↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/12

拾 赤光 シャッコウ

玖 赤光 シャッコウ


吉原で、火事の噂ほど足の速いものはない。まだ煙も立たぬうちから誰かが焦げ臭いと言い、火の粉ひとつ見えぬうちから桶を抱えて走り出す。木と紙と人間を狭い町へぎっしり詰めたような場所である。火を怖がるのに理由など要らなかった。


その秋、そこへ古い伝承がひとつ蘇った。

江戸には昔から、赤い眼をした黒猫がいるという。

妖猫、赤光。

尾が二本ある。いや一本だが、その先が蛇の頭になっている。

何十年経っても姿が変わらない。死なない。百年生きてる。

大火の前に屋根へ現れる。見た者の家から火が出る。

話す者によって中身は違った。

ただひとつ、黒い猫で、眼が赤い。そこだけは誰も違えなかった。


最初の騒ぎは、吉原の外れで起きた。

昼を少し回った頃、裏長屋から白い煙が上がった。誰かが「火事だ」と叫び、桶を抱えた男たちが走ったが、火の手は上がらなかった。古い灰の中に火が残っていて、脇へ積んであった木屑を燻らせただけだった。

それだけなら、翌日には忘れられていたはずだった。

煙が上がる少し前、屋根の上に黒猫を見たという者がいた。

夕方には、その猫の眼は赤く光ることになり、夜には尾が二本に増えた。

あくる日、吉本屋で乃維助は、鈴蘭とあやめの話を聞いて足を止めた。

「赤く光る眼の黒猫がね、屋根の上からずうっと見てたんだって」

鈴蘭が声を潜める。

「赤い眼って、本当に光るのかな」

あやめが笑った。

「昨日は尾が二本で、今朝は尾の先が蛇だって。明日には羽でも生えるんじゃない」

「やだー」

「何で。飛べた方が妖怪らしいじゃない」

「猫に羽は生えないと思うけど」

横から、かりんが言った。乃維助が見る。

「お前も知ってんのか」

「何を?」

「赤光だよ」

「知ってるっていうか……」

かりんは少し考え、それから乃維助を見た。

「のいすけちゃん、白いのには会った?」

「何の話だ」

「赤光」

「赤光は黒猫だぞ」

「そうなの?」

「そうなのって、お前……」

かりんはまた少し考えた。

「じゃあ黒いのは、まだなんだ」

「まだって何だ。全くお前の話は……」

乃維助が嫌な顔をして黙った。あやめがかりんを見る。

「白いのって?」

「白いのはいたよ」

「どこに?」

「……どこだったかな。いつ見たんだっけ」

乃維助は額を押さえた。縁側で聞いていた由ノ吉が笑う。

「のいさん、赤光より厄介なのが増えたね」

「増やすな」

二度目の煙は、それから三日後に上がった。

今度は仲之町に近い小さな店だった。煮炊きに使った炭を片づける際、火の残ったものが古布へ触れたらしい。焦げ臭さに気づいた店の者がすぐ水をかけ、これも煙だけで済んだ。だが今度も赤光が出たという。

その日の夕方、砂丘屋はその話で持ちきりだった。

「二度目だってさ」

客の一人が言うと、お綿は徳利を置いた。

「何が」

「化猫だよ。知らないのかい」

「知ってるよ。三日前から何人にも聞かされてる」

「今日も黒猫がいたって」

「へえ」お綿は興味なさそうに返した。

店の隅では乃維助と由ノ吉が飯を食っていた。足元で三太郎が丸くなっている。

「お綿」

乃維助が呼んだ。

「何」

「その話、誰から聞いた」

「どの話」

「今日の黒猫の話」

「そこの八百屋の女房」

客が横から言った。

「いや、八百屋の女房は見てねえぞ。向かいの髪結いが見たって話だ」

「髪結い?」

お綿が首を傾げた。

「昼に来た人は、魚屋の小僧が見たって言ってたよ」

由ノ吉が箸を止めた。

「三か」

「何が?猫がか?」

乃維助が言った。

「見たって人が」

その時、戸が開いた。

「ごめんください、仮の屋でーす。お綿さーん」

「あ、お陽ちゃん」

「これ、左右衛門さんが」

「ありがとう」

お綿が包みを受け取る。お陽は店の中を見回した。

「ずいぶん賑やかね。何の話してるんです?」

「赤光」

「ああ。それなら仮の屋でも朝からその話ですよ」

乃維助が訊いた。

「誰が見たって言ってた?」

「朝、弥吉が“大工仲間が見た”って言ってきたんです。昼には魚屋の小僧。さっき左右衛門さんが聞いた時には、花魁が見たことになってましたよ」

お綿が吹き出した。

「猫より見たって人の方が増えてるじゃないか」

由ノ吉が箸を置いた。

「しかも、同じ人じゃないね。ばらばらだ」

乃維助だけは笑わなかった。


翌日、勇が仮の屋へ顔を出した時、乃維助がいた。

左右衛門は帳場の向こうで算盤を弾いている。

「勇」

乃維助が言った。

「何だ」

「頼みがある」

「荷か?金払うんだろうな」

「荷じゃねえ」

「高くなるぞ」

「何でだ」

左右衛門が笑った。

「勇さんをただで走らせよういうのは無理でやす」

乃維助は昨日の話をした。勇は黙って聞いた。

「つまり…誰が最初に猫を見たか調べろって?なんで俺が」

「足が速えから。噂とお前、どっちが速いか試してみねえか?」

左右衛門が算盤を置いた。

「けど勇さん向きでやすよ。荷ぃ追うんも、噂を追うんも道は道や」

勇は二人を軽く睨んだ。

「てめえら、うまいこと言った顔しやがって」

「してねえ」「してまへん」

結局、勇は出ていった。昼を過ぎても戻らなかった。

夕方、仮の屋の戸が開いた。

「どうだった」

乃維助が訊いた。勇は座りもせず答えた。

「誰も見てねえ」

「どういう事だ?」

「魚屋の小僧は髪結いから聞いた。髪結いは八百屋の女房。八百屋の女房は海道で聞いたっていうから行った」

「お雪んとこも行ったのか。で?」

「お雪は客の話を聞いてただけだ」

「その客は」

「吉原で聞いた」

乃維助が黙った。

勇は続けた。

「一周した」

由ノ吉が声を立てて笑った。

「笑うな」

乃維助が言う。

「だって、のいさん。猫より噂の方がずっと足が速い」

勇は不機嫌そうに腕を組んだ。

「走った俺が馬鹿みてえだ」

左右衛門が茶を出した。

「まあまあ。ご苦労さんでやす」

勇は茶を飲んだ。

「ただな」

「何だ」

「海道のお雪が妙なこと言ってた」

「何て」

「最初に話した客、笑ってて怖がってるようには見えなかったって」

乃維助が眉を上げた。

「顔見たのか」

「見ねえだろ、あの女は」

由ノ吉が笑った。勇は続けた。

「酒の飲み方がいつもと変わらなかったとよ」

乃維助は少し考えた。

「見たわけじゃねえな」

「たぶんな」

二度目の赤光を、本当に見た者は見つかなかった。


翌日の昼、本物の猫が現れた。

砂丘屋の裏手だった。三太郎が妙に鼻を鳴らすので、お綿が戸を開けると、白い猫が一匹、濡れた樽の上に座っていた。

耳の先から尾まで、墨を一滴も落としていないように白い。

雪を固めたように真っ白だった。

鼻も耳も薄桃色に透け、顔の中で二つの眼だけが赤い。

乃維助は黙った。

「……何」

かりんの声が頭によみがえった。白いのには会った?

「こいつが赤光?」

覗き込んだ客が言う。お綿が振り返る。

「白猫じゃないか」

「でも眼が」

「この店燃えるんじゃないのか」

「物騒なこと言うんじゃないよ!」

猫は騒ぐ人間たちを気にする様子もなく、前足を舐めていた。

三太郎が近づいた。猫は一度だけ三太郎を見た。三太郎も猫を見た。

それから互いに鼻を寄せた。

「化猫にしちゃ愛想がいいな」

乃維助が言った。左右衛門が猫を覗き込んだ。

「これ…白子やないでやすか?」

「しろこ?」

「兎で見たことありやす。真っ白で、眼ぇ赤うて」

勇もしゃがみ込んだ。

「俺も似たのを上方で見たことがある」

「猫を?」

「いや、人を」

乃維助が勇を見る。

「人?」

「ああ。肌も髪もすげえ白くて、眼が赤みがかってた」

左右衛門が猫を見る。

「ほな、こいつもきっと白子でやすね」

お綿が猫を抱き上げた。嫌がらなかった。

「腹減ってんのかね」

「また飼う気か」

「まだ言ってないよ」

そう言いながら、お綿はもう魚の身を少し皿へ取っていた。

その日の夕方には、白い赤光の話が吉原を一周した。

黒猫のはずなのに白かった。年を取ると色が抜けるのだ。火を食べて白くなったのだ。黒い赤光とは別に、白い赤光もいるのだ。話は半日で五十にも膨らみ、翌朝には百になった。

そしてその日の昼前、利根屋に赤光が出たという噂が流れた。

乃維助たちは砂丘屋にいた。

白猫は三太郎の横で寝ていた。

由ノ吉が猫を見る。乃維助も見た。お綿も見た。勇が言った。

「こいつじゃねえってことだな」

「見りゃ分かる」

「じゃあやっぱり黒いのがいるのかい」お綿が訊いた。

乃維助はため息をついて立ち上がった。

「行ってみるか」

利根屋の前にはすでに人が集まっていた。

「どこだ」

「屋根だって」

「誰が見た」

「知らねえよ」

「黒猫か」

「赤光なんだから黒いだろ」

「眼は?」

「赤かったんじゃねえの」

誰に訊いても同じだった。誰かが見た。だが、その誰かがいない。

勇がまた走った。

半刻後に戻ってきた。

「駄目だ」

「何が」

「始まりがねえ」

乃維助が勇を見る。

「話を辿ると?」

「途中で輪になる。こいつから聞いたって奴が、そいつから聞いたことになってる」

由ノ吉が小さく笑った。

「猫がいてもいなくても赤光は出るんだね」

乃維助は笑わなかった。


その夜、仮の屋に集まった男たちは黙っていた。左右衛門が茶を啜る。

「そんなら先ずは昔の話、調べてみたらどうでやす」

「どこで」

乃維助が訊いた。左右衛門が考えるより先に、勇が顔を上げた。

「あ」

三人が見る。

「何だ」

「一人いる」

「誰」

勇は嫌そうな顔をした。

「烏の爺」

乃維助が眉を寄せた。

「カラスのジジイ?何だそりゃ」

「昔の飛脚。隠居」

「知り合いか」

「俺が駆け出しの頃、何度か一緒に荷を運んだ」

「で、何でそいつが赤光を知ってる」

勇は少し黙った。

「知ってるかは分からねえ。ただ、道中ずっとそんな話ばっかりしてた」

「どんな話だ」

「首のない馬とか、夜になると道が一本増える峠とか、死人が先回りして宿で待ってるとか、とにかく訳の分からねえ話をずっと喋ってるんだ。嫌になるくらいずっとだ」

乃維助が真顔になった。


翌朝、四人は町外れの古本屋にいた。軒先に看板が下がっていた。

墨太く「烏堂」。丸の中に三本足の烏。狭い店だった。

まるで本で建てたようだ。壁際だけでは足りず、床にも積まれ、柱の脇にも積まれ、奥には紙の山が崩れかけている。古い墨と埃と、少し湿った紙の匂いがした。その奥に男がいた。六十はとうに越えているように見えた。黒っぽい着物を着て、痩せた肩を丸めてなにか読んでいる。

勇が言った。

「烏の爺」

男は顔を上げた。しばらく勇を見る。

「……誰だ」

「俺だ。勇だ。」

「ゆうだ…ゆうだ?ゆうだ?」

「ゆ、う、」

「おー横丁の裕坊か。大きくなったなあ、今日はなんの本だ」

「……飛脚の勇だ。昔何度か走っただろ。妖怪ジジイ」

「そっちの勇か。初めからそう言え」

「てめえ初めから分かってただろ」

「分かったのは今だ」

「嘘つけ」

「嘘だと思うなら訊くな」

勇のこめかみに青筋が立った。

「殴るぞてめえ。相変わらず嫌なジジイだ」

「そうでもない」

「この野郎」

「という事はだ、お前も相変わらずなんだろうな」

「何が」

烏堂の主は、また紙へ眼を落とした。

「さあな」

勇が一歩出た。

「……てめえ、喧嘩売ってんのか」

「儂が売ってるのは本だ」

「じゃあ今のは何だ」

「昔話だ」

「今の話だろうが」

「昔からそうだったって話だ」

勇が肩をがっくりと落として黙った。

乃維助が小声で由ノ吉に言った。

「帰るぞ」

由ノ吉は笑いを堪えていた。

「いやいや、もう少しいようよ」

烏堂は紙をめくった。

「で、何を落とした」

「知ってんだろ、俺は何も落とさねえ。話を聞け」

「じゃあ何を探してる」

烏堂は乃維助たちを見てもう一度言った。

「なんだ?何を探してる」

「……赤光って知ってるか」

勇が言った。

烏堂の眼が少しだけ動いた。

「六曜のか?猫のか?」

「ろくよう?……猫の方だ。たぶんな」

乃維助が前へ出た。

「赤い眼の黒猫だ。火事の前に出るって話だ」

烏堂は鼻を鳴らした。

「火事?」

立ち上がり、紙の山へ手を突っ込んだ。一束抜く。違ったらしい。戻す。

別の山へ手を入れる。

「片づけろよ」

勇が言った。

「どこに何があるか分からなくなる」

「今だって分かってねえだろ」

「分かる」

一冊の薄い綴じ本を引っ張り出した。紙をめくる。

「これだ」

乃維助が覗き込む。

「読みにくい字だな」

「古い字だからな。儂が読んでやろう」

烏堂が指で一行をなぞった。

「赤い眼の黒猫が屋根を渡った。それを赤光と呼んだ」

「それだけか」

「それだけだ」

「火事は」

「書いとらん」

紙をめくる。別の書付を取り出す。

「こっちはもっと後だ。大火の前に赤光が出たとある」

もう一枚。

「こいつは尾が二本」

さらに一枚。

「こっちは尾の先が蛇とある」

由ノ吉が笑った。烏堂も笑った。

「化猫ってのはな、長生きするから尾が増えるんじゃねえんだ」

老人は紙を揃えながら続けた。

「話が長生きするから尾が増えるんだ」

誰もすぐには何も言わなかった。勇が腕を組む。

「あの頃もそんな話をしてたな」

「お前は聞いちゃいなかった」

「荷運んでる時に延々やられりゃ聞かなくもなる」

烏堂は古い書付を眺めた。

「ただな」

乃維助が嫌そうな顔をする。

「まだあるのか」

「こういう話は、最初が一番あてにならん」

「最初が本当なんじゃないのか」

「なぜそう思う」

「なぜって…じゃあ何で見せた」

「お前が見たがったからだ」

乃維助が黙った。由ノ吉が横を向いて笑いを堪えた。烏堂は続けた。

「藻奈庵に行ってみろ。もう少し面白いことを言うぞ」

乃維助は眉間を押さえた。

「まだいたか、こういうのが」

「お前、あの尼知らねえのか」

「知ってるから嫌なんだ」


寛藻奈尼は、話を聞き終えるまで何も言わなかった。

乃維助、由ノ吉、勇、左右衛門。烏堂もついてきている。

「何でお前まで来るんだ」

乃維助が言う。

「暇だった」

「店は」

「本は逃げやしねえ」

寛藻奈尼が静かに茶を置いた。水琴がぴん、と澄んだ音を立てた。

「つまり、赤光を探しているんですね」

「そうだ」

乃維助が答えた。

「猫を?」

乃維助は口を開いたまま止まった。烏堂が笑った。

「ほら始まった」

「あなたは黙っていてください」

寛藻奈尼が言った。

「カァー」

烏堂が鳴き真似をして黙った。乃維助が訊いた。

「猫じゃないなら何だ」

「私は猫ではないとは言っていませんよ」

「じゃあ猫なのか」

「猫だとも言っていません」

乃維助が勇を見る。勇が首を振る。俺に聞くな、という顔だった。

由ノ吉だけが肩を震わせている。寛藻奈尼は少し考えた。

「誰かが何かを見たのかもしれません。見ていないのかもしれません」

「赤い眼の黒猫だ」

「そうかもしれません。その次の人は?」

「聞いた」

「その次は?」

乃維助は黙った。

「見たものが流れているのではなく、話が流れているのです。となると、今皆さんが追っているものは、最初に誰かが見たものと同じでしょうか」

「分からん」

「そうですね」

「そうですねじゃねえ」

烏堂が笑った。

「だから面白いと言っただろ」

再び、ぴん、と水琴が鳴った。


結局、その日も赤光の正体は分からなかった。だが、町の方が先に飽きた。火事は起きない。白猫は何もしない。利根屋にも何も起きなかった。数日もすると、赤光の話をする者はいなくなった。

赤い眼の白猫だけが砂丘屋に残った。最初は裏口で飯を食っていたが、いつの間にか店の中へ入るようになり、さらにいつの間にか三太郎と同じ場所で寝るようになった。

「名前どうするんだ」

乃維助が訊いた。

お綿は猫を見た。

「もう赤光でいいんじゃないの」

「黒くねえぞ」

「眼は赤いし」

「験が悪くねえか」

「猫の名前で火事になるなら江戸中とっくに焼けてるよ」

桑吉が板場の奥から顔を出した。

「お綿、葱くれ」

それだけ言って引っ込んだ。

乃維助は白猫を見る。猫は欠伸をした。

「……まあいいか」

その夜、雨が降った。細い雨だった。砂丘屋の軒から落ちる雫が、暗い路地に小さな音を立てていた。客はもう帰り、店の灯りも半分落ちている。

三太郎は戸口近くで丸くなっていた。その腹へ寄り添うように、白い赤光が眠っている。乃維助は最後の酒を飲み干した。その時だった。

白い赤光が眼を開けた。ゆっくりと頭を上げる。ほとんど同時に、三太郎も顔を上げた。二匹は揃って、閉じた戸の向こうを見ていた。

吠えない。

鳴かない。

ただ見ている。

由ノ吉も気づいた。

「のいさん」

乃維助は立ち上がり、戸を開けた。雨の匂いが入ってきた。

三太郎と赤光の視線の先――向かいの屋根に、赤いものが二つ浮いていた。眼のようだった。

その下に何があるのかは見えない。

黒いのか。

白いのか。

そもそも猫なのか。

それすら分からなかった。

乃維助の耳に、ふいにかりんの声が戻った。

じゃあ黒いのは、まだなんだ。

「どうしたの」

お綿が後ろから訊いた。乃維助は振り返った。

白い赤光は立ち上がって三太郎と並び、まだ屋根を見ている。

もう一度、乃維助が向かいを見る。二つの赤い光は消えていた。


雨の上がった屋根には猫のような足跡が残っていた。

しかしそこだけだった。そこへ来た跡も、そこから去った跡もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。