漆 珊瑚が帰る時 サンゴガカエルトキ
冬が少し深まった頃、仮の屋の若旦那が上方から戻ってきた。
留守の間に床が腐り、番頭が踏み抜き、若い大工が怪異をでっち上げ、危うく火事まで起こしかけたと聞かされたのは、江戸へ戻ったその日のことだった。
翌日の昼過ぎ、乃維助の住まいへ由ノ吉が男を一人連れてきた。
「のいさん、いる?」
返事はなかった。由ノ吉は戸を叩く代わりに、少し開いていた隙間から中を覗いた。
「いるじゃん」
「覗くんだったら訊くな」
乃維助は土間へしゃがみ込み、何かを削っていた。細い木片だった。何に使うものなのかは由ノ吉にも分からない。
その後ろから、もう一人の男が顔を出した。
三十をいくつか越えたくらいだろう。細身だが、立ち方に妙な軽さがある。少し浅黒い顔に、もみあげから顎を通って口髭へつながる黒々とした髭が、几帳面に整えられていた。短い黒髪は頭の形に沿って収まりきれいに撫でつけられている。顎や頬の骨は男らしいが、大きく柔らかい目が印象的だった。身なりは派手ではない。ただ、地味な色の着物なのに、襟の重なりから帯の幅まで妙に収まりがいい。
男は部屋へ入るなり、乃維助ではなく周囲を見た。
柱。
戸。
火鉢。
棚。
壁際に積まれた道具。
それからようやく乃維助を見る。
「仮の屋の若旦那、左右衛門。上方から帰ったばっかり」(注:さうえもん)
由ノ吉が紹介すると、男が軽く頭を下げた。
「左右衛門でやす。乃維助はん、留守ん間、うちがずいぶん世話になったそうで」
乃維助は木片から目を上げた。
「ああ。あの床直したのは大工だろ」
「その大工呼ぶところまでやってもらったって聞きやした」
「勝手に踏み抜いた間抜けな番頭がいただけだ」
「善兵衛でやすね」
左右衛門が笑った。
「帰った日に一通り聞きやしたよ。床は放っとく、怪談は育てる、最後は自分で落ちる。あそこまで綺麗に話まとめんでもええと思うんすけどね」
由ノ吉が吹き出した。乃維助は少しだけ口元を曲げた。
「叱ったか」
「そら叱りやしたよ。危ないんやったら閉めたらええのに、わいが帰るまで待つ言うんすもん。何や、わいが上方から床板背負って帰ってくると思ってたんすかね」
乃維助が声を出して笑った。由ノ吉が二人を見る。
「嫌な予感するなあ」
「何がだ」
「いや、なんでもない」
左右衛門は部屋の隅へ目をやった。
「これ、自分でやったんすか」
指したのは戸だった。
乃維助が振り返る。
「何が」
「下んとこ。削ってやすよね」
「ああ引っ掛かってたからな」
「そこの棚も?」
「傾いてた」
「その火鉢の脚」
「割れた」
左右衛門が火鉢へしゃがむ。一本だけ色の違う木が継いである。形を合わせて削り、底から細い栓を通して留めてあった。
「これ、結構面倒やったんちゃいます?」
「何が?脚一本だぞ」
「そーなんすけど」
乃維助が怪訝な顔をする。
「立ちゃいいだろ」
左右衛門が振り返って由ノ吉を見る。
「この人、いつもこんな感じなんすか」
「だから言っただろ。何でもちょっとだけ出来るんだって」
「ちょっとどころじゃありやせんね」
「何なんだお前ら」
乃維助は削っていた木片を置いた。
「で、何だ。わざわざ礼を言いに来たのか」
「それもありやすけど」
左右衛門は近くにあった湯呑みへ手を伸ばした。
左手だった。乃維助がその手を見る。
「お前、右利きだろ」
左右衛門の手が止まった。
「分かりやす?」
「筆持つ指の癖が右だ。それに左で物取る時だけ肘が少し開く」
左右衛門が自分の左手を見る。
それから、にやりとした。
「まだまだやなあ。最近、わざと使ってやす」
「なんで」
「使えん方も使えたら、何か増えるやないかと思いましてん」
乃維助は一拍置いた。
「変な奴だな」
「そっちに言われるとは思いやせんでした」
由ノ吉が深く息を吐いた。
「やっぱり嫌な予感当たったよ」
「なんだよ」
「二人とも初対面だよね?」
乃維助と左右衛門が同時に由ノ吉を見る。
「だから?」
由ノ吉は諦めたように首を振った。
左右衛門は湯呑みを左手で持ったまま、また部屋を眺めた。
「でも不思議な部屋でやすね」
「何が」
「金は掛かってないのに、壊れてるもんがほとんどない」
乃維助の眉が少し動いた。
「壊れたら直すだろ」
「普通はそーでもないんすよ」
「壊れたまま使う方が面倒だし不便だろ」
左右衛門は少し笑った。
「そらそうなんすけど」
その目が、棚の端で止まった。
煙管。紙。小刀。紐。小さな砥石、欠けた茶碗。
その間に、一本の簪が無造作に転がっていた。
左右衛門の顔から笑いが消えた。
「……ちょっと待ってくだせえ」
乃維助は振り向かなかった。
「なんだ」
左右衛門は簪を手に取った。今度は右手だった。光へかざす。
飴色の鼈甲。細工を見る。裏返す。鮮やかな桃色の珊瑚へ目を留める。
左右衛門は黙ったままずいぶん長いことその簪を見ていた。
由ノ吉が覗き込んで「あ」と声を上げた。
「のいさん、それまだ持ってたの?」
「売るわけにいかねえだろ。盗まれたことになってるんだから」
「いや、それはそうだけど」
左右衛門が乃維助を見る。
「なんですか?それ。これ、どこで手に入れたんすか」
「井戸」
「井戸?」
「底に落ちてた」
「……そーいう意味で訊いたんやないんすけど」
乃維助がようやく顔を上げた。左右衛門は簪をもう一度見る。
「これ、そこらに転がしとく品やないすよ」
「三十両とか言ってたな」
左右衛門の目が細くなった。
「値まで知ってて、何で小刀の横に転がってんすか」
「邪魔だから端へ寄せただけだ」
由ノ吉が額を押さえた。
左右衛門はしばらく乃維助を見ていたが、やがて肩を揺らして笑った。
「何や、ほんまに変な人でやすね」
「お前に言われたくねえ」
「それはお互いさまでやす」
乃維助が簪を指した。
「そんなにいい物なのか」
左右衛門の笑いが少し変わった。
「ええとか悪いだけやないんすよ。これ、目立ちやす」
「目立つ?」
「手放す気ありやす?」
「まあな。金になるなら。俺は簪なんぞしねえしな」
「わいかてしやせん。だったら江戸じゃ動かさん方がええでやすね」
「上方なら?」
「捌くだけなら何とか」
「だけなら?」
左右衛門は桃色の珊瑚へ指を置いた。
「このままやと、顔が売れすぎてやす」
乃維助が簪を受け取る。裏を見る。表を見る。
もう一度珊瑚を見る。
「要は、別物に見えりゃいいってことか?」
左右衛門が乃維助の顔を見た。
「……乃維助はん、何する気でやす?」
乃維助はもう小刀を取っていた。
「顔を変えるんだ。ここ外せばいいか?」
「ちょ!いやいやいや。そんなんしたら価値まで消えやす」
「じゃあどこまでならいい」
「待ってくだせえ。何や話が速すぎやす」
「遅い方がいいのか」
「そーいう問題ちゃいますよ」
二人は熱心に何やら話をはじめた。
はみ出た由ノ吉が嫌そうな顔をしてつぶやいた。
「僕、今日この二人を会わせたの、たぶん失敗だった気がする」
しかしもう、乃維助と左右衛門の耳にそれは届かなかった。
*
翌日、乃維助は仮の屋にいた。
表から入ると、左右に低い棚と箪笥が並び、帯地や櫛、簪、小箱、細工物がところどころ余白を空けて置かれている。品をただ積み上げた店ではなかった。左右衛門が気に入った物を、気に入ったように並べている。
客が一人入ってくると、左右衛門は顔を上げた。
「今日はお一人でやす?」
「あとから来る」
左右衛門は男の袖口と、妙に気にしている表口を一度見ただけだった。
「ほな、二階の奥空いてやす。先上がって待っててくだせえ」
「助かる」
男はそれ以上何も言わず、店の奥の階段を上がっていった。
乃維助が目だけ向ける。
「知り合いか」
「いえ、ただの客でやすよ」
「誰を待ってんだ」
「さあ」
左右衛門は帳面へ目を戻した。
「知らねえのか」
「訊いてないんで」
「分かってそうな顔してるぞ」
「顔も商いのうちでやす」
奥では膳を持ったお陽が階段を上がっていった。二階にはいくつか小座敷があるらしい。飯を食う客もいれば、商談をする者もいる。遅くなれば泊まっていく者もあるという。乃維助にはどうでもよかった。
「物は」
「こっちでやす」
左右衛門が奥の一角へ小箱をいくつも運んだ。帯留め、古い簪、鼈甲の欠片、薄貝、瑪瑙、翡翠、小さな金具。乃維助は古い簪を一本取った。
「これは?」
「形が古いんす。材はええんすけど、今はあんまり動かんでやすね」
「こっちは」
「先が欠けてやす。直したら使えますけど、手間かけるほどの値でもない」
乃維助は例の簪と二本を並べた。
三本。
左右衛門が横から覗く。
「何考えてやす?」
「三本ある」
「見たら分かりやす」
「使えるとこ寄せりゃいいだろ」
左右衛門が一度瞬きをした。
「乃維助はん、それ全部ばらす気でやすか」
「駄目なのか」
「いや、かまいやしまへんが」
左右衛門は三本を見比べた。乃維助が小刀を取った。
「じゃあ押さえろ、左」
左右衛門が顔を上げる。
「左て。誰が左でやすか」
「お前」
「左右衛門って名前ありやすよ」
「長え」
「たかだか四文字でやす」
「左なら一文字だ」
左右衛門はしばらく乃維助を見た。
「……まあ、ええですけど」
「いいのかよ」
由ノ吉の声がした。いつの間に来たのか、店先から覗いている。
「随分簡単に受け入れたね」
「ま、呼び方なんかどうでもええでやすよ。話通じたら」
乃維助が鼻で笑った。
「ほら、左。そっち押さえろ」
「あ、へいへい」
桃色の珊瑚を留めている部分を確かめ、金具を少し外す。
左右衛門が顔を寄せる。
「そこから取るんすか」
「構造見てるだけだ」
「壊さへんでしょうね」
「壊れたら直す」
「それが一番怖い言うてるんすよ」
乃維助は返事をせず、今度は欠けた方の簪を手に取った。
鼈甲を裏から眺め、爪先で軽く叩く。続いて薄貝、翡翠、瑪瑙を順に見た。しばらくすると手を止めた。
「箱あるか」
「何するんす?」
「これ」
「どれ」
「全部」
左右衛門が乃維助を見る。
「……全部?」
「ここじゃ邪魔だろ」
左右衛門は店の中を見回した。表では客が櫛を見ている。奥ではお陽たちが二階へ酒を運んでいる。帳場には善兵衛が座っている。
「まあ、のいやんが一番邪魔になってやすけどね」
乃維助が顔を上げた。
「誰がのいやんだ」
「乃維助はん、長いやないすか」
「勝手に縮めるな」
「左よりましでやす」
乃維助は一拍置いた。
「この野郎……まあいい」
由ノ吉が呆れた。
「二人とも、その辺は本当にどうでもいいんだね」
左右衛門は箱を一つ持ってきた。
「ほな、これとこれ。翡翠も持ってってええです。瑪瑙も一応入れときやす。薄貝は割れやすから気ぃつけて」
「鼈甲は」
「その二本ごと持ってってくだせえ。ただし、何でもかんでも削らんといてくださいね」
「必要なら削る」
「聞いてやす?」
「聞いてる」
「大丈夫なんやろか」
乃維助は箱を抱えた。
左右衛門が最後に桃色の珊瑚を指した。
「それ、無くさんといてくだせえよ」
「何で」
「目立つ言うたやないすか」
「だから外すんだろ」
「そーなんすけど」
左右衛門は少し考えた。
「何か、勿体ないでやす」
乃維助は珊瑚を見る。
「捨てやしねえよ。捨てるのはいつだって出来る」
そう言って箱の蓋を閉めた。
*
その日の夕方から、乃維助の部屋には細かな欠片が増えた。
元の簪。
左右衛門から持ってきた二本。
鼈甲。
金具。
翡翠。
瑪瑙。
薄貝。
小刀。
鑢。
細い紐。
由ノ吉が覗きに来た時には、もうどれがどの簪の部品だったのか分からなくなっていた。
「のいさん」
「なんだ」
「これ、本当に元に戻せる?」
「戻す気なんかねえよ」
「そうだった」
乃維助は翡翠を元の簪へ当てていた。少し眺め、外す。
瑪瑙を当てる。
また外す。
由ノ吉が訊く。
「何が違うの」
「重い」
「重さ?」
「見た目の話だ」
「そこ気にするんだ」
乃維助が眉を寄せる。
「変か?」
「いや。意外だなあと思って」
乃維助はしばらく思案し結局、翡翠を残した。
別の一本は欠けた鼈甲が問題だった。
削って落とせば早い。
だが乃維助はしばらく欠けを指で撫でたあと、別の鼈甲を薄く削り始めた。「何するの」
「隠す」
「欠けを?」
「そうだ」
「切っちゃえばいいのに」
「使えるとこまで捨てることねえだろ」
由ノ吉はそれ以上言わなかった。
夜になって左右衛門が顔を出した。
「のいやん、どこまでやりやした?」
乃維助が顎で机を示す。左右衛門の足が止まった。
「……三本とも原形ないやないすか」
「別物にしろって言ったのお前だろ」
「限度ってもんがありやすよ」
左右衛門は座り込み、一つずつ手に取った。
翡翠を据えた一本を眺める。
「これは⋯」
「なんだ」
「ええやないすか」
「そのためにやってんだろ」
二本目を見る。
欠けの上には別の鼈甲が重ねられ、元からそういう意匠だったように形を変え始めている。
「ここ、切らずに隠したんすね」
「ああ」
「切らんかったんや⋯なるほどなあ」
「残せるからな。却って繋がって見えんだろ」
左右衛門は三本目を見る。
黒い漆の地だけがまだ寂しく残っている。
「これは?」
「まだ」
「余りになりそうでやすね」
「いや使う」
「どうしはるんすか?こんな地味なの」
乃維助が黒漆の一本を取った。
元の簪から外した桃色の珊瑚をつまんで置く。
「ここ」
左右衛門が息を呑んで黙った。
黒の上に桃色が一粒浮く。
「⋯」
「駄目か」
「いや」
左右衛門が少し離して見る。
「これは、ええかもしれやせん」
乃維助は薄貝を二片だけ選んだ。
「ほんまにそれだけ?」
「足りる」
「のいやん、引き算する時は思い切りええんやね」
「何の話だ」
「こっちの話でやす」
乃維助はもう聞いていなかった。問題は漆だった。手を動かせば進むものは、だいたい乃維助の方が早い。乾くのを待つしかないものだけは、どうにもならなかった。
翌日、由ノ吉と左右衛門が来ると、乃維助は机の前で腕を組んでいた。
「何してるの」
「待ってる」
「何を」
「漆」
「まだ乾かない?」
「まだだ」
「睨んでも早くならないよ。このところカラッカラだし」
「知ってる」
そこへ左右衛門が入ってきた。
「のいやん、触らん方がええですよ」
「触ってねえ」
「触りたそうな顔してやす」
「顔まで商売にすんな」
左右衛門が笑った。
「ほな左、茶でも淹れろ」
「それ、わいの言い方やないすか」
「分かってるなら早え」
「人使い荒いおかたやなあ」
由ノ吉が笑う。
「もう完全に馴染んでるね」
「何がだ」
「二人とも」
「そんなことねえ」「そんなことないでやす」
二人が同時に言った。由ノ吉が吹き出して
「ここにいたって乾くわけじゃなし砂丘屋でも行かない?」と言った。
*
数日後。
乃維助は三本の簪を箱へ入れて仮の屋へ向かった。冬の陽は低く、町の屋根を横から薄く撫でていた。乾いた風が路地の土埃を隅へ追いやり、軒下の桶には朝の薄氷がまだ砕け残っている。箱の中では、懐紙で包んだ三本の簪が歩調に合わせてかすかに触れ合った。どれも、数日前まで自分が何者だったかなど忘れてしまったかのようだった。
仮の屋へ入ると一階には昼前の客が二人いた。
一人は帯地を見ている。もう一人は左右衛門と何やら小声で話していた。
左右衛門は相手の話を聞きながら、男の手元を一度見た。
「二階、使いやす?」
男が少し間を置く。
「……空いてるか」
「一番奥なら。飯も出せやすよ」
「酒は」
「言われると思って、もう頼んでありやす」
男が笑った。
「お前は怖いな」
「何がでやす?」
左右衛門は何も知らない顔をした。男が階段を上がってから、乃維助が箱を置いた。
「よく見てんな」
「商売でやすから」
「何しに来た客だ」
「知りやせん」
「酒まで出してか」
「飲みたそうな顔してたんで」
乃維助は左右衛門を見た。左右衛門は笑う。
「見るんと、訊くんは別でやすよ」
「面倒くせえ奴だな」
「のいやんに言われたないでやす」
乃維助が箱を置き蓋を開けた。
左右衛門の表情が変わる。
一本は淡い翡翠を据え、鼈甲の線をすっきり見せたもの。
一本は重ねた鼈甲が新しい意匠となり、古さがかえって落ち着きに変わったもの。
最後の一本は黒漆だった。
薄い螺鈿が、見る角度によって青とも白ともつかない光を一筋だけ返している。そのそばに、鮮やかな桃色の珊瑚が一粒据えられていた。
ちょうど入ってきた由ノ吉が、三本を見比べた。
「……どれが、あの簪?」
乃維助が鼻を鳴らす。
「分からねえなら成功だな」
左右衛門が一本ずつ手に取る。今度は手付きが完全に商人だった。
裏を見る。
重さを見る。
光へ透かす。
「こっちは上方で動きやすね。こっちも前より高く値ぇ付くかもしれやせん」乃維助が黒漆の一本を指した。
「それは?」
「これでやすか」
左右衛門が少し離して眺める。桃色の珊瑚が、黒の上で光を弾いた。
「高いんは他の二本でやすけどね」
「じゃあ安いのか」
「値の話しかしてないでやすよ、のいやん」
由ノ吉が笑った。
左右衛門は黒漆の一本を机へ戻した。
「わいはこれ、嫌いやないす。これは江戸やなあ」
乃維助は肩をすくめる。
「任せる。好きにしろ」
「そっち二本は上方へ回しやす」
「またお前が持ってくのか」
「まさか」
左右衛門は表へ目をやった。
「わいより遥かに速いのがおりやす。おーいお陽。勇さんとこ行って呼んできてくれへん?」
程なくして、お陽が一人の男をつれて仮の屋へ戻ってきた。
年は三十をいくつか越えたくらい。日に焼けた顔に余計な肉がない。荷を担ぐ肩はしっかりしているのに、立っている時には力みがなかった。
左右衛門が手を上げる。
「すんまへんな。勇さん」
男――勇は、小さく顎を引いた。
「荷か」
「上方まで。ちょっと値の張るもんでやす」
「いつものことだ」
左右衛門は二本の簪をそれぞれ包み、さらに箱へ収めた。
勇が受け取り、掌で重さを確かめる。
乃維助が横から言った。
「落とすなよ」
勇が顔を上げた。
「あ?荷を落としたことなんぞ一度だってねえよ」
「一度も?」
左右衛門が笑う。
「そーいう人でやす」
「ふん。自分で言う奴なんざ信用ならねえ」
乃維助がそう言った時、左右衛門が別の包みへ手を伸ばした。
袖が棚の端の小箱へ触れた。
箱が滑る。
「あ!」
由ノ吉が声を上げるより早かった。
勇の手が下へ入った。顔は乃維助の方を向いたままだった。
落ちてきた箱を片手で受け、そのまま元の場所へ戻す。
「だから落とさねえって」
乃維助が一度だけ眉を上げた。
「……なるほどな」
左右衛門は自分が落としかけた箱を見る。
「わいの方がよっぽど危ないでやすね」
「お前は物売る方だけやってろ」
勇が包みを懐へ収めた。
「向こうで渡す相手は?」
左右衛門の顔が商人のものに変わる。
「いつものところで。こっちはこの値より下やったら戻してくだせえ。もう一本は――」
そこからは早かった。値。相手。渡し方。返事。勇は必要なことだけ聞き、最後に一度頷いた。
「分かった」
「頼みやす」
勇は由ノ吉と乃維助にも軽く会釈し、もう戸口へ向かっていた。
乃維助が背中へ言う。
「足も速いのか」
勇は振り返らなかった。
「上方なんかすぐそこだ」
左右衛門が笑った。勇の姿はすぐに通りの向こうへ消えた。乃維助は戸口を見たまま言った。
「変なの知ってんな、お前」
「そっちに言われたないでやすね、のいやん」
そして黒漆の簪だけが、仮の屋に残った。
*
勇が上方へ向かってから、江戸には何度か冷たい雨が通った。朝には軒下の桶へ氷が張るようになり、夕暮れも早くなった。
その間、黒漆の簪は仮の屋の棚にそっと置かれたままだった。
特別扱いされることもなく、ほかの簪や櫛と同じように、客が来れば箱へ入り、客が帰ればまた棚へ戻った。
やがて上方から文が届いた。
二本とも売れた。
左右衛門が乃維助の住まいへ来た時には、最初に見つけた簪のあった棚に、今度は妙な物は転がっていなかった。
「おう仮の字。今日は何だ」
「仮の字て。今日は何だて。金持ってきた人間にその言い方しやす?」
左右衛門が包みを放る。乃維助が片手で受け取った。ずしりと重い。
「多くねえか」
「材料とわいの取り分はもう引いてありやす」
「お前の簪も使っただろ」
「そっちも込みでやす」
乃維助が中を見る。
「随分残ったな」
「元が元でやすからね。勇さんからも、向こうでちゃんと渡したって返事来てやす」
乃維助は包みを懐へ入れた。
「これで少しは物、大事にしやす?」
「大事にしてるだろ」
「そーなんすね」
左右衛門が笑う。
「やっぱり話通じやせんわ」
「お前がな」
三十両の簪の話は、それで終わったように見えた。
*
その年の暮れも押し迫った午後、由ノ吉は大門から少し離れた往来で、見覚えのある女を見かけた。一度通り過ぎかけて、足を止めた。
派手さのない着物。髪も、吉原にいた頃よりずっと簡素だった。
「紫乃――」
女が振り返った。由ノ吉は一拍置いて言い直した。
「……いや。おゆうさん」
女は目を丸くして、それから笑った。
「若旦⋯由ノ吉さん」
隣には男がいた。
由ノ吉もよく知っている。かつて紫乃を身請けした男だった。
男が笑う。
「久しぶりにその名を聞いたな、おゆう」
おゆうも少し困ったように笑った。
「私も、久しぶりに呼ばれました」
由ノ吉は二人を見る。おゆうの顔から、吉原にいた頃の張りつめたところがすっかり消えていた。
「お元気そうで」
「おかげさまで」
男が言った。
「こいつは吉原にいた頃より、今の方がよく喋る」
「あなたが余計なことばかり言うからです」
「ほら、こういう具合だ」
おゆうが男の袖を軽く引いた。
由ノ吉は笑った。
「あ、そうだ」
二人が見る。
「仮の屋の左右衛門が上方から戻ってましてね。簪もいくつか入ってるみたいですよ。おゆうさんに一本どうです?」
おゆうが目を細めた。
「由ノ吉さん、人の懐で商売するようになったんですか」
「僕の店じゃないですけどね」
男が笑った。
「覗いてみるか。見るだけなら構わんだろう」
「見るだけ、ですよ」
「分かってる」
由ノ吉は、その言い方を聞いて少し笑った。
仮の屋へ入ると、左右衛門は帳場で客の話を聞いていた。
客の女が一人、二階へ上がっていくところだった。少し遅れて入ってきた男とは目も合わせない。
左右衛門は二人を見ても何も言わず、
「奥、空いてやすよ」
とだけ声を掛けた。男が軽く手を上げ、階段を上がる。
由ノ吉が左右衛門を見る。
左右衛門は知らない顔で帳面を閉じた。
「何でやす?」
「いや。別に」
「何や、珍しいお客さん連れてきやしたね」
「簪見せてよ」
「急でやすね」
「いいのあるんだろ」
「そら、ありやすけど」
左右衛門は奥から箱をいくつか出した。
上方から仕入れたもの。江戸で仕入れたもの。華やかなものもあれば、地味なものもある。男は一本ずつ眺めた。
おゆうは横で笑いながら
「私は何でもいいんですよ」
と言った。
「何でもいいが一番困るんだ」
男が答える。
左右衛門は男の手元と、おゆうの髪を交互に見た。
「旦那、派手なん好きそうでやすね」
「分かるか」
「最初に取るん、全部そっちでやすもんね」
「おゆうには似合わんか」
左右衛門はおゆうを見る。
「奥様なら何でもお似合いになりますやろ。けど」
「けど?」
「わいが選ぶんやないんで」
男が笑った。
「商売人のくせに無責任だな」
「人に似合うんと、その人が好きなんは別でやすから」
おゆうが左右衛門を見る。
「よく見てるんですね」
「商売でやす」
由ノ吉は何気なく棚へ目をやった。
そこに、黒漆の一本があった。
薄い螺鈿。鮮やかな桃色の珊瑚。由ノ吉の目が止まる。何も言わなかった。
男が何本か手に取った。
華やかな金細工のもの。
白い玉のもの。
翡翠を使ったもの。
どれもおゆうに似合わないわけではない。
男は何度かおゆうの顔と簪を見比べた。
「これは?」
「ちょっと華やかすぎやせん?」
左右衛門が言う。
「そうか」
男は別の一本を取る。
「こっちは」
「悪うないでやすね」
おゆうが苦笑した。
「私より、二人の方が楽しそうですね」
「お前が何でもいいと言うからだ」
「だって、本当に何でもいいんですもの」
「それがいちばん困るんだ」
そのやり取りを聞きながら、由ノ吉は棚の黒漆の簪を見ていた。
何本か見比べるうち、やがて男の手が、その一本へ伸びた。
「これは?」
左右衛門が見る。
「ああ、それでやすか。知り合いに拵えてもろたもんでやす。同じもんは二つとありやせん」
男は簪を光へかざした。
黒漆の上で薄い螺鈿が淡く光る。
「随分と地味だな」
「地味でやすね」
左右衛門はあっさり言った。
おゆうが少し笑った。
「だったら、ほかの方がいいんじゃありません?」
男は首を振った。もう一度、簪を見る。それからおゆうを見る。
「いや」
桃色の珊瑚が小さく光った。
「こっちの方がおゆうには似合うだろう」
簪を見たおゆうの手が止まった。由ノ吉は、その顔を見た。
男から簪を受け取る。
黒漆を見る。
螺鈿を見る。
そして珊瑚を見る。
指が、ほんのわずかに止まった。長いあいだ見つめていたわけではない。
ほんの一瞬だった。由ノ吉には分かった。
おゆうが顔を上げる。
由ノ吉と目が合った。由ノ吉は何も言わなかった。
おゆうの目に、涙が浮かんだ。
それから彼女は、何も言わず由ノ吉へ深く頭を下げた。
由ノ吉は一度だけ、小さく頷いた。
男が不思議そうにおゆうを見る。
「そんなに気に入ったか」
おゆうは顔を上げた。少しだけ目元を拭う。そして笑った。
「⋯⋯はい」
左右衛門は二人を見た。
由ノ吉を見る。
おゆうを見る。
簪を見る。
何かに気づいたようでもあったが、何も訊かなかった。
ただ帳面を開いて、値を示した。男はそれを見て、
「これをもらおう」
と言った。
左右衛門が簪を包もうとすると、おゆうが小さく首を振った。
「そのままで」
「え?」
「今、挿してもらいます。あなた⋯」
男が笑った。
「儂がか」
「あなたが選んでくださったものですから」
「それもそうだな」
おゆうは振り返り、うなじを向けた。
男は少し不器用な手つきで、黒漆の簪を髪へ挿した。
「どうだ」
おゆうは手鏡へ目をやった。
黒い漆の上に、鮮やかな桃色の珊瑚が一粒だけ見える。
「似合いますか」
「だから選んだんだよ」
おゆうがしあわせそうに微笑んだ。
由ノ吉は、その顔を見た。
吉原で客へ向けていた笑顔ではなかった。身請けが決まった頃の、嬉しいのか悲しいのか分からない笑顔でもなかった。
ただ、今、そこにいる女が微笑んでいた。それだけだった。
外へ出る二人を、由ノ吉と左右衛門が見送った。おゆうが一度だけ振り返った。由ノ吉へ軽く頭を下げる。由ノ吉が微かに頷いた。
二人の姿が師走の忙しない往来へ溶けるように消えていく。
三十両の簪は、もうどこにもなかった。
二本は姿を変えて上方へ渡り、乃維助の懐には銭が残った。
そして、井戸の底で朝日を拾ったあの鮮やかな桃色の珊瑚だけが、
今は黒い漆の上で、おゆうの髪に収まっていた。




