エピローグ ~Die Flagge mit dem Blitzgreif~
終章 ~Die Flagge mit dem Blitzgreif~
春の陽光が、主を失った執務室に無情なほど明るく差し込んでいた。
つい数日前まで、そこには復興のための書類のページをめくる音と、羽ペンのカリカリという音、冷めかけた茶の香り、そして時折混じるロートとアランの笑い声があった。だが今、部屋を満たしているのは、静止した空気と、窓の外から聞こえる帝都復興の槌音だけだった。
アラン・モールは、ロートが残した手紙を読み終えた後、彫像のように動かなかった。
左手には、彼女が置いていった碧紺のマント。南方の焦熱を吸い、東部の激流を越え、帝都の業火に焼かれたその布地は、ずっしりと重い。
アランはそれを抱きしめるようにして、使い古された木製の椅子に深く腰を下ろした。
「……あいつ。最後の最後まで、『合理的に』逃げ出したか」
アランの呟きは、涙に濡れたものではなかった。むしろ、愛おしさと、どうしようもない呆れが混じった、乾いた苦笑だった。彼はすでに気づいていた。一緒に住み、彼女の事を最も近くで、最も愛情をもって見つめてきた。それが、ここひと月ほどはここではないどこか遠くにある『何か』を見るような、ロートはそんな目をしていた。だが、あえて気づかないふりをしていた。気づいてしまったら、やっと自分のやるべき事が決まったロートの心が揺らいでしまう、と思ったからだった。
来るべき日が来たな、とアランは思った。
ほどなくして、扉が遠慮がちに開いた。
「副長、隊長への報告書を持ってきまし……あ、れ?」
入ってきたジャンが、部屋の異様な静けさに足を止めた。
机の上は完璧に整頓され、ペン立てにはインクが拭き取られた羽根ペンが一本。そして、かつてこの中隊の象徴であったマントを抱くアランの姿。
「ロートが出て行った」
アランが短く告げると、ジャンは手に持っていた書類を床に落とした。
「……え? 出て行ったって……ど、どこへ? 公務はどうするんですか! 復興会議だって、明日……!」
「一人で出た。行き先は書いていない。あいつらしい、簡潔すぎる辞表だよ」
アランはマントを丁寧に、端を合わせるようにして折り畳み始めた。
「どうするんですか、副長! すぐに騎兵を出しましょう! まだ遠くへは行っていないはずです!」
叫ぶジャンに対し、アランはゆっくりと首を振った。
「いや、追いかけない。……いや、そうじゃないな。軍人として連れ戻すことは、しない」
アランは立ち上がり、棚から自分の旅支度を取り出した。
「ジャン、ロンバルティアに伝えてくれ。アラン・モールは、本日をもって退役するとな。俺は、ロートリットを探しに行く」
「副長まで……!? 冗談でしょう?」
「冗談なもんか。一生かけて守ると言ったんだ。あいつが一人で勝手に歩き始めたからといって、その約束を反故にできるほど、俺の魂は器用じゃない」
ジャンは言葉を失い、赤くなった目でアランを見つめた。
「……ジャン。後を頼む。お前も、ラサールも。新しい時代の『兵士』として、この国を支えてやってくれ」
「……分かりましたよ。分かってます。……でも、副長」
ジャンは鼻をすすり、アランを真っ直ぐに見据えた。
「隊長を見つけたら、一言、俺たちの分も込めて叱ってください。黙っていなくなるなんて、冷たすぎるって」
「ああ、約束だ。……お前らの怒鳴り声を、俺が三倍にして届けてやるよ」
ロートの消息は、大陸の風に乗って、ほんの僅かな欠片となってアランの元へ届いた。
彼女は、かつての「騎士団長」としての正体を隠し、一人の傷ついた巡礼者として歩いていた。
最初の報告は、帝都からはるか南、砂漠の入り口にある小さな街の教会だった。
夜明け前、まだ星が消えやらぬ時刻に、白い眼帯をした背筋の伸びた女性が、祭壇の前で動かずに座っていたという。彼女は言葉を発さなかったが、その凛とした横顔は、見守る司祭が声をかけるのを躊躇うほどに澄み切っていた、という。
次の報告は、西部の豊かな農村の近くにある、名もなき古い礼拝堂だった。
そこでは、同じ女性が、不自由な左腕を庇いながら、右手一本で礼拝堂の周りの草むしりや掃除を手伝っていたという。村の子供が「手伝おうか?」と声をかけると、彼女は首を左右にふったあと、わずかに微笑んだという。
彼女は、かつて自分が「合理」の名の下に覆い隠していた、市井の小さな生活の重みを確かめているようだった。
その次は、北部の断崖に建つ修道院。
冬の気配が残るその地で、彼女は修道士たちに混じり、大きな鍋でスープを煮込むのを手伝っていたという。火の粉が舞う竈を見つめながら、彼女は何を思っていたのか。
かつてシェルファと共に見た、アップルパイの焼ける匂いや、共に語り合った未来。
彼女は、失われた親友との「対話」を、祈りと労働の中に求めていた。
「……なんで、わたしたち、こうなったの?」
シェルファが最期に遺したその問いは、いまやロートを責める刃ではなく、彼女が真の「正解」へ辿り着くための、光り輝く道標へと変わっていた。彼女は逃げているのではない。かつて目を逸らしてきた感情という名の戦場に、たった一人で、再び挑んでいたのだ。
アランが帝都の門を出たのは、ロートが去ってからちょうど一週間後のことだった。
かつて三千の兵を率いた男の荷物は、驚くほど軽かった。
替えの着衣、わずかな干し肉と水袋、そして、手入れの行き届いた一本の長剣。
だが、その荷物の一番上には、ひときわ鮮やかな色彩を放つ布が括り付けられていた。
碧紺の地に、黄金の雷光を抱く鷲――『テンペスト家のマント』だった。
「……副長、本当に行くのですね」
城門の前で、ジャン、ラサール、そしてわずかな数人の部下が見送りに立っていた。ロートの失踪、そして自らの旅立ちをあまり大げさにはしたくはない、というアランの意向だった。
「ああ。身軽な方が、追いつきやすいからな」
「そのマント、本当に持っていくのですか? 隊長は重すぎると言っていたのに」
ジャンの問いに、アランは振り返り、その紋章を愛おしそうに撫でた。
「これは、ロートに返す。重すぎるなら、俺が半分持つ。あいつがまた歩き疲れて立ち止まった時、このマントを広げて、風を凌がせてやるのが俺の役目だ。これは、捨てるものじゃない。……引き継いでいく誇りなんだからな」
「いつ、戻るのかは決めているのか?」
ラサールが、堪えきれずに低く唸るような声でで聞いた。
「ロートを見つけるまでだ。何年かかっても、大陸の果てまで行こうが、俺はあいつを見つけ出す」
「隊長は、足が速いぞ。副長はわかっているだろうが」
「知ってるさ。だがな、俺の方が歩幅が大きい。一歩ずつ、確実に距離を詰めてやる。俺の勘は、あいつの計算よりも外れないんだ」
アランは部下たちに背を向け、右手を高く上げた。
「行ってくる。……あいつを連れて戻るか、あるいはどこかの村で平和な暮らしを見つけるか。どちらにせよ、次にお前らと飲む酒は、とびきり上等なやつを用意しておけよ」
「隊長の大好きな、南方のあの濁った酒を用意しておきます」ジャンは笑って言った。「では、行ってらっしゃい、副長! 隊長を……俺たちの、自慢の隊長を、よろしくお願いします!」叫び声が、帝都の外壁に反響した。
アランは一度も振り返らず、朝日に向かって続く一本道を歩き始めた。
その日の夜、帝都ミレーニア。
再建の槌音も眠りについた参謀室では、ロンバルティア・ライムが独り、蝋燭の灯りを頼りに、机上で未だ果てしない戦いを続けていた。
重厚な樫のデスクの上には、終わりのない書類の山が築かれている。
北部の農地の公正な配分。各地に散らばった自警団の再編と軍規の統一。そして、急速に力を増す商人組合との、血を流さないための交渉。それらは剣を振るうよりも遥かに地味で、それでいて一瞬の油断も許されない、新しい時代の「最前線」だった。
ロンバルティアはペンを持つ指を休め、首筋を軽く揉んだ。
首元に下がるアミュレット。青い宝石が、瞬く蝋燭の火を吸い込み、深海のような光を宿している。
ふと、彼は顔を上げ、窓の外を見た。
かつて白い炎に焼き尽くされた都には、いまや再興の灯火が星屑のように散らばっている。その向こう、高い空には、北極星が凛として輝いていた。
(……叔母上も、どこかでこの星を見ているだろうか)
ロートが去ったことを、彼は責めなかった。彼女が自分の名前を「呪い」から解き放つために必要な過程であることを、ロンバルティアは本能的に理解していた。
彼は再び、手元の書類に視線を落とした。
「作り続けることを、やめるな」
フォーマルハウト師匠の、あの枯れた声が耳の奥で蘇る。
そうだ。父エルヴィンが、そして叔母ロートリットが、血を流してまで手に入れたかった「明日」という名の荒野を、耕し続けるのが自分の役割だ。彼らが切り開いた空白に、平和という名の種を蒔き、誰もがその収穫を分かち合える仕組みを築くこと。
僕は、止まらない。決して、あきらめない。
ロンバルティアはペンを取り直した。
ペン先が羊皮紙を走るカリカリという小さな音が、静かな夜の部屋に響く。
それは、新しい歴史が刻まれていく拍動のようでもあった。
窓の外、北の空には変わらぬ星が光り続けている。
帝国は終わり、世界は変わり始めた。
白き剣の行方は、もはや誰にも分からない。
けれど、その剣が拓いた未来だけは、いま、確かにこの掌の中にあった。
ロートが帝都を一人出てから、数週間の時が流れていた。
帝都の喧騒からはるか遠く、雲が峰を撫でる山間の村に、その小さな礼拝堂はあった。
朝の光がまだ山の端を越える前、湿った風が杉の森を揺らす時刻。村人が朝の祈りに集まるにはまだ早い静寂の中に、一人の女性がいた。
白い眼帯が、彼女の右側の世界を静かに覆い隠している。金色の短い髪は以前よりもいくらか伸び、朝の冷気にさらされて白く輝いていた。不自由な左腕は包帯でしっかりと巻かれている。武器は帯びてはいなかった。まるで、全ての者の喪に服すような黒いマントを羽織り、修道女のような白い服を着て、その体を古い石造りの長椅子に預けていた。
正面の祭壇には、女神アルテイアの像が鎮座している。
帝都の神殿にある、金銀をあしらった豪華なものではない。地方の無名の職人が、長い年月をかけて木を削り、石を磨いて作り上げた、素朴で、どこか幼さの残る像だ。女神の指先は少し太く、その眼差しは慈悲というよりは、ただ「そこに在る」という揺るぎない現実を示しているようだった。
ロートはその像を見つめ、やがて像の前に跪いた。
彼女の中に、明確な信仰があったわけではない。かつての自分なら、神に祈る時間があるなら次の戦術を練るべきだと一蹴しただろう。だが今、言葉を失った死者たちに語りかける場所として、この静寂以上にふさわしい場所を彼女は知らなかった。
「……シェルファ」
ロートの唇から、小さな溜息のような声がこぼれた。石壁に吸い込まれ、二度と戻ってこない響き。
「不思議だな。今になって、お前の声をまた聞きたいと思うことがある。あの日みたいに、勝手な理屈を並べて私を怒鳴ってもいい。ふたりで作った不格好なアップルパイを見て、お腹を抱えて笑ってもいい。……お前の声の響きが、ただ懐かしく、愛おしく感じる。お前と全力でぶつかり合ったあの日、私はようやく友情というものの手触りを知った。それを知るのに、私はあまりに時間をかけすぎた。遅すぎたんだ。……ごめんなさい、私の大事な……シェルファ」
ロートは一度言葉を切った。窓から差し込んだ最初の一条が、冷たい石床の上に長い光の帯を描いた。
「御屋形様。……いいえ、お父様」
初めて口にする、掠れた、しかし確かな響き。
「手紙の中では、私はあなたを父と呼ぶことができました。けれど、結局最後まで、あなたの温かな手のぬくもりを前にして、直接その名を呼ぶ勇気が持てなかった。……それだけが、私の計算になかった唯一の後悔です。最後の最後に、一度だけ。心の中でなく、あなたの耳に届く声で呼べたこと。それだけが、私に残された救いでした」
ロートは、女神の像をじっと見つめた。石の瞳は何を映しているのか。
「なんで私たちは、あんな風になるしかなかったのか。……歩き続けていても、まだ答えは見つからない。けれど、こうして冷たい朝の空気を吸い、動かない腕の重みを感じ、見えない右側の闇を見つめていると、少しずつ分かってくることがある。私たちは、それぞれの『正しさ』を、愛という名の重石にして、沈み込んでいただけなのかもしれない、と。……それは答えの断片でしかないが、今はそれを持って歩くしかない」
ロートはゆっくりと立ち上がった。かつての騎士としての鋭い礼ではなく、一人の娘として、一人の友として、静かに頭を下げた。
「また来る。……ふたりのことは、決して忘れない。それが、私がこの名前を捨てずに生きる、最後の目標なのだから」
礼拝堂を出ると、透き通った冬の終わりの空気が、彼女の頬を鋭く刺した。
山肌には深い霧が立ち込め、先の方へ続く道は白く濁って見えない。
ロートは迷わなかった。どこへ行くのか、何に辿り着くのかが決まっていなくても、ただ足を踏み出すことだけが、今の彼女に許された唯一の行軍だった。
右目は暗く、左腕は重い。
しかし、彼女の足は、確かに新しい大陸の土を踏み締めていた。
霧の向こう、わずかに薄くなった光の射す方へ、彼女の背中が小さくなっていく。
――そして、その道の先。数里、あるいは数十里離れた場所で、もう一人の旅人が歩いていた。
アラン・モールは、背負った鞄の上に碧紺のマントを括り付け、彼女が残した「意志」の匂いを追っていた。
彼は急がなかった。ロートが自らの魂の欠片を拾い集めるための旅なら、それを邪魔してはならない。ただ、彼女がふと後ろを振り返ったとき、いつでもそこに居場所があることを示せる距離を保っていた。
「一生かける」という言葉は、彼にとって重荷ではなかった。それは、荒野を歩く彼を支える、最も頑丈な杖だった。
道はどこまでも続いていた。
南へ向かえば、懐かしい砂漠の砂が舞っているだろう。
西へ向かえば、麦の穂が黄金色に輝いているだろう。
北へ向かえば、高い空に一番星が光っているだろう。
東に向かえば、深い森が翠の翳を色濃く映し出しているだろう。
アランの足取りは、不思議なほど軽やかだった。
かつては、命令に従うことだけが生きる術だった。だが今の彼を突き動かしているのは、誰に命じられたわけでもない、自分自身の意志だった。
どこかに愛する、ロートがいる。
白い眼帯をして、不自由な左腕を隠しながら、それでも真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いている彼女が。
彼女が振り返った時、そこに自分がいること。
彼女が右側の視界を不安に思った時、そこに自分の手が差し伸べられること。
彼女が再び「幸せになってもいいのか」と悩んだ時、迷わずに「当たり前だ」と言ってやる。
それは、共に戦場を駆け抜けた男が捧げる、一生をかけた誓いだった。
かつて「第五騎士団の団長」と恐れられた彼女は、いま、一人の女性として再生しようとしている。そして自分もまた、ただの「剣」であることをやめ、一人の男として、彼女を愛し抜くことを決めていた。
風が吹き抜け、アランの背負った紺碧のマントが、バサリと音を立ててはためいた。
その紋章の鷲は、もはや獲物を狙う鋭さではなく、広大な大陸を優雅に見守る、慈愛の翼を広げているように見えた。
帝国は終わった。
血塗られた「戦記」のページは閉じられ、いま、一冊の「旅日記」が始まろうとしている。
そこには、戦術の正解も、家門の復興も書かれてはいないだろう。
そこに書かれているのは、ただ、二人の男女が、時にぶつかり、時に笑い、共に同じ景色を見て歩む……そんな、ありふれた、けれど最高に幸福な物語。
アランは地平線の向こう、うっすらと白み始めた空を見据えた。
「待ってろよ、隊長。……いつか、追いついてやるからな」
朝日が、一歩ずつ踏み出す彼の背中を力強く照らし出していた。
街道に、一本の百合が咲いていた。健気に、だけど気高く、大輪の花を咲かせていた。
「白い百合か…。あいつみたいだな」
白き剣の行方は、新しい世界の希望へと、どこまでも、どこまでも続いていた。
雷光を抱く鷲の旗の下に、再び出会えると信じて。
<完>
これで、このお話はひとまず決着です。
番外編を2つ書きましたので、もう少しお付き合いください。
これまで読んでいただき、本当にありがとうございます。




