第一幕 灰燼の中の白百合①
第一章 雪の馬車
神聖トライアス帝国暦三百二十一年の冬は、例年に増して厳しかった。
帝都ミレーニアを囲む城壁の石畳は、朝から降り積もった雪に覆われ、衛兵たちの吐く息は白く、鎧甲冑の上には薄く氷が張った。広場の噴水は石造りの精霊像ごと凍りついており、通りを行く商人たちも急ぎ足で頭巾を目深に引き下げ、誰もが足元の凍結に細心の注意を払いながら歩いていた。帝都の民が口々に囁くには、今年は霜の女神が嘆いているのだという。
しかし本当に嘆いていたのは、女神などではなかった。
城壁の内側、貴族区画の端に位置する刑場広場は、冷え切った空気の中で奇妙な静寂に満ちていた。通常であれば処刑が執り行われるときには野次馬が集まるものだが、この日ばかりは人影がほとんどなかった。それはひとえに、今回の処刑が帝国でも屈指の名門――テンペスト家の一件に関わるものだったからだ。
名門の没落には、観客が集まることもある。だが、落ちる者があまりにも高い地位にあった場合、人々はむしろ目を背ける。自分もまた同じ運命を辿るのではないかという本能的な恐怖が、民衆の足を遠ざけるのだ。
ゼイラム・ヴィンド・フォン・テンペスト。
第五騎士団団長にして帝国双璧の一柱と謳われた男が、今朝、刑場の露と消えた。
半年にわたる息子エルヴィンが引き起こした「自由解放軍の乱」が鎮圧されてから三日後のことであった。皮肉にも、その乱を平定したのはゼイラム自身の率いる第五騎士団だった。父が子を討ち、それでも罪は逃れられなかった。息子を育て損ねた監督不行き届き、一族が帝国の秩序を乱した責任――神聖皇帝アトラス三世の勅裁は容赦がなかった。
そして今、その処刑から数時間後。
帝都の北門から一台の馬車が出発した。
馬車は黒く塗られた車体に、金糸でグリフォンの紋章が刻まれていた。
翼と鉤爪を持つその幻獣の意匠は、帝国第一騎士団団長、グランシール将軍の家紋である。馭者の傍らには二人の騎士が馬上に付き従い、馬車の周囲をさらに六人の武装した護衛が固めていた。護衛の物々しさは、輸送する荷の重要性を示すためではなく、道中で何者かに「荷物」を奪われることを防ぐためだった。
馬車の中には、ひとりの子供が座っていた。
ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト、六歳。
テンペスト家の末裔であり、本来ならば今朝の刑場で父の後を追うはずだった少女は、窓の外に流れ去る雪景色を、昏く曇った青い瞳でぼんやりと眺めていた。一族に連なる者として処刑を宣告されながら、どういう訳か今もここに生きている。その事実を、幼い頭はまだ完全には理解できていなかった。
ただ、寒いということだけは分かった。
石造りの独房で一夜を明かした体は、毛皮のコートを着せられた今でもまだ芯から冷えていた。膝の上で組んだ小さな手は、白くなるほど強く握りしめられている。泣くまいと、泣くまいと、ロートは思っていた。テンペスト家の人間は泣かない。兄のエルヴィンがそう言っていた。
兄は死んだ。
父も死んだ。
母はずっと前に死んでいた。
だから今、ロートには誰もいない。
馬車が石畳の継ぎ目を踏み越えるたびに小さな体が揺れた。ロートは窓枠に額をそっと当て、外の白い世界を見続けた。雪が降っている。帝都の尖塔が、家々の屋根が、石壁の出っ張りが、すべて等しく白く覆われていく。白は浄化の色だと神官たちは言う。女神アルテイアが愛する色だと。
――ならば父を殺したのも、女神の意志なのか。
そんな問いが五歳の子供の脳裏に浮かぶはずもなかったが、ロートの青い瞳の奥には、年齢不相応な暗い光が宿っていた。
「寒いか」
声がした。
ロートは驚いて顔を上げた。馬車の正面の座席には、大柄な男が座っていた。最初から座っていたのだが、ロートはそれを意識の外に追いやっていた。意識することが怖かったのだ。
グレイドル・アルデン・フォン・グランシール。
第一騎士団団長。父ゼイラムの親友にして、今朝ロートを処刑台から引き取った男。四十歳前後の壮年で、肩幅が広く、金色がかった緋色の髪は丁寧に撫でつけられているが、両こめかみには白いものが混じっていた。顎には短い無精髭を蓄え、眼差しは深く、穏やかで、しかしその奥には何年もかけて積み上げられた疲労の色があった。軍人の目ではなく、何かを長く背負い続けてきた者の目だと、幼いロートは言語化できないままそう感じた。
「寒いか」と、彼は繰り返した。今度はもう少し優しく。
ロートは少し迷ってから、小さく頷いた。
グレイドルは傍らの木箱を開け、中から分厚い毛布を取り出してロートに差し出した。自分で動く気力もないかと思ったのか、そのまま立ち上がって向かいの座席に移り、不器用な手つきでロートの肩に毛布を掛けてやった。男の大きな手が肩に触れた瞬間、ロートの体がわずかに強張った。
「怖くはなかろう。ここに害はない」
グレイドルは自分の席に戻り、腕を組んだ。
「どこへ連れて行くのか、わかるか」
ロートは首を横に振った。正確には、知っていたが確認したかった。知らないということにすれば、余計なことを考えずに済む。
「わしの屋敷だ。帝都の北区、グランシール邸というところだ。お前はそこで暮らすことになる」
「……なぜ」
声は思ったより小さく出た。喉が枯れているのか、緊張しているのか、ロート自身にも判断がつかなかった。
「なぜ、助けてくださったのですか」
六歳の子供の問いとしては、いくぶん整いすぎていた。しかしテンペスト家では、物心ついた頃から礼儀と言語の訓練を受ける。たとえ処刑される運命だったとしても、幼いロートに身についた教養は変わらなかった。
グレイドルはしばらく黙っていた。窓の外の雪を見るでもなく、ロートを見るでもなく、ただ自分の組んだ腕を見つめていた。やがて、重い口を開いた。
「お前の母親のことを知っていた」
それだけ言って、また黙った。
ロートは続きを待ったが、グレイドルはそれ以上何も言わなかった。どこか遠い場所を見るような目をして、口を閉ざしている。幼いロートには、大人のその沈黙の意味を解き明かす術がなかった。ただ、それが追及してはならないものだということだけは、なんとなく察せられた。
「ありがとう、ございます」
ロートは毛布を引き寄せながら言った。お礼を言うべき状況かどうかも分からなかったが、他に言うべき言葉が見つからなかった。
グレイドルは少し目を細めた。笑顔ではなかったが、怒っているわけでもなかった。ただ、ロートの持つその青い瞳を見て、男の顔が一瞬だけ別の場所へ旅をしたように見えた。
「礼を言われるようなことはしておらぬ」と、彼は呟くように言った。「ただ、お前を殺すのは間違いだと思った。それだけだ」
馬車は北に向かって走り続けた。
帝都の北区は、南区の商業地帯や中区の官庁街と異なり、緑の多い閑静な貴族区画だった。もっとも今は冬で、街路樹はすべて葉を落とし、枯れ枝が白い空に向かって細い腕を伸ばしているばかりだった。
馬車が通りを進むにつれ、建物の規模が大きくなっていった。門構えが堅牢になり、壁の高さが増し、屋敷と屋敷の間の空間が広くなる。やがて馬車は重厚な鉄の門扉の前で止まった。門柱の石彫りにも、グリフォンが翼を広げていた。
門が内側から開かれ、馬車はゆっくりと邸内へと入っていった。
ロートは窓に顔を近づけて外を見た。
広大な前庭があった。冬枯れの芝生の向こうに、本館の建物が聳えている。石造り三階建てで、窓が多く、それぞれの窓に鉄の装飾が施されていた。建物の左右には翼棟が延び、全体としてコの字型の配置をなしている。帝都の貴族邸宅として標準的な様式だったが、テンペスト邸よりも規模が大きかった。
――もうテンペスト邸も、テンペスト家も存在しない。
その思いが頭をよぎった瞬間、ロートは唇を強く引き結んだ。泣くな、と自分に命令する。まだ、泣く場所ではない。
馬車が玄関前の石畳に停車すると、扉が外から開かれた。御者台を降りた騎士が手を差し伸べてくる。グレイドルが先に降り、振り返ってロートに手を伸ばした。
ロートはその手を取り、馬車の踏み台を降りた。
冷たい空気が頰を刺した。雪はいつの間にか止んでいたが、空は依然として鉛色に曇っており、光は乏しかった。屋敷の玄関扉は既に開かれており、執事と思しき老人が深々と頭を下げている。その後ろに、数人のメイドが整列して待っていた。
ロートは無意識のうちに、グレイドルの外套の裾をわずかに握った。自分でも気づかないうちに手が動いていた。すぐに気づいて手を離したが、グレイドルは気づいた様子はなく、そのまま玄関へと歩み始めた。
「御屋形様、お帰りなさいませ」と老執事が言った。「それと、こちらのお嬢様は――」
「テンペスト殿の御息女だ」と、グレイドルは短く答えた。「今日からこの屋敷に住まわれる。丁重に扱うように」さらに、低く鋭く続けた。「……それから、彼女の出自は伏せるように」その言葉は老執事だけに届いた。
「全て、承知いたしました。御屋形様」
執事は再びロートに向かって深く頭を下げた。
ロートは答え方が分からなかった。軽く会釈をするにとどめ、グレイドルの後に続いて玄関を潜った。
石畳から大理石の床に足が乗る。暖炉の熱が届いてきた。廊下は幅広く、天井が高く、両側の壁には鹿の頭部の剥製や先祖の肖像画が飾られている。カーペットの赤が、白一色だった外の景色とあまりにも対照的で、ロートは一瞬、自分が別の世界に迷い込んだような感覚を覚えた。
そのとき。
「お父様!」
廊下の奥から、一つの声が弾けた。
ぱたぱたと慌ただしい足音がして、廊下の突き当たりから小さな人影が飛び出してきた。赤い、燃えるような色の髪が空気をはらんでなびく。メイドが「お嬢様、走ってはいけません」と叫ぶ声も聞こえないかのように、その人影は一直線にグレイドルのもとへと駆け寄った。
シェルファニール・フローレス・フォン・グランシール、六歳。
グレイドルと同じ深紅の瞳を持つ少女は、父親の腹に頭から突っ込むようにして抱きついた。グレイドルが「おっと」と言いながら受け止める。その声には、先ほどまでの重さが嘘のようになく、ただの父親の温かさがあった。
「遅かったわ、もう夕方になるじゃない」
「申し訳ないな。少し時間がかかった」
「また怖い顔して仕事してたんでしょう。ダメよ、しわが増えるって先生が言ってた」
「私の顔の心配より、勉強の心配をしなさい」
「勉強は全部終わらせたわ。算術も、文字の書き取りも。だから今日こそ馬に乗せてもらえる?」
「……もう夕方だ。それに外は雪が降っているのだぞ」
グレイドルが苦笑する。それからシェルファの肩を軽く押して、うしろのロートに目を向けさせた。
「シェルファ、客人がいる」
シェルファはくるりと振り返った。
緩くウェーブのかかった燃えるような赤毛と、深紅の瞳。やや釣り目がちの目が、ロートをじっと見た。ロートも見返した。
両者の間に、一瞬の沈黙。
「……あなたがロートね」
シェルファは言った。声は子供らしくよく透き通っているが、どこか迷いがない。「お父様から話は聞いているわ」
ロートは少し驚いた。父から話を聞いている、ということは、今日ここに来ることを知っていたということだ。いつから知っていたのか。どこまで知っているのか。そんなことを考えているうちに、シェルファは続けた。
「大変だったわね」
その一言は、大人が使うような慰めの言葉ではなかった。ただ、事実を確認するような、しかし同時に、相手の痛みを他人事にしない何かを含んでいた。六歳の子供の言葉にしては、妙に正確だった。
「……そうかも、しれない」
ロートは答えた。今日初めて、自分の状況について、誰かに同意を求めた気がした。
シェルファはにこりと笑った。整った顔立ちに、勝気さと明るさが同居した笑顔。
「わたし、シェルファニールよ。シェルファって呼んでね。仲良くしましょ。わたし、同い年の友達が欲しかったのよ。メイドたちはみんな大人だから、一緒に遊んでくれないんだもの」
グレイドルが天井を仰ぐようにして「まったく、おまえは」と呟いたが、シェルファには聞こえていなかった。
ロートは、シェルファのまばゆく屈託のない笑顔を見ていた。この一日で初めて、体の中の冷えたものが、少しだけ溶けたような気がした。涙はまだ出なかった。代わりに、表情の固さが、ほんのわずかだけ緩んだ。
「……ロートリットという。よろしく」
ロートは短く言った。
シェルファは「決まり!」と声を上げ、ロートの手を掴んだ。小さな熱い手だった。




