弐 闇に鳴る糸 ヤミニナルイト
吉原の夜は、灯が多いほど闇が濃くなる。軒先には提灯が並び、格子の向こうでは三味線が鳴り、笑い声と酒の匂いが細い路地へこぼれている。それでも夜が深くなると、賑わいの継ぎ目にふいと穴が開くことがある。人の声だけが遠のき、そこにいたはずの誰かを、町そのものが一瞬忘れてしまったような静けさだった。
その夜、鈴蘭は吉本屋の二階を一人で歩いていた。
客を送り出した後の廊下には、燭台の火がところどころ残っている。油の尽きかけた炎が揺れるたび、柱の影が長く伸びたり縮んだりした。
奥座敷の前を通り過ぎようとした時だった。
――べん。
鈴蘭の足が止まった。
暗い座敷の奥で、一本の糸だけが目を覚ましたような音だった。
もう一音。少し間を置いて、また一音。やがて音は細い流れになり、ゆっくりとした節を作り始めた。聞いたことのない節だった。なのに、懐かしい。ずっと昔に聞いたものを忘れているのではない。まだ聞いたことのないものを、なぜか覚えている。そんな妙な懐かしさだった。
鈴蘭は戸へ手を伸ばしかけた。指先が触れる寸前で止めた。そこは十年以上、使われていない座敷だった。
音はなおも続いた。哀しいとも、美しいとも言い切れない。ただ、何かを待っている音だった。そして、あるところまで来ると突然途切れた。
余韻だけが廊下に残る。終わったのではない。言いかけた言葉を喉の奥へ押し戻したような、そんな止まり方だった。
鈴蘭は、しばらく戸の前から動けなかった。
翌朝、鈴蘭は由ノ吉にその話をした。
「奥の座敷?」由ノ吉が片眉を上げて聞き返した。
「はい」
「誰か入ったんじゃないのかい」
「鍵は掛かっていました」
そばで髪を整えていたあやめが、簪を挿す手を止めた。
「あたしも聞いたよ」
由ノ吉が振り返る。
「いつ?」
「鈴蘭より少し前だね。廊下を歩いてたら聞こえた」
「同じ節?」
「あたしに分かるわけないだろ」あやめが鼻で笑った。
その時、鈴蘭が鼻歌を口ずさんだ。由ノ吉の目が動いた。
「鈴蘭」
「はい?」
「今の」
「今の?」
「歌ってただろ」
鈴蘭はきょとんとした。
「私が?」
由ノ吉の顔から笑みが消えた。あやめも鈴蘭を見ている。
「その節……」
「あやめ、知ってるのか?」
由ノ吉が訊くと、あやめは眉を寄せた。
「昔、一度だけ聞いたことがある」
吉本屋へ来たばかりの頃、年老いた遣手が口ずさんでいたという。名を訊いても答えなかった。ただ、ひどく嫌そうな顔をして一言だけ言った。
――あれは最後まで弾いちゃいけないよ。
由ノ吉はしばらく黙っていたがゆっくりと口を開いた。
「かりん呼べる?」
「三味線の?」あやめが訊いた。
「うん」
昼前、かりんが吉本屋へやって来た。細身の女だった。真っ直ぐな黒髪を低い位置で簡素にまとめ、鼠色の着物を着ている。飾り気はないが人目を引く女だった。病人が出れば看病を頼まれ、稽古の日なら三味線を抱えて来る。医者ではないが薬や養生に詳しく、三味線に至っては名人と呼べるほどの腕前だった。鈴蘭が覚えているところまで口ずさむと、かりんはすぐに三味線を膝へ乗せた。
「もう一度」
鈴蘭が歌う。かりんの指と撥が動いた。一度聞いただけの節をそのまま拾ってみせる。
「相変わらずだねえ」
由ノ吉が感心しても、かりんは三味線から目を上げなかった。
「褒めても何も出ないしこんなことは当たり前なんだよ」
二度、三度と同じところを弾く。やがて、かりんは撥を止めた。
「知らないね」
「あんたでも?」あやめが少し意外そうに訊いた。
「聞いたことがない。少なくとも、あたしの知ってる唄じゃないよ」
「誰かが適当に弾いてるだけじゃないのか」由ノ吉が訊く。
かりんは首を振った。
「それはないね。ちゃんとひとつの節になってる」
末の数音をもう一度鳴らす。
「三本の糸がきちんと運んでる。でも、ここじゃ終われない」
「分かるの?」
由ノ吉が三味線を覗き込む。
「そりゃ分かるよ。こんなところで撥を置かれたら、弾いてる方も聞いてる方も気持ち悪くて仕方ない」
「あたしたちが聞いた時は、そこで止まった」あやめが腕を組む。
「なら、誰かがそこで止めてるんだろうね」
かりんがそう答えた時、鈴蘭が小さく呟いた。
「この先……」
三人の視線が集まった。
鈴蘭は自分でも驚いたように額へ手をやった。
「いえ、何でもありません」
由ノ吉だけが、その顔をしばらく見ていた。
*
昼下がりの砂丘屋では、鰯が焼けていた。皮がぱちりと裂け、脂が炭へ落ちるたび、小さな炎が舌を出す。仕上げに醤油をひと刷毛すると、焦げた香りが湯気に乗って縄暖簾の外まで逃げていった。人の腹というものは、怪談よりよほど正直である。
乃維助は熱い身へ大根おろしを乗せ、箸でほぐしていた。
「のいさん」縄暖簾を上げた由ノ吉が声をかける。
乃維助は顔も上げなかった。
「帰れ帰れ」
「まだ何も言ってないだろ」
「その顔で来る時は碌な話じゃない」
「どんな顔だよ」
由ノ吉が怪訝そうに言ったところで、その後ろからかりんが顔を出した。「のいすけちゃん、今日は私もいるよ」
乃維助がようやく顔を上げる。
「余計悪い」
「あら、かりんちゃん」
お綿がぱっと笑顔になった。
「珍しいね。一緒なのかい」
「幽霊見物に連れてかれてるところ」
かりんが平然と言う。
「なにが幽霊見物だよ」
由ノ吉が嫌そうな顔をした。お綿は二人の前へ小鉢を置いた。蕪と油揚げを薄味で炊いたものだった。出汁を吸った蕪は箸先で簡単に崩れ、その白い中身から細い湯気が上がっている。
「まあお座りよ。三人いたって鰯は逃げないよ」
かりんが箸を取った。一口食べてから、何気なく言う。
「昨日もこれ食べたな」
お綿が首を傾げた。
「昨日?」
「うん」
「かりんちゃん、昨日来てないよ」
かりんの箸が止まった。
「……そうだっけ」
乃維助がかりんを横目で見る。かりんは一度だけ眉を寄せたが、それ以上気にした様子もなく蕪を口へ入れた。
「おいしいねえ」
「そうかい」
お綿は少し妙な顔をしたが、それ以上は訊かなかった。由ノ吉が昨夜の話をした。誰もいない座敷。夜半の三味線。知らない節を口ずさむ鈴蘭。あやめが聞いた昔話。そして、三味線の師匠であるかりんでさえ知らない節。
乃維助は鰯を食い終わるまで黙っていた。
「で?」
「で、じゃないよ」
由ノ吉が呆れた顔をする。
「誰かが弾いてるに決まってる」
乃維助は猪口を持ち上げた。
「そう思う?」
かりんが訊く。
「幽霊が三味線上手とは限らんだろ」
「そこ?」
由ノ吉が眉をしかめる。
お綿が燗徳利を乃維助の前へ置いた。
「まあ行って見ておいでよ」
「俺は行くと言ってない」
「のいさんあんた怖いのかい?」
お綿が笑いながら訊く。乃維助は猪口へ酒を注ぎ、ひと口飲んだ。
「その座敷、隣は?」
由ノ吉がにやりとする。
「やっぱり行くんじゃない」
「答えろ」
「物置」
「上は」
「屋根」
「下は」
「座敷」
乃維助は残った酒を飲み干した。
「飯代はお前持ちだぞ」
「なんで僕なんだよ」
由ノ吉が顔をしかめる。
お綿が笑った。
「幽霊を連れて帰ってこないでおくれよ」
「そっちはゆん坊に言え」
乃維助が立ち上がりながら言った。
*
夕刻、三人は吉本屋へ戻った。二階へ上がり廊下を進み奥座敷の鍵を開ける。薄く埃の積もった畳。閉じた障子。床の間。押入れ。長く人の息を吸っていない部屋には、時間まで薄く積もっているようだった。乃維助は入るなり膝をついた。畳の縁を指でなぞる。柱を見る。障子の桟を調べる。押入れを開ける。由ノ吉は廊下の柱にもたれたまま眺めていた。かりんは座敷の中央に座り、目を閉じて耳を澄ませている。
「手伝え」
乃維助が言った。
「何を?」
由ノ吉が訊く。
「探せ」
「のいさんは物を見る人だろ」
由ノ吉が悪びれずに答える。
「お前は?」
「人」
乃維助が今度はかりんを見た。
「お前は?」
「音」
「二人とも役に立たんな」
乃維助が吐き捨てると、かりんが薄く笑った。
隣の物置へ入った。古い行灯。使わなくなった膳。布団。箱。
その奥に、一挺の三味線が立て掛けてあった。
乃維助が持ち上げる。胴には埃が積もっている。だが棹と糸には、最近触れた跡があった。
「使ってるな」
壁際の木箱にも、引きずったばかりの跡がある。乃維助が動かすと、その裏の壁板に細い隙間があった。板を外す。向こうは奥座敷の床の間裏へ通じていた。乃維助が三味線の糸を軽く弾く。
――べん。音は壁の中を抜け、隣の座敷から鳴ったように響いた。由ノ吉が息を吐いた。
「早かったね」
「幽霊にしちゃ雑だ」乃維助が言いながら床を見る。一枚だけ、板の端に新しい傷がある。剥がす。湿った埃の匂いとともに、古い文箱が出てきた。中には女物の簪、小さな根付、古銭、何通かの手紙。
そして、折り畳まれた書付が一枚あった。かりんが広げる。三味線の譜だった。目を走らせ、指で辿る。
「これだ」
「昨夜のか?」
乃維助が訊く。
「うん」
かりんの指が、ある場所で止まった。
「ここまで」
昨夜、音が途切れたところだった。
「なら終わりじゃないか」
乃維助が言う。かりんが顔を上げた。
「違うって言っただろ」
「譜もここまでだ」
「譜がここで切れてても、節は終わっちゃいないよ」
「どう違うんだ」
乃維助が怪訝な顔をする。かりんは少し考えた。
「話してる途中で口を塞がれたみたいなもんだね」
「分かりにくい」
「じゃあ飯食ってて、最後の一口だけ取り上げられる」
乃維助の眉が動いた。
「それは気持ち悪いな」
「でしょ?」かりんが笑う。由ノ吉も吹き出した。
「のいさんにはそれが一番分かるんだ」
由ノ吉が奉公人を集めると、ほどなく一人の若い男が崩れた。文箱を見つけたのは数日前だった。中の簪や小物を売れば金になると思った。だが物置へ人が出入りすれば、いずれ隠し場所を見つけられる。そこで昔から吉本屋に残る「奥座敷の遊女」の噂を利用した。男には少し三味線の心得があった。夜になると物置へ入り、書付にある通りに弾いた。壁の隙間を通った音は、奥座敷へ回って響く。
「ほら見ろ」
乃維助が由ノ吉へ得意げに言った。
「はいはい」
由ノ吉が肩をすくめる。かりんだけは譜を見たままだった。
「何だ」
乃維助が訊く。
「別に」
「その顔は別にじゃない」
乃維助が目を細める。かりんは譜の末を指でなぞった。
「これを書いた人、まだ先を書くつもりだったんじゃないかと思って」
「なぜ分かる」
「最後の筆が収まってないのよ」
譜の末の墨は、すっと横へ流れたまま途切れていた。書き納めた形ではない。道が途中で崖になったように筆だけが先へ行こうとして止まっている。
「古いだけだろ」
乃維助が言う。
「かもね」
かりんはそう答えたが、まだ譜から目を離さなかった。文箱の手紙を調べると、一人の遊女の名が出てきた。小夜菊。かつてこの奥座敷を使っていた女だった。三味線の名手で、一人の男と深い仲になった。男は身請けを約束し、江戸を離れた。そして戻らなかった。小夜菊は捨てられたと思ったまま病み、ほどなく死んだという。だが文箱の底にあった最後の手紙には、別のことが書かれていた。男は旅先で争いに巻き込まれ、深手を負っていた。
生きて江戸へ戻れるか分からない。それでも帰れたなら、必ず迎えに行く。手紙は誰かに託されたまま、小夜菊の手には届かなかった。言葉は残った。ただ、届かなかった。それだけのことで、一人の女の生涯は別の意味を持って終わった。鈴蘭が手紙を見つめた。
「待ってたんですね」
由ノ吉は答えなかった。乃維助が文箱の蓋を閉じる。
「これで終わりだ」
あやめが腕を組んだ。
「三味線も?」
「奉公人があれを見て弾いた」
乃維助は譜を指した。
「それは確かだね」
かりんが頷く。
「なら終わりだ」
乃維助が言い切る。由ノ吉が薄く笑った。
「そうだといいね」
乃維助が嫌そうな顔で由ノ吉を見る。
「お前ら二人してその言い方やめろ」
*
その晩、乃維助は砂丘屋へ戻った。お綿が里芋の煮っころがしを温め直していた。醤油と砂糖の煮汁が鍋底で少し焦げ、甘い匂いが立っている。里芋を割れば白い湯気が上がり、一日の終わりというものは、案外こういう匂いで出来ているのかもしれなかった。
「どうだったい」
お綿が訊いた。
「人間だった」
「あらまあ残念」
「なぜ残念なんだ」
乃維助が怪訝な顔をする。
「せっかく三味線弾く幽霊かと思ったのに」
「そんなもんにに芸を求めるな」お綿が笑い、徳利を置いた。三太郎は乃維助の足元で丸くなって眠っている。
「で、ゆん坊たちは?」
「吉本屋にいる」
「かりんちゃんも?」
「ああ」
乃維助は里芋を箸で割った。
「うまい」
「そりゃよかった」
お綿が満足そうに笑う。しばらく、酒を注ぐ音だけがしていた。三太郎が突然、顔を上げた。戸を見る。ほとんど同時に縄暖簾が持ち上がった。
由ノ吉が立っていた。お綿の笑顔が消える。
「どうしたの」
由ノ吉は答えず、乃維助を見た。乃維助はその顔を見るなり、猪口を置いた。
「……鳴ったのか」
由ノ吉が頷いた。それだけだった。乃維助は刀を取って立ち上がった。
三太郎が大きくあくびをして立ち上がった。
「お前は留守番だ」
乃維助が言う。三太郎は後ろについた。
「来るな」
ついてくる。
「聞け」
ついてくる。
お綿が暖簾の向こうから笑った。
「連れていきな」
「こいつの家はここだろ」
乃維助が三太郎を指す。
「自分で決めるんだってさ」
お綿が言った。乃維助は三太郎を見下ろした。三太郎も見上げる。
「……勝手にしろ」
*
吉本屋の二階へ上がる前から、音は聞こえていた。あの節だった。仕掛けに使った三味線は一階にある。奉公人も下で見張られている。壁の隙間は乃維助自身が塞いだ。それでも鳴っている。奥座敷から。同じ節。同じところまで。昼間、理屈で塞いだはずの穴から、夜だけがまた染み出してきたようだった。階段の途中で三太郎が止まった。喉の奥で低く唸る。
「どうした」
乃維助が振り返る。三太郎は動かない。座敷の前には、かりんとあやめと鈴蘭が立っていた。かりんは目を閉じて音を聞いている。
「同じか」
乃維助が訊く。
「同じ節だね」
かりんは目を開けずに答えた。
「奉公人じゃないと言えるか」
今度は目を開く。
「言えるね」
「なぜ」
「手が違う」
「手?」
乃維助が眉を寄せる。
「弾き手が違えば、同じ節でも音は変わる」
かりんは再び耳を澄ませた。
一音。
二音。
暗がりの向こうで、誰かの撥に三本の糸が応えている。
姿はない。
けれど音だけは、弾いている者の癖まで連れてくる。
「昼間の若いのより、ずっと上手い」
かりんが低く言った。
「……それに」
「何だ」
「哀しいね」
乃維助が鼻を鳴らす。
「音にそんなものまで乗るのか」
「乗るよ。分からないの?」
「分からん」
「のいすけちゃんらしい」
かりんが小さく笑った。
その時、節が途切れた。同じところだった。由ノ吉が座敷の戸を見つめている。
「ゆん坊」
乃維助が呼ぶ。
返事がない。
「由ノ吉⋯」
今度は本名で呼んだ。由ノ吉がゆっくり手を上げた。
「……黙って」
由ノ吉の声が違った。笑みが消えていた。由ノ吉は幼い頃から見えていた。見ようと思えば、もっと見える。誰もいない場所に残るもの。
人の背後に立つもの。死んでも消えきらない思い。だから普段は見ない。
乃維助が声を落とした。
「何が見えてる」
「女」
由ノ吉は戸から目を離さない。
「小夜菊か」
「たぶん」
「たぶん?」
乃維助が訝しむ。
「死人に名札はついてないよ」
由ノ吉は座敷へ入った。乃維助も続く。かりんたちは戸口に残った。
三太郎だけは、まだ階段の途中から動かなかった。由ノ吉には、座敷の隅に女が見えていた。三味線を抱いている。顔を伏せている。弾いているというより、同じところを何度も確かめているようだった。
終われないのではない。終わり方を知らない。由ノ吉には、そう見えた。
文箱から出した手紙を畳へ置く。
「もう待たなくていいよ」
女は動かない。
「来なかったんじゃない」
三味線が一音鳴った。
「来られなかったんだ」
もう一音。
由ノ吉は手紙へ目を落とした。
「ちゃんと帰ろうとしてたよ」
音が止んだ。静けさが座敷へ落ちた。重い静けさではなかった。長く握り締めていた手を、ようやく開いた時のような静けさだった。
その静けさに道をつけるように、階段の三太郎がひと声だけ鳴いた。
低く、やわらかな声だった。
「……続き」
鈴蘭が呟いた。あやめが振り返る。
「分かります」
「続き?」かりんが訊いた。
「この先」
かりんの顔から表情が消えた。
「鈴蘭⋯譜はあそこで切れてるんだよ」
「分かってます」
「この節、聞いたことある?」
「ありません」
「誰かに習った?」
鈴蘭は首を振る。
「でも……分かるんです」
あやめが鈴蘭の腕を掴んだ。
「やめときなっ」
鈴蘭は由ノ吉を見た。由ノ吉は少し考え、静かに頷いた。
「鈴蘭⋯弾いてみな」
一階から、仕掛けに使われた三味線が運ばれてきた。
鈴蘭が座る。かりんもその隣へ膝をついた。
「無理に思い出そうとしなくていいよ」
かりんが穏やかに言う。
「はい」
「指が分かるなら、指に任せな」
鈴蘭が糸へ触れた。
一音。
もう一音。
途中までの節をゆっくり弾く。
そして、いつも途切れるところへ来た。
誰も息をしない。
鈴蘭の指が動いた。
譜にはない音が鳴る。
かりんの目が見開かれた。
もう一音。
そして、もう一音。
節はその先へ続いていった。
誰も知らないはずの先へ。
哀しい節回しだった。
だが末の数音だけが、不思議なほど明るかった。
夜道の果てに家の灯を見つけた旅人が、初めて足を緩める。そんな安堵が音の中にあった。
最後の一音が消えた。
障子が、すっと開いた。風はなかった。座敷の隅を見つめていた由ノ吉が、小さく息を吐いた。女の姿が薄れていく。その時、階段にいた三太郎が動いた。ゆっくり座敷へ入る。畳の一角まで進み、誰もいない場所をじっと見上げる。女の姿が消えかけた瞬間、三太郎が一声だけ鳴いた。吠え声ではなかった。低く、柔らかな声だった。追い払う声でもない。帰れ、と命じる声でもない。長く戸口に立っていた者へ、もう行っていい、と道を開けるような声だった。
由ノ吉が三太郎を見る。
「……そうか」
「何がだ」
乃維助が振り返った。
「いや」
由ノ吉は三太郎から目を離さない。
「こいつ、祓ってるんじゃないんだなと思って」
「祓ってるって何をだ」
乃維助が怪訝な顔をする。
「さあね」
「またそれか」
由ノ吉は少し笑った。
三太郎はもう何もいない場所へ向かって、一度だけ尻尾を振った。
「……行った」
由ノ吉が息を吐く。
「誰が」
乃維助が訊く。由ノ吉はいつもの顔へ戻っていた。
「さあね」
「今見えてたくせに」
かりんが横から笑った。
「師匠は音だけ見てなよ」
「見えないものは見えないよ」
かりんが肩をすくめる。
乃維助は由ノ吉を見た。
「いつもそういうのが見えるのか」
「見ようと思えば」
「なら、なぜ見ない」
由ノ吉は少しだけ目を細めた。
「生きてる奴だけでも面倒なのに、死んだ奴まで相手してられないよ」
あやめが鼻で笑う。
「よく言うよ」
鈴蘭は膝の上の三味線を見つめていた。
「私……何を弾いたんでしょう」
かりんが答える。
「途切れてた節の続きだよ」
「合ってたんですか?」
「三味線の節としてはね」
「それだけ?」
鈴蘭が不安そうに訊く。かりんは少し考えて言った。
「それ以上は、あたしにも分からない」
*
翌朝。
吉本屋の庭には、昨夜のことなど知らぬ顔をして朝日が落ちていた。怪異の翌朝ほど、世の中は平然としている。鳥は鳴き、桶には水が張られ、女中は廊下を拭く。夜に何が立っていようと、朝は勝手に来る。
かりんは縁側に座り、昨日の譜をもう一度眺めていた。乃維助と由ノ吉もいる。三太郎は庭先で何かを嗅いでいた。かりんの指が止まった。
「のいすけちゃん」
「なんだ」
「これ、昨日あった?」
譜を差し出す。乃維助が受け取った。節が途切れている最後の行。その先の余白に、小さな墨の印が一つあった。たった一音。
由ノ吉が横から覗き込む。
「昨日は?」
「なかった」乃維助が即答した。かりんが目を細める。
「覚えてる?」
「調べた」
「私も見たけど、なかったね」
由ノ吉が譜を指した。
「何の音?」
かりんは少し黙った。
「鈴蘭が昨夜、続きを弾き始めた最初の音」
三人とも黙った。庭から三太郎が戻ってきて、乃維助の足元へ座る。
由ノ吉が乃維助を見る。
「のいさん」
「なんだ」
「誰が書いたんだろうね」
乃維助は譜を畳んだ。
「誰かだ」
「誰?」
「分からん」
かりんが笑った。
「珍しいね」
乃維助が睨む。
「何が」
「のいすけちゃんが分からないって言うの」
乃維助は譜を懐へ入れ、立ち上がった。
「砂丘屋へ行く」
「朝から?」
由ノ吉も立つ。
「腹が減った」
「逃げたね」
「何からだ」
「さあ」
由ノ吉が笑う。三太郎が二人より先に歩き出した。かりんも腰を上げた。
「私も行こうかな」
「来るな」乃維助が振り返る。
「お綿さんの飯食べたいんだよ」
「勝手にしろ」
「最初からそのつもり」
三人と一匹が廊下の向こうへ消えていく。朝の光は明るく、昨夜の闇など最初から存在しなかったように吉本屋を照らしていた。乃維助の懐には、昨日までなかった一音を記した譜がある。歩くたび、紙が胸元でかすかに擦れた。ただの紙の音だった。乃維助はそう決めて、振り返らなかった。




