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伍 鈴蘭 スズラン

秋の雨が上がった夜、吉本屋には湿った木と香の匂いが残っていた。

軒先から落ちる雫が、昼の埃をひとつずつ払い落としてゆく。

雨は町の汚れを流す。だが、過去はどうか。消えたつもりのものほど、雨上がりに匂い立つこともあるのではないか。格子の向こうでは水を含んだ往来が行灯の灯を鈍く返し、客の下駄が通るたび、細い泥が跳ねた。


その夜、

鈴蘭についた客は、久蔵と名乗った。まだ若く、堅気の商家勤めらしい男だった。酒癖も悪くない。声も大きくない。最初の半刻ほどは、鈴蘭もどこにでもいる客だと思っていた。

銚子を置いた時、男が不意に顔を覗き込んだ。

「……お前」

鈴蘭が目を上げる。

久蔵は、鈴蘭になる前の名を呼んだ。

指先から猪口が落ちた。畳へ酒が小さく散る。

久蔵の顔に笑みが広がった。

「やっぱりそうだ。覚えてねえか。俺だよ。裏の水路んとこの久蔵だ」


覚えていた。


同じ村にいた。家は三軒ほど離れていた。久蔵の方が幾つか上で、子供の頃には何度か川へ連れて行ってもらった。夏に瓜を盗んで叱られたこともある。久蔵は先に江戸へ奉公へ出て、それきりだった。


「……久にいちゃん」

「そうだよ。いやあ、驚いたな。こんなところで会うとは思わなかった」

鈴蘭は落ちた猪口を拾った。

「その名前で呼ばないで」

久蔵が瞬きをした。

「何でだ。お前の名前だろ」

「今は鈴蘭だから」

「鈴蘭」

久蔵はその二文字を口の中で転がし、少し笑った。

「ずいぶん綺麗な名をもらったもんだ」

その言い方が、鈴蘭にはなぜか引っ掛かった。


久蔵は昔の話をした。

村外れの柿の木。

雨が続くと溢れた水路。

鈴蘭の母親が作った芋粥。

冬になると鈴蘭の手が赤くひび割れていたこと。

どれも本当だった。

忘れていたこともあった。

少し嬉しかった。

自分がここへ来る前にも確かに生きていて、それを覚えている人間がまだいた。そのことだけは、胸の奥へ温かく落ちた。


同時に、落ち着かなかった。


久蔵は帰り際にも、昔の名を呼んだ。

鈴蘭は返事をしなかった。久蔵が帰ったあともしばらく部屋に座っていると、あやめが戸口から顔を出して言った。

「終わった?」

「うん」

「どうした?妙な客だった?」

鈴蘭は首を振りかけて、やめた。

「昔の人だった」

「男?」

「そういう昔じゃなくて」

鈴蘭が少し笑う。

「村にいた人。私がここへ来る前を知ってる」

「へえ」

「昔の名前で呼ばれた」

あやめの目が止まった。

「ああ⋯嫌だった?」

鈴蘭はすぐには答えなかった。

「……ちょっと嬉しかった」

あやめは黙って待った。

「母さんのことまで覚えてた。私が忘れてたことも」

「うん」

「でも、嫌だった」

あやめは頷いた。

「じゃあ両方なんだろ」

「両方?」

「嬉しいのと嫌なの。別に喧嘩させなくていいじゃないか」

鈴蘭は少し考えた。

「そういうもの?」

「人の気持ちなんて、そんな綺麗に一列に並ばないよ」

あやめは勝手に鈴蘭の茶を飲んだ。

「冷めてる」

「私のだからね、それ」

「知ってるよ」


その晩、由ノ吉は鈴蘭があまり笑わないことに気づいた。

「具合悪いの?」

「ううん」

「腹減ってる?」

「違う」

「僕が何かした?」

鈴蘭の口元がようやく少し緩む。

「そういうとこ」

「どういうとこ?」

「何でも自分のせいだと思うとこ」

「違うならよかった」

由ノ吉はそれ以上訊かなかった。

鈴蘭は何度か口を開きかけたが、結局その夜は言わなかった。


三日後、久蔵はまた鈴蘭を指名した。今度は入ってくるなり昔の名を呼んだ。

「やめて」

鈴蘭はすぐ言った。

久蔵が少し眉を上げる。

「まだそんなこと言ってんのか」

「その名前で呼ばないで」

「何でだよ。元々そうじゃないか」

「今は違うから」

久蔵は猪口へ酒を注いだ。

「お前、昔はそんな言い方しなかったろ」

鈴蘭の指が止まる。

「もっと素直で大人しかった。人の目を見て、こんなにはっきり物を言う奴じゃなかった」

「随分昔の話でしょ」

「だから覚えててやってるんだよ」

「頼んでない」

久蔵の顔から笑みが薄れた。

「見世にそう仕込まれたのか」

鈴蘭は黙った。久蔵は少し身を乗り出した。

「俺が江戸へ出たあと、お前んとこ大変だったんだろ。親父さんが死んで、借金が出来て、それでここへ来た。あとから聞いた話だが」

鈴蘭が顔を上げた。久蔵は目を逸らした。

「もしその時知ってたら、何か出来たかもしれねえ」

その一言だけは、さっきまでと声が違った。

鈴蘭は少しだけ久蔵を見た。

「久にいちゃんのせいじゃないし、知ってたからって⋯」

「だからこそだよ」

久蔵はすぐに続けた。

「せめて俺くらいは、昔のお前を覚えててやらねえと。こんなところで花の名前つけられて、客に笑って、それで昔のお前までなくなったみたいになるのは――」

「なくなってないよ」

久蔵の声が止まる。

「私、忘れてない」

「だったら」

「忘れてないけど、今は鈴蘭なの」

久蔵は首を振った。

「それは見世が付けた名だろ」

鈴蘭の顔から笑みが消えた。

「だから何?」

久蔵は答えられなかった。

鈴蘭は立ち上がった。

「今日は帰って」

「お前のために言ってるんだぞ」

「帰って」

鈴蘭の声は震えていた。

久蔵はそれを見て、何か言いかけた。だが結局、立ち上がった。


その夜、鈴蘭は由ノ吉のところへ行った。

最初から最後まで話した。由ノ吉は途中で一度も口を挟まなかった。

「次からは通さない」

話を聞き終えると、それだけ言った。

「いいの?」

「何が」

「お客なのに」

「客なら何してもいいわけじゃない」

鈴蘭は少し黙った。

「若旦那、私の昔の名前、覚えてるよね」

「ああ」

「鈴蘭って最初に言ったの、若旦那だったよね」

「ああ。最後に決めたのは親父たちだけど、最初に出したのは僕」

「何で鈴蘭だったの?」

由ノ吉はしばらく考えた。

「……何でだったかな」

鈴蘭が睨んだ。

「ひどい」

「いや、ちゃんと理由はあったんだよ」

「忘れてるじゃん」

「今考え直していい?」

「駄目」

ようやく鈴蘭が笑った。少し間を置いて、鈴蘭が訊いた。

「昔の名前で呼ぼうと思ったこと、ある?」

「ない」

「どうして?」

由ノ吉は少し不思議そうな顔をした。

「今、鈴蘭だから」

それだけだった。


久蔵は次の晩にも来た。

入口で由ノ吉が止めた。

「鈴蘭を頼む」

「申し訳ありません。出せません」

「今日だけでいい」

「今日も、これからも」

久蔵の目が変わる。

「本人が言ったのか」

「ええ」

「お前、あいつの昔を知ってるのか」

「ええ」

久蔵が一瞬黙った。

「だったら分かるだろ。鈴蘭なんて、あいつの本当の名じゃねえ」

由ノ吉が目を細めた。ほとんど閉じた目の奥が暗い光を帯びた。

「⋯本当かどうかは、あなたが決めることじゃありません」

「俺はあいつがああなる前から知ってるんだ」

「それで?」

久蔵の顔に苛立ちが浮かんだ。

「お前らより俺の方が、昔のあいつを知ってる」

「昔の鈴蘭の事は、そうかもしれません」

由ノ吉は静かに言った。

「今の鈴蘭は?」

久蔵が言葉を失う。「何が好きで、何が嫌で、どういう時に笑って、何を言われると黙るか。今の鈴蘭のことはどれくらい知ってるんです?」

「そんなのは――」

久蔵は由ノ吉を睨んだ。

「見世が変えちまったんだ」

「人は、生きていれば、変わります」

久蔵が何か言おうとする。

「お引き取りください」

しばらく由ノ吉を睨んでいたが、久蔵はしぶしぶ踵を返した。

「あいつの昔の名を俺がどこでどう呼ぼうが勝手だろ」

吐き捨てるように言って歩き出す。

少し離れたところにいた乃維助が、その背中を見ていた。

由ノ吉が横目で見る。

「のいさん」

「何だ」

「斬るなよ」

「斬らねえよ」

「今、ちょっと考えたでしょ」

「ふん」


久蔵が大門を出て、しばらく歩いたところで後ろから声がした。

「おい」

振り返ると、乃維助がいた。

「何だ、お前」

乃維助が半歩出た。

「鈴蘭の昔の名を知ってるのは勝手だ。昔の鈴蘭を知ってるって言うのも勝手だ」

「だったら――」

「だが、本人が嫌だっつってんのに口に出すな」

久蔵が鼻で笑った。

乃維助の右手が動いた。刃が一度だけ光った。久蔵は動けなかった。

乃維助の刀は、既に鞘へ戻っていた。

遅れて、久蔵の喉に細い朱の線が走った。薄く血が滲む。

久蔵が手を当てる。喉がゴクリと大きな音を立てた。

「知ってることと、言っていいことは別だ」

乃維助は背を向けた。

数歩行ってから、振り返らずに言った。

「次は声を掛けねえぞ」


翌日の昼、鈴蘭はあやめの部屋へ行った。

「ねえ、昔の名前、好き?」

あやめは髪を梳いていた手を止めた。

「また急だね」

あやめは少し考える。

「私はどっちでもいいよ」

「どっちでも?」

「あの名前で生きてたのも私。あやめで生きてるのも私。どっちかが偽物ってわけじゃない」

鈴蘭は畳へ座った。

「私、久にいちゃんに会った時、ちょっと嬉しかった」

「うん」

「昔の私を覚えてる人がいたから」

「それも本当なんだろ」

「でも、昔の私だけが本当みたいに言われるのは嫌だった」

あやめが頷いた。

「人は止まってないからね」

鈴蘭は少し考え、それから笑った。

「私、鈴蘭の方が好き」

「そう」

「だって、鈴蘭って呼ばれるようになってから、知った人がいるから」

あやめは廊下の方を見た。

「なるほどね」

「何」

「別に」

「その顔、嫌い」

「どんな顔さ」

「分かってる顔」

あやめが笑った。つられて鈴蘭も笑った。

廊下の向こうから、由ノ吉の声がした。

「鈴蘭」

鈴蘭は声の方に目をやり、立ち上がると、うれしそうに「はい」と言った。

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