番外編 幸せの福音①
番外編・下 幸せの福音
一 ラファの春
春になった。
ラファの街の中央広場に、花が咲いた。
石畳の継ぎ目から、雑草に混じって小さな黄色い花が顔を出していた。誰が植えたわけでもない、ただ暖かい春が来たから咲く、連綿と続いた植物の営み。
広場の噴水が、勢いよく動いていた。その水は春の陽光に照らされ反射し、虹色に輝いている。
帝国の時代から壊れたまま放置されていた噴水を、街の職人たちが半年かけて修繕した。水が上がった日、広場に人が集まって歓声を上げた。子供たちが噴水の周りを走り回って、服を濡らして、親に叱られている。なんのことはない、ありふれた光景だった。
そういう景色が、ラファには戻っていた。
二十二歳になったアルビオン・ブロムウィッチは、その噴水の縁に腰を下ろして、広場を見ていた。
銀の髪は相変わらず少し長く、緑の目が春の光を受けていた。体は戦時より少し落ち着いたが、鍛えた体の質は変わらなかった。黒く輝く暗黒剣は、今はもう腰には下げていなかった。彼の家の棚で、鞘に収まったまま出番のない日が続いていた。
平和だった。
しかし彼は、平和に、まだ慣れていなかった。
「アルビオン、こんなところにいたー」
背後から声がして、振り返った。
まだあどけなさの残る、小柄な女性がが広場に入ってきた。
二十歳になったジュノ・ウィンは、会うたびに少し変わっていた。子供の頃の面影が残りつつ、しかし確実に大人に近づいていた。肩くらいに伸ばしたまっすぐの亜麻色の髪が春の風に揺れた。茶色い大きな目が、アルビオンを見つけて細くなった。
「何してるの?こんなところで」
「えーと、考え事?」
「えー。似合わない。それで何を考えてたの?」
「色々と、かな」
「もう。あいまいすぎー」呆れた顔でジュノは噴水の縁に並んで座った。アルビオンの隣に、いつものように、当然のように。「ちゃんと言ってよ」
「ちゃんと言えるほど、まとまっていない」
「アルビオンの考えがちゃんとまとまることなんて少ないよ。悩みは吐き出すと楽になるかもよ?」
アルビオンは苦笑して、少し間を置いた。
「……平和だな、と思っていた」
「……ん。そうだね、平和だね、すごく」
「なんとなく、まだ慣れない」
「うん」ジュノは頷いた。「あたしも慣れない。何かしなきゃって思うのに、何もしなくて良い日が続くと、落ち着かない」
「そうだ、その感じだ」
「でもね」ジュノは広場を見た。「こうやって子供たちが走り回っているのを見てると、これで良かったんだって思う」
「そうだな」
「あの子たちは、帝国の支配と重税を知らないまま大きくなるの。知らなくて良いんだ。それでいい、と思うよ。あたしは」
アルビオンは広場を見た。
噴水の周りで、子供が三人、追いかけっこをしていた。笑い声が広場に響いた。
その笑い声が、アルビオンの中の何かを落ち着かせた。
「そうだな」とアルビオンはもう一度言った。「これで良かった」
二 仕立て屋の父
ラファの街の一角に、仕立て屋があった。
仕立て屋ブロムウィッチ。
アルビオンの父、ガレット・ブロムウィッチが二十年以上営んでいる店だった。
戦争が終わり、アルビオンが五年ぶりに戻ってきた時、父は店の前で待っていた。
何も言わずに、ただ息子の頭を手で掴んで引き寄せた。
アルビオンも何も言わなかった。
それで良かった。
今は、週に一度か二度、店の手伝いをしていた。元々不器用なアルビオンは、縫い物は得意ではなかった。しかし重い布地を運んだり、棚の上に届かない場所の荷物を取ったり、力仕事は任せてもらえた。
ある日の午後、店でジュノが父に話しかけているのをアルビオンは見た。
「ガレットさん、この布はどこから来るんですか」と聞いていた。
「東の街の織物師のところから仕入れてる。帝国の時代は関所が多くて、仕入れの値段が高かった。今は安くなった」と父が答えていた。
「じゃあ、良くなったんですね」
「そうだな。お前たちのおかげだ」
「あたしは大したことはしていません。アルビオンの方が」
「アルビオンは昔から無鉄砲でな」父は苦笑した。「そういう子の傍に、あんたみたいな子がいてくれれば、あいつも無茶しないだろう」
「あたし、そんな立派なものじゃないです」
「立派だろうよ。解放軍の銃士隊といえば知らん者はおらん。ジュノちゃんが、あいつの隣にいてくれれば、それだけで親としては安心だ」
ガレットはそう言って大きな布を広げた。
「ウエディングドレスを仕立ててやろうか?それとも、赤ん坊の産着か?」
「お、親父!何言ってんだ!」アルビオンはあわてて会話に割り込んだ。
ジュノは少し頰を赤くして「えーと、じゃあ両方」とかわいらしく呟いた。
でも、父がジュノに言ったことは、アルビオンが言いたかったこととほぼ同じだった。
父親というのは、息子が言えないことを先に言うようだった。
三 鉱山都市への帰還
春の半ば、アルビオンとジュノはフェルロンへ向かった。
そこには、ジュノの父の墓があった。
鉱山都市フェルロンは、帝国の時代とは少し変わっていた。鉱山の運営が坑夫組合の管理下に移り、収益の分配が変わった。坑夫たちの住環境の改善が進んでいた。まだ完全ではないが、方向は確実に変わっていた。
街に入ると、ジュノが少し足を止めた。
「フェルロン、変わったね」と彼女は言った。
「良い方向に変わったみたいだな」
「うん。空気が違う。前は……重かった。諦めた感じがした。今は、まだ大変そうだけど、重さが違う」
「諦めていない重さ、か」
「そう」ジュノは言った。「頑張っている重さ。だからフェルロンはもう大丈夫」
墓地は街の外れにあった。
ジュノの父、カイン・ウィンの墓は、石造りの小さな墓標だった。
ジュノが花を供えた。両手で、丁寧に。
それから、しばらく何も言わずに立っていた。
アルビオンは少し後ろに立っていた。
「お父さん」とジュノは言った。「遅れてごめんね。来たよ、久しぶりに」
墓が静かだった。
「戦いは終わったよ。皇帝は倒れ、帝国は無くなった。お父さんが大切にしていた銃は、最後まで役に立ったよ。他の銃士の人たちも、みんな生きてる」
優しい風が、ゆったりとふたりを包んだ。
「あたしも生きてる。元気にやってる。心配しないで」
ジュノは少し間を置いた。
「あのね、お父さん」と、声が少し変わった。「紹介したい人がいるの」
アルビオンは前に出た。
「アルビオン・ブロムウィッチです」とアルビオンは言った。墓に向かって言った。「ジュノとは、四年前に出会いました。最初は俺がジュノを助けました。だけどその後は、ずっとジュノに助けてもらっています」
ジュノが小声で「誇張しすぎじゃない?」と言った。
「事実だから、いいんだ」アルビオンは続けた。「ジュノがいなければ、俺はもっと無茶をしていたと思います。ジュノが隣にいてくれたから、ちゃんと生きて帰ってこられました。感謝しています。俺を守ってくれたあなたの娘さんを、これからは俺がずっと守ります」
墓の前が静かだった。
ジュノの目が少しだけ赤くなっていた。
「アルビオン、たまにはカッコいいんだね」と彼女は言った。
「たまにはって何だよ。お前の親父さんにウソは言えないだろ」
「……お父さん、よろしくお願いします」と涙目のジュノは父の墓に向かって言った。「この人のこと、認めてあげてね。ちょっと無鉄砲だけど、良い人だから」
風が木の葉を揺らした。
アルビオンにはそれが、亡きジュノの父の返事のように聞こえた。
四 ロンバルティアの言葉
ラファに戻った翌日、ふたりはロンバルティアに呼ばれた。
本部の執務室で、ロンバルティアは書類の山に向かっていた。
二十二歳なったロンバルティアは、激務続きで少し痩せていたが、金色の短い髪と青い目は変わらなかった。あの碧いアミュレットは、今も首に下がっていた。
「アルビオン、ジュノ、忙しい中すまないな。座ってくれ」
言われるまま、二人は椅子に座った。
「君たちの、今後の話をさせてくれ」挨拶もそこそこに、ロンバルティアは言った。「各地の自治は軌道に乗り始めた。以前のように君たちが各地を転々とする必要は、少なくなってきている。お互い信頼関係が出来て、普段の伝令で十分事が足りてきた」
「俺たちはどうなる?」とアルビオンは聞いた。
「それを聞きたくて、君たちを呼んだんだ」ロンバルティアは言った。「これからどうしたいか、自分たちで決めてほしい。解放軍の仕事を続けてもらっても良い。ラファで別のことをしても良い。どこか別の場所で暮らしても良い」
「……急だな」
「急ではない。戦いが終わってから五年近く経っている。そろそろ、自分の話を考えても良い時期だ」アルビオンを見て、それからジュノを見た。「君たちは特に」
「特に、って何?」とジュノが聞いた。
「君たちふたりで、これからの人生を考えた方が良い時期だと思っている。僕の見立てが間違っているなら、そう言ってくれ」
「やだ、ロンバルティアさんってば」ジュノの頰が赤くなった。
アルビオンも、「ま、まあ見立ては間違ってはいないが、まだ何も考えてはいない」と少しだけ口籠った。
「わかった」ロンバルティアは微笑んで頷いた。「では、仕事は選べる範囲にする。各地への連絡役や、新しい体制の周知活動は続けてほしい。しかし以前のように常に転戦というわけではなく、ラファを拠点にしながら動ける範囲で」
「ロン、配慮に感謝する」アルビオンは頭を下げた。
「ジュノはどうする?君の持つ銃の知識は貴重だ。新しい体制でも、古代兵器の研究を続けてほしいと思っているが」
「やります」とジュノは言った。「お父さんの仕事を、続けたいと思ってた。かなり解明は進んできたけど、まだまだ銃のことを、もっとちゃんと研究したい。どういう仕組みで動くのか、どう安全に扱うか、どう保管するかも含めてね」
「頼む。フェルロンの坑夫組合とも連携して、資料を集めてほしい」
「わかった。まかせて」
会議が終わった後、廊下を歩きながらジュノがアルビオンに言った。「ロンバルティアさん、気を遣ってくれてるよね」
「昔からそういうやつだ」アルビオンは言った。「あいつの視野は広い。人のことをよく見ている」
「いい人だよね」
「ああ。いいやつだ。ただ、抱えてる仕事の量が多すぎる。誰かが止めないと倒れる」
「それはアルビオンが言う? あなたもいつも無茶するのに」
「俺は丈夫だから、簡単には倒れない」
「ロンバルティアさんも丈夫そうだけど」
「……まあ、俺たちの師匠が師匠だからな。お互い様か」
「あなたのお師匠様ってどんな人だったの?」
「会ったことなかったか?」
「会ったけど話はあんまりしなかった」
「不思議な爺さんだった。何でも知っていて、俺たちを鍛え上げてくれた。師匠は、遠い遠い、他の世界から来たって言ってた。本当かどうかはわからないけれど」
「遠い世界から来たとか、普通なら信じられないけど、アルビオンとロンバルティアさんを見ると信じられちゃいそう」そう言ってジュノは笑った。
五 夏の夜
夏になった。
ラファの夜は、帝国の時代より明るくなった。
街灯の数が増えたわけではない。人々が夜に外に出るようになったからだった。夜出歩くことを恐れない街になった。
広場では、復興を祝う夏の祭りが開かれていた。
帝国の時代には、余分な金を持っていると摘発され没収された。その結果、祭りの規模が年々小さくなり貧しくなっていった。今年は、復興を祝っての久しぶりの大きな祭りだった。
音楽があった。食べ物の屋台があった。子供たちが走り回っていた。大人たちが笑っていた。アコーディオンやマンドリンの曲に合わせて、大勢の市民が楽しそうに踊り、騒ぎ、歌い、それぞれがそれぞれの「復興」を楽しんでいた。
アルビオンとジュノは、祭りの端の方で並んで座っていた。
「お祭り、楽しいね」とジュノは言った。
「そうだな」
「アルビオン、踊らないの?」
「俺は踊り方を知らない。不器用だからな」
「あたしも知らない。でも、あの人たちを見てると、踊りたくなってくる」
「踊ってくればいいじゃないか」
「一人で踊るのってなんか恥ずかしいじゃん。アルビオンが一緒に踊ってくれるなら」
「残念ながら、俺はこういうのは苦手なんだ。知ってるだろ」
「じゃああたしも今日から苦手にしようっと」
「……頑固だな」
「アルビオンに言われたくないもーん」
笑顔の二人は並んで、祭りの人々を見ていた。
音楽が続いていた。明るい音楽だった。
ジュノがアルビオンの腕に、そっと手を添えた。
アルビオンは動かなかった。
暗い夜空に星が出ていた。ふたりはしばらく黙ったまま星を見つめた。
「ねえ、アルビオン」
「なんだ?」
「ずっと一緒にいていい?」
「今も一緒にいるだろ」
「もう。そうじゃなくて。これからも、ずっと」
アルビオンは少し間を置いた。
「…そうだな」
「簡単に言わないで、ちゃんと言ってよ」
「……じゃあ、ずっとお前と一緒にいる。これで良いか?」
「うん。なんか棒読みだけど」ジュノは少し笑った。「ちゃんと言ってくれてありがとう」
「毎回言わせるつもりなのかよ」
「毎回言ってくれるなら嬉しいな」ジュノは大きな目でアルビオンの瞳を見た。
「……覚えておく」少し照れて、アルビオンは目を背けた。
幸せな音楽が続いていた。
祭りの夜は、長かった。




