陸 蜩 ヒグラシ
夏の終わりの吉原は、日が傾いてもまだ暑かった。
昼の熱が板塀や瓦に残り、打ち水をした路地からは湿った土の匂いが上がっている。軒の向こうでカナカナと蜩が鳴いていた。ひとつ鳴き始めると、少し離れたところからもうひとつが返す。
カナカナという鳴声だけが、これから暮れていく空の奥へ細く伸びていった。
砂丘屋は空いていた。客は乃維助と由ノ吉、そしてかりんの三人だけだった。戸は開け放してある。三太郎は土間のいちばん風の通るところへ腹をつけ、前脚を投げ出していた。
板場で油が鳴った。ほどなく、お綿が揚げたての天ぷらを運んでくる。
鱚と穴子だった。鱚は細く白く、衣の端が軽く立っている。
穴子は長い身を半分に切って、それでも皿から少しはみ出していた。
大根おろしを添えた天つゆが、小さな鉢で僅かに湯気を立てている。
乃維助は穴子を一口食べ「うまい」と言って、猪口へ手を伸ばした。
由ノ吉は鱚を箸で割り、かりんは冷める前にと一つ口へ運んだ。
お綿が徳利を置きながら、ふと思い出したように訊いた。
「のいさんとかりんちゃんって、いつから知り合いなの?」
乃維助の箸が止まった。
「いつだ」
「私に聞くの?」かりんが笑う。
「お前の方が覚えてるだろ」
「初めて会ったのは祭りの時じゃない?」
「いや違う。その前に会ってる」
「そうだっけ」
「あれだ、露店の前でお前が俺を店のやつと間違えた」
「ああ。そっか。…八、九、十、十一年?」
「で、それからすぐ蕎麦屋でお前が酔っ払って」
「そば猪口倒したやつかー」
「俺の袂にな」
「わざとじゃないよ」
「わざとでたまるか」
由ノ吉が笑った。
「ずいぶん締まらない始まりだね」
「その次は何だっけ」かりんが訊く。
「知らん」
「私も」
「よくそれで十年以上付き合ってるね」
「気づいたらいるんだよね」
「お前、人を野良犬みてえに言うな」
お綿が吹き出した。
かりんは湯呑みを両手で包んだまま、少し首を傾げた。
「でもね。なんかあの頃、初めて会った感じしなかったんだよね」
乃維助が鱚を口へ運ぶ。
「かりんはその頃から、会ってもいねえのに昨日はどうもとか、会った次の日に久しぶりとか変な奴だったんだ」
「うーん」かりんはしばらく黙った。
軒の外で蜩が一度、長く鳴いた。
「あ」
「何だ」
「そういえばね、ずっと前に、のいすけちゃんにそっくりな子に会ったことある」
乃維助の箸が止まった。
「十七の時かな?」
「夏だったな。今みたいにカナカナが鳴いてたもん」とかりんは言った。
どこだったのかは、よく覚えていない。町外れだった気もするし、どこかの寺の裏手だった気もする。道端に十歳くらいの男の子がしゃがんでいた。
手にしていたのは竹とんぼだった。
遊んでいたのではない。羽根の片方を小刀で少し削っては、両手で軸を回している。竹とんぼはふっと浮いて、斜めに落ちた。
少年が拾う。眺める。また削る。
「飛ばないの?」かりんが訊いた。
少年は顔を上げない。
「飛ぶことは飛ぶ」
「今、落ちたよ」
「だから直してんだ」
「壊れてるの?」
そこで少年が顔を上げた。
「壊れてるんじゃない。こっちの羽が重いんだ」
「だから壊れ…」
「違う」
妙に言い切るので、かりんは笑った。
その顔だけは妙に覚えている。けれど、その前後が曖昧だった。なぜそこへ行ったのか。そのあと何をしたのか。どうやって帰ったのか。そこだけが薄い霞の向こうにある。
「その餓鬼が俺に似てたって?」
乃維助が訊いた。
「うん。今思うとかなり似てる」
かりんは乃維助の顔をじっと見た。
「ねえ、のいすけちゃん」
「何だよ」
「隠し子とかいる?」
「いるかっ」
「ほんとに?」
乃維助の箸が一瞬止まった。
「お前なあ、いるわけねえだろ」
「その子、すごく似てたから」
「お前が十七だろ…餓鬼の俺がこどもこさえてる事になるじゃねえか」
「そっか」
「親戚とかじゃない?」
由ノ吉が言う。
「知らんなあ」
乃維助は穴子をもう一つ取った。
かりんも鱚を天つゆへ浸した。お綿が新しい茶を置いた。
湯気が細く上がった。その白い筋が、少し揺れた。
ふいに目眩がして、かりんは目を瞑った。
カナカナと蜩が鳴いた。
目を開いた時、足の裏に土の感触があった。眩しい。暑い。
砂丘屋ではなかった。
夏の道だった。
かりんは動かなかった。
少し先に若い娘がいる。後ろ姿だけで分かった。
自分だった。
十七歳のかりんの前に、少年がしゃがんでいる。
竹とんぼ。
小刀。
「飛ばないの?」
「飛ぶことは飛ぶ」
「今、落ちたよ」
「だから直してんだ」
「壊れてるの?」
そこで少年が顔を上げた。
「壊れてるんじゃない。こっちの羽が重いんだ」
「だから壊れ…」
「違う」
「名前は?」
「さいとーのいすけ」
「……さいとおの、いすけ?」
「違う。さいとう、のいすけ」
「のいすけ?」
「そう」
「のいすけちゃん」
少年の眉が寄った。
「ちゃん付けすんな」
似ているのではない…
乃維助だった。十歳の乃維助だった。
十七歳のかりんは笑っている。少年のいすけはまた竹を削った。
指で羽根の厚みを確かめ、軸を見て、両手で回す。
竹とんぼが飛び上がった。
今度は傾かない。
夕方の空へすっと昇り、少し先の草むらへ落ちた。
「すごい!飛んだ!飛んだ!」
十七歳のかりんが言う。
「当たり前だ」
のいすけが取りに走った。その向こうから、少女が駆けてきた。
五つか六つ。今のかりんは、その顔を見た。息が止まった。
少女はのいすけのすぐ近くで石につまずいた。
転ぶ。
「おい」
のいすけが駆け寄った。腕を取って起こす。膝が擦りむけている。
少女の顔が歪んだ。
泣いた。
「うるせえ」
泣く。
「それくらいで泣くな」
余計に泣く。のいすけは困った顔をした。
十七歳のかりんが少し離れたところから笑った。
「泣かせてるじゃん」
「泣かせてねえだろ。勝手に転んだんだ」
「そういう言い方しないのよ」
「じゃあどうすりゃいいんだ」
のいすけは手に持っていた竹とんぼを見た。
しばらく考えた。
「ほら」
少女は涙を溜めたまま見る。
のいすけは竹とんぼを両手で挟み、勢いよく回した。
竹とんぼが高く舞い上がった。少女の泣き声が止まった。
少女の瞳が竹とんぼを追った。のいすけが走り、拾って戻る。
「やる」
少女は竹とんぼを受け取った。
「やってみろ」
首を振る。
「貸せ」
のいすけが少女の手を取った。
軸の挟み方を教える。
一度目は、すぐ落ちた。
二度目は少し飛んだ。
少女が笑った。十七歳のかりんも笑った。
「よかったねえ」
少女が頷いた。
今のかりんは、その三人を見ていた。
胸の奥で、ずっと閉じていた戸が一枚、音もなく開いた。
竹とんぼ。
持っていた。
子供の頃。
どこでもらったのか分からない竹とんぼが、しばらく家にあった。
転んだことも。知らない男の子がいたことも。何となく覚えている。
カナカナが聞こえる。
少女――かりんは、竹とんぼを握って走り出した。数歩先で振り返る。
のいすけが手を上げた。
十七歳のかりんも少女に手を振った。
その横顔が、ふと今のかりんの方を向いた。
目が合った。
十七歳のかりんの笑みが消えた。
今のかりんは動けなかった。
若い自分が、怪訝そうにこちらを見る。
ほんの一瞬だった。
のいすけが竹くずを払って立ち上がった。
それから今のかりんに気づいた。
「おばさん」
「……誰がおばさん?」
のいすけは少女が去った方を指した。
「おばさん、あの子の母ちゃん?」
「違うよ」
「じゃあ何」
かりんは少し考えた。
「私」
のいすけは黙った。
「訳が分からねえ」
「だよね」
のいすけは今度は十七歳のかりんを見る。
「姉ちゃんも似てるな」
十七歳のかりんが聞きつけて振り返った。
「何?」
「おばさんと姉ちゃん」
十七歳のかりんが今のかりんを見た。
また目が合う。
「……ほんとだ。ちょっと似てるね」
十七歳のかりんはそう言って今のかりんを不思議そうに見ていた。
今のかりんは笑った。
「親戚?」
のいすけが訊く。
「違う」
「お姉ちゃんと妹?」
「違う」
「じゃあ何なんだ」
かりんは答えなかった。若いかりんも首を傾げている。
のいすけはまじまじと二人を見比べた。
「分からん」
その言い方まで同じだった。
蜩の声が急に遠くなった。
「かりん」
由ノ吉の声がした。
目を開けた。
砂丘屋だった。
茶からまだ湯気が上がっている。
天ぷらの衣が、少しだけしんなりしていた。
乃維助が箸を持ったまま見ていた。
「どこ行ってた」
「昔」
乃維助が嫌そうな顔をする。
「また分からんことを。今度は何だ」
かりんはすぐには答えなかった。
竹とんぼを持った小さな手が浮かんだ。
その向こうに、十七歳の自分がいる。
あの時、自分によく似た年上の女を見た。
そうだ。見た。妙に気になって、しばらく目で追った。
帰り道にも一度思い出した。誰だったんだろう、と。
それから、竹とんぼを抱えた小さな女の子も見た。
かわいい子だと思った。
あれも。
「……そっか」
かりんが呟いた。
「何がだ」
乃維助が訊く。
かりんは一人で笑った。
「あの時見たの、私だったんだ」
「どの時だ」
「十七の時」
「誰を見た」
「今の私」
乃維助は黙った。由ノ吉も黙った。お綿だけが「え?」と言った。
かりんは続けた。
「それで、あの小さい子も私」
乃維助が箸を置いた。
「待て、お前が三人いたってことか」
「そうみたい」
「増えるな」
由ノ吉が吹き出した。
かりんは乃維助を見る。
「のいすけちゃん」
「今度は何だ」
「子供の頃、泣いてる女の子に竹とんぼあげたことない?」
乃維助は少し考えた。
「お前はまた何を……ん?……ある…」
「覚えてる?」
「なんとなくな」
「竹とんぼ、直したばっかりだった?」
乃維助の目が細くなった。
「……何で知ってる」
かりんは笑った。
「それ、私」
乃維助は何も言わなかった。
「五つか六つの私」
まだ黙っている。
「十七の私もそこにいた」
乃維助が額を押さえた。
「で、今のお前もいた」
「うん」
「俺は?」
「十歳」
「俺は一人なんだな」
「たぶん」
「たぶんって、お前」
お綿が笑いながら徳利を持ってきた。乃維助は猪口を差し出した。
「訳が分からねえ。飲まなきゃやってられねえ」
「穴子、もう一つ揚げるかい」
「鱚も頼む」
由ノ吉が笑う。
「即答だね」
乃維助は猪口を空けた。
「分かる話から片づけてんだよ」
かりんは茶を一口飲んだ。
「でも分かった」
「何が」
「なんかあの頃、初めて会った気がしなかった理由」
乃維助が見る。
「初めてじゃなかったんだね」
「知るか」
「私、のいすけちゃんに三回くらい初めましてしてるのかも」
「もう数えるな」
外はすっかり暗くなっていた。
さっきまであれほど鳴いていた蜩の声は、いつの間にか止んでいた。
開け放たれた戸の向こうで、からからん、と何かが転がる乾いた音がした。
かりんは音の方に目をやり、懐かしそうな顔で微笑んだ。




