零 消えた簪 キエタカンザシ
吉原の夜は、騒がしいくせに、妙に静かな時がある。
三味線も、笑い声も、酒の匂いも、全部そこにある。
格子の向こうでは女が笑い、往来では酔客が肩をぶつけ、提灯の灯が夜風に揺れている。それなのに、ふと何か一つだけが抜け落ちる。
賑わいの継ぎ目に細い裂け目ができて、その向こうから夜の底が覗く。
それはそんな瞬間だった。
その晩、斎藤乃維助は吉本屋の縁側で酒を飲んでいた。浪人である。
そこへ妓楼・吉本屋の若旦那、由ノ吉がしゃがみこんだ。
「のいさん」
「なんだ」
乃維助は徳利を傾けたまま、目だけを向けた。
「簪が消えた」
「知らん」
乃維助は猪口へ酒を注ぎ続けた。
「花魁の簪だぞ」
由ノ吉が少し身を乗り出す。
「なおさら知らん」
「三十両の」
乃維助の手が止まった。猪口の縁ぎりぎりまで満ちた酒が、わずかに揺れた。
「……話せ」 乃維助は徳利を静かに置いた。
「現金な浪人だな」
由ノ吉が口元だけで笑った。
消えたのは、吉本屋一番の売れっ子、紫乃太夫の簪だった。
上質な鼈甲に、鮮やかな桃色の珊瑚を一粒あしらったものだ。
昼過ぎ、馴染みの大店の主人から贈られたものだという。
夜の座敷で披露するはずだったが、夕刻には消えていた。
その間、紫乃の部屋へ入った者は三人。
紫乃本人。
遊女の鈴蘭。
そして女中のお菊。
「それで?」
乃維助が面倒そうに訊いた。
「三人とも盗っちゃいねえと言ってる」
由ノ吉は肩をすくめる。
「盗人はたいていそう言う」
「つまらねえこと言うなあ」
由ノ吉が呆れたように鼻から息を抜いた。
乃維助は紫乃の部屋へ入ると、まず畳を見た。鏡台。火鉢。衣桁。布団。開け放たれた障子。
人は嘘をつくが、物は滅多に嘘をつかない。乃維助はそういう男だった。「窓は?」
「ここは二階だ。下は中庭」
由ノ吉が障子の外を顎で示した。
乃維助は障子際にしゃがんだ。桟には薄く埃が積もっている。指でなぞる。「誰もここから出入りしていない」
「だろうな」
由ノ吉は壁際にもたれ、部屋の中をぼんやり眺めている。
乃維助が振り返って言った。
「何してる」
「見てる」
「俺も見ている」
「のいさんは物を見てる。僕は人を見てる」
由ノ吉が平然と答えた。乃維助は鼻で笑った。
「格好をつけるな、ゆん坊」
「こういう時くらいやめろよその呼び方」
由ノ吉が露骨に嫌そうな顔をする。
「いつならいいんだ」
「知らねえよ」
由ノ吉は諦めたように天井を見た。
そこへ、鈴蘭が入ってきた。薄い色の着物を着た、小柄な女だった。
客前ではもう少し大人びた顔をするのだろうが、こうして見るとまだ少女の名残が強い。
「若旦那」
鈴蘭が由ノ吉を呼んだ。
その瞬間、由ノ吉の表情がほんの少しだけ変わった。笑ったわけではない。優しくなった、と言うほど大袈裟でもない。
ただ、張っていた糸が一本だけ緩んだ。乃維助はそれを見逃さなかった。
「お前、紫乃の部屋にいたそうだな」
乃維助が鈴蘭へ向き直る。
鈴蘭は少し身を固くし、小さくうなずいた。
「はい」
「簪を見たか」
一瞬。本当に一瞬だけ、鈴蘭の目が泳いだ。静かな水面へ小石が落ちたように、隠していたものが波紋になって顔へ出る。
「何か知ってるな」
乃維助が目を細めた。
「のいさん」
由ノ吉がすぐに口を挟んだ。
「なんだ」
「鈴蘭は盗らねえよ」
由ノ吉の声から、いつもの軽さが少し消えていた。
乃維助はゆっくり由ノ吉を見る。
「盗んだなんて言ってない」
由ノ吉が黙った。鈴蘭も黙る。一瞬だけ、部屋の空気が固くなった。
乃維助は眉を上げた。
「珍しいな、ゆん坊」
「何が」
由ノ吉が警戒するように訊く。
「お前が先に庇うとは」
由ノ吉の顔から笑みが消えた。鈴蘭が小さく言った。
「若旦那、いいんです」
「よくねえよ」
由ノ吉がすぐに返す。
「いいんです」
鈴蘭は今度だけ、由ノ吉の目をまっすぐ見た。その言い方は妙に強かった。乃維助はしばらく鈴蘭を見た。怯えている。だが、自分のために怯えている顔ではない。
「簪を見たんだな?」
「……見ました」
鈴蘭が視線を落とした。
「最後に見たのは?」
「紫乃さんが、手に持っていました」
「その後は」
鈴蘭は答えなかった。
由ノ吉が鈴蘭を見る。今度は庇わない。ただ、待った。人が自分から口を開くまで待つのは、問い詰めるより難しい。由ノ吉にはそれが出来た。
やがて鈴蘭が言った。
「言えません」
乃維助は大きく息を吐いた。
「面倒な女だな」
「のいさん」
由ノ吉が眉を寄せる。
「褒めてんだ」
乃維助は平然と答えた。
「どこがだよ」
由ノ吉が呆れ返る。
しばらくして、紫乃太夫が呼ばれた。美しい女だった。
ただし、泣いていた。
乃維助は顔を見た瞬間、簪を失くしたから泣いているのではないと思った。品物を失くした人間は、探す。盗まれたと思う人間は、怒る。紫乃の目にあるのは、そのどちらでもなかった。何かを選んでしまった人間の目だった。
「誰かを庇っているな」
乃維助が言った。
紫乃が顔を上げる。
「違うよ」
由ノ吉が横から静かに言った。
「何がだ」
乃維助が怪訝そうに見る。
「この女は誰かを庇ってるんじゃない」
由ノ吉は紫乃の顔から目を逸らさなかった。
「自分を隠してる」
その言葉で、紫乃の顔が崩れた。
乃維助は眉をひそめる。
「どういうことだ」
由ノ吉は答えず、紫乃の髪を見た。
「なあ紫乃。あの簪、嫌だったのか」
沈黙。紫乃は小さく首を振った。
「贈った男が嫌いなのか」
由ノ吉がさらに訊く。また首を振る。
「なら…」
紫乃は唇を噛んだ。
「……嬉しかったんです」
乃維助の眉間に皺が寄った。
「嬉しくて捨てたってのか?」
「のいさん、黙って」
由ノ吉が片手を上げた。
乃維助は不満そうに口を閉じる。
由ノ吉だけが、小さく「ああ」と言った。
「嬉しすぎたんだな」
紫乃が泣いた。今度は声を押し殺せなかった。
簪は盗まれていなかった。紫乃自身が、庭の古井戸へ投げ捨てていた。
翌月、彼女は身請けされる予定だった。相手は、その簪を贈った馴染み客だった。
だが紫乃には、その男と出会うよりずっと前から、心に残り続けている男がいた。幼い頃から密かに想い続けてきた男だった。
長く、長く、想った。忘れようとしても忘れられなかった。
だから、自分の心はとうに決まっていると思っていた。
なのに、その日。
身請けしてくれる男から贈られた鼈甲の簪を手にした瞬間、紫乃は気づいてしまった。
嬉しかった⋯嬉しいと思ってしまった⋯
それが怖かったのだ。
人の心は、長く握っていれば形が決まるものではない。閉じた掌の中でさえ、知らぬ間に姿を変える。紫乃は初めて、自分が本当に愛しているのは誰なのか分からなくなった。
そして、そのことを最初に見抜いたのが鈴蘭だった。
「だから黙ってたのか」
乃維助が鈴蘭へ訊く。
鈴蘭はうつむいたまま頷いた。
「紫乃さんが、誰にも言わないでって」
「三十両だぞ」
乃維助は本気で惜しそうな顔をした。
「のいさん」
由ノ吉が額を押さえる。
「なんだ」
乃維助が怪訝そうに見る。
「そこじゃねえだろ」
由ノ吉は呆れたように息を吐いた。
「三十両だぞ」
乃維助が念を押す。
「二度も言うなよ」
由ノ吉が顔をしかめた。
鈴蘭が、くすっと笑った。由ノ吉はその声を聞くと、ようやく少しだけいつもの顔に戻った。乃維助はそれを横目で見た。
「ゆん坊」
「なんだよ」
由ノ吉が嫌な予感でもしたように眉を寄せる。
「お前、あの女のことになると鈍るな」
由ノ吉の眉がぴくりと動いた。
「何の話?」
「別に」
乃維助は知らぬ顔で猪口を持ち上げる。
「その顔やめろよ」
「どの顔だ」
乃維助がわざと首を傾げた。
「分かってる顔」
乃維助は鼻で笑った。
「分からん。お前ほど人の心は読めんからな」
由ノ吉はしばらく乃維助を睨んでいたが、やがて諦めたように肩をすくめた。その夜、吉本屋では、簪泥棒が出たという噂が流れた。
が、犯人はついに見つからなかった。
紫乃の胸の内も、鈴蘭が守った約束も、表へ出ることはなかった。人の心など、日の当たるところへ引きずり出さない方がいい時もある。
古井戸の底には、鼈甲の簪だけが沈んでいた。暗い水の中では、三十両という値打ちも、誰が誰を愛したかという悩みも、同じ泥を被っていた。
誰にも知られず、そのままにしておく――はずだった。
翌朝、吉原の空が白み始める頃、由ノ吉は庭先で乃維助に叩き起こされた。「ゆん坊」
「……なんだよ」
由ノ吉が眠そうな顔を上げる。
「縄を持て」
由ノ吉の目が少し開いた。
「……のいさんあんたまさか」
嫌な予感が、寝ぼけ眼から一気に眠気を追い出したらしい。
乃維助は古井戸を指した。
「三十両だぞ」
由ノ吉が天を仰ぐ。
「ほんっと野暮だな、のいさん」
「黙って持て」
乃維助はすでに袖をたくし上げていた。
二人は夜明け前の庭で、泥だらけになりながら古井戸をさらった。
一刻。まだ出ない。
二刻。着物の裾は泥まみれになり、由ノ吉は途中から悪態をつく気力まで失くしていた。
朝の光が少しずつ庭へ入り込んでくる。夜の間は何もかも秘密らしく見えた吉原も、朝になれば妙に現実的だった。泥は泥でしかなく、井戸は冷たく、三十両は重かった。
途中、鈴蘭が様子を見に来た。二人の姿を見て、しばらく言葉を失う。
「何してるんです?」
由ノ吉が泥だらけの顔を上げた。
「見りゃ分かるだろ。人の心ってやつを拾ってんだよ」
その横で乃維助が即座に言った。
「三十両だ」
鈴蘭は一瞬ぽかんとした。
それから、堪えきれなくなったように声を上げて弾けるように笑った。
由ノ吉は、その笑い声を聞いていた。
朝の庭へ転がるような、飾りのない笑い声だった。
乃維助は井戸の底を見ていた。
「来た」
縄を引く。
水の中から、何かが朝日を拾った。
紫乃太夫の簪だった。
飴色の鼈甲に据えられた鮮やかな桃色の珊瑚が、澄んだ光を返している。
人の心は拾えなくても、簪なら拾える。
乃維助には、その方が性に合っていた。
「ほら見ろ」
乃維助が得意げに簪を掲げた。
由ノ吉は泥だらけの手で顔を覆った。
「のいさん。そういうところだぞ」
「何がだ」
乃維助が怪訝な顔で訊く。
鈴蘭はまだ笑っていた。
朝の光の中で、その笑い声だけが、三十両より少し高価そうに聞こえた。




