勇は仕事で千住へ向かった。いつもの道なら、砂丘屋とは反対へ出る。

勇は角まで来て止まった。右へ行けば近い。左へ行けば砂丘屋の前を通る。勇は右を見た。次に左を見る。

「馬鹿馬鹿しい」

右へ曲がった。十歩行った。止まった。戻った。左へ曲がった。

結局、砂丘屋の前に来ていた。まだ暖簾は出ていなかった。早すぎたらしい。勇は少しだけ腹を立てた。誰にでもない。自分にだった。

その時、裏手からお綿が出てきた。手には葱の束を持っている。

勇を見る。

「何してんの」

「仕事」

「店まだ開いてないんだよ」

「知ってる」

「じゃあ何してんの」

また、その問いだった。

初めて来た日と同じ。

じゃあ何してんの。

勇は今度も答えられなかった。お綿は首を傾げる。

「今日はどこまで行くの?」

「千住」

「反対だよ」

「知ってる」

「まさか迷った?」

「迷ってない」

お綿は少し笑った。

「変な人だね」

勇は返事をしなかった。

「急ぐんじゃないの」

「急ぐ」

「じゃあ行かないと」

言われるまでもない。

勇は走り出した。数歩でいつもの速さに戻る。路地を抜け、通りへ出る。

人を避け、荷車をかわし、道の端を一直線に走る。

速い。

いつも通りだった。

だが角を曲がる直前、勇は一度だけ振り返った。

お綿はもうこちらを見ていなかった。

葱を抱え、店の中へ入っていくところだった。

勇は前へ向き直る。

「……遠いな」

千住までのことではなかった。

その日、勇はいつもより少しだけ遅れて荷を届けた。

理由を訊かれたが、答えられなかった。

その帰り道。

勇はまた砂丘屋の前を通った。もう、遠回りだとは思わなかった。

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