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番外編 追う男②




五 酒場の夜


 北の修道院を後にしたアランは、さらに南へと足を進めた。かつての帝都へ続く主要街道。その宿場町にある大きな酒場の扉を潜った時、外はすでに冷たい夜霧に包まれていた。


 喧騒の中に身を置き、アランは久しぶりに「まともな酒」を喉に流し込んだ。傭兵時代、酒はただの燃料だった。B中隊の頃は、隣に立つ金髪の指揮官にたしなめられない程度の嗜みだった。だが、一年近く一人で歩き続けた今の彼にとって、琥珀色の地酒は、自分の輪郭をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の重石のように感じられた。


「兄さん、いい飲みっぷりだね」


 隣に座った旅の商人が、干し肉を齧りながら声をかけてきた。北から南まで大陸を縦断しているというその男は、使い古された地図と利に聡そうな目をしていた。


「……探し人をしていてな。少し、喉が干からびていたんだ」


「探し人、ねえ。このあたりじゃあ、そんな奇特な旅人はあんたくらいのもんだよ。……ああ、待てよ。まさか、白い眼帯をした女の人のことかい?」


 アランの指がピクリと動いた。


「知っているのか」


「昨日まで、この街の交易所で帳簿の整理を手伝っていたよ。不自由な腕でねえ……。だが、あのお嬢さんがペンを持つと、交易所のお堅い役人どもが誰も口を挟めなくなる。軍隊上がりか何かなのかい? とんでもなく正確な流通のアドバイスをしていったよ」


 商人は感心したように酒を煽った。


「俺も少しばかり商売の話をしたが、あのお嬢さん、各地で関所がなくなったことを聞いて、本当に……心の底からホッとしたような顔をしてたんだ。『良かった』ってね。自分が血を流した報いがあったとでも言いたげな、そんな慈愛に満ちた目だったよ」


「……そうか。あいつ、そんな顔をしてたのか」


 アランの胸に、形容しがたい温かさが広がった。ロートは戦士であることをやめても、自分が守りたかった世界の「その後」を、その唯一の左目で見届けようとしていたのだ。


「でもね、兄さん」商人は真剣な顔でアランを見た。「あのお嬢さんの目、帰る場所を探している迷子のような色をしていたよ。あんた、あの人の『家』になれるのかい?」


 アランは空になった盃を見つめた。


「……ああ。なるつもりだ。どこであろうと、あいつが立ち止まった場所を『家』に変えてやるよ」



六 追う理由


 翌朝、商人の言った通りに東の道へと向かった。


 道中、老朽化した橋が崩落し、川沿いの迂回路を辿らなければならない一幕があった。浅瀬を渡ろうとした際、不運にも濡れた苔に足を取られ、アランは腰まで川に浸かってしまった。


「……クソ、情けねえな」


 川辺に這い上がり、濡れた上着を絞りながらアランは毒突いた。秋の終わりの水は刺すように冷たい。かつて東部でロートと共に凍るような川を渡った時のことを思い出し、彼は独り、唇を噛んだ。


 あの時は、隣に彼女がいた。


 共に震え、共に歯を食いしばり、顔を見合わせれば「冷たいな」という一言だけで全てが通じ合った。


 一人で旅をすることの最も辛い点は、困難に出会った時ではなく、その困難を「笑い話」に変えてくれる相手がいないことなのだと、アランは三十歳を超えて初めて知った。


(……見つかったら、真っ先にこの話をしてやろう)


 川に落ちた間抜けな副長の姿を想像して、あいつがほんの少しでも、あの控えめな笑みを浮かべてくれたなら。それだけで、この一年間の泥まみれの行軍はすべて報われる気がした。


 荷物を確認する。防水布に包んだ『テンペストのマント』は無事だった。


「……待ってろよ、ロート。お前の『家門の誇り』は、俺が絶対に濡らさせねえ」



七 グランシール邸の静寂


 帝都ミレーニアの城門を再びくぐったのは、ロートが去ってから一年が経とうとする頃だった。


 復興の槌音は力強く、街にはかつての帝政期よりも明るい活気が満ちている。アランは迷わず、北区にある旧グランシール邸へと向かった。


 門を開けた老執事の顔には、隠しきれない驚きと、そして微かな喜びがあった。


「……アラン様。お待ちしておりました。ロートリット様は……昨日の朝、発たれました」


「また一日違いか」


 アランは苦笑した。だが、邸の空気は以前とは違っていた。死の気配が消え、そこには確かな「生活」の匂いが戻っていたのだ。


 台所ではコルベルトが、温かなオーブンから焼きたてのパイを取り出した。


「アラン副長、お嬢様が、これをアラン様にと」


 年老いた料理長はそれだけ言って、アップルパイを厚手の布で包んで手渡した。


「ロートリット様は、シェルファニールお嬢様のお部屋で、ずっと笑っておられましたよ。昔の思い出話を独り言のようにしてね……。コルベルト、美味しいよ。そう言って、全部平らげてくださいました」


 アランは温かい包みを受け取った。その重みは、ロートの心がようやく「過去」を、自らの血肉として受け入れた証のように思えた。



八 二通目の手紙


 邸を去る際、執事から手渡された一通の封書。


 アランは門前の石段に座り込み、シナモンの香りが漂う中でそれを開いた。


『アランへ。

 グランシール邸に戻り、コルベルトのパイを食べた。

 シェルファの部屋には、まだ彼女の我儘な笑い声が染み付いている気がする。

 御屋形様の書斎で、私はようやく一人の「娘」として泣くことができた。

 ……不思議だな、アラン。お前の足音が聞こえないこの邸は、以前よりも広く感じる。

 巡礼はもうすぐ終わる。

 最後に、もう一箇所だけ行きたい場所があるんだ。

 グランシール家の廟。御屋形様とシェルファの眠る場所。

 そこで最後の手向けをしたら……私は、私のための人生を歩き出そうと思う。

 ――コルベルトのパイ、半分残しておいたから。冷めないうちに食べろ。

 ロートリット』


 アランは天を仰いだ。それから、まだ温かいパイを一口だけ齧った。


「……。これが、隊長の好きなパイか。……あんたの『家族』の、思い出の味なのだな」



九 墓所


 帝都から北へ半日。アランはグランシール家の霊廟の入口に立っていた。


 グレイドル・グランシールと、シェルファニール・グランシールの墓標は、第一騎士団の元兵士たちによって丁寧に手入れされ、周囲には野の花が咲き乱れていた。


 そこには、供えられたばかりの、まだ露に濡れた白い花束があった。


 アランはグレイドルの墓前に跪き、両の拳を眼前に合わせた。


「……将軍、あんたに預けられた『宝物』は、ようやく自分の足で立ち直ったぜ。不器用で、頑固で、俺の手を焼かせてばかりだが……。俺はこいつを、誰よりも幸せにしてみせる。あんたに文句は言わせねえよ」


 さらに、もう一つの白い墓標にも頭を垂れた。


 「それから、シェルファニール。お前の『親友』はお前とは違う道を歩んでしまったが、最後の最後でその道はひとつになったようだぞ。ロートは、お前の分まで強く生きる。俺は、彼女の罪を共に背負う。お前の事、俺はずっと忘れないぜ。紅蓮の魔女よ」


 風が吹き抜け、墓標に供えられた白い花が揺れた。


 それは、去って行ったふたりの魂が、頷いた合図のようにアランには感じられた。



十 再会――雪の東屋にて


 ハイラムからさらに北、かつての視察路が交差する峠道。


 空から、今年最初の粉雪が舞い降りてきた。


 アランは街道の脇に建つ石造りの小さな東屋の中に、その「光」を見つけた。


 金色の髪。白い眼帯。


 一人の女性が、右手だけで懸命に火打ち石を叩いていた。動かぬ左腕をポケットに突っ込み、寒さに肩を震わせながらも、その瞳には諦めのかけらもなかった。


 アランは、極めて静かに、しかし隠しようのない重厚な足音を響かせて歩み寄った。


「……火を起こすのも、戦術の一環か? 隊長さん」


 石を打つ手が止まった。


 ロートがゆっくりと顔を上げた。


 一年。正確には一年と二か月。一時も忘れたことのなかったあの澄んだ青い瞳が、アランを射抜いた。


「……遅かったな、アラン。もう、日が暮れてしまう」


「お前が速すぎるんだよ。……ほら、貸せ」


 アランは彼女の隣に膝をつくと、冷え切った彼女の手から火打ち石を取り上げた。二、三度打ち鳴らすと、乾いた枯葉に火が移り、橙色の温かな炎が二人の間を照らし出した。


 沈黙。


 外では雪が静かに積もり始め、東屋の中だけが、世界から切り離された聖域のように温まっていく。


 アランは荷物を解き、あの碧紺のマントを取り出した。


「忘れ物だ。……もう一度、羽織る勇気は出たか?」


 ロートはマントを見つめ、それからアランの手を見た。火傷の痕が残る、彼女を地獄から引き揚げた武骨な手。


「……今の私には、まだこの鷲の翼は大きすぎるかもしれない。けれど……お前が半分、持ってくれるというなら。捨てずにいられる気がする」


「半分じゃない。お前が疲れたら、全部俺が担いでやる。……言っただろ、一生かけて守るって」


 炎が揺れた。

 雪が少し強くなってきた。


「今夜はここで休もう」とアランは言った。「明日どちらへ向かうかは、その時に決めればいい」


「そうだな」


「帰る場所を、そろそろ決めても良いんじゃないか」


「帰る場所か」ロートは静かに繰り返した。「アランはどこが良いと思う」


「それはお前が決めることだ」


「副官としての意見を聞きたい」


「……ラファはどうだ。ロンバルティアがいる。南方の空気はお前に合っていた。しかし、どこでも良い。俺はどこでも行く」


「ラファか」ロートはしばらく考えた。「悪くない。だが、アラン。……どこであっても、お前がいれば、そこが私の『家』だ」


 炎が揺れた。

 雪が東屋の外に積もり始めていた。


 ロートが炎に右手をかざした。指先が、橙の光を受けて温かく色づいた。


 アランはその手を見た。細い指。長い間剣を握り続けてきた手。右目と左腕を失っても、まだここにある手。


 アランは自分の手を、そっとロートの手に重ねた。


 ロートは動かなかった。


 それから、彼女はゆっくりと指を絡ませた。アランの太く大きな指の間に、白く細い指が収まった。


 熱は炎からだけではなかった。


 しばらくそのまま、二人は火を見ていた。


「……アラン」とロートは言った。声が少し低かった。


「なんだ?」


「私とずっと一緒にいてくれ」


 アランはロートの方を向いた。


 眼帯の下の右目は見えない。しかし左の目が、炎を受けて静かに光っていた。その目が、アランを見ていた。遠ざかることなく、ただまっすぐに。


「それは俺のセリフだ」とアランは言った。「ロート、愛している」


 ロートは何も言わなかった。


 しかし指の力が、少し強くなった。


 アランはロートの肩を引き寄せた。ロートは抵抗しなかった。


 薄い肩が、アランの胸に預けられた。


 温かかった。


 人の温かさだった。


 炎の熱とは違う、生きている者の温もりだった。

 アランはロートの金色の髪に顔を寄せた。雪の匂いと、旅の匂いと、その奥にロートの匂いがした。


「ずっと探していた」と、アランは低く言った。「見つかって、よかった」


「……私も」とロートは言った。普段より少しだけ小さい声で。「あなたに会えて、よかった」


 東屋の外で、雪が積もっていた。

 炎は静かに燃え続けていた。

 その夜、二人は長い間、言葉少なく寄り添っていた。


 何かを急ぐ必要はなかった。

 ただ隣にいることが、その夜の全てだった。


 翌朝、雪は上がり、地面が白くなっていた。

 東屋の中は、まだ少し温かかった。


 炎は夜の間に小さくなり、今は灰になっていた。


 二人は東屋から荷物を持って、道に出た。


 空が高かった。冬の朝の光が、白い地面に反射して眩しかった。

 ロートがラファのある南の方向を見た。アランも見た。


「帰ろう」とロートは言った。


「ああ」


 ロートが少し先を歩いた。アランが後を追った。

 二人の足音が、一つになった。

 白い道が、南へ続いていた。


 遠くで、誰かが歌っていた。

 村の子供の声だった。

 歌の内容は聞き取れなかった。しかし、よく晴れた冬の朝にふさわしい、明るい声だった。


 アランはロートの後ろ姿を見た。白い眼帯、金色の髪。愛した女性の背中。

 追いかけ続けた背中だった。

 やっと、隣にいる。


 それだけのことが、この朝はひどく眩しかった。


 










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