肆 読めない札 ヨメナイフダ
「これ。」
由ノ吉が袂から三枚の白木の札を出した。
乃維助の前へ、一枚、二枚、三枚と並べる。どれも掌より少し小さい。
白い木肌に、墨でくねった妙な一字が書かれていた。
その横へ、折り畳んだ紙も置く。
乃維助は焼き葱を噛みながら、一枚をつまんだ。
「なんだこれ、塔婆の切れ端か?」
「速いね。梵字だよね、たぶん」
「読めるのか」
「読めたら、のいさんのところへ持ってこないよ」
「俺だって読めるかよ。なんなんだ」
「うちの近所の仮の屋って店で出た。今朝、お陽が持ってきた」
「お陽?誰だ、それ」
由ノ吉は折り畳んだ紙を開いた。端正な字で、三つの出来事が順番に記されている。
一つ目。二階座敷、額落下。怪我はなし。札は額の裏。
二つ目。別座敷、棚落下。皿、徳利破損。札は破片の中。
三つ目。二階廊下、吊行灯落下。小火。札は行灯の傍。
「仮の屋の女中。台所もやるし、膳も運ぶし、使いにも出る。字が達者だから、店の控えや書付なんかも任されてる」
乃維助は紙へ目を落とした。
「ずいぶん几帳面な女だな」
「うるさいくらいね。僕が仮の屋へ文を出すと、たまに戻ってくるよ」
「返事が?」
「そのまま僕の文が」
湯豆腐の小鍋を運んできたお綿が吹き出した。
「何て言われるんだい」
「『用件を先に書け』」
乃維助が頷いた。
「正しいな」
「なんで二人ともお陽につくんだよ」
白い湯気が立った。戸の隙間から入り込んだ冷気に押され、細く横へ流れる。豆腐の脇では炙った葱が出汁を吸い、焦げた薄皮の内側から甘い芯がほろりと覗いた。
乃維助は書付を畳む。
「お陽ってのは、仮の屋の若旦那の使いか」
「それもやる。昔から仮の屋と吉本屋を行ったり来たりしてるから、僕とは顔馴染み。用事のあと茶店で団子食べながら話すくらいにはね」
「暇だな」
「向こうがね」
「若旦那、あんたもだろ」
お綿が言う。
由ノ吉は聞こえないふりをした。
「で、今朝は?」
乃維助が訊くと、由ノ吉の指が少し止まった。
「団子も食わずに帰った」
乃維助は札へ目を戻した。
「そりゃ大事だな」
「だろ?」
由ノ吉も少し笑ったが、すぐ真顔になる。
「仮の屋の若旦那は今、上方にいる。僕の幼馴染でね。呉服や帯地、小間物なんかを見る目がいいから、うちの分も頼んである」
「他所の若旦那にお使いさせてんのか」
「お使いって言うなよ。鈴蘭の簪とか、あやめの帯地とか――」
「お前、若旦那やめろよ」
「なんでだよ」
乃維助は札へ戻った。
「これを、お陽とやらが取っといたんだな」
「うん。三枚とも捨てるなって」
「字に詳しいなら読めねえのか」
「そこが気になったんだってさ。『梵字らしいのは分かる。でも読めない』って」
由ノ吉は一枚目を指した。
「最初は四日前。二階の座敷で、長押に掛けてあった古い額が落ちた。誰も怪我はしなかった。額を起こしたら、裏からこれが出てきた」
二枚目。
「三日後。別の座敷で棚が落ちた。皿と徳利が割れて、その破片の中からこれ」
三枚目。
「昨夜。二階廊下の吊行灯が落ちた」
乃維助の箸が止まった。
「行灯?火は」
「入ってた」
「危ねえなあ、馬鹿野郎が」
「僕に言われても」
由ノ吉の顔から笑みが消える。
「油が畳に散った。端へ火が移りかけたけど、近くにいた奉公人がすぐ消した。もう少し遅かったら、仮の屋一軒じゃ済まなかったかもしれない」
「札は」
「落ちた行灯の傍から出た。三回とも同じ。何かが落ちて、壊れて、それから札が現れる」
乃維助は三枚を並べ直した。
足元で丸くなっていた三太郎が起き上がり、一枚目、二枚目、三枚目と順に鼻を寄せる。最後の一枚を少し長く嗅ぎ、小さく鼻を鳴らすと、お綿の足元へ戻った。
由ノ吉が犬を見る。
「三太郎、何か分かる?」
「犬に聞くな」
「別にいいだろ」
お綿も札を覗き込んだ。
「でも、こんなのが出てきたら嫌だねえ」
「最初はそうでもなかったらしいよ」
由ノ吉が猪口を指先で回す。
「一枚目の時は、誰かの悪戯だろうって笑ってた。ただ、札を見た誰かが言ったんだって。『これ、塔婆の切れ端じゃないのか』って」
お綿の顔から、ほんの少し笑みが消えた。
「それは気味が悪いね。あ、速いってそういう事か」
乃維助は鼻を鳴らすと札を裏返した。
「それで?」
「最初は『なんで塔婆が座敷にあるんだ』くらいだった。それが二枚目が出ると、墓から持ってきたんじゃないかとか、何か供養しなきゃならないものじゃないかとか。三枚目が出た頃には、仮屋には何かいるって話になってた」
乃維助がもう一度鼻を鳴らした。
「よく育ったもんだ」
「噂ってそういうものだろ」
由ノ吉は三枚を見た。
「塔婆に似た字があることくらいは知ってる。でも読めない。だから、自分の知ってる怖いものを好き放題に入れられるんだよ」
乃維助が湯豆腐を掬いながら
「要するに、分からねえから怖えんだろ」
由ノ吉が眉を寄せた。
「僕が今言った話の半分くらい消えたよね?」
「半分で済んでよかったじゃねえか」
お綿が笑った。それから札をもう一度見て、
「そういう字なら、藻奈庵の尼さんに見てもらえばいいんじゃないかい」
乃維助が顔を上げる。
「誰だ、それ」
「寛藻奈尼。浅草の先で、女や子供に字を教えてる人だよ。変わった尼さんだけど、字には詳しい」(注 寛藻奈尼 かんもなに)
由ノ吉が「ああ」と声を上げた。
「お陽も同じこと言ってた」
「何て?」
「『私じゃ読めないけど、藻奈庵なら分かるかもしれない』って。僕が先にのいさんへ見せるって言ったら――」由ノ吉が笑う。
「『どうせ字じゃなくて板の方から見るんだろ』って」
乃維助は札を裏返した。
「分かってるじゃねえか」
「会ったこともないのにね」
「お前が余計なこと喋ってんだろ」
「それはまあ」
乃維助は三枚を重ねた。
「字はあとだ。先に壊れた方を見る」
「やっぱりお陽の言った通りじゃん」
乃維助は三枚目を指で弾く。
「それにしても、ずいぶん親切な祟りだな」
由ノ吉の目が少し細くなった。
「僕もそこが引っ掛かってる。毎回『ここでした』って教えてる」
乃維助は札を懐へ入れた。
「祟りじゃねえ。印だ。じゃなきゃただの悪戯だ」
翌朝、仮の屋は夜の顔を脱ぎきれないまま眠っていた。間口より奥行きのある二階家だった。一階の表には客を通す間があり、その奥に帳場、さらに裏へ行けば台所や勝手場が続いている。急な階段を上がると、細い廊下が一本、家の奥へ伸び、その左右に座敷や小部屋が並んでいた。夜になれば客も店の者も、その廊下を何度となく行き来する。酒、炭、香、菜種油。昨夜まで人の熱を吸っていた匂いが、朝には冷たい木へ染み込んで残っていた。
二人を迎えたのは番頭の善兵衛だった。五十を少し過ぎたほど。襟も帯もきちんとしているのに、目だけが妙に落ち着かない。
その後ろから、盆を抱えた女が顔を出した。
「来たね、吉本の若旦那」
由ノ吉が振り返る。
「お陽。昨日はずいぶん急いで帰ったじゃない」
「団子食ってる場合じゃないだろ」
二十代の終わり頃。髪を手早くまとめ、袖を軽くたすきに掛けている。派手さはないが、目が明るい。人を見る時も物を見る時も、ただ眺めるのではなく、頭の中で順番を付けているような目だった。
お陽は乃維助を一度眺めた。
「この人が、のいさん?」
「そう」
「思ったより普通だね」
乃維助が由ノ吉を見る。
「お前なあ俺のことを何て話してやがる」
「別に」
「『変な浪人がいる』とは聞いた」
「みろ」
「変なのは否定しないんだ」
お陽が笑った。乃維助は少しだけ口元を曲げる。
「お前ら、馬が合うのは分かった」
「だろ?」
「褒めてねえ」
お陽は盆を脇へ置いた。
「昨日の書付、分かりにくくなかった?」
乃維助が懐から紙を出す。
「いや」
「ならいい。吉本の若旦那に話させると順番飛ばすからね」
「お陽、僕の前でそれ言う?」
乃維助は紙を畳んだ。
「気に入ったよ、お陽」
由ノ吉が露骨に嫌な顔をした。
乃維助達は順に現場を見てまわった。
一件目の座敷では、額を掛けていた金具に細工があった。
「外れやすくしてある。少し揺れりゃ落ちる」
二件目の棚では、留めていた木栓が不自然に削られていた。
「自然はこんな律儀に四方削らねえ」
三件目の吊行灯では、紐に浅い刃の跡が残っていた。
乃維助は切れた紐を窓の光へかざした。
「こりゃすぐ切れると思ったんだろ。ところが昼は持っちまった。夜になって油が入って重くなった。それで切れた」
由ノ吉の表情が変わる。
「じゃあ、火が入った状態で落とすつもりじゃなかった」
「たぶんな」
お陽の顔から笑みが消えた。
「じゃあ昨夜の火は……」
「ある意味しくじったんだろう」
由ノ吉は行灯のあった場所を見上げた。
「最初から誰かを傷つけたいなら、額と棚が妙にぬるい。怖がらせるだけのつもりだったのか」
乃維助は返事をせず、廊下を奥へ歩いた。途中で一度、足を止める。
「ん?ここ、嫌な音するな」
「床ですか?」
善兵衛が訊いた。
乃維助が踵で軽く踏む。板の奥で、鈍い軋みが返った。
「誰かに見てもらったことは?」
善兵衛の顔が曇る。
「一度、大工には」
「いつ」
「ひと月ほど前でございます」
「何て言った」
「傷んでいるところがあるので、一度全部開けて見た方がよいと」
「で?」
善兵衛は視線を落とした。
「若旦那がお戻りになってからと……」
お陽が口を開きかけたところへ、階下から声が飛んだ。
「お陽! お陽!ちょいと手ぇ貸しておくれ!」
「ああ、もう」
お陽が階段を見る。
「戻ったらちゃんと教えてよ」
「順番通りに?」由ノ吉が笑う。
「当たり前じゃないっ」
そう言い残して、お陽は階下へ降りていった。
乃維助は善兵衛を見る。
「なんで直さねえんだ」
「私の一存で店を閉め、大掛かりな修繕などして、もし大したことがなかったとなりますと若旦那が」
善兵衛は困ったように手を揉んだ。
「いや、しかし若旦那がお戻りになれば、きちんとご相談を――」
由ノ吉が眉を下げる。
「善兵衛さん。あいつはそんなことでガタガタ言う男じゃないよ」
「しかしながら――」善兵衛が一歩後ろへ下がった。
床が、みし、と鳴った。
次の瞬間、板が割れた。
「わわっ!」善兵衛の右脚が膝近くまで床へ消えた。
乃維助が襟首を掴み、横へ引く。善兵衛は尻餅をつき、青い顔で自分の脚を確かめた。
「折れてねえな」
「は、はい……」
乃維助は割れた床を見た。
「大したことあったな」
由ノ吉が口元を押さえた。
「のいさん、それ今言う?」
「今言わなくていつ言うんだ」
善兵衛は何も言い返せなかった。由ノ吉がしゃがみ込む。
「ほら。あいつが怒るとしたら、店を閉めたことじゃなくて、これを放っといたことを怒るよ」
善兵衛は割れた板を見たまま、長く息を吐いた。
「店を……休みますか」
「最初からそうしろ」
「だから今それ言わなくても」
乃維助はもう床へ手を掛けていた。
「おい。玄能と釘。それから端材持ってこい。大工が来るまでの分だけ塞ぐ」
割れた板を外すと、乾いた埃と腐った木の匂いが立った。根太の一部が黒く変色し、指で押すと僅かに沈む。
「こりゃ一箇所じゃねえな」
由ノ吉が横から覗き込む。その目が止まった。
「のいさん。そこ」
根太の陰に、細長い木札が納められていた。
乃維助が腕を伸ばす。
新しい三枚よりずっと古い。木は飴色へ変わり、角には年月が丸く積もっている。表には、やはり梵字らしい一字。
新しい札によく似ている。だが、同じではなかった。
乃維助にも分かった。
三枚の方は形を追いかけている。
古い一枚は、線が行き先を知っていた。
「こいつが元か」
由ノ吉が三枚の写しを思い浮かべるように見た。
「たぶんそうだね」
善兵衛が道具を持って戻った。乃維助は端材を何枚か手に取り、木目を確かめる。一枚を当て、首を振る。別の一本を選び、小刀で端を削った。
「ゆん坊そこ押さえてろ」
「僕?」
「他に誰がいるんだ」
「怪我人の番頭さんがいるけど」
「そんなもん役に立つか」
「ひどいなあ」
乃維助は腐った部分へ直接力が掛からない位置を選び、下から当て木を噛ませた。古い材の端を避け、釘を打つ。
乾いた玄能の音が、朝の仮屋に響いた。一本。位置を変えてもう一本。三本目。床板を戻し、自分の体重をゆっくり掛ける。
「これで二、三日は持つ。大工が来たら全部開けろ」
善兵衛が乃維助の手元を見る。
「旦那、以前は大工仕事でも?」
「そんなわけあるか」
由ノ吉が腰を伸ばした。
「この人、何でもちょっとだけ出来るんだよ」
「いちいちうるせえんだよ」
乃維助は古札を懐へ入れた。
「さっき床を見た大工ってのは?」
「弥吉という若い者でございます」
「床下、ここにも入ったか」
「はい」
乃維助と由ノ吉の目が合う。古い札を見られた者。床の危険を知っていた者。乃維助はそれ以上なにも訊かなかった。
仮の屋を出る頃には、陽がだいぶ西へ傾いていた。
冬の陽は、高く上がることを忘れたように、朝からずっと空の低いところを歩いている。路地の半分はもう影だった。乾いた風が、軒下に溜まった枯葉を二、三枚だけ追い立てていく。
吉原のざわめきを背に歩くにつれ、人の声が一枚ずつ薄くなった。
表通りから少し入ったところに、低い竹垣が見えた。
藻奈庵は、寺と呼ぶには小さすぎた。
門と呼ぶほどでもない木戸。その向こうに、軒の低い古びた庵が一つある。庭も広くはない。だが掃き清められた土と冬枯れの草木の間に、人の手が行き届いていた。竹垣をくぐったところで、吉原から持ってきた声がもう一枚脱げた。遠くの往来はまだ聞こえている。
それなのに、ここへ入ると音の角だけが丸くなる。
縁側の前には小さな手水鉢。その脇では南天が赤い実を残していた。庭の隅には苔のついた石が二つ三つ。飾るために置いたというより、昔からそこにあったものを邪魔せず残しているようだった。
紙と墨、畳、わずかな香。それに湿った土の匂い。
開けた障子の向こうでは三人の娘が低い机へ向かい、筆を動かしていた。
「そこ、もう一度ですよ」
「また?」
「またです」
娘の不満そうな声に、別の娘が小さく笑う。
その時、庭のどこかで、ぴん、と澄んだ音がした。
乃維助が振り向く。
「今の何だ」
由ノ吉も辺りを見る。
「さあ」
中にいた尼僧が顔を上げた。
短く整えた髪。質素な衣。五十前後にも見えるのに、目元だけは妙に若い。尼僧は二人を見ると、穏やかに言った。
「来ましたね」
乃維助が足を止めた。
「来ましたねとは、どういう意味だ」
尼僧は答えず、まず由ノ吉へ目を向けた。
「吉本屋の若旦那ですね」
由ノ吉が少し笑う。
「僕をご存じで?」
「お噂は、よく」
「いい噂なら嬉しいんですけど」
「どうでしょうね」
それから尼僧の目が乃維助へ移る。
「ああ。では、あなたが斎藤乃維助さんですか」
乃維助の眉が動いた。
「なんで俺の名まで知ってる」
「若旦那のお噂には、ときどきあなたも出てまいりますので」
由ノ吉が乃維助を見る。
「のいさん、有名人だ」
「お前のせいだろ」
尼僧が小さく笑った。
「仲がおよろしいんですね」
「よくねえ」
「そうなんですね」
乃維助は一度黙り、それから最初の言葉へ戻った。
「で、『来ましたね』ってのは何だ」
尼僧は少し首を傾ける。
「来られたので、そう申し上げただけですよ」
「いやな言い方だ、気に入らねえ」
「まだお会いしたばかりですが」
「もう嫌いだ」
由ノ吉が肩を震わせながら言った。
「寛藻奈尼さん、ですよね」
「はい」
乃維助は三枚の札を出した。
「じゃあ尼さん、これ見てくれ」
「ご挨拶より先ですか」
「もうしただろ」
「嫌われたことだけは伺いました」
「話が早くていい」
寛藻奈尼は静かに微笑みながら三枚を順に見た。
由ノ吉が訊く。
「梵字でしょうか?」
「梵字を写したものですね」
乃維助が眉を寄せる。
「写した?」
「形は近いですよ。でも、文字を知っている方の手ではありません」
一枚を傾ける。
「乃維助さんなら、刀を持ったことのない人が剣士の構えだけ真似ていたら分かるでしょう?」
「まあな」
「それと同じです。形は似ている。でも、なぜそう書くのかを知らない」
由ノ吉が言った。
「仮の屋じゃ、最初に『塔婆の切れ端じゃないか』って話になったんです」
寛藻奈尼は頷いた。
「そう思う方がいても不思議ではありません。塔婆で目にする文字でもありますから」
「じゃあやっぱり塔婆の欠片なのか」乃維助が訊く。
「いいえ。少なくとも、この三枚は違います」
「じゃあ、こっちは」古札を置く。
寛藻奈尼はそれを手に取った。今度は少し長く黙る。
「こちらは別ですね」
「本物?」
「ええ。不動明王を表す種字です」
乃維助が古札を見る。
「何のためにこんなもんを床下へ入れた」
「そこまでは分かりません。ただ、災いを遠ざけたい、ここを守りたい。そう願って納めたものかもしれませんね」
由ノ吉が三枚と古札を見比べる。
「塔婆の切れ端だと思われて怖がられたのに、元は守るための札だったかもしれない⋯」
寛藻奈尼が少し笑った。
「人は読めないものに、自分の知っている意味を入れますから」
乃維助が古札を懐へ戻そうとすると、
「乃維助さん」
「なんだ」
「それは元へ戻してください」
「大事な証拠になる」
「では、写しを取りましょう」
寛藻奈尼は紙を一枚引き寄せた。墨を含ませた筆が迷わず紙を滑る。梵字だけではない。札の寸法、角の欠け、裏の染みまで細かく書き添えていく。
乃維助が覗く。的確で速くおそろしく上手い。
「そこまで要るか」
「あとで『ここが違った』と言われてもね。わたしは書にせよ口にせよ一度出したものは覆さないんです」
由ノ吉が笑った。
「やっぱりお陽と話が合いそう」
「誰です?」
「仮の屋の女中です。人の文を直すのが趣味みたいな」
「趣味ではないと思いますよ」
「本人にも言われそうだなあ」
寛藻奈尼は写しを乃維助へ渡した。
「効くとか、効かないとかではないんです。誰かがあの場所を守ろうと思って、そこへ納めたのでしょう。その方がもういないからといって、願いまで剥がして持ち歩くことはありませんよ」
乃維助は古札を見る。
「守る札を真似して、人を怖がらせた奴がいるわけか」
「そうかもしれません」
「ろくな流れじゃねえな」
寛藻奈尼の目が、ほんの少し細くなった。
「それでも、流れは完璧なんですよ」
乃維助が顔を上げる。
「何がだ」
「今は、そう思っておいてください」
「思えるか」
「では、心に留めておくだけでも」
「やっぱりその言い方が気に入らねえ」
「先ほどから存じています」
「お世話になりました、寛藻奈尼」
由ノ吉が礼を言い外へ出ると、また庭のどこかで、ぴん、と鳴った。
由ノ吉が振り返る。
「今の、さっきの音。何の音です?」
「水琴ですよ」
「水?」
「水です」
乃維助が門へ向かった。
「水なら水らしく流れりゃいい」
背後で寛藻奈尼が笑った。
仮の屋へ戻ると、乃維助は古札を元の床下へ納めた。お陽が横から覗く。
「戻すんだ」
「尼がうるせえからな」
「効くの?」
「知らん」
「じゃあ何で」
乃維助は板を戻した。
「誰かが置いたんだろ。だったら勝手に持ってく理由もねえ」
お陽は少し黙った。
「そういうところは、思ったより普通なのね」
「お前、俺を何だと思ってる」
「由ノ吉から聞いてる人」
「もう聞くのやめろ」
由ノ吉が笑った。お陽は台所へ呼ばれ、奥へ消えていった。
乃維助は善兵衛へ訊く。
「弥吉って大工、どこにいる」
「住まいまでは⋯時折、職人仲間と海道で飲むと聞いてますが」
乃維助は少し考え
「雪んとこか。」
由ノ吉が乃維助を見る。
「先にそっちかね?」
「ああ」
日が落ちると、冷え方が一段変わった。
昼間は乾いていた風が、夕方には刃の薄いところだけ残したように頬へ当たる。家々の軒へ灯が入り始め、町の色が少しずつ茶と朱へ寄っていった。
軒先に「海道」と書かれた小さな提灯が一つ灯っている。
座る前から、お雪が徳利を出した。ただし最初に見たのは二人ではない。
「三太郎、来たの」
三太郎は軒下に伏せていた大きな雌犬のところへ行った。雌犬は片目を開け、少し身体をずらす。三太郎は空いた場所へ当然のように座った。
乃維助が言う。
「俺もいるぞ」
「見りゃ分かるよ」
「待遇違わねえか」
「三太郎の方が愛想あるもの」
由ノ吉が笑った。
お雪は酒を燗につけながら訊く。
「今日は何」
「弥吉って大工、最近来たか」
「来たよ」
「何話してた」
お雪の手が止まった。
「なんで?」
「仮の屋の床が腐ってる。昨夜は行灯まで落ちて火事になるところだった」
「のいさん、それじゃ伝わらないよ」
苦笑した由ノ吉が、事の顛末をお雪に説明した。
お雪の目が少し変わる。燗のついた徳利を置いた。
「普段は静かに飲む男なんだけどね。この前は珍しく荒れてた。二本目くらいから声が大きくなってさ」
「何て」
「『誰も俺の忠告なんか聞きやしねえ』って。『落ちてからじゃ遅えんだ』とも言ってた」
由ノ吉が訊く。
「何の話かまでは?」
「知らないよ。そこまで聞かなかった」
お雪は由ノ吉を見る。
「ここで酒飲んで零したことを、あたしが一から十まで覚えて外で喋るようになったら、誰も座らなくなるだろ」
「うん。ありがとう。それで十分」
乃維助も猪口を空けた。銭を置いて立つ。お雪がそれを見る。
「ずいぶん多いよ」
「釣りはいらねえ」乃維助は草履を履きながら言った。
「酒代だ。話はただで聞いた」
一拍置いて、お雪が言う。
「そうかい、ならそういうことにしておくよ」
弥吉は翌朝、仕事場にいた。二十代半ば。細身だが、腕と肩には木を扱う男の筋がついている。
乃維助は三枚の札を仕事台へ置いた。
「お前が作ったな」
弥吉の顔色が変わる。
「……何のことです」
三太郎が札へ鼻を寄せる。一枚、二枚、三枚。それから弥吉の足元へ行き、袂の辺りへ鼻を上げる。再び札へ戻った。
由ノ吉が小さく言う。
「同じ匂いする?」
乃維助は三太郎を見る。
「犬の鼻は証拠にしねえ」
仕事台の脇には端材が積まれていた。
乃維助が一枚抜き、札へ重ねる。厚みが近い。
次に小刀を取る。刃に、ごく小さな欠け。
札の縁へ指を滑らせると、同じ幅の細い筋が残っていた。
寛藻奈尼の写しを仕事台へ広げる。
「仮の屋の床下にあった札だ」
弥吉の目が一瞬だけ紙へ落ちた。
「見覚えあるな」
返事はない。由ノ吉がその顔を見る。
「昨夜、行灯が落ちたって聞いて怖かっただろ」
弥吉が顔を上げる。
「捕まるのが怖い人って、もっと僕らの顔を見るんだよ。どこまで知られてるか、誰が喋ったか。でもあんた、仮の屋の話が出るたび、そっちばかり気にしてる」
弥吉の拳が固くなる。
「火が入ったまま落とすつもりじゃなかったんだね」
長い沈黙のあと、弥吉が俯いた。
「……昼に落ちるはずだったんです」
声が掠れていた。
「火を入れる前に落ちれば、音がして、また札が出て……それだけでよかった。でも落ちなかった。夜になって、火を入れたあとに落ちたって聞いて……」
乃維助が訊く。
「最初の二つもお前だな。額も、棚も、何のためだ」
弥吉は黙った。長い沈黙だった。やがて、低い声で言う。
「……姉がいるんです」
由ノ吉の目が少し動いた。
「仮の屋に?」
「はい」
「誰」
弥吉が顔を上げた。
「お陽といいます」
由ノ吉の笑みが消えた。
「……お陽?」
乃維助も弥吉を見る。由ノ吉がゆっくり息を吐いた。
「弟がいるのは聞いたことあった。でも、あんただったのか」
弥吉は頷く。
「姉は毎晩あの廊下を歩くんです。膳持って、湯持って、使いにも出る。客も女たちも、みんな通る。俺が床を見た時、下が腐ってた。あそこだけじゃない。全部開けて見た方がいいって言った。でも番頭は、若旦那が帰ってからって、そればっかりで」
拳がゆっくり固くなる。
「姉は何でもきちんとやるんです。人の文まで直すくらいで。でも、自分のことになると平気な顔するから」
由ノ吉が少しだけ目を伏せた。
「……ああ。それは分かる」
弥吉が由ノ吉を見る。
「若旦那も?」
「長い付き合いだからね。人には『ちゃんとしろ』ってうるさいくせに、自分の無理は数に入れない」
弥吉の口元が僅かに動き、すぐ消えた。
「落ちるかもしれないって分かってるところを、毎晩歩くんです。誰も止めない。だったら客が来なくなればいいと思った」
乃維助が古札の写しを指した。
「これを見て真似した」
「はい」
「意味は」
「知りません」
「塔婆の切れ端に見えると思ったか」
弥吉が頷いた。
「似たような字は見たことがあった。仮の屋の座敷からあんなものが出れば、気味悪がると思ったんです。客が減れば、店を休むかもしれないって」
由ノ吉が静かに訊いた。
「一度じゃ足りなかった」
「……はい」
「だから額の次は棚。棚の次は行灯」
弥吉は答えなかった。由ノ吉は責めるでもなく続けた。
「あんたは毎回、『ここまでなら誰も傷つかない』って線を引いたんだろうね。でも、怖がらせるって、相手が怖がるところまで大きくしていくしかなくなるんだよ」
「……分かってます」
乃維助が言う。
「分かってねえから三枚作ったんだろ」
弥吉は何も言わなかった。乃維助は三枚の札を集める。
「もうやらねえな」
「……はい」
「だったら床直せ」
弥吉が顔を上げる。
「え?」
「最初に危ねえって気づいたのお前だろ。最後まで面倒を見ろ」
「それがいいね。あそこ番頭さんが踏み抜いたんだよ」
由ノ吉が小さく笑う。二人は、それ以上何も言わなかった。
翌朝から、仮の屋には大工が入った。床を開けてみると、弥吉の忠告は正しかった。傷みは一箇所ではない。乃維助が当て木をした場所も外された。そこだけは、最後まできっちり持っていた。大工たちの中には弥吉もいた。
少し離れたところで、お陽が湯を配っている。姉弟は、いつもと変わらないように見えた。
弥吉が乃維助へ小さく頭を下げる。乃維助は何も言わず、顎を少し上げただけだった。
お陽が二人のところへ来る。
「結局、何だったの?」
乃維助は由ノ吉を見る。由ノ吉も乃維助を見る。
「床が腐ってた」
乃維助が言った。お陽の眉が上がる。
「それは見れば分かるよ」
「それだけだ」
「札は?」
「人の仕業だった」
「誰」
乃維助は答えなかった。由ノ吉も、少し笑っただけだった。
お陽は二人を順番に見た。字を見る時と同じ目だった。しばらくして、
「まあいいか」
と言った。それ以上は訊かなかった。
その日の夕方、乃維助は一人で藻奈庵へ向かった。
三太郎だけがついてきた。
冬の日は落ちるのが早い。竹垣の向こうでは庭の半分がもう青い影に沈んでいる。南天の赤だけが、暮れ残った光を拾っていた。
紙を走る筆の音。
墨の匂い。
湿った土。
土の下へ落ちる水の音。
もう乃維助は、それが何の音か知っている。
寛藻奈尼は少女の紙を見ていた。
「そこ、もう一度ですよ」
「また?」
「またです」
「尼さま、ほんとに厳しい」
「わかっています」
少女が帰るまで、乃維助は縁側の端で待った。
やがて寛藻奈尼がこちらを見る。
「札は戻してくださいましたか」
「ああ」
「ありがとうございます」
「あんたに礼を言われる筋じゃねえ」
茶が置かれる。乃維助が湯呑みに手を伸ばした。
「乃維助さん、あなた、直しましたね?」
乃維助の手が止まった。乃維助はゆっくり顔を上げる。
「……なんで知ってる」
寛藻奈尼は穏やかに笑っている。
「あんなものは直したうちに入らねえ」
「ええ。それでもあれで流れが変わりましたから」
庭のどこかで、水が一滴落ちた。
「それで床まで分かるのか」
「床だったんですね」
乃維助の顔が露骨に嫌そうになる。
「お前、分かってて言ってるだろ」
「どうでしょうね」
「その言い方が嫌だ」
「存じています」
乃維助は茶を一口飲んだ。
「この前、流れは完璧だって言ったな」
「ええ」
「守るために置いた札を、意味も知らねえ奴が真似して人を怖がらせた。番頭は決めるのが怖くて床を放っといた。挙げ句、自分で踏み抜いた」
寛藻奈尼は穏やかに微笑み黙って聞いている。
「お陽が札を取っといた。由ノ吉が俺のところへ持ってきた。お綿がここを教えた。俺が床を塞いだ。弥吉が馬鹿やって、それで結局、店を閉めて全部直すことになった」
乃維助が湯呑みを置く。
「どこが完璧なんだ」
寛藻奈尼は少し首を傾けた。
「皆さん、何かをなさいましたね」
「それが何だ」
「それで流れが変わったのでしょう」
「だったら完璧じゃねえだろ」
寛藻奈尼の目元が柔らかくなる。
「変わるところまで含めて、流れなんですよ」
乃維助はしばらく黙った。
「……やっぱり、その言い方が嫌だ」
「覚えていてくださったんですね」
「そこじゃねえ」
「そうなんですね」
ぴん、と水琴が鳴った。
澄んだ音が、暮れかけた庭へ一つだけ残る。
乃維助は立ち上がった。
「もう来ねえぞ」
「そうですか」
「その顔やめろ」
「どの顔でしょう」
乃維助は答えず、三太郎を連れて門へ向かった。
一度だけ振り返る。
寛藻奈尼はもうこちらを見ていなかった。少女が置いていった紙を広げ、書き損じへ筆を入れている。
人の流れを見ているという女が、今は子供の字の払いを一本直していた。
乃維助は鼻を鳴らした。
「気に食わねえ尼だ」
三太郎は何も言わない。冬の薄い月が、屋根の向こうへ出ていた。
古い札が何を表していたのかは、もう分かった。
三枚の札が、なぜ作られたのかも分かった。
なのに乃維助には読めないものが一つ増えたような気がしてならなかった。




