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7/12

陸 蜩 ヒグラシ

夏の終わりの吉原は、日が傾いてもまだ暑かった。

昼の熱が板塀や瓦に残り、打ち水をした路地からは湿った土の匂いが上がっている。軒の向こうでカナカナと蜩が鳴いていた。ひとつ鳴き始めると、少し離れたところからもうひとつが返す。

カナカナという鳴声だけが、これから暮れていく空の奥へ細く伸びていった。


砂丘屋は空いていた。客は乃維助と由ノ吉、そしてかりんの三人だけだった。戸は開け放してある。三太郎は土間のいちばん風の通るところへ腹をつけ、前脚を投げ出していた。

板場で油が鳴った。ほどなく、お綿が揚げたての天ぷらを運んでくる。

鱚と穴子だった。鱚は細く白く、衣の端が軽く立っている。

穴子は長い身を半分に切って、それでも皿から少しはみ出していた。

大根おろしを添えた天つゆが、小さな鉢で僅かに湯気を立てている。

乃維助は穴子を一口食べ「うまい」と言って、猪口へ手を伸ばした。

由ノ吉は鱚を箸で割り、かりんは冷める前にと一つ口へ運んだ。

お綿が徳利を置きながら、ふと思い出したように訊いた。

「のいさんとかりんちゃんって、いつから知り合いなの?」

乃維助の箸が止まった。

「いつだ」

「私に聞くの?」かりんが笑う。

「お前の方が覚えてるだろ」

「初めて会ったのは祭りの時じゃない?」

「いや違う。その前に会ってる」

「そうだっけ」

「あれだ、露店の前でお前が俺を店のやつと間違えた」

「ああ。そっか。…八、九、十、十一年?」

「で、それからすぐ蕎麦屋でお前が酔っ払って」

「そば猪口倒したやつかー」

「俺の袂にな」

「わざとじゃないよ」

「わざとでたまるか」

由ノ吉が笑った。

「ずいぶん締まらない始まりだね」

「その次は何だっけ」かりんが訊く。

「知らん」

「私も」

「よくそれで十年以上付き合ってるね」

「気づいたらいるんだよね」

「お前、人を野良犬みてえに言うな」

お綿が吹き出した。

かりんは湯呑みを両手で包んだまま、少し首を傾げた。

「でもね。なんかあの頃、初めて会った感じしなかったんだよね」

乃維助が鱚を口へ運ぶ。

「かりんはその頃から、会ってもいねえのに昨日はどうもとか、会った次の日に久しぶりとか変な奴だったんだ」

「うーん」かりんはしばらく黙った。


軒の外で蜩が一度、長く鳴いた。


「あ」


「何だ」


「そういえばね、ずっと前に、のいすけちゃんにそっくりな子に会ったことある」

乃維助の箸が止まった。

「十七の時かな?」

「夏だったな。今みたいにカナカナが鳴いてたもん」とかりんは言った。


どこだったのかは、よく覚えていない。町外れだった気もするし、どこかの寺の裏手だった気もする。道端に十歳くらいの男の子がしゃがんでいた。

手にしていたのは竹とんぼだった。

遊んでいたのではない。羽根の片方を小刀で少し削っては、両手で軸を回している。竹とんぼはふっと浮いて、斜めに落ちた。

少年が拾う。眺める。また削る。

「飛ばないの?」かりんが訊いた。

少年は顔を上げない。

「飛ぶことは飛ぶ」

「今、落ちたよ」

「だから直してんだ」

「壊れてるの?」 

そこで少年が顔を上げた。

「壊れてるんじゃない。こっちの羽が重いんだ」

「だから壊れ…」

「違う」

妙に言い切るので、かりんは笑った。

その顔だけは妙に覚えている。けれど、その前後が曖昧だった。なぜそこへ行ったのか。そのあと何をしたのか。どうやって帰ったのか。そこだけが薄い霞の向こうにある。


「その餓鬼が俺に似てたって?」

乃維助が訊いた。

「うん。今思うとかなり似てる」

かりんは乃維助の顔をじっと見た。

「ねえ、のいすけちゃん」

「何だよ」

「隠し子とかいる?」

「いるかっ」

「ほんとに?」

乃維助の箸が一瞬止まった。

「お前なあ、いるわけねえだろ」

「その子、すごく似てたから」

「お前が十七だろ…餓鬼の俺がこどもこさえてる事になるじゃねえか」

「そっか」

「親戚とかじゃない?」

由ノ吉が言う。

「知らんなあ」

乃維助は穴子をもう一つ取った。

かりんも鱚を天つゆへ浸した。お綿が新しい茶を置いた。

湯気が細く上がった。その白い筋が、少し揺れた。

ふいに目眩がして、かりんは目を瞑った。

カナカナと蜩が鳴いた。

目を開いた時、足の裏に土の感触があった。眩しい。暑い。

砂丘屋ではなかった。

夏の道だった。

かりんは動かなかった。

少し先に若い娘がいる。後ろ姿だけで分かった。

自分だった。

十七歳のかりんの前に、少年がしゃがんでいる。

竹とんぼ。

小刀。

「飛ばないの?」

「飛ぶことは飛ぶ」

「今、落ちたよ」

「だから直してんだ」

「壊れてるの?」

 そこで少年が顔を上げた。

「壊れてるんじゃない。こっちの羽が重いんだ」

「だから壊れ…」

「違う」

「名前は?」

「さいとーのいすけ」

「……さいとおの、いすけ?」

「違う。さいとう、のいすけ」

「のいすけ?」

「そう」

「のいすけちゃん」

少年の眉が寄った。

「ちゃん付けすんな」

似ているのではない…

乃維助だった。十歳の乃維助だった。

十七歳のかりんは笑っている。少年のいすけはまた竹を削った。

指で羽根の厚みを確かめ、軸を見て、両手で回す。

竹とんぼが飛び上がった。

今度は傾かない。

夕方の空へすっと昇り、少し先の草むらへ落ちた。

「すごい!飛んだ!飛んだ!」

十七歳のかりんが言う。

「当たり前だ」

のいすけが取りに走った。その向こうから、少女が駆けてきた。

五つか六つ。今のかりんは、その顔を見た。息が止まった。

少女はのいすけのすぐ近くで石につまずいた。

転ぶ。

「おい」

のいすけが駆け寄った。腕を取って起こす。膝が擦りむけている。

少女の顔が歪んだ。

泣いた。

「うるせえ」

泣く。

「それくらいで泣くな」

余計に泣く。のいすけは困った顔をした。

十七歳のかりんが少し離れたところから笑った。

「泣かせてるじゃん」

「泣かせてねえだろ。勝手に転んだんだ」

「そういう言い方しないのよ」

「じゃあどうすりゃいいんだ」

のいすけは手に持っていた竹とんぼを見た。

しばらく考えた。

「ほら」

少女は涙を溜めたまま見る。

のいすけは竹とんぼを両手で挟み、勢いよく回した。

竹とんぼが高く舞い上がった。少女の泣き声が止まった。

少女の瞳が竹とんぼを追った。のいすけが走り、拾って戻る。

「やる」

少女は竹とんぼを受け取った。

「やってみろ」

首を振る。

「貸せ」

のいすけが少女の手を取った。

軸の挟み方を教える。

一度目は、すぐ落ちた。

二度目は少し飛んだ。

少女が笑った。十七歳のかりんも笑った。

「よかったねえ」

少女が頷いた。

今のかりんは、その三人を見ていた。

胸の奥で、ずっと閉じていた戸が一枚、音もなく開いた。

竹とんぼ。

持っていた。

子供の頃。

どこでもらったのか分からない竹とんぼが、しばらく家にあった。

転んだことも。知らない男の子がいたことも。何となく覚えている。


カナカナが聞こえる。

少女――かりんは、竹とんぼを握って走り出した。数歩先で振り返る。

のいすけが手を上げた。

十七歳のかりんも少女に手を振った。

その横顔が、ふと今のかりんの方を向いた。

目が合った。

十七歳のかりんの笑みが消えた。

今のかりんは動けなかった。

若い自分が、怪訝そうにこちらを見る。

ほんの一瞬だった。

のいすけが竹くずを払って立ち上がった。

それから今のかりんに気づいた。

「おばさん」

「……誰がおばさん?」

のいすけは少女が去った方を指した。

「おばさん、あの子の母ちゃん?」

「違うよ」

「じゃあ何」

かりんは少し考えた。

「私」

のいすけは黙った。

「訳が分からねえ」

「だよね」

のいすけは今度は十七歳のかりんを見る。

「姉ちゃんも似てるな」

十七歳のかりんが聞きつけて振り返った。

「何?」

「おばさんと姉ちゃん」

十七歳のかりんが今のかりんを見た。

また目が合う。

「……ほんとだ。ちょっと似てるね」

十七歳のかりんはそう言って今のかりんを不思議そうに見ていた。

今のかりんは笑った。

「親戚?」

のいすけが訊く。

「違う」

「お姉ちゃんと妹?」

「違う」

「じゃあ何なんだ」

かりんは答えなかった。若いかりんも首を傾げている。

のいすけはまじまじと二人を見比べた。

「分からん」

その言い方まで同じだった。


蜩の声が急に遠くなった。


「かりん」

由ノ吉の声がした。

目を開けた。

砂丘屋だった。

茶からまだ湯気が上がっている。

天ぷらの衣が、少しだけしんなりしていた。

乃維助が箸を持ったまま見ていた。

「どこ行ってた」

「昔」

乃維助が嫌そうな顔をする。

「また分からんことを。今度は何だ」

かりんはすぐには答えなかった。

竹とんぼを持った小さな手が浮かんだ。

その向こうに、十七歳の自分がいる。

あの時、自分によく似た年上の女を見た。

そうだ。見た。妙に気になって、しばらく目で追った。

帰り道にも一度思い出した。誰だったんだろう、と。

それから、竹とんぼを抱えた小さな女の子も見た。

かわいい子だと思った。

あれも。


「……そっか」

かりんが呟いた。

「何がだ」

乃維助が訊く。

かりんは一人で笑った。

「あの時見たの、私だったんだ」

「どの時だ」

「十七の時」

「誰を見た」

「今の私」

乃維助は黙った。由ノ吉も黙った。お綿だけが「え?」と言った。

かりんは続けた。

「それで、あの小さい子も私」

乃維助が箸を置いた。

「待て、お前が三人いたってことか」

「そうみたい」

「増えるな」

由ノ吉が吹き出した。

かりんは乃維助を見る。

「のいすけちゃん」

「今度は何だ」

「子供の頃、泣いてる女の子に竹とんぼあげたことない?」

乃維助は少し考えた。

「お前はまた何を……ん?……ある…」

「覚えてる?」

「なんとなくな」

「竹とんぼ、直したばっかりだった?」

乃維助の目が細くなった。

「……何で知ってる」

かりんは笑った。

「それ、私」

乃維助は何も言わなかった。

「五つか六つの私」

まだ黙っている。

「十七の私もそこにいた」

乃維助が額を押さえた。

「で、今のお前もいた」

「うん」

「俺は?」

「十歳」

「俺は一人なんだな」

「たぶん」

「たぶんって、お前」

お綿が笑いながら徳利を持ってきた。乃維助は猪口を差し出した。

「訳が分からねえ。飲まなきゃやってられねえ」

「穴子、もう一つ揚げるかい」

「鱚も頼む」

由ノ吉が笑う。

「即答だね」

乃維助は猪口を空けた。

「分かる話から片づけてんだよ」

かりんは茶を一口飲んだ。

「でも分かった」

「何が」

「なんかあの頃、初めて会った気がしなかった理由」

乃維助が見る。

「初めてじゃなかったんだね」

「知るか」

「私、のいすけちゃんに三回くらい初めましてしてるのかも」

「もう数えるな」

外はすっかり暗くなっていた。

さっきまであれほど鳴いていた蜩の声は、いつの間にか止んでいた。

開け放たれた戸の向こうで、からからん、と何かが転がる乾いた音がした。

かりんは音の方に目をやり、懐かしそうな顔で微笑んだ。

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