最終幕 雷光を抱く、鷲の旗の下に④
第四章 ロートの日々
帝都を包み込んでいた、あの忌まわしく悲しい白い炎が鎮火し、焦土に春の兆しが訪れ始めた頃。ロートリット・テンペストは、二ヶ月を過ごした療養施設を後にした。
彼女の右目には、真っ白な眼帯が当てられていた。それはアランが街の職人に特注して作らせたものだ。
「黒い眼帯の方が、軍人らしくて威圧感が出るのではないか」
退院の朝、鏡を見るのを避けるロートにアランがそれを手渡した時、彼女はそう皮肉を言った。しかし、アランは首を振った。
「黒は喪の色だ。お前にはもう、十分すぎるほど弔った。白の方が、これからのお前には似合う。……雰囲気が変わるんだ、良い意味でな」
ロートはそれ以上、反論しなかった。ただ、アランが慎重な手つきで結んでくれた白い眼帯を、自らの「新しい肌」として受け入れた。
左腕は、もはや厚いギプスの中にはなかった。しかし、それは回復したことを意味しない。包帯の隙間から覗く指先は、まるで感覚を失った石細工のように青白く、頼りなげだった。
医師の診断は冷徹だった。「全ての指を動かすのは不可能です。親指と人差し指がわずかに反応する程度が限界です。これ以上の回復は難しいでしょう」
大剣を振るうために鍛え上げられた彼女の身体は、あの日、親友の魂と共に「戦士」としての役割を終えたのだ。
宿舎へ戻る馬車の中で、ロートは窓の外を見つめていた。
毎朝目覚めるたび、右側が暗闇に閉ざされている現実に、彼女は「ああ、そうだ。右目はもう見えないのだ」と再認識する。左腕に力を込めようとして、ただ虚しく神経が空を切るたびに、彼女の輪郭から「騎士」という形が削り落とされていくのがわかった。
完全に、受け入れたわけではない。だが、否定するにはあまりに重い、それが彼女の「平和」の代償だった。
ほどなくして、甥であるロンバルティアが彼女を訪ねた。
新生国家の暫定指導者として、十八歳の少年の肩には大陸全土の運命がのしかかっていたが、その瞳にはかつての兄エルヴィンと同じ、澄んだ決意が宿っていた。
「ロートさん。改めて、お願いに参りました。……新しい仕組みを作るために、あなたの知恵を貸してほしいのです」
ロンバルティアの依頼は、前線への復帰ではなく、机の上での「戦い」への招集だった。
「私に何を求める? 私は帝国の軍人だった人間だ。軍の指揮はできても、政の経験など微塵もないのだぞ」
「だからこそです」
少年は、迷いなく答えた。
「帝国がなぜ間違ったのか。何が民の心を殺し、何が破滅を招いたのか。内側にいたあなた以上に、その『痛み』を知っている者はいません。僕たちは正解を探そうとしていますが、間違いを知る者がいなければ、また同じ道を歩んでしまう。……ロートリット・テンペストという名の『羅針盤』が必要なんです」
「お前の甥は、お前にそっくりだな。理屈で人を動かすところが、特にな」
アランはロートとロンバルティアのふたりを交互に見て、大きく笑った。
「似ていて当然です。僕はロートさんを尊敬しています。師匠と同じくらいに」
ロートはそう言って明るく答えるロンバルティアに、柔らかい笑みを浮かべた。
こうしてロートは、ペンを武器に変える日々を始めた。
しかし、それは想像を絶する苦行だった。単眼では紙面との奥行きが掴めず、文字はしばしば二重にブレた。左腕が使えないため、書類を押さえることができず、右手で書こうとするたびに紙が滑り、彼女を苛立たせた。
そんな時、アランが必ず傍らにいた。
彼が何も言わず、書類の右端を指で押さえる。ロートが見やすい角度に傾け、右側の死角から来る情報に「この資料だ」と声を添える。
「お前は私の書記ではない。アラン、お前にも復興局での任務があるはずだろう」
一度、ロートはペンを置いて彼を諫めた。しかし、アランは椅子を引き寄せ、不敵に笑っただけだった。
「俺が隣にいる方が、話が早いんだよ。何もわからん新しい書記官に、お前の戦術理論をゼロから説明する手間を考えろ。俺なら、お前が眉間に皺を寄せただけで次に書きたい言葉が分かる。合理的だろ?」
「……非合理的だ。お前の時間は、もっと他のことに使われるべきじゃないのか。お前は、第五騎士団の副長だった男だぞ」
「隊長あってこその第五騎士団だ。それに、頼るって言ったのはお前だ。忘れたのか?」
アランはそう言って、再びペンを差し出した。
ジャンが時折、温かい茶と差し入れの菓子を持ってきて、アランの代わりついでに乱雑な字でメモを取った。ラサールは外の視察から戻ると、真っ先に彼女の部屋へ各国の名産品を運んできた。
毎日のように、B中隊や第五騎士団のかつての部下たちが、ひっきりなしにロートの手伝いに来てくれた。みな、新体制で新たな仕事や役割を得て、復興のために尽力している中、忙しい時間の合間を縫って来てくれていた。戦場で、泥や血にまみれて戦った者たちが、今度は机の上のロートを囲んで、一つの「騎士団」になっていた。
それは、ロートがかつて夢見たどの「勝利」よりも、不思議な温かさを伴った光景だった。
深夜、静寂の中で、ロートは不意に目を覚ました。
その夜も、ロートはアランの腕に抱かれていた。隣では、愛する男の静かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
ロートは白い天井を見つめながら、暗い自問を繰り返した。
(私は、これでいいのか)
自分は育ての父を討った。親友をその手にかけた。帝国の旗を捨て、多くの同胞を背にした。
それなのに。
今、自分は清潔なシーツの上にいて、信頼できる仲間たちに囲まれ、愛する男の温もりを感じている。
新体制の要として重用され、日々の食事を楽しみ、未来を語っている。
そのことが、不意に耐えがたいほどの罪悪感となって彼女を襲った。
グレイドル将軍は、父ゼイラムを死なせた罪の意識を背負い、十八年間「幸せになってはならない」と自らに枷をはめて生きた。あの方は、その重荷と共に死んだのだ。
ならば、その元凶となり、彼自身をも手にかけた自分が、なぜこれほどまでに「満たされて」いるのか。
(私は……彼らの死の上に、この安穏を築いているのではないか)
右目の奥が熱くなり、白い眼帯が湿っていく。
シェルファの最期の顔。力が抜け、温度が失われていくあの瞬間。
「なんで、わたしたちは、こうなったの?」
あの問いに、自分はまだ答えを出していない。答えを出さぬまま、平穏を貪っている。
すまない。
シェルファ。御屋形様。
彼女は声を押し殺して泣いた。片目から溢れる涙は、自分を「幸福」という名の呪縛から引き剥がそうとする最後の抵抗のようだった。
翌朝、ロートはアランよりも早く起きた。
まだ薄暗い中、顔を洗い、動かぬ腕を庇いながら机の前に座った。
仕事に没頭している間だけは、夜の暗い問いから逃げられる気がした。
「……早いな」
背後で、眠気を孕んだアランの声がした。
「今日も、仕事があるからな」
「食ってからにしろ。空腹の時の戦術判断は三流だと、自分に厳しく言っていたのはどこの誰だ?」
アランは苦笑しながら、温かいスープとパンを運んできた。
ロートは黙ってそれを受け取った。その湯気の温かさが、また彼女の心を焼いた。
その夜。仕事が一段落し、二人の間に穏やかな沈黙が流れたとき、ロートは意を決して切り出した。
「アラン。……一つ、聞かせてくれ」
「なんだ。改まって」
「私は今……これで良いのだろうか、と思うことがある。御屋形様とシェルファを失い、その結果として今の場所を得た。それを受け入れ、幸福を目指すことが……正しいことなのか、分からない」
ロートの声は、冬の夜風のように震えていた。
「御屋形様は、罪の意識から自分を罰し続けて生きた。私もまた、同じ重荷を背負い、不幸の中に留まるべきではないのか? こんなに多くの尊い犠牲を払って、私だけが温かい場所にいるのは、彼らへの裏切りではないのか」
アランは、彼女の言葉を遮ることなく、最後まで聞いた。
彼は窓の外、復興の光が灯る帝都を見つめ、それから静かに口を開いた。
「……それじゃ、俺からも一つだけ聞く。将軍は、最後に何と言っていた?」
「……シェルファを頼む、と言った。ゼイラムに……顔向けができる、と」
「なら、将軍はお前に幸せになってほしかったから、そう言ったんじゃないのか?」
「…………。……そう、かもしれない」
「シェルファは最後に、何と言った?」
「……ありがとう、と言った。全部に、と」
「なら」
アランはロートの目を、まっすぐに見据えた。
「お前が幸せに向かうことを、二人は拒んでなんかいない。むしろ、お前がいつまでも喪服を着て、自分を責め続けているのを見たら、あの親子は天国でお前に怒るだろうよ」
「だが、現実は……私の生は、二人の死の上にある」
「そうだ。それは変えられない事実だ。だが、お前が不幸でいれば二人が生き返るのか? お前が苦しみ続ければ、二人への償いになるのか? 俺には、そうは思えない」
アランは彼女の不自由な左手に、自らの手をそっと重ねた。
「お前は、あの日から一秒たりとも二人を忘れていない。その悲しみも、その痛みも、すべて本物だ。だがな、ロート。悲しみを抱えることと、前に進むことは、同時にできるんだ。忘れる必要はない。ただ、二人に見せられなかった景色を、お前が代わりに見ていく。それが、生き残った者のたった一つの『義務』だと俺は思う」アランは一呼吸おいて、続けた。
「怖いままでも、動くことはできる、そうだろう?」
ロートは息を吞んで、窓の外を見た。
灯りが、一つ。また一つ。帝都に命を灯していく。
御屋形様も、シェルファも、この光を見ることは叶わない。
けれど、自分は見ている。
「……難しいな、お前の言うことは」
「難しいさ。俺だって、正解なんて分からねえ。……でもな、一人で抱えて煮詰めるよりは、俺に吐き出してくれた方が、少しはマシになる。そうだろ?」
「……。……ああ。少し、楽になった。ありがとう、アラン」
ロートは、少しだけ窓の外を見ている自分を、許せるような気がした。
一年が経った。
大陸には新法が浸透し、流通の動脈が再び脈打ち始め、人々が「戦後」という言葉を使わなくなるほど復興が進んでいた。
ロンバルティア率いる合議制の統治機構は、かつての帝政よりも遥かに「合理」と「人情」のバランスが取れたものとなっていた。
だが、その仕組みが安定軌道に乗ったと見極めた頃。
ロートリット・テンペストは、静かに、そして誰にも告げずに、帝都を離れた。
ロンバルティアとの定例会議に彼女の姿がないことに周囲が気づいた時、既に宿舎の部屋は空になっていた。
整えられた寝台の上には、たった一つの荷物が残されていた。
紺碧の地に、黄金の雷光を抱く鷲。
南方の砂漠で勇気を与え、ハール城の闇で誇りとなり、帝都の炎の中で血に汚れた――『テンペストのマント』だった。
アランは、その重い布を手に取った。そこには、彼女の文字で綴られた一通の手紙が添えられていた。
『愛するアランへ。
突然、あなたの前から去ることを許してください。
告げずに行くことは卑怯だと分かっています。しかし、あなたの目を見て別れを言えば、私はきっと歩き出せなくなったでしょう。あなたが止めるか、あるいは何もかも捨ててついてくると言うか、どちらかだと分かっていました。
今の私には、そのどちらも受け取る資格がないのです。
勝ったはずなのに、私の心にはまだ整理のつかない澱みが溜まっています。
御屋形様を討ったあの日から、シェルファを看取ったあの瞬間から、何かが私の内側で止まったままなのです。それが何なのか、あなたの温かい腕の中にいては、見つけられそうにありません。
だから、歩いて探そうと思います。
かつての父や兄のように、自らの足で大地を踏みしめ、民の呼吸を聞き、この世界の輪郭をもう一度確かめながら。
このマントは、ここに置いていきます。
今の私には、この紋章の重みはあまりに大きすぎます。
しかし、「テンペスト」という名は持ったまま行きます。この名は、もう呪いではなく、私が一人の人間として生きるための背骨となったからです。
あなたが「一生かけて守る」と言ってくれたあの言葉……。嬉しかった。
でも、その重さをどう受け取れば良いのか、今の私にはまだ分かりません。
あの言葉があったから、私は昨日まで死なずにいられました。
どこにいても、あなたのことを考えています。
ロートリット・テンペスト』
「……」
手紙を読み終えたアランは、暫く黙っていた。
帝都ミレーニアの春の風が、開け放たれた窓から吹き込み、誰もいない部屋を優しく吹き抜けていった。
白き剣は、もはや鞘にはない。
それは、名もなき大地を切り拓く、一筋の光となっていた。




