第二幕 競う者たち①
第一章 石の学舎
幼年学校の正式名称は、神聖トライアス帝国立貴族子弟育成学院という。
帝国の官僚と軍人を育てるための機関として、帝国成立とほぼ同時期に設立されたその施設は、帝都東区の小高い丘の上に建っており、分厚い石壁に囲まれた一種の小要塞のような外観をしていた。敷地内には講義棟、寮棟、食堂、剣術訓練場、騎馬場が揃い、外部との交流は原則として月に一度の面会日に限られた。
十歳から十二歳くらいになったころに入学し、それからの四年間、貴族の子弟はここで寝食を共にしながら学ぶ。
グレイドルが馬車で二人を送り届けた入学の朝は、晴れていたが風が強かった。
石造りの正門の前で、グレイドルはまずシェルファに向かって言った。「好きにやりなさい。ただし人の道を外れるな」
「お父様らしい言い方ね」シェルファは笑った。
次にロートに向かって、低い声で言った。「ここでの名はロート・グランシールだ。覚えているな」
「はい」
「何か問われても、父は遠縁の親戚で既に亡くなっていると答えなさい。それ以上のことは言う必要はない」
「承知しました」
グレイドルはロートの目をしばらく見た。何かを言おうとして、やめた。代わりに、一度だけ深く頷いた。
ロートも頷いた。
グランシール家の馬車が去っていくのを、ロートは門の前で見送った。車輪の音が遠くなるにつれ、自分の名前が半分だけ別のものになったような奇妙な感覚が、胸の底に静かに沈んでいった。
ロート・グランシール。
その名前は、嘘だった。しかし嘘をつかなければ、ここには存在できなかった。
「行きましょ」シェルファが隣で言った。「寒いし、早く中に入りたい」
「ああ」
二人は正門を潜った。
入学から一週間で、ロートは学校の全体像を把握した。
同期の入学者は三十二名。男子が二十名、女子が十二名。出身家はいずれも帝国の中堅以上の貴族で、将軍家の子弟が三名、辺境伯や公爵家の関係者が多くを占めた。教師は七名おり、それぞれ担当科目に専念していた。
把握した中で、最も重要な情報は一つだった。
「自分とシェルファは違う」、ということだった。
入学早々、シェルファはすぐに人気者になった。
入学してから三日目の昼食の席で、シェルファは隣に座った女子と何の障壁もなく話し込んでいた。四日目には男子の何人かと剣術の話をしていた。五日目には食堂の席をめぐる暗黙の縄張り争いに巻き込まれた同期の一人を笑顔で仲裁し、両者を自分のテーブルに招いてのけた。
その間、ロートは観察していた。彼女の雰囲気に、話しかけてくる者は一人としていなかった。
自分が友人を作るのに向いていないということを、ロートは特に悲観もせずに認識していた。感情を表に出す習慣がなく、口数が少なく、冗談の言い方が分からなかった。誰かに話しかけられれば答えるが、自分から話しかけることはほとんどなかった。それは臆病からではなく、単純に、話しかける理由を見つけられないからだった。
話すべき内容がある時は話す。ない時は沈黙する。それがロートにとって自然なことだったが、社交の場においてその自然さは異常に映るらしかった。
「ロート、あなたもう少し笑ったら?」とシェルファが言ったのは入学十日目のことだ。
「笑うべき状況ではなかった」
「みんなが笑ってたじゃない」
「笑いが感染していただけで、面白かったわけではない」
「そういう顔してると怖いって思われるわよ」
「それは相手の問題だ」
「あなたの問題にもなるって言ってるの」シェルファはため息をついた。「もう少し愛想良くすることはできないの?」
「愛想というのは、ない感情を装うことか」
「違う、ある感情を相手に伝わる形で出すことよ」
ロートはしばらく考えた。「……それは、練習でどうにかできるか」
「ものによってはできると思う」
「では練習する」
「そんなに簡単に言わないで」シェルファは少し笑った。「まあ、でも、一緒にいれば何とかなるわ。私がフォローする」
「迷惑を、かける」
「迷惑じゃないから言ってるの。友達でしょ」
ロートは少し間を置いた。「……そうだな」
最初の定期試験は入学から二ヶ月後だった。
試験科目は読み書き、算術、帝国史、地理、自然学の五科目。剣術は別途実技審査がある。
結果が張り出された朝、ロートは掲示板の前に人だかりができる前に確認を終えていた。
総合一位、ロート・グランシール。
二位、シェルファニール・グランシール。
その二つの名前が並んでいるのを見て、周囲の反応は二通りに分かれた。片方は「グランシールの家系はやはり優秀だ」という感嘆。もう片方は「親戚同士で上位を独占しているのは妙だ」という訝しみ。
シェルファは掲示板を見て、一瞬だけ立ち止まった。
「……おめでとう、ロート」
「シェルファも良い点だった。算術は満点だったな」
「歴史が三点足りなかったわ」
「そこは難問が続いた。問題の作り方が意地悪だったと思う」
「それ、あなたにしては珍しいこと言うのね」
「事実の評価だ」
シェルファはそれを聞いて笑った。笑顔は本物だった。だが笑いながら、視線がもう一度掲示板の上の方に向かったのを、ロートは見ていた。
それが何を意味するか、その時のロートにはまだ分からなかった。
幼年学校の日常は、規則正しかった。
朝は日が昇る前に起床し、食前に一時間ほど体操か素走り。朝食の後は午前の講義が三科目。昼食を挟んで午後の講義が二科目、その後に実技の時間。実技は剣術、騎馬、弓術が順番に組まれており、週の後半にはその週の学習内容の復習課題が課された。消灯は夜の九時。
この規則正しさはロートに合っていた。何をいつやるかが決まっている環境は、余計なことを考える時間を削ぎ落としてくれる。朝起きれば素走りがあり、昼には講義があり、夕には剣を振る。夜に課題をこなして眠る。それを繰り返す。
シェルファは、時々文句を言った。
「今日の歴史の課題、長すぎる。こんなに書けない」
「量は多くない。論述の構成を変えれば半分の字数で書ける」
「半分って。どうやって?」
「結論を先に書いて、根拠を後から並べる。帝国史の先生は帰納法より演繹を好む」
「……なんで知ってるの」
「講義中の話し方を観察すれば分かる」
「そんなこと考えながら授業受けてるの?」
「先生の話の癖を覚えれば、試験の予測が立てやすい」
シェルファはしばらく絶句してから「それ、教えてよ」と言った。「他の先生の分も」
「全員分なら、今から一時間はかかる」
「ロート、お願い!」
ロートはそれから一時間かけて、教師七名それぞれの論述の好みと評価基準をシェルファに説明した。シェルファは途中から書き留め始め、最後に「これ、絶対あなたにしか気づけないわ」と言った。
「観察すれば分かる」
「誰もそこまで観察しないの。だからあなたにしか気づけないの」
ロートはその言葉の意味を少し考えた。
「……シェルファが気づけることも、ある」
「何が?」
「人の感情の機微だ。私にはそれが難しい。昨日、アルディス家の息子が元気がないことに気づいたのはシェルファだろう」
「あの子、いつもと調子が違ったから。なんだかちょっと気になっただけ」
「私は気づかなかった」
シェルファは少し驚いた顔をした。「本当に?」
「本当に。私は観察はするが、感情の変化には鈍い。観察の種類が違う」
「そっか」シェルファは少し考えてから「なんか、お互い様ね」と言った。
「そうだな」
「わたしたち、良い組み合わせじゃない?」
「ああ。そう思う」
シェルファは満足そうに頷いた。
二人は残りの課題を並んでこなした。




