参 時違いの文 トキチガイノフミ
吉原に朝が来る。
どれほど夜が長くても、明六つの鐘が鳴れば空は白む。昨夜どれほど甘い言葉を交わしたところで、朝になればそれは昨日のことになる。
晩秋の明六つは遅い。夜の冷えを軒下や路地の隅に残したまま、鐘の音だけがひと足先に町を起こしてゆく。格子の向こうでは、まだ消し忘れた行灯が頼りなく揺れている。夜通し騒いだ酔客は肩を丸めて大門へ向かい、女たちは白粉を落とし、火鉢へ赤くなった指をかざす。昼間なら鼻につく香の匂いも、朝の冷たい空気に薄められると、昨夜の名残のように頼りなく漂った。時というものは、そうして一つずつ古くなってゆく。昨日が今日になり、今日が明日へ押し出される。戻ることも、追い越すこともない。
少なくとも、その日まで斎藤乃維助はそう思っていた。
「のいさん。妙なものが出た」
朝から使いの者に叩き起こされ、吉本屋へ呼びつけられた乃維助は座敷で不機嫌そうに茶をすすっていた。
「お前がそういう言い方をすると、大抵ろくでもない」
「まだ何も話してないだろ」
由ノ吉が向かいへ座り、折り畳んだ紙を差し出した。
「これ」
乃維助は受け取らず、紙だけを見た。
「ただの文じゃねえか」
「あやめの字だ」
そこで初めて乃維助の目が少し動いた。
「あやめがどうした」
「本人は書いた覚えがない」
乃維助は紙を取った。短い。
――昼四つ、鏡台の前に立つな。
それだけだった。
「どういう意味だ?あやめ本人の字なんだろ」
「ああ」
「ならあやめが書いたんだろ。何も不思議はない」
乃維助は紙を畳み、由ノ吉へ返した。
「終わり」
「始まったばっかりだよ」
由ノ吉が紙を押し返す。
「今朝、枕元にあったんだ。あやめは昨夜、文なんか書いてないってさ」
「酔ってたんじゃねえのか」
「酒は飲んでない」
「寝ぼけた」
「のいさん、便利だなあ」
「理屈ってのは便利だから理屈なんだ」
乃維助がもう一度茶へ手を伸ばしたところで、障子の向こうから声がした。「若旦那、入ってもいいかい」
あやめだった。
「おう、お前の話をしてたところ」
由ノ吉が言う。
「聞こえてたよ」
あやめは座敷へ入り、乃維助の前に座った。いつも通り落ち着いている。
ただ、目の下にわずかな疲れがあった。乃維助が文を差し出す。
「本当に覚えてないのか」
「ないね」
あやめは紙を広げ、自分の字をしばらく眺めた。
「でも、間違いなくあたしの字だ」
「似せたんじゃなく?」
「癖まで同じだよ」
あやめは最後の一文字を指先で軽く叩いた。
「この払い、急いで書くとこうなる」
自分の字を見ているのに、他人の置き手紙を読むような顔だった。
「どう思う」
乃維助が訊く。
「そりゃあなんだか薄気味悪いよ」
あやめは笑った。だが、口元しか笑っていなかった。
「自分の知らない自分がいるってのは、幽霊より厄介そうじゃないか」
昼四つ。
あやめの部屋で音がした。
どん、と鈍い音だった。
駆けつけると、鏡台の前に天井板の欠片が落ちていた。
大きくはない。だが、角から落ちれば額を割るくらいの重さはあった。
文を気味悪がったあやめは、その刻だけ部屋を離れていた。
乃維助は天井を見上げた。板の端が黒ずみ、細い割れが走っている。
指で触れると、木屑と白い粉がぱらぱらと落ちた。
「湿気だな」
「ふむ。それで?」
由ノ吉が訊く。
「前から傷んでた」
乃維助は鏡台の上を指でなぞった。薄く白い粉がつく。
「昨日今日でこうなったんじゃねえ。少しずつ落ちてたはずだ」
あやめが鏡台を見る。
「気づかなかったね」
「気づいてなかったと思ってるだけだ」
乃維助は指についた粉を払った。
「毎日ここで顔を作ってりゃ、目には入ってる」
「目に入るのと、知ってるのは同じかい?」
あやめが訊く。乃維助は少し考えた。
「違うな」
「じゃあ、目だけが知ってた?」
「そういう言い方するから話が面倒になるんだ」
由ノ吉が吹き出した。
「のいさん、もう嫌そうな顔してる」
「最初から嫌だ」
次の朝、二枚目が出た。
――今夜、西の階段へ鈴蘭を通すな。
由ノ吉は紙を読んだまま黙った。乃維助が横から覗く。
「ゆん坊そんな露骨に顔に出すなよ」
「出してないよ」
「出てる」
「何があっても西の階段には行かせない」
由ノ吉がつぶやいた。
乃維助が呆れた顔をする。
「まだ何も起きてねえのに」
「起きてからじゃ遅いんだよ」
「お前は本当に鈴蘭が絡むと早いな」
「⋯」
由ノ吉が睨む。傍らであやめが小さくため息をついた。
「二人とも、あたしの文だってこと忘れてないかい」
結局、鈴蘭には西の階段を使わせなかった。
その夜、下働きの男が階段を上がったところ、三段目の板が抜けた。
幸い、男は脛を擦りむいただけで済んだ。
乃維助は翌朝、壊れた段の前にしゃがみこみしばらく眺めた。釘が赤く錆びている。隣の板を踏む。きい、と細い音がした。
「これだ」
「何が?」
由ノ吉が覗き込む。
「前から鳴ってたんだ」
乃維助はもう一度踏んだ。
きい。
「毎日ここを通ってりゃ、聞いてるはずだ」
あやめが腕を組んだ。
「でも、今夜壊れるとは分からないだろ」
「分かっちゃいねえだろう」
乃維助は立ち上がった。
「が、危ないと思った。それをお前自身が忘れてるだけだ」
あやめは壊れた板を見下ろした。
「また、あたしの知らないあたしかい」
「勝手に二人に増えるな」
三枚目は、その翌朝だった。
――今夜、行灯をつけるな。
夕刻、乃維助があやめの行灯を調べると、油皿に髪ほどのひびがあった。「見ろ」
油皿を手にした乃維助が言う。
「ひびだね」
あやめが覗く。
「油も少し漏れてる」
乃維助は鼻を近づけた。
「匂いがしてたはずだ」
「覚えがないよ」
「だから⋯覚えてねえだけだ」
由ノ吉が後ろで腕を組む。
「またそれか」
「またそれだ」
「何でもそれで済ませる気かよ」
「済むうちは済ませときゃいいじゃねえか」
それからも文は続いた。
明日は雨。
あの客は来ない。
徳利を二番の座敷へ持っていくな。
帳場の衝立から離れろ。
どれも些細なことばかりだった。しかし、全てが当たった。
雨の日の前には、夕暮れの風に土と水の匂いが混じっていた。
客は前夜から咳をしていた。
徳利には見落としそうなひびがあった。
衝立の脚は虫に食われて朽ちていた。
ひとつずつなら説明はついた。しかし、それが毎朝、翌日の出来事として、あやめ自身の字で文が現れる。説明できることが増えるほど逆に気味の悪さが増していった。
*
「それは普通に寝ながら書いてるんじゃない?」
砂丘屋で話を聞いたかりんは、里芋を箸で割りながら言った。出汁を吸った白い中身から、ふわりと湯気が立った。
「寝ながら?」
由ノ吉が聞き返す。
「身体だけ起きる人はいるよ。本人は何も覚えてない」
「歩くのか」
乃維助が訊いた。
「歩くよ。喋る。物を動かす。手が覚えてることなら、もっと色々するかもしれないね」
お綿が燗徳利を置いた。
「かりんちゃん、そんな人を見たことあるのかい」
「あるよ。珍しくもない。熱が出た人とか、長く眠れてない人とかね」
かりんは里芋を口へ入れ、少し考える。
「それに、人って自分が気づいたこと全部を、自分で知ってるわけじゃないから」
乃維助が箸を止めた。
「それは俺も思ってた」
由ノ吉が嬉しそうに乃維助を見る。
「仲いいじゃん」
「どこがだ」
「同じこと言ってる」
「俺の方が先だ」
「子供かい、あんたは」
お綿が呆れた顔をする。
かりんはカラカラと笑っていたが、やがて少しだけ表情を変えた。
「でも」
乃維助が嫌そうな顔をする。
「まだあるのか」
「先のことが分かるっていうのは、少し変だね」
「だから先じゃない」
乃維助が即座に答える。
「昨日見たものを、寝てる頭が引っかかりを書いてるだけだ」
「うん。それでほとんど説明できると思う」
「ほとんど?」
乃維助が眉を寄せる。
かりんは湯気の向こうをぼんやりと見ながら言った
「もし、本当に先だったら?」
乃維助は猪口を置いた。
「先はまだない」
「そう?」
「そうだ」
「どうして?」
「どうしてってお前まだ起きてねえからだろ」
「起きてないことと、ないことって同じかな」
由ノ吉が少し身を乗り出した。
「面白いね。かりんちゃん」
「面白くねえ」
乃維助は露骨に顔をしかめた。
かりんは自分でも答えを探しているように、指先で箸を転がした。
「昨日って、今はもうないでしょ」
「当たり前だ」
「でも覚えてる」
「記憶がある」
「じゃあ、のいすけちゃんの頭の中にはあるって事よね」乃維助は黙った。
「明日も同じだったら?」
「⋯同じじゃねえ」
「まだ、のいすけちゃんが思い出してないだけだったら?」
乃維助が深く息を吐いた。
「⋯話をややこしくする才能があるな、お前」
「褒められた」
「褒めてねえ」
かりんはまたカラカラと笑った。その足元では三太郎が丸くなって眠っていた。昨日も明日もどうでもいい顔で、鼻先だけを前脚へ埋めていた。
*
その夜。
乃維助と由ノ吉はあやめの部屋の隣で張った。筆、硯、紙はすべて部屋から出した。
「あたしが見張られるとはね」
布団へ入る前、あやめが苦笑した。
「嫌ならやめるぞ」
乃維助が言う。
「ここまで来て?」
あやめは枕へ頭を置いた。
「自分が何してるのか、あたしも見てみたいくらいだよ」
「寝てるんだから見られる訳がねえだろ」
「そういうところだよ、のいさん」
由ノ吉が横から口を挟む。
「何がだ」
「いや、もういい」
夜半を過ぎた頃だった。
襖が静かに開いた。
あやめが出てきた。
目は開いている。
けれど、何も見ていない。
二人の前を通る。
乃維助が手を顔の前へかざしてもなにも反応しない。
由ノ吉が声を潜めた。
「本当に寝てるのか」
「黙ってろゆん坊」
あやめは廊下を歩き、帳場へ入った。筆を探す。硯へ水を落とし、墨をする。紙を一枚引き寄せる。
筆が、動いた。迷いがない。起きている時のあやめと同じ字だった。
――明後日、雨。
書き終えると紙を折り自分の部屋へ戻る。枕元へ置きそのまま横になった。
朝。あやめは何も覚えていなかった。
「本当にあたしだった?」
紙を見ながら訊く。
「見事にな」
乃維助が答えた。
「あたし、帳場まで?」
「ああ」
「嫌だねえ。とても信じられない」
あやめは笑おうとしたが笑いきれなかった。乃維助は文を指で叩いた。
「これで半分は片づいた」
由ノ吉が顔をしかめる。
「半分?」
「誰が書いたかは分かった」
「あとの半分は?」
乃維助は文を見ながら言った。
「⋯なんで当たるかだ」
明後日。昼過ぎから雨が降った。
*
乃維助はそれまでの文を全部並べた。
天井。
階段。
行灯。
客。
徳利。
衝立。
雨。
一枚ずつ、そこへ至る前触れを書き出してゆく。
あやめはよく人を見る女だった。
客の声。
女たちの歩き方。
部屋の匂い。
板の軋み。
風の湿り。
普段なら意識にも上げない細かな違いを、知らぬ間に拾っていたのだろう。
乃維助は紙を重ねた。
「先を見てるんじゃねえ」あやめが向かいから乃維助を見る。
「じゃあ何を見てるんだい」
「それはな⋯昨日だ」
乃維助はきっぱり言った。
「お前が昨日見たものを、お前の頭が寝てから拾いなおしてる。それで明日起こりそうなことを書いているんだ」
由ノ吉が考え込む。
「先を当ててるんじゃなくて?」
「今あるものの続きを書いてるだけだ」
あやめはしばらく黙っていた。やがて、小さく頷いた。
「筋は通ってるね」
「だろ」
乃維助が少し得意そうな顔をした。
「でも⋯」
あやめが続ける。乃維助の顔が曇る。
「お前まで言うな」
「でも雨の日まで分かるほど、あたしは空ばっかり見てたかねえ」
「湿気だ。人の感覚というのはそういうところがあるんだ」
「便利だね」
「だから便利だと言ってる」
由ノ吉が笑った。
その日から、筆と紙は夜ごと帳場へしまわれ、あやめもなるべく早く休むようにした。
翌朝。
文はなかった。
次の日も。
その次の日も。
五日経った。
何も出なかった。
「あれっきりだね」
あやめが言った。
乃維助は当然だという顔をした。
「眠りが浅かったんだろ。疲れが取れたんだ」
「治ったってことかい」
「病気と決まったわけじゃねえ」
「じゃあ何が治ったのさ」
乃維助は少し考えた。
「知らん、分からん」
あやめが笑った。
「そこは知らないんだ」
「知らねえものは知らねえし分からねえものは分らねえ」
由ノ吉が横で肩をすくめる。
「めずらしく素直だな」
事件は、それで終わった。
少なくとも、乃維助はそう思っていた。
六日目の朝までは。
*
「のいさん」
由ノ吉が固い顔をして乃維助を呼びに来た。乃維助はその顔を見ただけで嫌そうに眉を寄せた。
「また出たのか」
「ああ出たよ」
あやめの部屋の枕元に、一枚の文があった。
「昨夜は?」乃維助があやめに訊く。あやめが首を振る。
「起きてないよ。朝までぐっすり」
「帳場は?」
「鍵をかけた」
由ノ吉が腰の鍵を見せる。
「このとおり僕が持ってた」
「紙は」
「数えてある。減ってない」
乃維助は黙った。
床を見る。障子を見る。枕を見る。布団を見る。
そして文を手に取った。あやめの字だった。間違いない。
一行だけ。
――明日の昼、かりんは砂丘屋で「これ、昨日も食べた」と言う。
乃維助はしばらく動かなかった。あやめが覗き込む。
「なんだい、これ」
由ノ吉も読む。
「かりん?」
乃維助は文を折りたたんだ。
「このことは言うな」
「誰に?」
由ノ吉が訊く。
「かりんに決まってるだろ」
「なんで」
「見せたら、その通り言うかもしれねえじゃねえか」
由ノ吉の目が少し笑った。
「なるほど。のいさん、結構本気になってきたね」
「なってねえ」
「顔がなってるよ」
「黙れ」
あやめが二人を見る。
「じゃあ、明日あたしも連れて行ってよ」
乃維助が顔を向けた。
「何しに」
「きっとあたしが書いたんだ。結末くらい見たって罰は当たらないだろ」
*
翌日。
昼。
砂丘屋には、炊き物の匂いが満ちていた。お綿が鶏と焼き葱を炊いている。醤油と出汁の甘い匂いが湯気に乗り、火を弱めた鍋がことことと音を立てていた。乃維助、由ノ吉、あやめ。三人とも妙に静かだった。
お綿が怪訝な顔をする。
「何だい、今日は。葬式帰りみたいな顔並べて」
「何でもねえ」
乃維助が答える。
「何でもない奴は三人揃って黙り込まないよ」
「飯を出せ」
「偉そうだねえ」
暖簾が揺れた。
「お腹すいた」
かりんが入ってきた。乃維助の背中がわずかに固くなる。由ノ吉は知らぬ顔をした。あやめは、かりんの手元だけを見ていた。
「ちょうど出来たところだよ」
お綿が、鶏と焼き葱を炊いたものを出した。表面を焦がした葱は、出汁を吸ってとろりと柔らかくなっている。鶏の脂が薄く浮いた汁から、醤油と焦げた葱の甘い匂いが立った。かりんは箸を取る。
一口食べる。
箸が止まった。乃維助の目が上がる。由ノ吉も見る。あやめは息を詰めた。かりんは小鉢をじっと見た。そして、少し不思議そうに眉を寄せた。
「……これ、昨日も食べた」
お綿の手が止まった。
「かりんちゃん」
「ん?」
「昨日、来てないよ」
かりんはお綿を見る。それから、自分の小鉢を見る。
「……そうだっけ」
首を傾げ、何事もなかったようにもう一口食べた。
誰も喋らなかった。
かりんがようやく顔を上げる。
「何?」
「いや」由ノ吉が口元を押さえる「何でもない」
乃維助が懐へ手を入れた。
紙がある。昨日、あやめの枕元にあった文。
書かれた時には、かりんはまだこの料理を食べていない。
お綿も、今日これを出すとは決めていなかったという。
乃維助は紙を取り出さなかった。
「あやめ」
由ノ吉が小さく呼ぶ。あやめは自分の右手を見ていた。
文を書いたはずの手だった。
「……あたし、本当にあれを書いたのかね」
誰も答えなかった。かりんだけが事情を知らずほろほろになった鶏を食べている。乃維助がようやく口を開いた。
「昨日を見てたんだ」
由ノ吉が横を見る。
「まだ言う?」
「昨日を見てた。それだけだ」
「昨日に、これはないよ」
あやめが静かに言った。乃維助は答えなかった。
しばらくして、かりんが箸を置いた。
「何の話?」
「何でもねえ」
乃維助が即座に答える。かりんは三人の顔を見回した。
「変なの」
お綿が呆れた顔で笑う。
「一番変なのは、かりんちゃんだよ」
「私?」
「昨日食べたって言ったろ」
「だって食べた気がしたんだもの」
かりんは少し考えた。
「夢かな」
「夢で味まで分かるのかい」
「どうなんだろう分かんない」
かりんはあっさり答え、また箸を取った。
その日を最後に、あやめの枕元へ文が現れることはなかった。
夜中に起きることもない。本人も以前と変わらず眠った。
治ったのか。終わったのか。何かが書く必要をなくしたのか。
誰にも分からなかった。数日後、砂丘屋で由ノ吉がその話をすると、
かりんは少し考えてから言った。
「書く必要がなくなったんじゃない?」
乃維助が猪口を置く。
「誰がだ」
「さあ」
「お前、そうやって話を投げるのやめろ」
「だって分からないもの」
かりんがカラカラと笑った。
「でも、昨日と明日が本当に別々なら、あの文は変だね」
「別々だ」
乃維助は即答した。
「昨日は終わった。明日はまだ来てねえ」
「じゃあ今日は?」
由ノ吉が訊く。
乃維助は嫌そうに二人を見る。
「今日は今日に決まってるだろ」
外で鐘が鳴った。
昼の鐘だった。
昨日の鐘ではない。
明日の鐘でもない。
これは今日の鐘だ。
乃維助はそう思った。
懐には、まだあの文が入っていた。歩けば、紙が衣の内側でかすかに擦れる。乃維助は取り出さなかった。今日というものが本当に一日ずつしか来ないのなら、その紙はいずれ古くなる。
乃維助は深くため息をついてかりんに視線を向けた。
昨日ここで食べたという煮物を、今日のかりんが初めて食べていた。




