↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/12

零 消えた簪 キエタカンザシ

吉原の夜は、騒がしいくせに、妙に静かな時がある。

三味線も、笑い声も、酒の匂いも、全部そこにある。

格子の向こうでは女が笑い、往来では酔客が肩をぶつけ、提灯の灯が夜風に揺れている。それなのに、ふと何か一つだけが抜け落ちる。

賑わいの継ぎ目に細い裂け目ができて、その向こうから夜の底が覗く。

それはそんな瞬間だった。


その晩、斎藤乃維助は吉本屋の縁側で酒を飲んでいた。浪人である。

そこへ妓楼・吉本屋の若旦那、由ノ吉がしゃがみこんだ。

「のいさん」

「なんだ」

乃維助は徳利を傾けたまま、目だけを向けた。

「簪が消えた」

「知らん」

乃維助は猪口へ酒を注ぎ続けた。

「花魁の簪だぞ」

由ノ吉が少し身を乗り出す。

「なおさら知らん」

「三十両の」

乃維助の手が止まった。猪口の縁ぎりぎりまで満ちた酒が、わずかに揺れた。

「……話せ」 乃維助は徳利を静かに置いた。

「現金な浪人だな」 

由ノ吉が口元だけで笑った。


消えたのは、吉本屋一番の売れっ子、紫乃太夫の簪だった。


上質な鼈甲に、鮮やかな桃色の珊瑚を一粒あしらったものだ。

昼過ぎ、馴染みの大店の主人から贈られたものだという。


夜の座敷で披露するはずだったが、夕刻には消えていた。

その間、紫乃の部屋へ入った者は三人。

紫乃本人。

遊女の鈴蘭。

そして女中のお菊。

「それで?」

乃維助が面倒そうに訊いた。

「三人とも盗っちゃいねえと言ってる」

由ノ吉は肩をすくめる。

「盗人はたいていそう言う」

「つまらねえこと言うなあ」

由ノ吉が呆れたように鼻から息を抜いた。


乃維助は紫乃の部屋へ入ると、まず畳を見た。鏡台。火鉢。衣桁。布団。開け放たれた障子。

人は嘘をつくが、物は滅多に嘘をつかない。乃維助はそういう男だった。「窓は?」

「ここは二階だ。下は中庭」

由ノ吉が障子の外を顎で示した。

乃維助は障子際にしゃがんだ。桟には薄く埃が積もっている。指でなぞる。「誰もここから出入りしていない」

「だろうな」

由ノ吉は壁際にもたれ、部屋の中をぼんやり眺めている。

乃維助が振り返って言った。

「何してる」

「見てる」

「俺も見ている」

「のいさんは物を見てる。僕は人を見てる」

由ノ吉が平然と答えた。乃維助は鼻で笑った。

「格好をつけるな、ゆん坊」

「こういう時くらいやめろよその呼び方」

由ノ吉が露骨に嫌そうな顔をする。

「いつならいいんだ」

「知らねえよ」

由ノ吉は諦めたように天井を見た。

そこへ、鈴蘭が入ってきた。薄い色の着物を着た、小柄な女だった。

客前ではもう少し大人びた顔をするのだろうが、こうして見るとまだ少女の名残が強い。

「若旦那」

鈴蘭が由ノ吉を呼んだ。

その瞬間、由ノ吉の表情がほんの少しだけ変わった。笑ったわけではない。優しくなった、と言うほど大袈裟でもない。

ただ、張っていた糸が一本だけ緩んだ。乃維助はそれを見逃さなかった。

「お前、紫乃の部屋にいたそうだな」

乃維助が鈴蘭へ向き直る。

鈴蘭は少し身を固くし、小さくうなずいた。

「はい」

「簪を見たか」

一瞬。本当に一瞬だけ、鈴蘭の目が泳いだ。静かな水面へ小石が落ちたように、隠していたものが波紋になって顔へ出る。

「何か知ってるな」

乃維助が目を細めた。

「のいさん」

由ノ吉がすぐに口を挟んだ。

「なんだ」

「鈴蘭は盗らねえよ」

由ノ吉の声から、いつもの軽さが少し消えていた。

乃維助はゆっくり由ノ吉を見る。

「盗んだなんて言ってない」

由ノ吉が黙った。鈴蘭も黙る。一瞬だけ、部屋の空気が固くなった。

乃維助は眉を上げた。

「珍しいな、ゆん坊」

「何が」

由ノ吉が警戒するように訊く。

「お前が先に庇うとは」

由ノ吉の顔から笑みが消えた。鈴蘭が小さく言った。

「若旦那、いいんです」

「よくねえよ」

由ノ吉がすぐに返す。

「いいんです」

鈴蘭は今度だけ、由ノ吉の目をまっすぐ見た。その言い方は妙に強かった。乃維助はしばらく鈴蘭を見た。怯えている。だが、自分のために怯えている顔ではない。

「簪を見たんだな?」

「……見ました」

鈴蘭が視線を落とした。

「最後に見たのは?」

「紫乃さんが、手に持っていました」

「その後は」

鈴蘭は答えなかった。

由ノ吉が鈴蘭を見る。今度は庇わない。ただ、待った。人が自分から口を開くまで待つのは、問い詰めるより難しい。由ノ吉にはそれが出来た。

やがて鈴蘭が言った。

「言えません」

乃維助は大きく息を吐いた。

「面倒な女だな」

「のいさん」

由ノ吉が眉を寄せる。

「褒めてんだ」

乃維助は平然と答えた。

「どこがだよ」

由ノ吉が呆れ返る。


しばらくして、紫乃太夫が呼ばれた。美しい女だった。

ただし、泣いていた。

乃維助は顔を見た瞬間、簪を失くしたから泣いているのではないと思った。品物を失くした人間は、探す。盗まれたと思う人間は、怒る。紫乃の目にあるのは、そのどちらでもなかった。何かを選んでしまった人間の目だった。

「誰かを庇っているな」

乃維助が言った。

紫乃が顔を上げる。

「違うよ」

由ノ吉が横から静かに言った。

「何がだ」

乃維助が怪訝そうに見る。

「この女は誰かを庇ってるんじゃない」

由ノ吉は紫乃の顔から目を逸らさなかった。

「自分を隠してる」

その言葉で、紫乃の顔が崩れた。

乃維助は眉をひそめる。

「どういうことだ」

由ノ吉は答えず、紫乃の髪を見た。

「なあ紫乃。あの簪、嫌だったのか」

沈黙。紫乃は小さく首を振った。

「贈った男が嫌いなのか」

由ノ吉がさらに訊く。また首を振る。

「なら…」

紫乃は唇を噛んだ。

「……嬉しかったんです」

乃維助の眉間に皺が寄った。

「嬉しくて捨てたってのか?」

「のいさん、黙って」

由ノ吉が片手を上げた。

乃維助は不満そうに口を閉じる。

由ノ吉だけが、小さく「ああ」と言った。

「嬉しすぎたんだな」

紫乃が泣いた。今度は声を押し殺せなかった。


簪は盗まれていなかった。紫乃自身が、庭の古井戸へ投げ捨てていた。

翌月、彼女は身請けされる予定だった。相手は、その簪を贈った馴染み客だった。

だが紫乃には、その男と出会うよりずっと前から、心に残り続けている男がいた。幼い頃から密かに想い続けてきた男だった。

長く、長く、想った。忘れようとしても忘れられなかった。 

だから、自分の心はとうに決まっていると思っていた。

なのに、その日。

身請けしてくれる男から贈られた鼈甲の簪を手にした瞬間、紫乃は気づいてしまった。


嬉しかった⋯嬉しいと思ってしまった⋯


それが怖かったのだ。


人の心は、長く握っていれば形が決まるものではない。閉じた掌の中でさえ、知らぬ間に姿を変える。紫乃は初めて、自分が本当に愛しているのは誰なのか分からなくなった。

そして、そのことを最初に見抜いたのが鈴蘭だった。

「だから黙ってたのか」

乃維助が鈴蘭へ訊く。

鈴蘭はうつむいたまま頷いた。

「紫乃さんが、誰にも言わないでって」

「三十両だぞ」

乃維助は本気で惜しそうな顔をした。

「のいさん」

由ノ吉が額を押さえる。

「なんだ」

乃維助が怪訝そうに見る。

「そこじゃねえだろ」

由ノ吉は呆れたように息を吐いた。

「三十両だぞ」

乃維助が念を押す。

「二度も言うなよ」

由ノ吉が顔をしかめた。

鈴蘭が、くすっと笑った。由ノ吉はその声を聞くと、ようやく少しだけいつもの顔に戻った。乃維助はそれを横目で見た。

「ゆん坊」

「なんだよ」

由ノ吉が嫌な予感でもしたように眉を寄せる。

「お前、あの女のことになると鈍るな」

由ノ吉の眉がぴくりと動いた。

「何の話?」

「別に」

乃維助は知らぬ顔で猪口を持ち上げる。

「その顔やめろよ」

「どの顔だ」

乃維助がわざと首を傾げた。

「分かってる顔」

乃維助は鼻で笑った。

「分からん。お前ほど人の心は読めんからな」

由ノ吉はしばらく乃維助を睨んでいたが、やがて諦めたように肩をすくめた。その夜、吉本屋では、簪泥棒が出たという噂が流れた。

が、犯人はついに見つからなかった。


紫乃の胸の内も、鈴蘭が守った約束も、表へ出ることはなかった。人の心など、日の当たるところへ引きずり出さない方がいい時もある。

古井戸の底には、鼈甲の簪だけが沈んでいた。暗い水の中では、三十両という値打ちも、誰が誰を愛したかという悩みも、同じ泥を被っていた。

誰にも知られず、そのままにしておく――はずだった。


翌朝、吉原の空が白み始める頃、由ノ吉は庭先で乃維助に叩き起こされた。「ゆん坊」

「……なんだよ」

由ノ吉が眠そうな顔を上げる。

「縄を持て」

由ノ吉の目が少し開いた。

「……のいさんあんたまさか」

嫌な予感が、寝ぼけ眼から一気に眠気を追い出したらしい。

乃維助は古井戸を指した。

「三十両だぞ」

由ノ吉が天を仰ぐ。

「ほんっと野暮だな、のいさん」

「黙って持て」

乃維助はすでに袖をたくし上げていた。

二人は夜明け前の庭で、泥だらけになりながら古井戸をさらった。


一刻。まだ出ない。


二刻。着物の裾は泥まみれになり、由ノ吉は途中から悪態をつく気力まで失くしていた。

朝の光が少しずつ庭へ入り込んでくる。夜の間は何もかも秘密らしく見えた吉原も、朝になれば妙に現実的だった。泥は泥でしかなく、井戸は冷たく、三十両は重かった。

途中、鈴蘭が様子を見に来た。二人の姿を見て、しばらく言葉を失う。

「何してるんです?」

由ノ吉が泥だらけの顔を上げた。

「見りゃ分かるだろ。人の心ってやつを拾ってんだよ」

その横で乃維助が即座に言った。

「三十両だ」

鈴蘭は一瞬ぽかんとした。

それから、堪えきれなくなったように声を上げて弾けるように笑った。

由ノ吉は、その笑い声を聞いていた。

朝の庭へ転がるような、飾りのない笑い声だった。

乃維助は井戸の底を見ていた。

「来た」

縄を引く。


水の中から、何かが朝日を拾った。


紫乃太夫の簪だった。

飴色の鼈甲に据えられた鮮やかな桃色の珊瑚が、澄んだ光を返している。


人の心は拾えなくても、簪なら拾える。

乃維助には、その方が性に合っていた。

「ほら見ろ」

乃維助が得意げに簪を掲げた。

由ノ吉は泥だらけの手で顔を覆った。

「のいさん。そういうところだぞ」

「何がだ」

乃維助が怪訝な顔で訊く。

鈴蘭はまだ笑っていた。


朝の光の中で、その笑い声だけが、三十両より少し高価そうに聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。