第二幕 競う者たち②
第二章 見えない距離
二年目の秋、幼年学校に新しい実技教師が赴任した。
ドレイク・サルノという三十代の男で、前任の第二騎士団から出向してきた人物だった。がっしりとした体格で、声が大きく、笑い方が豪快で、生徒との距離を縮めるのが上手かった。たちまち男子生徒に人気が出た。
ドレイク教師の実技の授業は、従来の型稽古に加えて「模擬戦」の要素を取り入れたものだった。二人一組で試合形式の打ち合いをさせ、それを他の生徒が観察する形式だ。
初回の模擬戦の組み合わせは抽選で決まった。
ロートの相手は、クルスト・ベルタンという男子生徒だった。背が高く、腕力があり、剣術の基礎が安定している。幼年学校内でも実技の上位に位置する生徒だった。
しかし、試合が始まって十秒もしないうちに、ロートはクルストの剣を弾いた。
弾いたというより、誘導した。クルストの踏み込みを半歩ずらす動作から、打ち込みの軌道を予測し、体を流しながら逆に剣を差し込んだ。クルストは自分の剣が弾かれた瞬間に何が起きたか理解できていなかった。
「そこまで」ドレイクが言った。「ロート、一本。……面白い動きをする。どこで習った?」
「グランシール邸で、引退した騎士に」
「名は?」
「ヴァルカスという者です」
ドレイクの目が変わった。「ヴァルカス・ウェーデンか?」
「御存知ですか」
「かつて第三騎士団に在籍した剣客だ。両手剣使いとして有名だ。知らぬ者はおらんよ」ドレイクは腕を組んだ。「なるほど、そこで仕込まれたか。それで納得した」
周囲の生徒がロートを見る目が変わった。
それは羨望とも警戒とも取れる目だった。ロートはそれに特に反応しなかった。ただ木剣を下ろして、次の組の試合を観察し始めた。
シェルファの試合は五組目だった。相手は女子生徒の中では体格の良いフェリア・オルレイという生徒。シェルファは細身の片手剣を流麗に使い、フェリアの攻撃をいなしながら三本のうち二本を取った。動きは滑らかで、観ていて美しかった。終わった後に拍手が起きた。
「シェルファは客に見せる剣を持っている」ドレイクは言った。「それは才能だ。場を読む能力が高い」
シェルファは「ありがとうございます」と笑顔で答えた。その笑顔が教室全体を和ませた。
ロートはシェルファの試合を見ていた。上手かった。美しかった。自分にはない動きがあった。目の使い方、体重の預け方、対戦相手との間合いの詰め方に、独特の柔らかさがある。自分の剣が「重さで制する」ものだとすれば、シェルファの剣は「流れで崩す」ものだった。
異なる方向性だ、とロートは思った。どちらが上ということではない。
しかしその夜、ベッドの中で、ロートは珍しく眠れなかった。
シェルファに拍手が起きた瞬間を、何度か思い返した。自分の試合では、拍手はなかった。驚きの沈黙があっただけだ。その差がどこから来るのかを考えていたわけではない。ただ、何かが引っかかっていた。
ロートは自分の胸の内を精密に調べようとして、諦めた。言語化できないものを無理に言語化しようとするより、眠る方が建設的だ。
目を閉じた。
しかしその「何か引っかかるもの」は、消えなかった。
三年目になると、二人の成績の差はある種の既成事実として学校全体に知れ渡っていた。
定期試験のたびに一位がロート、二位がシェルファ。その順序は一度も変わらなかった。差は科目によって広がったり縮まったりしたが、総合点では常にロートが上だった。
それに対してシェルファは、表面上は何も言わなかった。「ロートはすごいわ」と笑って言い、悔しがるそぶりは見せなかった。同期の生徒たちも、「グランシール家は上も下も優秀だ」などと言った。上、という言葉がロートを指しているのは明らかだった。
三年目の冬のある夜。
寮の共有室でシェルファが課題に取り組んでいるところに、ロートが教科書を持って入ってきた。いつものように、並んで課題をこなすためだ。
「ねえ、ロート」
「なんだ」
「あなたって、疲れないの?」
ロートは椅子に座りながら「何が」と聞いた。
「勉強も、稽古も、全部。いつも全力で、いつも一番で。疲れないの?」
「疲れる。だが疲れても続ける」
「なんで?」
「必要だからだ、と言ったことがある」
「今も同じ答え?」
「同じだ」
シェルファはしばらく黙って羽根ペンを回した。
「わたしね」と、彼女は言った。「たまに思うことがあるの」
「何をだ」
「あなたが、ちょっと羨ましい」
ロートは手を止めた。「どういう点が」
「感情に振り回されないところ。勉強でも剣でも、ただ淡々とできるところ。わたしは試験が近くなると焦るし、試合の前は眠れなくなるし、友達に嫌なことを言われたら三日は引きずるし……あなたにはそういうのがないじゃない」
「ないとは限らない」
「嘘。だってわたし、あなたが焦ってるの見たことないもの」
「それは、外に出さないだけだ」
シェルファはロートを見た。「本当に?」
「本当だ」
「じゃあどんな時、何に焦るの?」
ロートは少し考えた。「自分が積み上げてきたものが、正しい方向かどうか、分からない時。目標が見えなくなる時」
「それは『焦り』というより『不安』じゃない?」
「違いがあるのか」
「焦りは急ぐことで、不安は立ち止まること」シェルファは言った。「あなたは焦らないけど、不安になることはあるのね」
「……そうかもしれない」
「そういうこと、わたしにもっと言ってくれれば良いのに」
「言う必要がないと思っていた」
「友達に話すことに必要とか不必要とかはないの」
ロートはその言葉を少し反芻した。「……覚えておく」
「覚えとかなくていいの。感じた時に言えば良い」
「私には、それが難しい」
「知ってる」シェルファは笑った。「わたしと、練習しましょ」
その夜の会話は、後から振り返ればかけがえのないものだったが、その時点の二人はそれを特別だと感じていなかった。ただ夜の共有室で、課題を前にして、少しだけ本音を話した。そういう夜が幾つもあった。
それが普通だと思っていた。
シェルファが他の生徒から「ロートのことを、どう思うか」と聞かれたのは、三年目の春のことだった。
聞いてきたのは同じ寮の女子、マリア・エルキンという明るい性格の生徒だった。
「どうって、どういう意味?」シェルファは聞き返した。
「なんというか……ロートさんってあまり笑わないし、話しかけても短い返事しかしないし、何を考えてるか全然わからなくて、少し怖いっていう子もいるの。でもシェルファはいつも仲良くしているから、実際のところはどういう人なのかなって」
「怖くないわよ」シェルファは即答した。「ちょっと不器用なだけで、根は真面目で優しい」
「あの子、優しいの?」
「見えにくいけれど、そう。困ってる時にはちゃんと気づいてくれる」
「でも、その割に何も言ってこないよね」
「言葉より先に何かしてくれることが多いの。気づいたら課題の解き方がメモしてあったり、稽古の後に道具が片付いてたり」
「それって、確かに優しいけど……なんか、近づきにくい感じがする」
シェルファはその言葉を、不思議と反論する気になれなかった。
「まあ、そうかもしれない。誰とでも仲良くなれるタイプじゃないから。でも、一度仲良くなれば、あんなに信頼できる人はいないと思う」
「シェルファはあの子とずっと仲良しね、昔から」
「一緒に育ったようなものだから」
「羨ましいな」とマリアは言った。「私もああいう子が友達だったら、なんか安心する気がする」
その言葉を、シェルファは夜になってからも考えていた。
安心する。
確かに、ロートといると安心した。何があっても動じないロートが隣にいると、自分が揺れていても大丈夫な気がした。それは本当のことだ。
だが同時に、うっすらと気づいていることもあった。
ロートといると、安心する。しかし、安心するだけではない。
試験の結果が張り出されるたびに、一位の名前を見るたびに、胸の奥に何かがある。それを悔しいと呼ぶのは簡単だが、それだけではない気がした。
自分の感情に名前をつけるのが、シェルファには時々難しかった。炎の魔法は感情から生まれると教師は言うが、この感情は何の炎を生むのか。
答えは出ないまま、眠った。




