序幕 最後の場所
序幕 最後の場所
帝国歴三百四十年、秋。
帝都ミレーニアは、この世の地獄だった。
千年帝国の白亜の宮殿と吟遊詩人に謳われた王城は、今や見る影もない。かつて大陸中の富と権威を集めたその白い石壁は、瓦礫と炎と血に塗れ、おびただしい数の屍がその足元に重なっていた。遠くから剣戟の音が絶えず響き、矢が石に刺さる鋭い音、そして時折、乾いた銃声が熱風と共に帝都を震わせた。
その王城の一角にそびえる尖塔の入口は、炎に閉ざされていた。
一人の女性が、業火につつまれたその塔に向かって駆けていた。
しなやかな手足。女性としては長身の体格。金色の短い髪。その背に翻るのは、鈍色に輝く幅広の両手剣。そしてテンペスト家の家紋である、雷光を抱く鷹の紋章が刻まれた紺碧のマント。しかし今、そのマントの裾は風にはためく余裕もなく、前方の炎に引き寄せられるように揺れていた。
壁のように立ち昇る業火が石造りの通路を塞ぎ、その熱だけで皮膚が裂けそうだった。近づけば呼吸すら焼ける。まともな判断力を持つ者なら、立ち止まるはずだった。
だが、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペストは止まらなかった。
青い瞳が、塔の最上部を見据えていた。
この塔の先に、彼女がいる。
かつて親友だった、家族だった、自分の半身にも等しい、大切な……欠片。
ロートリットは意を決し、マントを引き上げ、顔を覆った。そして躊躇なく炎へ踏み込んだ。
灼熱が全身を貫いた。肺が焼けるような感覚。金色の髪が焦げる匂い。革鎧が軋み、熱で皮膚に貼りついてくる。右手に握る大剣が、炎の中でじりじりと熱を帯びた。
それでも進んだ。
一歩。もう一歩。
背後で炎が唸った。
炎の壁を抜けた時、テンペストのマントの裾は黒く炭化し、右腕の革鎧は一部が溶け落ちていた。痛みはあった。しかしそれに構う余裕は、もうなかった。
塔の螺旋階段をひたすら駆け昇る。
石段を踏むたびに、赤い光が上から漏れ出してきた。炎の光ではない。それよりも深く、意志を持つように脈打つ光だった。制御を失った魔法の輝き。
嫌な予感が、胸の奥を冷やした。
頂上の扉に手をかけた。一瞬だけ躊躇した。しかし押した。
扉が開いた瞬間、熱波が顔を打った。
シェルファニール・フローレス・フォン・グランシールは、そこにいた。
かつての親友、かけがえのない家族。そして、帝国に残った最後の、敵将。
彼女は、紅く燃えていた。
衣服が燃えているのではない。彼女自身から、炎が噴き出していた。荒れ狂う魔力が渦を巻き、周囲の空気を歪ませていた。まるで生き物のように揺れる赤い炎が、壁を、床を、天井の端を舐め続けている。風もない塔の中で、燃えるように美しい赤い髪が揺れていた。そして深紅の瞳だけが、静かに扉の方を向いた。
シェルファニールはゆっくりと、ロートリットを見た。
炎が一瞬、大きく脈打った。
「やっと来たのね」とシェルファニールは言った。声は穏やかだった。穏やかすぎて、かえって怖かった。「待ってたわ。来るって、分かってた」
「……シェルファ」
「来るだろうと思ってた。あなたはそういう人だから」かすかに唇が動いた。笑みに似た何か。しかし目は笑っていなかった。「最後には必ず来てくれる。放っておけないって顔をして。昔から、ずっとそうだったじゃない」
「話を聞いてくれ」
「聞かない」即座に言葉が返ってきた。静かな声だったが、有無を言わせない重さがあった。「もう聞かない。あなたの言葉は、もう要らない。聞いても意味がないって、ようやく分かったから」
「シェルファ」
「お父様を殺したのは、あなたでしょう」
声の温度が変わった。
シェルファニールの赤い髪が波打ち、空気が断裂するように炎が奔った。ロートリットは反射的に横へ跳んだ。背後の石壁が赤熱し、表面が熔け落ちる。
「違う。私はグレイドル将軍を――」
「殺したのはあなたでしょう!」
今度は部屋全体を包む奔流が来た。天井まで届くような炎の壁だった。ロートリットは大剣を盾のように差し出し、直撃を逃れた。しかし左腕に熱が走り、感覚が遠のいた。
「シェルファ、聞いてくれ!」
「嫌よ」
シェルファニールは言った。単純な怒りではなかった。怒りよりも深い場所から来る言葉だった。壊れたものを長く抱え続けた人間だけが持つ、崩れかけの声。
「絶対に許せない。お父様を奪っておいて、何もなかった顔をして……。あなたはいつもそう。全部分かっているような顔をして、わたしには何も言わないで、全部一人で決めて」
「御屋形様は――」
「黙って!」
炎が溢れた。
逃げ道がなかった。後方への道は既に塞がれていた。ロートリットはあえて前へ踏み込み、炎の中に体ごと飛び込んだ。
右目に鋭い痛みが走った。
世界が弾けるように歪み、視界の右半分が消えた。膝をついた。右手を目に当てると、掌が濡れていた。自分の血だった。
「やっぱり、あなたとはわかりあえない」
シェルファニールの声が続いた。怒鳴り声ではなかった。むしろ静かなほどだった。全てを使い果たした者の、透明な声だった。
「上から目線で、何でも知ってる顔をして。いつだってそうだった。いつだって先にいて、いつだってわたしが追いかけて、いつだって届かなくて」
炎が揺れた。
「わたしは、あなたのずっと後ろにいた。ずっと」
ロートリットは顔を上げた。
「シェルファ」
「追いかけても届かない。悔しくて、羨ましくて……でも嫌いにもなれなかった。そのくせ、あなたは一度だって本当のわたしを見ようとしなかった」
深紅の瞳が揺れていた。
ロートリットはゆっくりと立ち上がった。
右目はもう見えない。左腕は感覚が薄く、剣を正確に握ることが難しかった。それでも大剣を構えた。右手一本で、構えた。
「聞いてくれ」とロートリットは言った。「弁解はしない。お前の言っていることは、全部正しい。私はずっと間違い続けてきた。お前の気持ちを読もうとしなかった。読もうとしなかったのではなく、読めると思い込んでいた。推測を確かめずに、判断を先に出した。それが間違いだった」
「いまさら、何を。だったら、何だというの……?」
「ああ。いまさらだ」ロートリットは言った。「分かっている。今更では遅い。しかし言わなければならない。私はお前のことが好きだった。シェルファニール・グランシール、お前のことが、ずっと好きだった。子供の頃から、幼年学校でも、士官学校でも、その後も。友として、仲間として、家族として。言葉にしなかったが、ずっとそうだった」
シェルファニールの炎が、一瞬だけ揺れた。
「……嘘をつかないで」
「嘘じゃない」
「嘘じゃないなら」シェルファニールの声が、初めて揺れた。怒りでも憎しみでもない。長い年月、胸の奥で燻り続けたものが崩れていく音だった。「嘘じゃないなら、どうして」
深紅の瞳に、薄く光が滲んだ。
「どうして、わたしたちは、こうなったの?」
その問いは、責める言葉ではなかった。
置き去りにされた少女が、ようやく口にできた問いだった。
炎だけが、塔を満たして鳴り続けていた。
ロートリットは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「……私の所為だ」
掠れた声だった。
「全部ではないかもしれない。帝国も、時代も、全部が重なった。しかし、お前が傷ついた理由の一つは、確かに私にある。お前を独りにしたのは、私だ」
「違う」シェルファニールは言った。「帝国の所為よ。アトラス三世の所為。でも」
目から、何かがこぼれ落ちた。
炎の熱で、すぐに蒸発した。
「でも、お父様はもういない。帝国も間もなく滅ぶわ。……わたしにはもうここしかない。ここで燃えて、燃え尽きて死ぬ。死んで終わることしか、ない」
「シェルファ…!」
「……ロート。あなたを道連れにする。心配しないで。地獄でもう一度、逢えるわ」
シェルファニールの声は小さく震えていた。震えながら彼女は細剣を抜いた。剣身に炎が宿り、刃が赤く燃えた。深紅の瞳の奥に、揺るがない光があった。もはや悲しみではなく、覚悟の光だった。
「…来なさい」
ひときわ大きく炎が渦を巻いた。
ロートリットは大剣を構えた。
右目が見えない。左腕が動かない。それでも、剣を降ろすことはできなかった。
シェルファが待っていた。
答えを、ずっと待っていた。
お互いの剣と炎の答えしか、ふたりにはもう残っていなかった。
「来て。終わらせましょう。どちらかが倒れるまで」




