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2/12

壱 帰るところ カエルトコロ

雨は夕刻から降り始めた。

初めは軒先を濡らす程度だったものが、暮六つを過ぎるころには往来を白く煙らせていた。道の土は人の足跡をひとつずつ呑み込み、提灯の灯は濡れた路面で細長く揺れている。町の輪郭が少しずつ水に溶けていく。

誰がどこから来て、どこへ帰るのかまで、雨が曖昧にしてしまう夜だった。小料理屋・砂丘屋の縄暖簾から、煮魚と酒の匂いがそんな雨の町へ漏れていた。戸を開ければ、外とはまるで別の世界だった。


炭の赤。


湯気。


酒の匂い。


人の声。


雨に濡れた者が一度だけ肩の力を抜ける、そういう灯が砂丘屋にはあった。「のいさん、そこ退きな。邪魔だよ」

お綿が盆を片手に、乃維助の肩を軽く小突いた。

浪人・斎藤乃維助は徳利を持ったまま、面倒そうに腰をずらした。

「俺はさっきからここにいる」

「あたしはさっきから働いてるんだよ」

お綿は悪びれもせず、その空いた場所を通り抜けた。

板場の奥から包丁の音がした。

炭火の上では鰯が焼けている。皮がぷつりと裂け、脂が炭へ落ちるたび、小さな炎が舌を出した。頃合いを見て魚が返され、仕上げに醤油をひと刷毛。焦げた醤油と脂の匂いが店いっぱいに広がった。

乃維助の目が、ほんの少しだけそちらへ動く。お綿は見逃さなかった。

「もう少し待ちなよ」

「何も言ってないだろうが」

乃維助が不満そうに目を戻す。

「顔がそう言ってるよ」

お綿は笑って小鉢を置いた。浅蜊を酒で蒸したものだった。殻の隙間から乳白色の身が覗き、刻んだ葱が散っている。その横には蕪の浅漬け。派手なものは何もない。だが湯気の向こうに並んだ料理は、どれも「もう一杯」と人の手を徳利へ伸ばさせる顔をしていた。

「僕ここ来ると帰りたくなくなるんだよなあ」

由ノ吉が猪口を傾け、しみじみと言った。

「もう帰れよ」

乃維助は鰯を待ちながら即答した。

「のいさんに言われたかないよ」

由ノ吉が口元を歪める。吉原の妓楼・吉本屋の若旦那が砂丘屋にいること自体は珍しくない。由ノ吉は時折、廓の空気を脱ぐようにここへ来る。

乃維助はもっと頻繁だった。何も話したくない時ほど来る。

お綿は理由を訊かない。ただ飯を出す。徳利が空けば燗をつける。

話したければ聞き、黙りたければ放っておく。

人には、帰る家とは別に、何も説明しなくていい場所が要る。砂丘屋は乃維助にとって、そういう場所だった。


「しかし最近、この辺は物騒だね」

店の隅で飲んでいた桶屋が、不意に声を上げた。

「物盗りか」

乃維助が訊く。

「いや……出るんだよ」桶屋は声を落とした。

「出るって何が?」由ノ吉が面白そうに身を乗り出す。

「これだよ」

桶屋は手首をだらりと曲げ、白目を剥き、口を半開きにした。ご丁寧に舌まで出した。由ノ吉の目が少しだけ上がる。お綿は露骨に嫌そうな顔をした。「またその話かい」

「見た奴がいるんだよ。雨の晩に、この店の裏でさ」

桶屋はますます声を潜めた。


白い着物。


濡れた髪。


顔は見えない。


店の裏口のところに立っている。


気づかず通り過ぎると、後ろから下駄の音がついてくる。


からん。


からん。


振り返れば、誰もいない。


また歩く。


からん。


からん。


雨音の中から二つだけ足音を拾い上げるように、それはいつまでも後ろについてくるという。

「酔っ払いだろ」

乃維助が鼻で笑った。

「夢がねえなあ、のいさんは」

由ノ吉が残念そうに猪口を回す。

「夢ってお前、幽霊に夢を求めるな」

「幽霊くらい夢があってもいいだろ」

「死んでからまで期待されちゃ死人も大変だな」

乃維助が真顔で言うと、お綿が吹き出した。

その時、板場の奥から低い声がした。

「俺も見た」

板前の桑吉だった。包丁の音が止まっている。店の笑い声も一緒に切れた。

お綿だけが燗徳利を持ったまま、ゆっくり桑吉へ目を向けた。

乃維助が猪口を置く。

「いつだ」

「三日前。店仕舞いの後」

「どこで」

「板場の奥」

「女か」

桑吉が頷いた。

「顔は?」

「見えなかった」

「酔ってたんだろ」

「あの時は飲んでねえ」

桑吉はそれだけ言うと、また魚へ向き直った。

乃維助は出てきた鰯を一口食った。皮がぱりっと割れ、熱い脂が舌へ広がる。大根おろしを少し乗せると、脂の重さがすっと消えた。

「うまい」

「今その鰯の話じゃねえだろ」

板場から桑吉の声が飛んだ。由ノ吉が笑う。

「のいさんは幽霊より鰯の方が信用できるんだよ」

「鰯にゃ足は無ぇが、間違いなくこの世にいるからな」

乃維助はもう一口食った。


その時だった。店の外で、何かが鳴いた。

細い声。雨に消えそうな声だった。一度だけ。お綿が顔を上げた。

「何だい、今の」

戸を開ける。雨の向こうに、小さな塊がいた。

犬だった。

白と黒の長い毛が泥と雨に濡れ、細い身体へ貼りついている。鼻は短く、目ばかりが大きい。泥まみれなのに、顔立ちだけは妙に品があった。首には擦り切れた紐と、小さな鈴が残っていた。

「狆か」

そう言って由ノ吉が立ち上がった。犬は逃げる気力もないのか、ただ震えている。お綿がその前にしゃがんだ。

「お前、どこの坊ちゃんだい」

手を伸ばす。犬は少し身を引き、かすかに唸った。だが噛もうとはしない。「お腹減ってんだろ」

お綿の声が自然と柔らかくなる。「拾うなよ」板場から桑吉の声がした。

「まだ拾ってないじゃないよ」お綿が犬から目を離さず答える。

「その言い方の時は拾うんだ」

お綿は聞こえないふりをして、犬を抱き上げた。

軽かった。驚くほど軽い。濡れた毛の下に、細い肋骨が指へ触れた。

「こんな小さいのが、よくここまで来たねえ」

お綿が背中をゆっくり撫でる。板場では魚の骨を外す音がしていた。

ほどなく、味のついていない白身が小皿に盛られて出てきた。

お綿が板場を見る。

「拾うなって言ったの誰だい」

「放っておくわけにもいかねえ」

それだけ聞こえた。乃維助は黙って酒を飲んでいた。

由ノ吉は犬を見ている。

いや。犬が見ている先を見ていた。板場の奥。灯の届かない隅だった。

「のいさん」由ノ吉の声から笑いが消えた。

「なんだ」

「こいつ、さっきからずっと同じところ見てる」

乃維助が振り返る。何もない。ただ暗がりがあるだけだった。

「鼠か何かだろ」

乃維助がそう言った瞬間、犬が低く唸った。小さな身体から出たとは思えない、腹の底へ響く声だった。

由ノ吉はもう笑っていなかった。


*


翌日も犬はいた。その翌日もいた。どこから来たのかは分からない。近所の者に訊いても知らないという。上等な犬だから、どこかの商家か武家から逃げたのだろうとは思われた。だが、探しに来る者はいなかった。

三日目、お綿が言った。

「三太郎」

乃維助が味噌汁から顔を上げる。

「なんでだ」

「この子の顔がそう言ってる」

お綿は当然のように答えた。 

「犬の顔から名前が読めるのか」

「ゆん坊よりはね」

「なんで僕と比べるのさ」

由ノ吉が三太郎を抱き上げ、不満そうに言った。

三太郎は由ノ吉によく懐いた。お綿にはもっと懐いた。板場へ行けば魚が出てくることもすぐ覚えた。そして乃維助には、なぜか勝手について回った。「来るな」

乃維助が店を出る。三太郎がついてくる。

「お前んちは砂丘屋だ」

ついてくる。

「聞け」

乃維助が振り返って睨む。三太郎は一度座った。乃維助が歩き出す。

またついてくる。由ノ吉が腹を抱えて笑った。

「完全になめられてるよ、のいさん」

「犬に上下なんぞ分かるか」

「じゃあ同格なんだ」

「黙れ、ゆん坊」

そんな日が幾日か続いた。だが、濡れた女の噂は消えなかった。むしろ増えていった。

雨の夜だけ。


砂丘屋の裏。


白い着物。


濡れた髪。


からん、からんと後ろからついてくる下駄の音。


噂というものは雨染みとよく似ている。最初は小さな一点でも、放っておけばいつの間にか天井いっぱいに広がっている。

そしてとうとう、お綿自身が声を聞いた。

夜中だった。客を帰し、一人で店の戸締まりをしている時だった。


――帰っておいで。


女の声だった。


耳元からではない。


遠くからでもない。


頭の中へ水滴が一つ落ちたように、声だけが直接響いた。


お綿は戸締まりの手を止めた。


少しの間、黙っていた。


それから暗い店へ向かって言った。


「何処にさ」


返事はなかった。


雨だけが屋根を叩いていた。


*


翌朝。

乃維助は話を聞き終えると、味噌汁をすすった。浅蜊の身を箸でつまむ。

「そりゃ夢だろ」

お綿が目を細めた。

「ずいぶん便利だね、その頭は」

「お前、朝から晩まで立ちっぱなしだろ。疲れてるんだ」

乃維助は浅蜊を口へ放り込んだ。

「はいはい」

お綿は呆れたように湯呑みを置いた。由ノ吉は笑わなかった。

「お綿ちゃんその声、怖かった?」

由ノ吉が訊いた。

お綿は少し考える。

「いや」

「怒ってた?」

「それも違うねえ」

「じゃあ、悲しかった?」

お綿の手が止まった。しばらく考えてから、ゆっくり頷く。

「……そうかもしれないね」

由ノ吉は店の奥へ目をやった。

暗い板場の隅。三太郎が最初の晩から気にしている場所だった。

「怒ってるんじゃないのかもしれない」

「何がだ」

乃維助が怪訝な顔を向ける。

「女」

「……死人の気持ちまで読むな、ゆん坊」

乃維助が露骨に嫌そうな顔をする。

「死人かどうか、まだ分かんないだろ」

由ノ吉が真顔で返した。

乃維助は箸を止める。

「……そこからかよ」

お綿が吹き出した。その時、三太郎が立ち上がった。板場の隅へ歩いていく。床板の前で止まった。

鼻を鳴らす。

一度。

二度。

それから前脚で床を掻き始めた。乃維助が立った。

「そこか?」

床板を外す。湿った土の匂いが、長く閉じ込められていた息のように上がってきた。中から小さな包みが出てきた。油紙はほとんど腐っていた。

中には女物の櫛。欠けた簪。文字の滲んだ手紙。乃維助が慎重に広げた。

読めるところは少ない。待つ。帰る。約束。残っていた言葉は、それだけだった。たった三つの言葉なのに、それだけで誰かの一生が透けて見える気がした。近所の古老を訪ねると、昔この辺りには長屋があり、一人の女が住んでいたという。男の帰りを待ち続けていた。病で死んだとも。川へ入ったとも。男は結局帰らなかったとも。話す者によって、少しずつ違う。

「それだけか」

乃維助が訊いた。

老人は皺だらけの顔で笑った。

「それだけだ」

乃維助は何も言わなかった。事実というものは時間が経てば欠けていく。

最後に残るのは、誰かが覚えていた形だけなのかもしれない。


*


その夜も雨だった。乃維助と由ノ吉は帰っていった。板場も静かだった。

お綿は一人、店を片づけていた。鍋を洗う。包丁を拭く。残った出汁を甕へ移す。炭を落とす。毎晩やっていることだった。手が順番を覚えている。考えなくても身体が動く。最後に暖簾を外そうとした。その時だった。


――帰っておいで。


お綿の手が止まった。今度ははっきり聞こえた。


「またあんたかい」


返事はない。


お綿がゆっくり振り向く。


店の奥に女が立っていた。


白い着物。


濡れた髪。


袖から水が、ぽたり、ぽたりと床へ落ちている。


顔は伏せていた。


外で降る雨とは別の雨を、その女だけがずっと浴び続けているようだった。


お綿は動かなかった。


女が一歩近づく。


灯が揺れた。


もう一歩。


空気が冷たくなる。


「帰っておいで」


今度は唇が動いた。


お綿は女を見た。


怖くないわけではなかった。


脚は重い。


背中には冷たい汗が流れている。


それでも逃げなかった。


「あのね」


お綿が口を開いた。


声は少し震えていた。


「悪いけどね」


女がもう一歩近づく。


お綿は顎を上げた。


「帰るところなら、あたしが自分で決めるよ!」


女の顔が上がった。


その瞬間、灯が消えた。


闇。


雨音。


冷たい空気。


見えないものが一気に距離を詰めた気配がした。


そして。


一声。


三太郎だった。いつからそこにいたのか分からない。小さな身体がお綿の前に立っていた。毛を逆立て、四本の脚で床を踏ん張っている。

「三太郎!」

お綿が声を上げる。三太郎は女のいる闇を睨んだ。低く唸る。お綿や由ノ吉の前では見せたことのない、獣の顔だった。

一声、吠えた。


闇が揺れた。


二声。


女の輪郭が滲んだ。


三声。


見えない水面へ石を投げ込んだように、空気が大きく波打った。三太郎は退かない。むしろ一歩前へ出た。そして突然、何もない空間へ飛びかかった。何かが弾けるような音がした。闇の中に青白い光が一瞬走りすぐに消えた。


灯が戻った。


女はいなかった。


雨音だけがある。


床には、あの古い櫛が落ちていた。


三太郎が近づき、それを器用に咥えた。


お綿はその場へ座り込んだ。


「……あんた」


三太郎が振り向く。


お綿は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「何者だい」


三太郎はお綿の前まで来ると足元でそっと口を開き櫛を放した。そして


ばきり、と音がした。


三太郎が櫛を噛み砕いた。


もう一度。


そしてもう一度。


古い櫛は、とうとう原形をなくした。


三太郎はその欠片を見下ろし、満足したように小さく鼻を鳴らした。


*


翌朝。

乃維助は話を聞き終えると、味噌汁をすすった。朝の光が砂丘屋の格子から斜めに差し込んでいる。昨夜ここに何かいたなどと、朝は少しも信じていない顔をしていた。

「そりゃ夢だろ」

乃維助が平然と言った。

由ノ吉が目を丸くする。

「ここまで聞いて、それ?」

「犬が吠えて目が覚めた。それだけだ」

乃維助は浅蜊の身を箸でつまんだ。

「便利だねえ、のいさん。理屈って」

由ノ吉が半ば感心したように呟く。

「便利だから使ってる」

「見事だね」

「褒めるな」

「褒めてないんだけどね」

お綿は二人を放っておき、三太郎の皿へ鯛の身を丁寧にほぐしていた。

乃維助の目がそちらへ向く。

「おいお綿それ昨日俺が食ったやつより上等じゃねえか」

「命の恩人だからね」

お綿は三太郎を優しく見つめながら答えた。

「俺も何度かお前を助けてるぞ」

お綿が手を止め、乃維助を見る。

「いつだい?」

乃維助は黙った。由ノ吉が肩を震わせる。

「三太郎の勝ちだな」

「ゆん坊、お前は黙ってろ」

乃維助が睨む。由ノ吉は笑ったまま三太郎を見た。

だが、その目から笑いが少し消えた。

三太郎は鯛を食べ終えると、何事もなかったように前脚を舐めている。

「のいさん」

「なんだ」

「昨日のあれ、夢じゃないと思うよ」

乃維助が面倒そうに由ノ吉を見る。

「見てもいないのに分かるのか」

「三太郎がいるから」

由ノ吉が静かに答えた。乃維助の眉がわずかに動く。

「犬だぞ」

「うん」

「犬がどうした」

由ノ吉は三太郎を見たまま、小さく笑った。

「いや。犬でよかったなと思って」

「意味が分からん」

「分からなくていいよ」

乃維助が何か言い返そうとしたところで、お綿が椀を置いた。

「朝飯時に化け物の話はそこまで」

湯気の立つ飯。葱の浮いた汁。甘辛く煮た穴子。冷やの酒。昨夜の闇は、飯の匂いの前ではずいぶん遠く感じられた。お綿は三太郎を見た。

「お前、帰るところないんだろ」

三太郎が首を傾げる。「じゃあ、ここにいな」お綿が何でもないことのように言った。三太郎は少しお綿を見上げた。それから尻尾を振った。

由ノ吉がその様子を見て、小さく笑う。

「決まったね」

「何がだ」乃維助が訊く。

「帰るところ」

お綿は何も言わず、三太郎の頭を撫でた。


*


それから数日後。雨は上がっていた。長く濡れていた町は朝日を浴び、軒から残った雫をぽつりぽつりと落としている。飯を終えた乃維助が砂丘屋を出た。三太郎が後ろからついてきた。

「おい」

乃維助が振り返る。三太郎は止まらない。

「お前んちはあっちだぞ」

乃維助が砂丘屋を指す。三太郎は一度も見なかった。そのまま乃維助の足元まで来る。

店先からお綿が笑った。

「連れていきな、のいさん」

「俺の犬じゃない」

「三太郎はそう思ってないみたいだよ」

お綿が暖簾に手をかけたまま言う。

「のいさんより人を見る目あるな」

由ノ吉が横から口を挟んだ。

「余計なことを言うな」

乃維助が睨む。由ノ吉は三太郎を見た。

「でも不思議だねえ」

「何がだ」

「帰るところが出来た途端、今度は出歩きたがる」

乃維助は三太郎を見下ろした。三太郎も見上げる。人と犬が、しばらく無言で睨み合った。

「……勝手にしろ」

乃維助が根負けしたように歩き出す。三太郎は尻尾を振り、その横へ並んだ。由ノ吉が二人の背中を見て笑う。砂丘屋の暖簾の向こうには、お綿が立っていた。店の奥では朝の火が入り、出汁の匂いがゆっくりと立ち始めている。乃維助が歩き出すと、三太郎は当然のようにその横へ並んだ。

店先からお綿が声を飛ばす。

「夕餉までには帰っといで!」

三太郎は振り返らなかった。ただ、尻尾を大きく振った。

乃維助が横目で見る。

「聞こえてるじゃねえか」

三太郎は知らぬ顔で歩いた。帰る場所を知っている者の歩き方だった。

振り返れば、お綿の笑う顔の上で、砂丘屋の暖簾が揺れていた。


夜になれば砂丘屋にまた灯がともる。腹を空かせた者が来れば飯が出る。酒が欲しければ徳利が置かれる。

雨の夜に誰かを呼んでいた女の声は、それから聞かれなくなった。

ただ、雨上がりの軒先で三太郎の小さな鈴が鳴る度、お綿は時々戸口へ目をやった。

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