第一幕 灰燼の中の白百合⑤
第五章 十歳の夏と冬
グレイドルが帝都に戻ってきたのは、二人が十歳になる少し前の春のことだった。
半年ぶりに父の顔を見たシェルファは門の前で走り寄ってその胸に飛び込み、「遅い」と言った。グレイドルは「待たせた」と言って頭を撫でた。ロートは少し後ろに立って、二人を見ていた。
グレイドルはシェルファの肩越しにロートを見た。
「元気か、ロート」
「はい」
「何か変わったことはあったか」
「訓練場で、傭兵と五本打ち合いました」
グレイドルは眉を上げた。「誰の許可で」
「ヴァルカス殿の手配です」
「……ヴァルカスめ」グレイドルは低く呟いた。「結果は」
「五本中二本を防ぎました。三本当たりました」
「怪我は」
「痣が二日続きました」
「そうか」グレイドルはロートの目をしっかり見た。「それで、どうだった」
「怖かった。でも、楽しかった」
グレイドルは少し驚いたような顔をして、それから深く頷いた。「良い経験だ」と言った。
それからグレイドルは家の中へ入り、久しぶりの我が家の夕食を楽しんだ。食卓はいつもより賑やかで、コルベルトは腕によりをかけた料理を並べた。ロートは普段より少し多く食べた。シェルファは「珍しい」と言い、ロートは「何故だか、今日は特に美味しく感じる」と答え、シェルファは「お父様がいるものね」と笑った。
十歳の夏は、戦術書との出会いで始まった。
グレイドルの書斎は、グランシール邸で唯一ロートが気軽に入れない場所だった。主が不在の間は執事に鍵を管理させ、主が在宅の時も必ず許可を得てから入る形だった。
ある日の午後、グレイドルに「本を借りたい」と申し出た。
「何の本が良い」
「戦術に関するものを」
グレイドルはしばらくロートを見てから「来い」と言い、書斎に連れて行った。棚を指差しながら「ここからここまでが軍事に関するもので、ここが帝国の戦史、こちらが古代の戦術書だ」と案内した。
「どれから読む」
「古代の戦術書から」
「なぜ古代から読むのだ」
「基礎だからです。木を育てるには根から、といいます」
グレイドルは再び深く頷き、棚から一冊取り出した。「これは帝国成立以前、三百年前の将軍が書いた兵法書の訳本だ。まず読んでみるといい」
ロートはその本を受け取り、当日中に三分の一を読んだ。翌日に残りを読み、三日後にグレイドルの元に戻ってきた。
「どうだ、読んだか」
「はい。三点、疑問があります」
グレイドルは苦笑した。「そうか。聞かせてみろ」
ロートは本の中で疑問に思った個所を的確に指摘した。補給線の重要性について書かれた章の計算が、実際の行軍速度と矛盾するのではないかという点。騎馬隊の横撃が有効とされる条件が、地形についての記述と整合しない点。そして、著者が一貫して「兵の士気」を語りながら、士気を保つ具体的な方策を示していない点。
グレイドルは三つの指摘を聞き終えて、少し間を置いてから言った。
「三つとも正しい。古典的な戦術書として評価される本だが、それらは既に学者から指摘されている欠点だ。十歳で初読みしてそこに気づくとは、思わなかった」
「御屋形様は気づきましたか、初めて読んだ時」
「……十五の時に読んだ。二読目に気づいた」
「そうですか」ロートは言った。「では次の本を貸していただけますか」
グレイドルは笑った。今度は疲れた笑い方ではなく、腹の底から来るような、珍しい笑い方だった。
「好きなものを持って行きなさい。全部読んで良いぞ」
シェルファが魔法の片鱗を初めて感じたのも、同じ十歳の夏だった。
魔法教師のバルタンという老人が指導する稽古の最中に、感情を制御しながら意識を集中させていたとき、右手の掌が一瞬だけ熱くなった。煙も炎も出なかったが、バルタンが「それだ」と言い、シェルファは自分でも驚いた。
その夜、シェルファは少し興奮気味にロートに言った。
「ロート、わたし魔法の感覚が分かったかもしれないわ」
「どんな感覚だった」
「右手が、熱くなったの。じんわりと、芯から」
「どんな感情の時に」
シェルファは少し間を置いた。「お父様のことを考えた。守りたいって思ったら、熱くなった」
「守りたいという感情が引き金になったのか」
「そうみたい。バルタン先生も、保護や庇護の感情が炎の魔法には強く働くって言ってた。怒りよりも、誰かのために何かをしたいという感情の方が、制御しやすいって」
「それはシェルファに向いている」
シェルファはロートを見た。「どういう意味?」
「怒りの感情は、シェルファの場合、向きが定まらない。でも誰かを守るという感情なら、対象がある。方向が定まっている」
シェルファはしばらく沈黙した。
「……ロートって、わたしのことよく見てるのね」
「隣の部屋に住んでいるからな」
「えー。それだけじゃないでしょ?」
「……まあ、友達だから」
シェルファはそれを聞いてにっこりと笑った。「それ、あなたにしては珍しい言い方ね」
「事実だ」
「知ってる。だから嬉しいの」
幼年学校の入学試験は、その年の冬に行われた。
帝国の貴族子弟が通う全寮制の幼年学校は、帝都の東区にある古い石造りの施設で、十歳ころから四年間の基礎教育を施し、その後に士官学校へと続く道筋がある。騎士団に属する名門家の子女は、ここを経由することが半ば義務づけられていた。グランシール家もテンペスト家も、代々その道を辿ってきた。
試験は三日間に及んだ。一日目が読み書きと算術、二日目が歴史と地理と理科の知識、三日目が体力検定と剣術の基礎動作の審査だった。
ロートは静かに三日間をこなした。
一日目、算術の問題は全問を正確に解いた。歴史の記述問題では、設問の範囲を超えた事例を補足として書き添えた。試験官の一人が後で「余白まで使って書いた子は初めて見た」と言ったそうだが、それをロートが知るのはずっと後のことだ。
三日目の剣術審査で、審査員が最初に持たせたのが片手剣だったため、ロートは「両手持ちの剣で行っても良いか」と申し出た。審査員は戸惑ったが、許可した。ロートは倍近い重さの木剣を持ち、審査員の示した動作を正確にこなした。審査の最後に「型以外の動作も見せろ」と言われ、ヴァルカスに叩き込まれた素振りの連続を披露した。
審査員は無言で採点表に何かを書いた。
シェルファの試験は、一日目の算術で一問を間違えた。
本人は分かっていなかったが、ロートは試験後に「七問目の計算、一桁繰り上がりが抜けた」と指摘した。シェルファは自分の答案を思い返して「……そうだわ」と言い、顔が青くなった。
「落ちる点数じゃない」
「でも完答じゃないわ」
「完答でなくても合格できる設計になっている。御屋形様がそう言っていた」
「あなたは全問できたの?」
「ああ」
シェルファはロートを見た。その目の中に、ロートが今まで見たことのない感情が一瞬だけ浮かんだ。それが何かを、ロートはすぐには特定できなかった。悔しさとも焦りとも、少し違う何か。
「……そっか」シェルファは言った。「さすがだわ、ロート」
声の温度は普段と変わらなかった。笑顔も普段と変わらなかった。だからロートはそのまま流した。
一週間後、二人に合格の通知が届いた。シェルファは「良かった!」と声を上げ、ロートは封を開けて結果を確認し、静かに置いた。
採点の詳細を見ると、ロートの総合点はシェルファより二十一点高かった。筆記だけで十四点、実技で七点の差があった。
シェルファはその採点表を一度だけ見て、それ以上は見なかった。
入学まで一ヶ月を切った冬のある夜、ロートはグレイドルの書斎を訪ねた。
「明後日から、ここの本が読めなくなります」とロートは言った。「何か、最後に読んでおくべき本はあるでしょうか」
「何を知りたい」
「……父のことを、少し知りたいのです。ゼイラム・テンペストという人物の、軍人としての評価を。御屋形様の書斎なら、何かあるかと思って」
グレイドルはしばらく沈黙した。
「本棚にはない」と彼は言った。「あれば良かったのだが。公式の記録では、ゼイラムはエルヴィンの反乱に連座した罪人として記録されている。それ以上のものは、帝国の書物には残っていない」
「……そう、ですか」
「しかし」
グレイドルは立ち上がり、書棚ではなく机の引き出しを開けた。中から革装丁の薄い冊子を取り出して、ロートに渡した。
「これはわしの手帳だ。ゼイラムと共に過ごした時期の記録を、個人的に書き留めたものだ。……今まで渡すのを迷っていたが、お前が聞いてくれて良かった」
ロートは冊子を受け取った。手が、わずかに震えた。
「私が、読んで良いのですか」
「お前のためのものだ」
ロートはその夜、寝る前に冊子を開いた。
グレイドルの筆跡は大きく、力強く、しかし細部の描写は丁寧だった。騎士士官学校の同期だった二人の若い日のこと。ゼイラムの剣の腕前と、その笑い方と、部下への接し方。ロートの母、ミレーヌのことも少しあった。その名を文字で初めて見て、ロートは目を止めた。
ミレーヌは「この人の前では、誰もが正直になった」とグレイドルは書いていた。「嘘をつくのが恥ずかしくなるような、透明な目をした人だった」
ロートは鏡がないかと思った。自分の目が、そういう目をしているかどうか、確かめたかった。
しばらくして、扉がノックされた。
「ロート、起きてる?」
シェルファの声だった。
「ああ」
「明かりがついてたから。眠れないの?」
「読み物をしていた」
「入っていい?」
「好きにしろ」
シェルファが入ってきて、ベッドの端に座った。ロートが手に持っている冊子を見て「何それ」と聞いた。
「御屋形様にいただいた。父の話が書いてある」
「……そっか」シェルファは聞こうとして、やめた。「泣いてないの?」
「泣いていない」
「泣いても良いと思う」
「分かっている」
「じゃあなんで?」
「まだその時ではない」
シェルファはしばらくロートの横顔を見た。窓から月明かりが入っていた。金色の短い髪が、月光に白く染まって見えた。
「ロート、幼年学校に行ったら、変わると思う? わたしたち」
「変わらないと言えば嘘だ。環境が変われば人も変わる」
「それって、わたしたちの仲も変わる?」
ロートは冊子から目を上げて、シェルファを見た。
「シェルファが変えなければ、変わらない」
「わたしが? あなたが変えるかもしれないじゃない」
「私は変えない」
シェルファはその目を見た。嘘をつく人間の目ではなかった。ロートは嘘をつかない。そうシェルファは五年間で学んでいた。
「……約束ね」
「約束だ」
シェルファは少し安堵したような顔で立ち上がった。「じゃあおやすみ。早く寝なさいよ、入学前に体調崩したら大変なんだし」
「自分もな」
「私は丈夫なの。おやすみ、ロート」
「おやすみ、シェルファ」
扉が閉まった。
ロートは再び冊子を開いた。月明かりの中で、父を知る人間の言葉を、ゆっくりと読み続けた。
ミレーヌの名のあった頁に、一行だけ書き添えられた文章があった。
「ゼイラムは死ぬ前日、私に手紙を寄越した。娘を頼むとだけ書いてあった」
ロートはその一行を三度読んだ。
窓の外で、雪が降り始めていた。帝都の屋根を、帝都の石畳を、静かに白く覆っていく。
十歳の冬が、そうして終わろうとしていた。
幼年学校の入学まで、あと二十八日。
二人の少女の、子供時代の残りは、もう一月もなかった。
ロートリット、シェルファニール。ともに春には十一歳になる。彼女たちの前途に何が待っているのかは、まだ、誰も知らない。




