拾壱 余所事 ヨソゴト
吉原の朝は、夜より人の顔がよく見える。化粧を落とした女、眠そうな若い衆、昨夜の酒を引きずった客。夜のうちは紛れていたものが、薄い朝日に一つずつ形を持つ。
由ノ吉は、そういう時の人の顔を見るのが好きだった。
言葉より先に出るものを見るのが好きだった。
お桃を初めて見たのも朝だった。二十七、八。仕立物を請け負って暮らしている女で、吉本屋にも時々仕事を届けに来る。目立つ装いはしないが、顔立ちは整っていた。伏せた目が柔らかく、笑うと少し幼く見えた。
右手の甲に、大きな火傷の痕があった。親指の付け根から手首へ、赤黒く皮膚が引きつれている。針を持つ指にはかかっていない。
本人は別段隠す様子はないようだった。
「昔の?」
鈴蘭が一度訊いた。
「うん」
「痛かった?」
「もう痛くないよ」
それだけだった。
最初の騒ぎは砂丘屋だった。
昼を少し過ぎた頃、由ノ吉は乃維助と遅い飯を食っていた。
大工の又蔵が一つ向こうの卓で鯵の開きをつついている。
そこへお桃が小さな包みを持ってきた。
「お綿さん、これ」
前掛けの繕いだった。
「早かったね。悪いねえ」
お綿が包みを受け取る。
お桃が帰ろうとした時、又蔵が右手を見た。
「その手、火傷か?寒いと痛むだろ」
お桃が振り返った。
「少し」
「布でも巻いとけ。冬場は割れるぞ」
お桃は自分の手を見た。
「そうですね」
頭を下げ、そのまま帰っていった。又蔵はもう魚へ箸を戻していた。
その日の夕方、お桃は吉本屋で鈴蘭の襦袢を直していた。
「今日、手のこと言われた」
お桃が言った。
「誰に?」
「砂丘屋にいた大工さん」
「何て?」
「布を巻いとけって」
鈴蘭が顔を上げた。
「そんなこと言ったの?」
「何が?」
鈴蘭は口を開いたまま止まった。
お桃は針へ目を戻した。
それで話は終わった。
少し離れた帳場で、由ノ吉だけが鈴蘭の顔を見ていた。
三日後、又蔵が砂丘屋で殴られた。相手は清次という若い男だった。
「火傷見て、布巻いとけだと?」
又蔵は箸を持ったまま清次を見た。
「何の話だ」
「お桃さんだよ」
清次が胸倉を掴んだ。膳が傾き、汁がこぼれ、三太郎が吠えた。
「あんたら!外でやんなよ!」
お綿に怒鳴られ、二人とも表へ押し出された。
由ノ吉が着いた時には、清次の唇が切れ、又蔵の頬が腫れていた。
乃維助が二人の間に立っている。
「何て聞いたの」
由ノ吉が訊いた。
「布巻いとけって言われたって」
「それだけ?」
清次の眉が寄った。
「それだけって何だよ」
「お桃さん、怒ってた?」
「いや」
「泣いてた?」
「泣いてねえ」
「又蔵さんの悪口は?」
「言ってねえ」
乃維助が顔をしかめた。
「じゃあ何でお前が殴るんだ」
「見りゃ分かるだろ」
「何がだ」
清次はお桃の火傷のある右手を思い出すように、自分の手の甲を見た。
もう一度言う。
「……分かるだろ」
乃維助は由ノ吉を見た。
「分からん」
「僕も分からない」
次にお桃が来た時、由ノ吉は包みを受け取りながら訊いた。
「清次さんが又蔵さんを殴ったって聞いた?」
「聞きました」
「お桃さんの話を聞いた後だったって?」
「そうなんですね」
「何て話したの?」
「砂丘屋にいた大工さんに布を巻いとけって言われたって」
「それだけ?」
「はい」
「清次さん、それを聞いて怒った」
「そうなんですか」
「それで又蔵さんのところへ行った」
「はい」
「殴った」
「はい」
由ノ吉は少し待った。
「ここまで分かる?」
「はい」
「お桃さんが話したところから始まってるよね」
お桃が首を傾げた。
「そうなんですか?」
「清次さんが怒ったよね?」
「清次さんが怒ったんですよね」
「うん」
「清次さんのことですよね」
「……お桃さんの話を聞いて怒った」
「そうなんですか?」
お桃は待っている。
「……その二つ、繋がってるよね?」
「どの二つですか?」
由ノ吉は一度、息を吐いた。
「お桃さんが話したことと、清次さんが怒ったこと」
お桃は少し考えた。
「清次さんが怒ったんですよね」
「うん」
「それが?」
由ノ吉はお桃を見た。
「お桃さんの話を聞いて怒った」
「そうなんですね」
「だから、その二つが」
「どの二つですか?」
由ノ吉は黙った。
お桃はしばらく待った。包を置く
「これ、置いていきますね」
「うん」
「じゃあ、鈴蘭さんに渡してください」
話が終わった。
それから由ノ吉は、お桃が誰かと話している時、お桃より聞いている方を見るようになった。
お桃の話は短かった。
「仕事、減ったんです」
「家賃、待ってもらってて」
「この前、手のこと言われて」
それだけである。聞いた側が続きを訊く。お桃は訊かれたことには答える。そして相手の顔が変わる。眉が寄る。口が固くなる。身を乗り出す。
その頃には、お桃はもう帰り支度をしていることが多かった。
二人目は油屋の手代だった。往来で又蔵を呼び止めた。
「女の火傷見て、よくあんなこと言えるな」
又蔵は男の顔をしばらく見た。
「……お桃か?」
それだけで相手の顔が変わった。又蔵は空を見上げた。
「またかよ」
乃維助が間へ入った。
「お前、お桃から何て聞いた」
「布巻いとけって言われたって」
「それだけか」
「それだけで十分だろ」
「何が?十分じゃねえから訊いてんだ」
「見りゃ分かるだろ」
乃維助の眉間に皺が寄った。
「またそれか」
由ノ吉は男の顔を見た。清次の表情とよく似ていた。
三人目は米問屋の若い番頭だった。又蔵はもう手を出さなかった。
男を砂丘屋へ連れて入り、
「吉本屋の若旦那を呼んでくれ」と言った。
番頭は座るなり、
「俺は間違ったこと言ってねえ」と言った。
又蔵が怒鳴った。
「まだ黙ってろ」
由ノ吉が来ると、番頭は同じ話をした。
お桃から、布を巻いとけと言われた話を聞いた。それだけだった。
「お桃さん、どんな顔してた?」
由ノ吉が訊いた。
「どんなって…普通だよ」
「怒ってた?」
「いや」
「悲しそうだった?」
番頭は少し考えた。
「……あんな手してりゃ、そりゃ」
「顔の話だよ」
「だから、見りゃ分かるだろ!」
又蔵が卓へ突っ伏した。
「もう俺が悪くていいよ」
「よくない」
乃維助が言った。
「お前は何もしてねえ」
「たしかに俺は布巻けとは言ったよ」
「それは言った」
「じゃあ俺が悪いんじゃねえか?」
「違う」
「何が違うんだよ!やってられねえ」
その晩、勇が砂丘屋へ来た。
上方から戻ったばかりで、鰤大根を頼み、しばらく黙々と食っていた。
乃維助が半ば愚痴のように今日までの話をした。
勇は大根を半分に割った。
「そんな話、前にも聞いたことがあるな」
由ノ吉が顔を上げた。
「どこで?」
「鎌倉で聞いた」勇は箸を止めた。「藤沢でも聞いた」
乃維助が眉を寄せた。
「藤沢?」
「少し違う感じだけどな」勇は鰤を口にして言った
「その後、戸塚でも聞いた」
由ノ吉は黙った。
「どんな話だった?」
「女が何か言われたって話す。聞いた男が勝手に腹立てる。そしてその先で揉める」
「女は?」
「よく分からねえ。変な話だった」
「何で覚えてたの」
「鎌倉で聞いた時は忘れてたんだ。藤沢で似た話を聞いて、あれと思った。その後に戸塚でまた聞いた」勇は酒を飲んで続けた。
「何なんだ、と思って覚えてた」
「女を見たことは?」
「戸塚でみたよ」
「何か覚えてる?」
勇は自分の右手を返した。
「ここら辺にでかい火傷跡があった」
乃維助の箸が止まった。由ノ吉が訊いた。
「名前は?」
「梨…じゃねえな…梅??なんか水菓子みてえな…」
「…桃じゃねえんだろうな」
「それだ、そうそう、桃」
砂丘屋が静まり返った。板場で桑吉の包丁だけが鳴っていた。
翌日、お桃が吉本屋へ来た。
いつもと同じ鼠色の着物だった。右手で包みを差し出す。
由ノ吉が受け取った。
「お桃さんさ」
「はい」
「鎌倉にいたことある?」
「ありますよ」
「藤沢は?」
「いました」
「戸塚も?」
「はい」
お桃は次の包みを差し出した。
「これはあやめさんのです」
由ノ吉は受け取った。
「お世話さま」
それだけだった。お桃も何も訊き返さなかった。由ノ吉は、少し待った。「さっきの話」
「はい」
「何とも思わない?」
「何がですか?」
「鎌倉と藤沢と戸塚」
「いましたよ」
「うん。それは聞いた」
「はい」
「知り合いがそこで似た話を聞いたんだってさ」
「そうなんですか」
「右手に火傷のある女の話」
お桃は自分の手を見た。
「私もありますね」
「うん」
「……」
「……」
「お桃さんのことだと思わない?」
「何がですか?」
「その話の女」
「会ったことあるんですか?」
「一度だけ見たって」
「聞けばいいんじゃないですか?」
「誰に?」
「その人に」
由ノ吉は少し黙った。
「今、知り合いの話をしてるんじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「お桃さんの話だよ」
「私?」
「うん」
「何でですか?」
由ノ吉は口を閉じた。お桃は待っている。
「……いや」
「じゃあ、これ置いていきますね」
火傷のある右手が包みを押した。
その日の夕方、お桃は吉本屋の裏口で染物屋の手代、新吉と話していた。
由ノ吉は少し離れたところからそれを見ていた。
新吉は話を聞くうち、二度、由ノ吉の方を見た。
お桃は一度も見なかった。
翌朝、新吉が来た。
「若旦那」
「何?」
「お桃さんの昔を嗅ぎ回ってるそうじゃねえか」
由ノ吉は新吉の顔を見た。もう怒っている。
「何の話?」
「鎌倉にいたか、藤沢にいたか、戸塚にいたかって、しつこく訊いたろ」
「うん、訊いたよ」
「何でそんなことすんだ」
「お桃さん、嫌がってた?」
「そういう話じゃねえだろ」
「じゃあどういう話?」
「女の昔を根掘り葉掘り訊くことねえだろって言ってんだ」
「お桃さんがそう言った?」
「言ってねえよ」
「じゃあ何でお前さんが怒ってるの」
新吉は口を開いた。止まった。
「……見りゃ分かるだろ」
由ノ吉は少し笑いそうになったが、笑わなかった。
その日の昼、お桃が来た。
「新吉さんに俺のこと話した?」
「はい」
「何て?」
「鎌倉にいたかって訊かれたって」
「それから?」
「藤沢と戸塚も」
「それだけ?」
「はい」
「新吉さん、怒って僕のところへ来たよ」
「そうなんですか」
「僕に怒ってた」
「はい」
「何でだと思う?」
「分かりません」
「お桃さんの話を聞いたからじゃない?」
「そうなんですか?」
「また同じだね」
「何がですか?」
由ノ吉は額へ手をやった。
「又蔵さんの時も」
「又蔵さん?」
「うん」
「新吉さんの話じゃないんですか?」
「同じ話なんだよ」
「同じ?何がですか?」
「お桃さんが話す。聞いた人が怒る。それで誰かのところへ行く」
「誰がですか?」
「清次さんも、油屋の人も、番頭も、新吉さんも」
「みんな別の人ですよ」
「そうじゃなくてさ」
「はい」
「やってることが同じだよね」
「誰がですか?」
由ノ吉は黙った。お桃は待った。
「お桃さん」
「はい」
「清次さんに又蔵さんの話をしたよね」
「はい」
「清次さんは怒った」
「そうなんですね」
「新吉さんに俺の話をしたよね」
「はい」
「新吉さんも怒った」
「そうなんですね」
「そうなんですね、じゃなくて、さっき言ったよね?」
「何をですか?」
由ノ吉は目を閉じた。
そこに乃維助が入ってきた。
「何やってんだ」
由ノ吉が目を開けた。お桃が乃維助を見る。由ノ吉は指を一本立てた。
「お桃さんが清次さんに又蔵さんの話をした」
「ああ」
「清次さんが怒った」
「ああ」
「又蔵さんを殴った」
「ああ」
二本目の指を立てる。
「お桃さんが新吉さんに僕の話をした」
「うん」
「新吉さんが怒った」
「うん」
「僕のところへ来た」
「うん」
「同じだよね」
乃維助はしばらく考えた。
「同じだろ」
由ノ吉がほっとした顔をした。
お桃が乃維助を見る。
「何がですか?」
乃維助の顔が止まった。
「……今の話だよ」
「何がですか?」
「何がって…」
「又蔵さんと由ノ吉さん…」
「そうそう」
「別の人ですよね」
由ノ吉が乃維助を見る。由ノ吉は卓に額をつけた。ゴンと音がした。
お桃が乃維助に訊いた。
「由ノ吉さん、どうしたんですか?」
乃維助は少し考えた。
「具合悪いんですか?」
「お前が馬鹿だからだ」
お桃は由ノ吉を見た。
「何でですか?」
由ノ吉は顔を上げなかった。それから、お桃が吉本屋へ来る間が少しずつ空いた。
三日に一度が五日になった。次は七日だった。
鈴蘭が訊いた。
「最近忙しいの?」
「うん。神田の方で仕事が増えて」
「うちの分はどうなるの?」
「さあ、どうなるんでしょうね」
「どうなるんでしょうねって…」
由ノ吉は帳場から聞いていた。何も言わなかった。
十日ほどして、お桃は残っていた仕立物を全部持ってきた。
「しばらく来られないかもしれません」
由ノ吉が顔を上げた。
「どうして?」
「神田の仕事が増えて」
「そっちへ移るの?」
「その近くに」
「急だね」
「そうですか?」
「鎌倉の話をしたから?」
お桃は少し考えた。
「何でですか?」
由ノ吉はお桃を見た。
「じゃあ、これで全部です」
お桃は包みを置き、鈴蘭とあやめに挨拶をして、火傷のある右手で戸を開けた。お桃は一度も振り返らずに去っていった。それきりお桃は吉本屋に姿を見せなかった。
数日後、砂丘屋で乃維助、由ノ吉、勇が酒を飲んでいた。
「で」
乃維助が言った。
「今頃は俺のことを話してるってか、あの女」
由ノ吉が笑って言った。
「そうかもね。吉本屋にいた浪人に、お前は馬鹿だって言われたって」
「それが何だ。俺は思ったことを言っただけだ」
「みんなそうなんだよ。誰か怒鳴り込んでくるかもよ」
乃維助は猪口を空けた。
「望むところだ。片っ端から叩っ斬ってやる」
勇の箸が止まった。
「鎌倉の男も、そんなこと言ってたな」
乃維助の箸が止まる。
「そいつ、どうなった」
「知らん」
「知らねえのかよ」
「俺は荷を運んでただけだ。寝首でも掻かれたんじゃねえの」
由ノ吉が吹き出した。お綿が板場から、
「あんたら物騒な話は外でしな!」と怒鳴った。
三太郎が同意するように二度吠えた。
ひと月ほどして、仮の屋からお陽が使いに来た。帳場へ書付を置き、帰りかけてから思い出したように言った。
「そういえば、神田で弥吉の仲間が揉めそうになってるのよ」
由ノ吉は書付から顔を上げた。
「どうしたの?」
「女の人が、仕事先で手のことを何か言われたとかで」
由ノ吉は黙った。
「弥吉が止めてるらしいんだけどね」
「その女の人、右手に火傷、ない?」
お陽が目を丸くした。
「え?そうそう、何で?知ってる人?」
由ノ吉は書付を畳んだ。由ノ吉は少し考えた。
「いや、知らない」
それ以上は言わなかった。
表で誰かの声がした。由ノ吉は、今度は顔を上げなかった。




