第一幕 灰燼の中の白百合③
第三章 育つもの、根付くもの
グランシール邸に住み始めて最初の一年で、ロートリット・テンペストは三つのことを学んだ。
一つは、沈黙は武器になるということ。
一つは、シェルファニール・グランシールは嵐のような存在だが、決して悪意を持たないということ。
そして一つは、グランシール邸の料理人コルベルトが焼くシナモン入りのアップルパイは、この世界で最も美味いということだった。
最後の発見はロートの表情を僅かに崩すほどのものだったが、本人はそれを認めようとしなかった。シェルファが「美味しいでしょ、そういう顔してる」と言うたびに「普通だ」と答え、しかし翌日になれば台所に忍んでコルベルトにまた作ってくれと頼んでいた。コルベルトは初老の小太りの男で、料理の腕前を褒められることが何より好きだったから、「お嬢様のためなら」と言いながら毎度快く応じた。やがて彼はロートに、小麦粉の捏ね方から林檎の皮の剥き方まで手ほどきするようになった。
「ロート、また台所にいたの?」
「生地を見ていただけだ」
「また習ったの?」
「コルベルトが教えてくれた」
「わたしも教えてもらいたい」
「じゃあコルベルトに頼め」
「あなたから教えてもらいたいって言ってるの」
ロートは少し考えてから「手を洗ってこい」と言った。シェルファは嬉しそうに台所に走った。
そういうふうにして、二人の日常はパイの生地のように積み重なっていった。
七歳になる頃には、ロートの素振りの時間は、日に二時間を超えるようになっていた。
剣術の新しい指南役は、グレイドルが連れてきた帝都の南側に住む引退した古参騎士で、名をヴァルカスといった。五十代の小柄な老人で、長年の鍛錬で体の中心部が異様に発達しており、腕は枯れ木のように細いのに握手をすると、相手の指が潰れそうになるほどの握力を持つ、という奇妙な人物だった。
「大剣を使いたいと言うが、今のお前の体でそれをやれば腰が砕ける」
ヴァルカスはロートを前にして、開口一番そう言い放った。
「分かっている」とロートは答えた。「だから土台を作る」
「何年もかかるぞ。それでも良いのか」
「ああ、それでも良い」
「嘘をつくな、子供は嘘をつく」
「本当だ」
ヴァルカスはロートをじろじろと眺め回した。金髪の、細い、しかし目の奥が妙に落ち着いた子供。彼は鼻を鳴らして「まず体幹から叩き直す」と言った。
その言葉の通り、ヴァルカスの稽古は最初の半年、木剣を一度も持たせなかった。代わりに課されたのは、重い石を抱えたまま行う体幹の保持、腕立てと腹筋の反復、そして重心移動の基礎だった。傍から見れば剣術の稽古とは思えないが、ヴァルカスはそれに対して文句を言う者を許さなかった。ロートも文句を言わなかった。ただ黙々とこなした。
シェルファは最初の数日だけ眺めていたが、あまりに地味すぎて飽きた。
「この訓練、見てても全然面白くないわね」
「剣術は派手ではない」
「もっと颯爽と戦うものだと思ってた」
「それは吟遊詩人の歌の中だけだ」
「それなら、詩の方がいいわ」
「詩は戦場では役に立たない」
「あなたって戦場に行くつもりなの?」
ロートはそこで一瞬黙った。戦場、という言葉を、自分がどういう意味で使ったのか、確認するように。
「まだわからない。でも、備えておかなければいけないことがある」
「何のために?」
「……それも、まだわからない」
シェルファはその答えが気に入らない様子で「わからないことが多すぎよ」と言い、それ以上は聞かなかった。
七歳の秋に、ロートは初めてグランシール邸の外の帝都を歩いた。
グレイドルの外出に付き従う形で、護衛二人を連れて帝都の市場を歩いた。シェルファも一緒だった。市場は賑わっていたが、その活気の陰に何かが潜んでいることを、ロートは子供なりに感じ取った。
野菜売りの老人の手が、痩せすぎていた。
パン屋の前に並ぶ列が長すぎた。
物乞いの子供が、橋の下に座っていた。自分と同じくらいの年齢に見えた。
「御屋形様」帰り道の馬車の中で、ロートは言った。「帝都の民は、豊かではないのでしょうか」
グレイドルは少し表情を引き締めた。「なぜそう思う」
「市場の様子が、本で読んだ豊かな都市の描写と、あまりに違って。物乞いの子もいました」
「帝都の民は……困っている者も、いる」
「税が重いのですか」
グレイドルはシェルファの顔を一度見た。シェルファは窓の外を見ていた。それから改めてロートを見た。
「そうだ」と彼は静かに言った。
「帝国の重税が民を苦しめる、と、兄は言っていました」
「覚えているのか、エルヴィンの言葉を」
「断片的に」
グレイドルは沈黙した。馬車の車輪が石畳を叩く音が続いた。
「御屋形様は、それを正しいと思っているのですか?」
また、同じ問いだった。入居して初めての夏に尋ねたのと、同じ問い。今度はもう少し具体的な文脈を伴って。
グレイドルの答えは、やはり直接ではなかった。
「軍人は国家の剣だ。剣は考えない。ただ振られる方向に進む」
「では御屋形様は、間違った方向に振られても従うのかでしょうか」
空気が変わった。シェルファが窓から顔を引いて、父とロートを交互に見た。
「……お前は、鋭すぎる」グレイドルは静かに言った。笑ってはいなかった。「子供の問いとは思えない」
「答えが欲しいのではありません」ロートは言った。「御屋形様がどういう方か、知りたかったのです」
「……それで、分かったか」
「はい」
「何が分かった」
「御屋形様は、迷っている方だと思いました」
グレイドルは長い間、ロートを見ていた。壮年の男の目の奥に、複雑な何かが動いた。やがて彼は小さく笑った。疲れた笑い方だった。
「お前の母も、そういう見方をする人だった」
ロートはその言葉の意味を問わなかった。グレイドルも、続けなかった。
馬車は邸に向かって走り続けた。
八歳になる頃には、ロートはヴァルカスから木剣を渡された。
しかし渡されたのは、通常の木剣の倍近い重さと長さがある特注品だった。普通の子供が両手で振るには余りある重量で、ヴァルカスは「これで素振り千本」と言った。
「千本か」
「文句があるか」
「ない。ただ確認した」
「賢い子供だ」ヴァルカスは鼻を鳴らした。「賢い子供は余計なことを言わずに振る」
ロートは振った。最初の百本で肩が燃えるように痛くなった。二百本で腕が震えた。三百本で視界が揺れた。それでも振った。四百本を越えたあたりで体がある種の麻痺に入り、逆に楽になった。ヴァルカスが隣で腕を組んで見ていた。
「限界だろう。もう止めるか」
「…止めない」
「なぜだ」
「師が、千本と言ったからだ」
ヴァルカスはそれ以上何も言わなかった。
千本を振り終えた時、ロートは木剣を持ったまま地面に膝をついた。立っていられなかった。汗が石畳に滴り落ちた。しばらくして顔を上げると、ヴァルカスが水の入った革袋を差し出していた。
「明日も千本だ」
「分かった」
「明後日もだぞ」
「分かった」
「一週間続けたら、次を教えてやる」
「分かった」とロートは言い、水を飲んだ。
その一週間、シェルファは毎朝稽古場の隅に座ってロートを見ていた。最初は「大変ね」と声をかけたが、ロートが返事をしない(できない)と分かると、それ以降は黙って見続けた。七日目の稽古が終わり、ロートが地面に膝をついたとき、シェルファはすっと立ち上がって水の入った陶器のカップを差し出した。
「さっきコルベルトにもらってきた。ちょっと蜂蜜が入ってる」
ロートは受け取り、飲んだ。
「……美味い」
「でしょ」
シェルファはそのまま隣に座り込んだ。お嬢様がそんな格好で!と、後ろからメイドが飛んできたが、シェルファは「いいの」と短く言って追い払った。
二人は並んで座ったまま朝の空を見た。
「あなたって」シェルファは言った。「どうしてそんなに頑張れるの?」
「頑張っているつもりはない」
「じゃあ何で、こんなにつらいことをするのよ?」
ロートはしばらく考えた。
「必要なことをしているだけだ。必要なことをするのに、気合いはいらない」
「わたしは気合いがないと勉強できないけれど」
「それは必要だと思っていないからだ」
「必要よ、一応。幼年学校に入るためには試験があるって先生が言ってたもの」
「じゃあ必要だ」
「なのにやる気が出ないの。困っちゃう」
「それは話が別だ」
シェルファはロートの横顔を見た。汗だらけで、顔色が良くないのに、目が静かだった。
「ロートって、怖くないの?色々と」
「何がだ」
「うーん……色々」シェルファは言葉を探した。「いつか何かが上手くいかなかったら、とか。一人になったら、とか」
ロートは答えるまで少し間があった。
「…それは、怖い」
「怖いのに、そんなにまでするの?」
「怖くても、することがある。怖いままでも、できる」
シェルファはその言葉を繰り返した。「怖いままでも、できる?」
「ああ」
「……わたし、たぶんそれが一番苦手だわ」
「だろうな。知ってる」
「知ってるって言い方が嫌ね」
「事実だ」
「事実でも言い方ってものが」シェルファはちょっと笑った。「でも、ありがとう。正直に言ってくれて」
「礼を言われることでもない」
「わたしが言いたかっただけよ」
ロートはそれに答えなかった。代わりに立ち上がった。膝が少し震えていたが、立った。
「明日も千本だ。今日は終わりもする」
「一緒に台所に行きましょ。コルベルトにアップルパイ頼んでおいたの」
「……それは」ロートは少し間を置いた。「良いな。…ありがとう」
シェルファニールはにっこりと愛らしい笑顔を向けた。




