第一幕 灰燼の中の白百合④
第四章 二つの剣、二つの道
九歳の春、グランシール邸に変化があった。
グレイドルが長期の視察遠征に出かけることになったのだ。帝国の北方国境付近で、バルバロイと呼ばれる東方の蛮族集団の動きが活発化しており、第一騎士団の一部を率いて実情を確認しに行く、とのことだった。不在は半年を超えるかもしれないと告げられた夜、シェルファは夕食後に自室で泣いた。
ロートはそれを廊下で耳にして、一度扉の前で立ち止まった。ノックするかどうか迷って、しなかった。あの種の涙は、一人で泣ける場所があった方が良い。そう判断した。
翌朝、シェルファは何事もなかった顔で食堂に現れた。目が少し赤かったが、笑顔だった。
「お父様、今日出発なのよね」
「ああ」とグレイドルは言った。「留守の間、ロートを頼む」
「逆でしょ」シェルファは笑った。「ロート、シェルファを頼む、じゃなくて?」
「逆ではない」グレイドルは静かに言った。「ロートが頼れる友人がいることが、ロートには必要だ」
シェルファは一瞬、その言葉の意味を考えるような顔をした。それからロートを見た。ロートはスープを飲んでいた。
「……わかったわ」
グレイドルは出発の際、ロートとシェルファに一人ずつ言葉をかけた。シェルファには「好きに過ごしなさい。勉強は最低限で良い」と言い、ロートには「剣の腕が上がっても、それだけが道ではないことを覚えておきなさい」と言った。
ロートは「承知しました」と答えた。
グランシール家の騎士団が北へ向かう馬の列を、ロートとシェルファは門前で見送った。グレイドルが振り返って片手を上げた。シェルファが大きく手を振った。ロートは胸の前で軽く右手を上げ、騎士の礼に近い形で返した。
蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「寂しいわね」シェルファは言った。
「ああ、寂しい」
「あなたが『寂しい』って言うの、珍しい」
「嘘をつく理由もない」
シェルファはロートを見た。ロートは門の先の空道をまだ見ていた。
「ロートもそう思うんだ?」
「……御屋形様は、父に似ている」
それだけ言って、ロートは踵を返した。
シェルファはその背中を見て、何も言わなかった。言えなかった、というよりも、言うべきでないと思った。あの一言の中に、どれほどのものが詰まっているか、九歳のシェルファにもおぼろげながら分かっていた。
グレイドルが不在の八ヶ月間、二人はある種の均衡の中で暮らした。
屋敷の大人たちは二人を適切に管理したが、親の目がない分だけ、二人の行動は少しずつ広がった。シェルファは帝都内の知人貴族の子女たちと遊ぶようになり、ロートは稽古の時間を増やした。互いの時間の使い方は異なっていたが、夕食は必ず一緒に取り、夜に短く話をしてから寝るという習慣は変わらなかった。
ある夜、シェルファが「今日、魔法の練習をしたわ」と言った。
「どうだった」
「ダメ。全然感じられない。先生が言うには、感情が乏しいんだって」
「シェルファの感情が乏しい?」
「そう言ったら先生に笑われた。感情が豊かすぎても使えないらしいの。制御できないと」
「魔法とは感情の制御の問題なのか」
「そうみたい。怒りでも悲しみでも恐怖でも、焦点を絞って使わないといけないらしいって。炎は感情から生まれるけど、制御されない感情からは暴発するか消えるかのどちらかだって」
ロートはその話を黙って聞いていた。
「どんな感情だと一番感じる?」シェルファが聞いた。
「魔法の話か」
「そうじゃなくて。あなたが何かを一番強く感じるのって、どんな時かなって」
ロートはしばらく考えた。
「父が死んだことを思い出す時」
「……そのとき、どんな気持ち?」
「怒りとも悲しみとも、違う。もっと……静かな、重いものだ。言葉にできない」
「そういうのが一番強い感情かもしれないわね」
「シェルファは?」
「わたしは……」シェルファは少し笑った。「お父様が褒めてくれた時。あと、あなたがわたしの言ったことに頷いてくれた時かな」
「それは感情として弱すぎないか」
「大きい感情が全部だと思う? 小さい喜びも積み重なれば大きくなるのよ」
ロートはそれを聞いて少し沈黙した。「……それは、素晴らしい考えだな」
「ロートも、たまには褒めてくれるのね」
「事実だ」
「事実でも、嬉しい」シェルファは笑った。「今日のあなたのその言葉で、また一つ積み重なったわ」
九歳の秋、ロートは初めて実戦に近い経験をした。
もちろん戦場ではない。グランシール邸の近くにある騎士団附属の訓練場に、ヴァルカスの旧知という人物が訪ねてきた。三十代の大柄な男で、現役の傭兵だという。名はドルクスといった。
「この子が例の」とドルクスは言い、ロートを見下ろした。「ずいぶん小さいな」
「大きさは関係ない」とヴァルカスは言った。「打ち込んでみてやれ。子供ながらに、なかなか手ごわいぞ」
「木剣でいいのか?」
「ああ」
「で、本気でいいんで?」
「七割で良い」
ドルクスはロートに向かって「痛くしないから来い」と言いながら、それでも体格差のある大人の男が木剣を構えた姿は、子供の目から見れば十分に圧迫感があった。
ロートは構えた。ヴァルカスに叩き込まれた体幹から来る姿勢。重心をやや低くし、大剣を右手は順手、左手は逆手に持った。切っ先を敵に向ける、テンペスト家に伝わる構えだった。ドルクスはそれを見て少し目を細めた。
「変わった構えだな、子供とは思えん」
「ただの子供だとは思わないことだ」
「言ってくれる」
ドルクスが踏み込んできた。速かった。七割といっても現役の傭兵の七割は、並の大人の十割に等しい。ロートは一歩横に出て、剣がすり抜けるように体を流した。しかし剣の柄が肩に当たった。
「一本だ」とヴァルカスが言った。
「もう一度」とロートは言った。
五本取り合って、ロートが防いだのは二本だった。残りの三本は当たった。しかし五本のうち最後の二本は、ロートの動きが明らかに変わっていた。一本目の当たり方からドルクスの癖を読み、足の出る方向を先読みするようになっていた。
ドルクスは木剣を下ろして「変な子だ」と言った。
「何がだ」
「普通の子なら泣くか震えるかのどちらかだ。お前は五本目に考えてやがった」
「当たり方から癖を読めると思った」
「六本目があったら?」
「もう一本は防げた」
ドルクスはヴァルカスを見た。ヴァルカスは「こいつはこういう子供だ」と言った。
「おまえは怖くないのか」とドルクスは言った。
「怖いとは何がだ」
「大人に打ち込まれることが」
ロートは少し考えた。「怖かった。でも怖いままでも、できる」
ドルクスは大きく笑った。「本当に変な子だ。だが、気に入った」
その夜、シェルファは訓練場から戻ったロートの肩の青痣を見て「痛そう」と言った。
「大したことはない」
「ちょっと見せて」
「少し打たれただけだ」
「いいから。見せてって言ってるの」
ロートは諦めてシャツの肩をずらした。シェルファは覗き込んで「うわっ。これは痛いよ」と顔を顰めながら言い、メイドに薬を取りに行かせた。
「なんで黙ってたの」
「稽古で痣ができるのは普通だ」
「普通だ、と言うけどこんなの普通じゃないわ。わたしに話してくれたって良いでしょ」
「……そうだな」
薬を塗ってもらいながら、ロートは言った。
「でも今日、少し分かったことがある」
「何がよ?」
「恐怖は、消えない。でも、その中でも考えることはできる。考えることができれば、動くことができる。それが分かった」
シェルファは薬を塗る手を止めずに言った。「それって大事なこと?」
「多分、自分にとっては一番大事なことだ」
「こんな痛い思いしてまで?」
「怖いことから逃げることも、怖いことに無謀に突っ込むことも、どちらも正しくない。怖いまま、考えたまま、動くのが正しい。そう思う」
シェルファはしばらく黙って薬を塗り続けた。それから「あなたって」と言った。
「何だ」
「すごいと思う。本当に」
「大したことはない」
「大したことあるわよ」シェルファはロートの肩を軽く押した。「私は怖くなると全部忘れちゃう。怖くなったらもう考えられない」
「それも、練習だ」
「練習で変わる?」
「変わった。一年前の私は、今日よりずっと動けなかった」
「そっか」シェルファは薬の瓶を閉めた。「じゃあわたしも練習する」
「何をだ」
「怖いまま考えること」
ロートはシェルファを見た。
「それは、剣の稽古より難しいかもしれない」
「それくらい知ってる」シェルファは少し笑った。「でも、やれることはやる。あなたが言ってたでしょ、必要なことをするのに気合いはいらないって」
「言った」
「覚えてたわ。はい、おしまい。ねえ、ロート」
「なんだ」
「本当は痛いんでしょ」
「とても、痛い」
シェルファは笑った。ロートも小さく笑った。ふたりにはそれで十分だった。




