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番外編 追う男①

 



 ――番外編 追う男――




 一 秋の道


 帝都ミレーニアを後にしたアラン・モールを待ち受けていたのは、かつての戦場よりも過酷な「孤独」と「焦燥」だった。


 ロートリット・テンペストが姿を消してから二週間。アランは彼女が残した「歩きながら考える」という言葉の断片だけを頼りに、南街道をひた走っていた。


 かつて独立傭兵隊B中隊の副長として、あるいは第五騎士団の要として、アランは数多の困難な偵察任務をこなしてきた。敵軍の配置を読み、微かなわだちから兵数を割り出す――その卓越した「地眼」を持ってしても、たった一人の女性が意識的に消した足跡を辿るのは、霧の中で針を探すような所業だった。


「……くそ、どこまで行くつもりだ。あの身体で」


 アランは街道沿いの宿場町、色褪せた看板が揺れる宿の食堂で、冷めたエールを喉に流し込んだ。三十歳の肉体は鋼のように鍛え上げられているが、精神は限界までささくれ立っている。 


 今日もなんの情報も無しか。アランは未だに足取りのつかめない、想い人の事を考えた。


「ああ、その眼帯をしたお嬢さんなら三日前にいたよ」


 不意に、カウンターの奥で芋を剥いていた女将が口を開いた。アランの心臓が、跳ねるような音を立てた。


「……本当か。詳しく教えてくれ」


「静かな人だったよ。金色の短い髪に、白い眼帯。片腕が動かないようだったけど、背筋だけはピシッと伸びていてね。朝、誰も起きないうちから一番安い(オートミール)を食べて、銀貨を一枚多めに置いていってくれた。どこへ行くのかいって聞いたら、ただ少し困ったように笑ってね……『道が呼ぶ方へ』なんて、詩人みたいなことを言ってたよ」


「……あいつらしい」


 アランは安堵で、持っていたジョッキを落としそうになった。


「西の道かい? ああ、あのお嬢さんはそっちへ出ていった。西に向かえば山間部に入る。この時期は霧が深くて危ないって止めたんだけどね、聞いちゃくれなかったよ」


 アランは礼を言い、残ったエールを一気に飲み干して宿を出た。


 西の道。その先には古い修道院や礼拝堂が点在している。ジャンが帝国と解放軍の残骸からかき集めてくれた断片的な情報と、女将の話がようやく一本の線に繋がった。


 ジャン。あの生意気な若造は、別れ際に「副長、隊長はきっと、自分を許すための場所を探しているんです。僕らじゃ力不足だ。あんたが行かなきゃ、隊長の右側の闇を照らせる奴はいないんだから」と、泣きそうな顔で笑って言った。




 西の道を三日歩いた頃、アランは道端の石に腰を下ろした。


 右の足の裏に、潰れた豆の痛みが走る。傭兵として、軍人として、地獄のような行軍を幾度も経験してきた。それなのに、たった一人の女を追う「旅」が、これほどまでに足を重くさせるとは思わなかった。


 荷物が重いわけではない。背負っているのは替えの服と、彼女が置いていったあの「紺碧のマント」だけだ。


 靴を脱ぎ、秋の冷たい風に足を晒す。


 見上げれば、帝都の建物に切り取られたそれとは違う、無限に広がる青い空があった。


 ロートも、この空を見ている。


 同じ風に吹かれ、不自由な身体を引きずりながら、彼女は何を見ようとしているのか。


「待ってろ、ロート。お前がどんなに速く歩いても、俺の歩幅の方が大きいんだ。必ず追いついてやる」


 アランは痛む足を叱咤し、再び靴を履き直した。




 二 村の夜


 山間部へと続く上り坂の麓にある、名前も持たない小さな村。


 夕闇が降りる頃、アランは村で唯一の酒場兼宿屋へと転がり込んだ。薪がはぜる匂いと、農民たちの土臭い笑い声。平和そのものの光景が、かえってアランの胸を締め付ける。


「旅の人、どこから来たんだい」


 村の男が、酒の回った赤い顔で尋ねてきた。


「帝都だ。……人を、連れ戻しに来た」


「帝都? そりゃ遠路はるばる。ご苦労な事だ」農夫は愉快そうに笑った。  


「白い眼帯をした女性を見なかったか?左腕が不自由な」アランは、いつものように聞き込みをした。


「……ああ、もしかしてあの人か?」


 アランは身を乗り出した。


「会ったのか?」


「二日前だ。朝霧の中で礼拝堂の前に立っているのを見た。うちのカミさんが少し話をしたらしい。おい、母ちゃん! こっちに来てくれ!」


 奥から出てきたのは、丸顔で温和そうな五十代の女性だった。彼女はアランの姿を見ると、すぐに何かを察したように目を細めた。


「あの人のことを知りたいのかい。……あの方はね、私の息子の墓に、一緒に行ってくれたんだよ」


「墓に?」


「そう。私の息子は帝国の徴兵で東部へ送られて、もう帰ってこない。ずっと墓参りをするのが辛くてね、礼拝堂で泣いていたら、あの方が後ろに立っていたんだ。何も言わず、ただ私の背中に手を置いて……。それから墓地までついてきてくれて、私が泣き止むまでずっと隣にいてくれた。まるで、自分がその悲しみを半分背負おうとしているみたいに」


 女性はエプロンで手を拭いながら、遠い目をした。


「あんなに綺麗な、でも、あんなに寂しそうな背中は初めて見た。……あんた、あの方の大切な人なんだろう? 右側の目が見えないあの方の、支えにならなきゃいけない人なんだろう?」


「……ああ。そうだ。俺が、あいつの隣にいると決めたんだ」


 アランの声が、これまでにないほど深く響いた。


「あの方はね、東の礼拝堂へ行くと言っていた。ここから山を一つ越えた、岩肌にある小さな礼拝堂だよ。あの方はそこを掃除しに行くって……まるで、心を洗うみたいに言っていた。気をつけて行っておくれ。山道は夜になると凍るからね」


 その夜、借りた屋根裏部屋の寝台で、アランは眠れぬ夜を過ごした。


 ロートが見知らぬ他人の死を悼み、寄り添っている。それは戦術的には「無意味」な行動だ。かつてのロートなら、非合理的だと切り捨てていただろう。


 だが、今の彼女は、論理では救えなかったものを、自らの肉体と時間を使って救い直そうとしている。


 親友、育ての父親、そして自分が斬ってきた数多の敵。


 その重みをすべて独りで背負おうとしているのだ。


「……バカ野郎が。半分背負わせろって、あれほど言っただろ」


 アランは闇の中で呟いた。彼の指先が、鞄の中に収められた紺碧の布地に触れる。


 彼女は自分自身を許すために、自らを痛めつけているようにさえ思えた。



 三 山の礼拝堂


 山道は険しさを増し、道とは名ばかりの岩場が続いていた。


 昨夜の冷気で岩には薄い氷が張り、足を滑らせれば谷底まで真っ逆さまだ。アランは荒い息を吐きながら、傭兵時代に培った感覚を研ぎ澄ませて登り続けた。


 途中で、薪を背負った老人に会った。


「あのお嬢さんか? ああ、今日も朝早くから礼拝堂の周りを掃いていたよ。腕が不自由なのに、箒を器用に使ってね。……あんた、その人を追っているのかい?」


「ああ。俺の……大事な上司で、それ以上に大切な(ひと)だ」


「はは、正直でいい。お嬢さんはまだ上にいるかもしれん。急ぎな」


 アランは老人に礼を言い、斜面を駆け上がった。心臓が早鐘を打ち、喉が焼けるように熱い。


 やがて、視界が開けた。


 断崖の縁に、ひっそりと佇む石造りの小さな礼拝堂。


 扉は開け放たれ、中からは清涼な香草の匂いが漂ってくる。


 アランは駆け込もうとして、直前で足を止めた。


 ――静かだった。


 礼拝堂の中には、誰もいなかった。


 だが、そこには確かな彼女の残り香があった。床はチリ一つなく掃き清められ、簡素な祭壇の上には、山に咲く名もなき白い花が一輪、器に挿してあった。


 アランは肩を落とし、祭壇の前まで歩いた。すると、一番手前の長椅子の上に、一枚の紙片が置かれているのが目に入った。


 折り畳まれたそれは、明らかに「自分」を待っていた。


 アランは震える手でそれを開き、その端正で鋭い筆跡を目に焼き付けた。


『アランへ。


 来ているのは知っている。お前の足音は、地響きのように騒がしいから。

 私の目になるというなら、まず自分の足音を殺す訓練からやり直せ。

 ……けれど、もう少しだけ時間をくれ。

 もう少しだけ、一人で歩かなければ、私はお前の横に並ぶ資格を持てない。

 この山の空気を吸って、掃き掃除をしている間だけは、あの炎の音が遠のく気がするんだ。

 終わったら、必ず自分からお前のところへ戻る。

 だから……それまで、お前の好きな酒でも飲んで待っていてくれ。


 追伸。コルベルトのアップルパイは、もう食べたか?

 ミレーニアに行ったら、必ず寄れ。

 ――ロートリット』


 アランはしばらく、その紙を握りしめたまま立ち尽くしていた。


 静かな礼拝堂の中に、低く、押し殺したような笑い声が漏れた。


「……っ、はは。……バレてたか。クソ、全然直ってねえな、俺の歩き方は」


 アランは長椅子に座り込み、天井を仰いだ。


 ロートリット・テンペスト。


 片目を失い、軍を捨てても、彼女の鋭敏な感覚と、自分への冷徹なまでの洞察力は変わっていなかった。


 そして何より、手紙の行間に滲む、不器用なほどの「愛」が、アランの凍りついた心を溶かしていった。


「待っていてくれ、か」


 アランは紙を大切に折り畳み、懐にしまった。


 彼女は自分に「戻る」と約束した。それは嘘をつかない彼女の、人生で初めての「軍務ではない約束」だった。


 アランは礼拝堂を出た。空は抜けるように晴れ渡り、山頂からは四方の道が見渡せた。


 ロートがどの道を選んだのかは分からない。


 だが、アランはもう焦っていなかった。


 彼女が自らを見つけ出すために必要な時間なら、それを奪うことはしない。


 ただ、彼女がふと寂しさを感じたとき、手を伸ばせば届く距離に自分がいればいい。


 アランは迷わず、最も日の当たる道を選んで歩き始めた。


 冬が来る前に、彼女が心を休める場所を、もう一つだけ見つけてやろう。

 かつての副長としてではなく、彼女が一生を預けると決めた男として。



 四 冬になる前に


 季節は音もなく進み、山の峰々は白く薄化粧を始めた。


 帝都を発ってから一年近い歳月が、アランの頬に深い日焼けと、旅人特有の落ち着きを刻んでいた。

 北の小さな街の食堂。アランは温かいスープを啜りながら、給仕の少年の話を聞いていた。


「昨日まで、そこに座っていたよ。眼帯をした綺麗な女の人。右の手だけで、お皿をきれいに片付けてくれてね……。お礼を言ったら、『規律が大事だ』なんて真面目な顔をしてた。でも、北の修道院までの道を詳しく聞いていったよ」


 北の修道院。


 そこは、罪を背負った者が最後に行き着くと言われる、断崖絶壁の聖域だ。


 アランは確信した。彼女の巡礼は、最終局面を迎えようとしている。


 修道院の堅牢な門を叩いたのは、太陽が沈み、紫色の影が世界を包み込む頃だった。


「白い眼帯の女性ですか? ええ、今朝まで三日間ほど滞在されておりました」


 修道士の言葉に、アランは肩の力を抜いた。


「彼女がここで、何をしていたか教えてくれないか?」


「畑を耕し、古文書の整理を手伝ってくださいました。そして……一度だけ、夕食の後に告解こっかいを望まれました」


 修道士は、どこか遠くを思い出すように続けた。


「『父を、親友を討った罪は、どのような懺悔を持ってしても帳消しにはできない』と。あの方は、神の赦しではなく、自分自身の納得を求めておられました。私はお答えしました。……罪を数えることをやめ、その重みを抱えたまま誰かを愛することが、最大の赦しへの道である、と」


「……あいつは、なんと?」


「微笑んでおられました。春の雪解けのような、静かな微笑みでした。そして、『ありがとう、ようやく右側の闇が静かになった』とおっしゃって、南への道へ戻られましたよ」


 修道院の石造りの庭で、アランは一人、風に吹かれた。


 ロートは、ついにシェルファとの「和解」を終えたのだ。


 論理では割り切れない悲しみを、一年という歳月をかけて、一歩一歩の足跡で塗りつぶしてきた。


 南。


 その先にあるのは、帝都。あるいは、彼女の「本当の家」があるべき場所。


「……終わったんだな。ロート」


 アランは夜空を見上げた。北極星が、かつてなく明るく輝いている。


 彼女が約束を守る女であることは知っている。


 ならば、自分も自分の「持ち場」へ向かわなければならない。


 アランは修道院の門を出た。


 南へ。

 彼女が帰るべき場所。


 彼女が「ただいま」と言える場所を作るために。

 

 アランという男の足取りは、もはやなんの迷いもなく、力強く石畳を叩いた。






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