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番外編 幸せの福音②

 



六 秋の知らせ



 秋が来た。


 街路樹が黄金色に染まり、石畳に落ち葉が積もり始める頃のことだった。


 その朝、ジュノは珍しく静かだった。

 いつもなら朝食を囲みながらその日の予定を喋り倒す彼女が、どこか遠くを見つめるようにして黙々と匙を動かしている。アルビオンは違和感を覚えたが、無理に問いただすことはしなかった。


 彼女が話したくなった時に、聞けばいい。それが彼なりの誠実さだった。



 昼下がり、アルビオンが久しぶりに暗黒剣を棚から下ろし、手入れをしていた時のことだ。


 背後の扉が開き、ジュノが入ってきた。


「……アルビオン」


「どうした?顔色が良くないな」


「……話があるの」


 アルビオンは研ぎ石を置き、彼女と向き合った。


 ジュノの手は、自分の腹部をいつくしむように、そっと添えられていた。


「子供が……できたみたい」


 アルビオンの思考が一瞬、停止した。


 手に持っていた布が、音もなく床に落ちた。


 ジュノは不安と期待が入り混じったような、揺れる瞳でアルビオンを見つめていた。どう反応するかを、ちゃんと見ていた。


「……本当か」


「本当。お医者様にも診てもらったの」


 アルビオンは立ち上がった。何か気の利いた言葉を口にしたかったが、喉の奥に熱い塊が詰まって声にならない。感情が器から溢れ出し、整理がつかないのだ。


「黙らないでよ。……何か言って」


「……すごく、嬉しい」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


「本当に?」


「ああ。震えるほど、嬉しい」


 「……!」ジュノの目に、涙が溜まった。一語一語、言葉を紡ぐ。「……怖くない? あたしは少し怖いの。ちゃんと育てられるか、この子が生きる世界が本当に大丈夫なのか、って……」


「俺も、怖い」


 アルビオンはジュノに歩み寄り、その肩をそっと抱き寄せた。


「だが、嬉しいんだ。恐怖と同じくらい、いやそれ以上に。……嘘じゃない」


「……うん。アルビオンがそう言ってくれるなら、信じられる」


 アルビオンの大きな手が、ジュノの頭を包み込むようにそっと置かれた。


 言葉よりも雄弁な、守護の誓いだった。



 翌日、ロンバルティアに報告すると、彼はしばらくの間、絶句した。


「……そうか。お前が、父親に」さすがのロンバルティアも、それ以上声が出なかった。


「それだけか。おめでとうの一言もないのか」冗談っぽくアルビオンは笑った。


「いや……おめでとう。本当に、心から祝福するよ」ロンバルティアは少し間を置いた。「ただ、お前が父親になるという実感が、僕の方に追いつかなくてね」


 彼はどこか遠い目をして、首元のアミュレットにそっと触れた。


「僕の父は、僕が生まれる前に命を落とした。父という存在がどういうものか、僕には知識の中にしかない。……だが、お前の子供には、お前がいる。それはきっと、素晴らしいことだ」


「……ロン。お前もいつか、良い父親になる」


「僕には相手もいない。それは、ずっとまだ先の話だよ」


 ロンバルティアは照れ隠しのように小さく笑い、それからすぐに指導者としての顔に戻った。


「仕事を調整する。ジュノの体調を最優先にしろ。……それと、アルビオン」


「なんだ」


「お前も、もう無茶な戦い方はするなよ」


 アルビオンは少し間を置いてから、静かに答えた。


「わかっている。……帰る場所の意味が、ようやく分かった気がするんだ」




七 冬の準備



 冬になった。


 ジュノのお腹が、少しずつ大きくなってきた。


 アルビオンは、以前より慎重に動くようになった。

 以前は自分が危険な場所に行くことを、あまり考えずに選んでいた。戦場でも、危険な任務でも、自分の体のことは後回しだった。しかし今は、少し違った。


 戻らなければならない理由が、増えた。

 ジュノがいる。子供がいる。戻らなければならない。


 それは怖さではなく、帰る場所ができたということだった。


 ある日の夕方、ジュノが銃の研究資料を整理しているところに、アルビオンが帰ってきた。


「ジュノ、何している?」


「資料の整理だよ」ジュノは言った。「この子が生まれる前に、できるだけまとめておきたいからね」


「無理するな」


「無理してない。座って作業しているだけ」


「重い物を持つな」


「もう。心配性だな。持っていないよ」


「高い棚に手を伸ばすな」


「もう。伸ばしていないでしょ」


「……」


「アルビオン、心配しすぎ」ジュノは手を止めて、アルビオンを見た。「ちゃんとやってるから、信じて」


「信じている。でも心配はする」


「両立できるの?あんたそんなに器用だったっけ?」


「する。させる」


 ジュノは少し笑った。「分かった。じゃあ、心配しながらも信じて」


「ああ。そうする」


「そこの棚の資料、取ってくれる?」


「どれだ?」


「一番上の、青い表紙のやつ」


 アルビオンが取った。渡した。


「ありがとう。あたしには届かないから」


「俺はロンほど背が高くないぞ。子供の頃は俺の方が大きかったのにな」


「あはは。ロンバルティアさんはでっかいよね」


「そういえば、ロートリットさんも背が高かったな。血筋かな?」アルビオンはかつての、白い鎧の女騎士を思い出した。彼女は今、何をしているのだろう。突然帝都から消えた、とは聞いていた。しかしながら、彼には皆目見当もつかなかった。


「男の子か女の子か、どっちになるだろう」


「どちらでもいいよ。元気に生まれてくれればそれが一番だから」


「俺も同じだ」


 ジュノは資料に目を落とした。


「名前、考えてる?」とジュノが言った。


「まだだ。ジュノは?」


「少し考えてる。でも、二人で決めたい」


「そうだな」


「ねえ、アルビオン」


「どうした?」


「この子に、この街を見せたい。噴水があって、花が咲いて、子供たちが走り回っている広場を。帝国がなくなって、みんなが幸せになろうとしているこの街を」


「そうだな。見せられるな」


「うん。見せられるよね」ジュノは言った。「あたしたちが戦ったのは、そのためだから」


「そうだ。そういう世界を作りたかった」


「頑張った甲斐、あったよね」ジュノはまた資料探しに戻った。「じゃあ、一緒に考えようよ。この子の名前」


「今か?」


「今じゃなくても良いけど、いつか」


「いつか、ではなく、そのうちにしよう」


「そのうち、ならいつ?」


「時間はまだある。冬のうちにふたりで考えよう」


「決まりだね。アルビオン、大好き」



八 春を待つ夜



 冬の深い夜だった。


 アルビオンは夜中に目が覚めた。


 ジュノが隣で眠っていた。

 穏やかな寝顔だった。


 アルビオンはしばらく天井を見た。


 色々なことを思った。


 フォーマルハウト師匠のところでロンバルティアと修行した五年間。魔剣士の里で腕を磨いた五年。戻ってきた時のロンバルティアの顔。ラファの自治宣言の朝の広場。各地を転戦した日々。ジュノと出会った夜の、暗い路地。ハイラムでの攻防。そして、燃え上がる帝都での最後の戦い。激戦続きだった。いつ命を落としてもおかしくなかった。

 

 しかしあの時から、ジュノはずっと彼の傍にいた。いつしかかけがえのない存在になっていた。そして、今、彼女のお腹には自分と愛する女性との子供がいる。


 隣で眠っていたジュノが目を開けた。


「あれ、アルビオン。起きてたの?」とジュノが言った。かすれた声で。


「ちょっと、な」


「また考え事?」


「ああ」


「何を考えてたの?」


「色々と」


「もう。また曖昧な答え」ジュノは言った。目がまだ眠そうだった。「ちゃんと言って」


「お前のことを考えていた。子供のことを。これからのことを」


「怖くなっちゃった?」


「少しな。しかし、楽しみでもある」


「そうだね」ジュノは言った。「あたしも同じ。怖いけど、楽しみ」


「ジュノ、お前も眠れなかったのか?」


「寝てたよ。でも、アルビオンが起きてるのがわかったから起きちゃった」


「すごいな。どうしてわかる?」


「呼吸が変わるから」ジュノは言った。「眠ってる時と、起きてる時と、考えてる時と、全部違うもん」


「……そんなにわかるのものなのか」


「だってあたし、四年間、ずっとあなたの隣にいたから」


 アルビオンは少し間を置いた。


「ジュノ」


「なあに?」


「名前、一つ思いついた」


 ジュノが少し目を開いた。「教えてよ」


「エルファ、というのはどうだ」


「エルファ」ジュノは繰り返した。「女の子だった時に?」


「ああ。エルヴィン・テンペストから一字取った。ロンバルティアの父の名前だ。俺たちがここにいるのは、あの人が二十年以上前に立ち上がったからでもある」


 ジュノはしばらく考えた。


「良い名前だと思う」と彼女は言った。「今度、ロンバルティアさんに聞いてみようよ」


「そうだな。それがいい」


「男の子だった時は?」


「それは、まだ思いついていない」


「じゃああたしが考える」


「頼む」


「……ジョナサン、はどうかな」ジュノは少し間を置いて言った。「あたしのご先祖様の名前。ジョナサン・レンドル・ウィン」


「良い名前だ」


「エルファかジョナサン」ジュノは言った。「どちらになっても、良い名前だと思う」


「そうだな」


 ジュノが大きな目を閉じた。


「もう少し眠る」と彼女は言った。


「ああ、眠れ。お腹の子供のためにも」


「アルビオンも眠って。考え事は朝にして」


「……そうする」


 ジュノはアルビオンの手を握った。温かい手だった。


 アルビオンは目を閉じた。

 眠れるか分からなかった。

 しかし、ジュノの手は温かく、柔らかかった。


 それだけで、十分だった。



九 春の朝



 春が来た。


 ラファの広場に、また花が咲いた。


 去年と同じ、石畳の継ぎ目から顔を出す小さな黄色い花だった。去年より少し多かった。

 噴水が動いていて、子供たちが走り回っていた。


 その朝、ブロムウィッチの家に産声が上がった。


 元気な声だった。


 遠慮のない、力いっぱいの声だった。


 アルビオンは、その声を聞いた瞬間、自分でも気づかないうちに頬を熱いものが流れていた。


 涙だった。


 彼が声を出して泣くことは、これまでほとんどなかった。苦しい修行中でも、戦場で仲間が死んだ時も、戦争が終わった時も、師匠と別れた時も。目が赤くなることはあっても、涙は出さなかった。


 今は出た。

 止まらなかった。どうやっても出た。



 少し経って、アルビオンは部屋に入れてもらった。


 ジュノが横になっていた。疲れ切った顔だったが、目が生きていた。


 腕の中に、小さな命があった。


「赤ちゃん、抱いてあげて」とジュノは言った。


 アルビオンは近づいた。


 小さかった。


 これほど小さいものを、近くで見たことがなかった。


 赤くて、皺があって、目を閉じていた。しかし確かに、呼吸していた。


「女の子だよ」とジュノは言った。


 エルファ、とアルビオンは思った。


「エルファ」とアルビオンは言った。声に出した。


「うん」ジュノは頷いた。「エルファ・ブロムウィッチ」


 その名前が彼らの福音となって、部屋の中に響いた。


 父のガレット・ブロムウィッチが知らせを聞いて、店を閉めて飛んできた。

 老いた仕立て屋は、孫娘の小さな手を指で触れて、それだけで泣いた。

 アルビオンは父が泣くのを、初めて見た。



 ロンバルティアが知らせを聞いてやってきたのは、昼過ぎだった。


 部屋に入って、エルファを見た。


 しばらく黙っていた。それからロンバルティアは満足そうな笑顔を浮かべた。


「生まれた子供は、元気そうだな」


「ああ、おかげさまで元気だ」とアルビオンは言った。


「ジュノも元気か?」


「さっき眠った。一仕事終えて、さすがに疲れたみたいだ」


「そうか」ロンバルティアは少し間を置いた。「良かった。本当に良かった」


「ロン」


「なんだ?」


「この子の名前を、エルヴィン・テンペストの名前から一字取って、エルファと決めた。ジュノと話して決めた」


 ロンバルティアは少し目を細めた。


「エルファ、か」


「嫌か」


「親友のお前が、僕の父の名前を使ってくれたのに、嫌なわけないだろう」ロンバルティアは笑って言った。「ありがとう」


「こっちのセリフだ。お前が礼を言うことではない」


「僕が言いたかった」


 ロンバルティアはエルファを見た。


 小さな命が、眠っていた。


「この子が大きくなる頃には」とロンバルティアは言った。「もっと良くなっていると思う。そうしなければならない」


「そうだな。俺も手伝う。この子が大きくなった時に、もっと良い国になっていれば、俺たちの勝ちだ」


「勝ち負けではないだろう」


「俺には、そういう言い方しかできない」


「……まあ、アルビオンらしい」ロンバルティアは言った。「それにしても、親友に子供ができる、親友が父親になるってのは、僕にとっても嬉しいものなんだってわかったよ」


ロンバルティアの青く透き通った瞳に、涙が浮かんだ。


「ありがとう、親友」アルビオンの緑色の瞳にも、涙が滲んだ。



十 春の広場



 一ヵ月後、エルファを初めて外に連れ出した。


 ジュノがしっかりと抱いて、アルビオンが隣を歩いた。


 広場に出た。


 噴水が動いていた。

 花が咲いていた。

 子供たちが走り回っていた。


 ジュノはエルファに向かって言った。「ここがラファよ。あなたが生まれた街」


 エルファは目を開けていた。

 何を見ているのか、何を感じているのか、まだ分からない。

 しかし、目が動いていた。


 噴水の水が光を反射するのを、どこかで見たのか。子供たちの声が聞こえたのか。

 小さな手が、動いた。


「見てる、見てるよ」とジュノが言った。


「ああ、お前に似て目が大きい」とアルビオンは言った。


「見えてるのかな」


「分からない。でも、何かを感じているんだろう」


「そうだね」ジュノはエルファの顔を見た。「見ていて、エルファ。ここはね、みんなで作った街なんだよ。たくさんの人が、頑張って作った街。あなたはここで大きくなるんだよ」


 エルファは何も答えなかった。


 しかし小さな手が、またわずかに動いた。

 アルビオンはその手を、指先で触れた。

 小さな指が、アルビオンの指を握った。

 力は弱かった。しかし、確かに握った。


 アルビオンは動けなかった。


 この小さな手が、いつかもっと大きくなる。


 歩くようになって、話すようになって、笑うようになって、怒るようになって、泣くようになって。

 この街を走り回るようになる。この街で学び、この街で競い、成長していく。


 エルファの人生という長い長い道のりがが続いていく。アルビオンとジュノも、父として、母として、エルファと共にこの街で歩み続ける。底のない楽しみだった。


「アルビオン」とジュノが言った。


「なんだ急に」


「ありがとう」


「いきなりどうした。何に対して、ありがとうなんだよ」


「全部に対して、だよ」


 アルビオンは少し間を置いた。

 

「そうか。じゃあ俺もだ。ジュノ、ありがとう」


「なーんか適当ー。もっとちゃんと言ってくれないと、あたしには通じないから。ね、エルファ」

 

「お前な……。母親になったんだろ、ワガママ言うなよ」

 

「母親とか関係ないもん。ちゃんと言ってくれないとおっぱいも出なくなっちゃう」


「バ、バカ、お前」バツが悪そうにアルビオンは周りを見渡してから、ジュノの目をまっすぐ見た。 


「……ジュノがいてくれて、俺は幸せだ。お前が好きだ。これでいいか」


「うん」ジュノは輝くような笑顔を見せた。「バッチリです」

 

 彼女の胸に抱かれたエルファも母親につられ、輝くような笑顔になった。



 春の風が広場を渡った。


 噴水の水が光を散らした。


 子供たちが走り回っていた。

 笑い声が、広場に満ちていた。

 エルファの小さな手が、アルビオンの指を握り続けていた。



 春は、まだ続いていた。








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