第一幕 灰燼の中の白百合②
第二章 グランシール邸の日々
グランシール邸での最初の夜、ロートは眠れなかった。
与えられた部屋は広く、ベッドは柔らかく、暖炉の火はよく燃えていて、どこにも不満な点はなかった。それがかえって落ち着かなかった。テンペスト邸の自分の部屋よりずっと豪奢なはずなのに、見知らぬ天井を見上げていると、自分がどこにいるのか分からなくなった。
父の顔を思い出そうとすると、うまく思い出せなかった。
兄の顔は思い出せた。エルヴィンはよくロートの頭を撫でた。大きな手で、乱暴ではなく、ただ確かめるように。「お前は賢い」と兄はよく言った。「お前は強くなれる」とも。その言葉の意味を、ロートは今もまだ完全には理解していなかった。
翌朝、朝食の席でシェルファが「顔が青いわ。よく眠れなかったの?」と聞いてきた。
「問題ない」と、ロートは答えた。
「問題ありそうな顔してるけど」
「気にするな」
シェルファはしばらくロートを見ていたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、パンを千切りながら話題を変えた。「今日は勉強の先生が来るの。文字と算術と、あと歴史。あなたはどこまで知ってる?」
「文字の読み書きは一通り。算術は四則演算まで。歴史は、帝国成立以前から百年分ほど」
シェルファが目を丸くした。「一人で?」
「家庭教師がいた」
「そっか」
シェルファは少し考えてから言った。「わたしは算術が苦手なの。あなた、教えてくれる?」
「わかった。できるだけ教えよう」
「やった」
それがふたりの友情の始まりだった。
最初の数週間は、お互いに探り合いの時間だった。シェルファは活発で口が達者で、思ったことをすぐに言葉にした。ロートは静かで観察好きで、口数が少なかった。性格は正反対に近かったが、それがかえって摩擦を生まなかった。シェルファがしゃべり、ロートが聞く。シェルファが何かを始め、ロートがそれに静かについていく。ロートが何かに行き詰まると、シェルファが別の方向からぐいと引っ張る。
喧嘩もした。
最初の大きな喧嘩は、入居から一ヶ月ほど経った頃だった。
中庭で木の棒を使って剣の真似事をしていたとき、シェルファが突然「あなた、お父様とか、お母様とかいないの?」と聞いた。それがロートを逆なでした。怒っているとか、怒っていないとか、そういう単純な言葉で言い表せるものではなかったし、何よりその問いは、ロートが長い時間かけてようやく慣れてきた傷の痛みを、唐突に触ろうとするものだった。
「いない」
「でも、お兄さんがいるって聞いたわ」
「関係ない」ロートは吐き捨てるように言った。
「あなたの家族はどこへ行ったの?会いたくないの?」
「黙れ」
ロートは棒を投げ捨てて中庭を歩き去った。その日は夕食まで部屋に篭もり、シェルファとは口を利かなかった。
翌日、シェルファはロートの部屋の前に来て言った。「昨日は悪かったわ。聞くべきじゃなかった」
ロートは少し待ってから、扉を開けた。
「……謝り方が素直だな」
「素直じゃないと思う、本当は昨日のうちに言いたかったのに怖かったから今朝になった」
「それも素直だ」
シェルファは少し頰を赤らめた。「あなたって、なんか言い方が大人みたいで嫌ね」
「嫌だったか」
「嫌じゃないけど、なんか悔しい」
ロートはそれを聞いて、初めてグランシール邸で笑った。小さな、ほんの少しの笑みだったが、シェルファはそれを見て「笑えるじゃない」と言った。
「私だって笑う。当然だ」
「全然笑わないから、笑えない人かと思ってた」
「笑えない人などいない」
「そうかしら。あなたが大笑いするしてるの、想像できない」
「するときは、する」そう言って、ふたりはまた笑った。
それ以来、ふたりの仲は少しずつ深まっていった。
グレイドルは忙しい男だった。
第一騎士団団長という立場は、帝国の軍事の頂点の一角を占めるものであり、宮廷での会議、地方への視察、各地の治安維持への対応と、彼の予定は常に詰まっていた。帝都にいる時でも、執務は朝早くから夜遅くまで続いた。
それでも彼は、週に一度は必ずふたりの食事に付き合った。
その時間だけは、第一騎士団団長ではなく、ただグランシール邸の主人として食卓に座り、シェルファの報告を聞き、ロートの様子を観察し、時に歴史の話や軍事の話を語って聞かせた。
「将軍、一つ聞いてもよいでしょうか」
ある日の夕食の席で、ロートが言った。執事やメイドたちのように、「御屋形様」と呼びかけようとしたが、適切な呼称がまだ定まっていなかったため、一瞬迷ってしまったのだ。
グレイドルは「なんだ」と答えた。シェルファは「そういうときわたしはお父様って呼ぶわよ」と口を挟んだ。ロートは少し考えてから「では御屋形様と呼ぶ」と言った。グレイドルは特に反対せず、「好きにせい」と言った。
「帝国の騎士団には、なぜ六つしかないのですか?」
「ほう」グレイドルはスープのスプーンを置いた。「どこでそれを」
「歴史の教科書に、帝国成立以前は各地に独立した騎士団が十二あったと書いてありました。今は六つ。残りはどうなったのですか?」
「賢い問いだ」グレイドルは少し目を細めた。「帝国が大陸を統一した際、各地の騎士団のうち、降伏して帝国に組み込まれたものが六つ。抵抗して解体されたものが四つ。そして」
「そして?」
「自ら解散することを選んだものが、二つある」
ロートはその答えを咀嚼した。「なぜ解散を」
「誇りのためだ、という説がある。帝国の傘下に入ることを拒んだ、ということだ。あるいは、配下の騎士たちを帝国の剣として使われることを望まなかった、という見方もある」
「どちらが正しいと言えますか?」
「どちらも正しい」グレイドルは静かに言った。「人の行動には、たいてい複数の理由がある。単純な答えを求めすぎてはいけない」
ロートはしばらく沈黙した。シェルファは「難しい話ね」と言いながらパンをちぎり続けていた。
「御屋形様は」とロートは言った。「帝国が正しいと思っているのですか?」
場の空気が、わずかに変わった。
グレイドルは表情を変えなかったが、その目の奥で何かが動いたのをロートは見た。壮年の男の目が、一瞬だけ、答えを探して内側を向いた。
「軍人というのは、正しいかどうかを考えることよりも、命令を果たすことを求められる存在だ」
それは答えではなかった。答えを避けた言葉だった。しかしロートには、その回避の仕方そのものが一つの答えであるように思えた。
「…わかりました」
「難しかったか」
「いえ、わかりました」
グレイドルは少し驚いたように眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。シェルファが「わたしは全然わからなかった」と言い、ロートが「後で説明する」と答え、グレイドルが小さく笑った。
帝都の冬が明け、春が来た。
中庭の木々に緑が戻り、花壇に花が咲いた。ロートは庭師から許可を取り、空いた一角を使って毎朝素振りの練習をするようになった。グランシール邸には剣術指南役がいたが、ロートはそれとは別に、自分で考えた基礎練習を毎日続けた。
シェルファがある朝、それを見て、「わたしにも教えて」と言った。
「剣を習っているだろう」
「指南役の先生は動きが遅いのよ。あなたの方が動きが速い」
「まだ正確ではない。教えられる段階じゃない」
「じゃあわたしが見てる」
「好きにしろ」
シェルファはそれから毎朝、ロートの素振りを見物した。最初は退屈そうにしていたが、次第に真剣な目で見るようになった。
「ねえ、その構え、どこで覚えたの」
「兄に教わった」
シェルファは少し黙った。「強かったの、お兄さん」
「ああ。一族に継承される『いかづちの魔法』の魔法も使えた。騎士士官学校でも首席に近い成績だったと聞いている」
「素敵なお兄さんね。お兄さんは今どこに?」
ロートは素振りを止めなかった。木剣を振り続けながら、答えた。
「死んだ」
「……っ」シェルファは息を飲みこんだ。踏み込んではいけない領域に、彼女はやっと気づいた。
「兄は死んだ。もういない」
「…ごめんなさい」泣きそうな表情でシェルファはロートに詫びた。
「いや、いい」ロートは小さく答えた。
春の風が庭を渡った。花の香りがした。ロートは木剣を振り続け、シェルファは涙目で見続けた。
夏が来る前に、ロートはグレイドルに一つのことを頼んだ。
「剣術の指南役を、別の方にしてほしいのです」
グレイドルは書類から目を上げた。「今の指南役では不満か」
「いや、指南役が悪いわけではありません。ただ、私が習いたいものを、あの方は教えられません」
「なんだ、そのものとは」
「大剣の使い方を学びたいのです。それと、戦術を」
グレイドルはしばらくロートを見た。たった六歳と数ヶ月の、小さな子供が、しかし揺るがない目でそう言っていた。
「大剣だと。理由を聞いてもいいか」
「テンペスト家は、代々大剣の使い手でした。父も、兄も大剣を振るい戦ったと聞きます。そして私は、『いかづちの魔法』が使えません。その分を力で補わなければなりません。一刻も早く大剣を使いこなせるようになりたいのです。それから、戦術は……」
ロートは少し止まった。
「兄のようになるためではなく、ただ、何かの役に立てるようになるために、知っておく必要がある、と思うのです」
「役に立てる、というのは誰に」
「それは、まだわかりませんが」
正直な答えだった。グレイドルはそれを聞いて、また少しの間沈黙した。
「分かった。手配しよう」と、彼は言った。「ただし、条件がある。文字と算術と歴史の勉強を、今のまま続けること。剣を覚えるより、頭を使う方が多くの命を救う。ゼイラムも、そう言っていた」
ロートは頷いた。「ありがとうございます、御屋形様」
「それと」
「はい」
「もし稽古で辛いことがあれば、シェルファに話しなさい。あの子はどんな話でも聞く。それだけは、父親としての自信がある」
ロートはまた少し迷ってから、頷いた。
夏の盛り、グランシール邸の中庭で、ふたりは夜の空を見上げていた。
夕涼みと星の観察だとシェルファが言い出したもので、ロートはどちらでも良かったが断る理由もなかった。メイドが持ってきた敷物の上に並んで座り、背を合わせるようにして寝転んで、それぞれに星を見ていた。
「あれ、北の星よね」シェルファが指差した。
「ああ」
「お父様が言ってた。あの星に向かって進めば、迷子にならないって」
「北極星だ。方位の基準になる」
「知ってた」
「知ってるなら言わなくてよかっただろう」
「確認したかっただけよ」
虫の声がした。遠くで水の音がした。
「ロート」
「なんだ」
「あなたって、泣いたことある?」
ロートは少し間を置いた。「ある」
「いつ?」
「……母が死んだとき。三歳の頃だ。だから、あまり覚えていない」
「それから?」
「……覚えていない」
それは嘘ではなかった。少なくとも外では、泣いたことがなかった。夜中に、誰も見ていないときに何があったかは、ロートは誰にも言わなかった。
「わたし、あなたが羨ましいと思うことがある」シェルファは言った。「いつも落ち着いてて、何でもできて。わたしはいつも焦るし、算術は全然できないし」
「シェルファには魔法がある。私にはない」
「魔法、まだ使えないわよ。あと何年もかかるって先生が言ってた」
「いずれ使えるようになる。私は決して使えない」
シェルファは黙った。ロートも黙った。
「……ごめん」シェルファは少し経ってから言った。「嫌なこと言った」
「嫌ではない。私が、魔法を使えないのは事実だ」
「でも、わたしは…」
「シェルファ」
「なに?」
「自分が持っているものを数えろ。持っていないものを数えるな」
シェルファはしばらく黙っていた。やがて「あなたって、やっぱり大人みたいよ」と言った。
「お前と同じ、六歳だ」
「六歳の言葉に聞こえないわ」
「それは、お互い様だ」
シェルファが笑った声がした。ロートはそれを聞きながら、また星を見た。
北の星は動かない。何があっても、あの星だけは動かない。
父は死んだ。兄も死んだ。テンペスト家は滅んだ。だが、あの星は今夜も同じ場所にある。
いつかこの手に、何かを握れるようになったとき。その日のために、今は、学び蓄える。
ロートは目を閉じた。
虫の声が続いていた。シェルファの小さな寝息が聞こえた。風が庭の草を揺らした。
帝国暦三百二十一年の夏は、ゆっくりと、しかし確実に、二人の少女を包みながら過ぎていった。




