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最終幕 雷光を抱く、鷲の旗の下に②




第二章 アランとロート




たった十日ほど前の帝都の騒乱が、嘘のように静まり返った夜だった。


窓の外には、かつて白亜と謳われた街が黒い輪郭となって横たわり、遠くで復興を急ぐ松明の火が、星屑のように細かく瞬いている。


病室の空気は、わずかに消毒薬の匂いと、冷めかけた夕食のスープの香りが混ざり合っていた。


見舞いに訪れていたジャンや他の隊員、そしてロンバルティアが去り、部屋にはロートとアランの二人だけが残された。


アランは慣れた動作で椅子の位置を調整し、ロートの寝台のすぐ傍らに腰を下ろした。その大きな体躯は、狭い室内ではいささか窮屈そうに見えたが、彼自身はそれを気にする様子もなく、ただじっと彼女を見守っている。


「……アラン、まだ帰らないのか」


ロートの声は、目覚めた時よりは幾分か滑らかになっていたが、それでもまだ硝煙を吸い込んだような掠れが残っている。


「帰らない。夜は特にだ」


「宿の心配は無用だと言っただろう。解放軍が用意してくれている」


「そんな心配はしていない。ここにいたいからいるんだ。お前が夜中に不意に目を覚ましたとき、一人の闇の中に放り出したくない。それだけだ」


アランの言葉は、飾りのない「事実」として放たれた。


ロートは包帯で覆われた右目の奥に、微かな疼きを感じて視線を伏せた。アランの懸念は正しかった。十日たった今でも、目を閉じれば今もあの塔の光景が鮮明に蘇る。シェルファの悲鳴、崩れゆく石壁、そして彼女が最後に手放した命の温度。それは合理的(ロジカル)に処理できる情報ではなく、魂に刻まれた生々しい傷跡だ。


アランは、彼女が「合理」の鎧で隠し続けてきた脆弱さを、誰よりも正確に理解していた。


「……お前も、あの塔の中にいた。火傷も負っている。疲れているはずだ」


「ああ、疲れている。だが、お前の隣にいるときの疲れは、不思議と不快じゃないんだ。南方の砂漠で一晩中砂嵐を待っていたときのような……目的のある静かさだ。ロンバルティアの小僧と同じ言い方で悪かったな。だが、そういうものだ」


「お世辞を言わないところも、あの子に似てきたな」


ロートは微かに口角を上げた。


「お世辞なんかじゃない。事実だ。南方から今日まで、俺はお前の隣で多くの判断を見てきた。お前は冷徹で、感情を排して動く『情報の獣』だったが、俺は時々、お前の計算式が狂う瞬間を見ていた」


アランは椅子に深く背を預け、天井に揺れる蝋燭の影を見つめた。


赤砂(アレーナ・ロージャ)亭の夜を覚えているか。ジャンやラサールが他の中隊に馬鹿にされたときだ。あのときのお前は、戦術的な合理性なんて微塵もなかった。ただ、部下の誇りを守るために、無言で酒を頭からぶっかけた。……それを見たとき、俺は確信したんだ。この人は、どれだけ氷のような顔をしていても、根っこのところでは誰よりも人を、仲間を、大切に思っている。……だから、俺はこの人のために戦おう、隣にいようと決めたんだ」


アランの手が、そっとロートの動かぬ左手に重ねられた。


「お前が持っていない『泥臭さ』を俺が持ち、俺が持っていない『先を見る目』をお前が持っている。……お前がそばにいれば、俺は少しだけマシな人間になれる気がするし、俺がお前のそばにいれば、お前は少しだけ、呼吸が楽になる。……そうだろう?」


「……『緩衝材』だと、言ったことがあったな」


ロートが呟く。かつて、自分たちの不器用な関係をそう定義した言葉。


「ああ。だが今は、そんな無機質な言葉で片付けたくはないな。もっと別の、名前のつかない何かだ」


アランの低い声が、静寂を優しく塗りつぶしていく。ロートは自分の胸の鼓動が、アランの指先から伝わる体温と同調していくのを感じていた。


やがて、ロートは重い口を開いた。それが、これからの彼女にとって最も残酷な、しかし避けては通れない問いであることを自覚しながら。


「アラン……。私は、これからどうなるのか、自分でも分からない。右目は光を失い、左腕はもう剣を握ることさえ許されない。大剣を振り回し、先頭で戦場を駆ける『騎士団長ロートリット』は、あの塔で死んだのだ」


「そうだな、『騎士団長としては』死んだ、な」


アランは否定しなかった。彼は三十年の人生を戦場で過ごしてきた男だ。無責任な励ましが、戦士にとってどれほどの侮辱になるかを知っている。


「戦士としてのお前は、一旦幕を閉じた。それは認めろ」


「ならば……。それでもお前は、この先も隣にいると言うのか。剣を振るえぬ私に、何の価値がある」


「お前という人間を、いまだに分かっていないのはお前自身だけのようだな」


アランは少しだけ呆れたように笑い、それから射抜くような強い視線を彼女に向けた。


「お前には『戦術』がある。人の心を見抜く『目』がある。そして、民の心に火を灯す『言葉』がある。ロンバルティアがあの若さで、なぜお前を解放軍の要として迎えようとしているか考えたことがあるか? 剣が振れずとも、お前が存在しているだけで、動く盤面があるんだ。……お前の隣にいるのに、お前が剣を使えるかどうかなど、俺には最初から関係のない話なんだよ」


「お前は……勝手なことを言うな」


「おいおい、勝手なのはお互い様だろうが」


ロートは視界を濡らした。左目からこぼれ落ちる熱いものが、包帯を湿らせていく。


「アラン。……私は、お前に頼り続けてもいいのか。……今まで、誰かに頼ることは『負け』だと思っていた。テンペストの血を継ぎ、逆賊の娘として生きてきた私にとって、一人で立つことだけが唯一の存在証明だった。……でも、今の私は、お前がいないと……立ち上がることも、未来を描くこともできない」


その震える告白を、アランは真正面から受け止めた。彼はロートの手を、さらに強く、しかし壊れ物を扱うような繊細さで包み込んだ。


「……ようやく言ったな。その言葉を聞くために、俺は南方の砂漠から、東部の凍った川を越えて、あの炎の塔までお前の後ろを追いかけてきたんだ。長かったぜ、ロート」


アランの声には、これまでの激動の日々を耐え抜いた男の、深い安堵が滲んでいた。


「一つだけ、誓わせてくれ。これは命令への服従でも、一時的な情でもない。俺という男が、自分の意志で決めた『契約』だ」


アランは椅子から立ち上がり、片膝を床について、彼女の左目と視線を合わせた。三十歳の、酸いも甘いも噛み分けた大人の男の顔だった。


「俺は、お前を一生かけて守る。剣が振るえなかろうが、右目が見えなかろうが、そんなことは瑣末なことだ。新しい時代が来ても、世界がどれほど姿を変えても、俺はお前の隣に立ち続ける。お前の見えない右側の視界となり、動かぬ左腕の代わりとなって、お前の歩む道を邪魔するすべてのものを俺が斬る。……いいか、ロートリット。俺は、お前を二度と一人にはさせない」


沈黙が部屋を満たした。それは重苦しい沈黙ではなく、何層にも積み重なった信頼が、愛情という確かな形に結晶していくための、聖なる時間だった。


ロートは、アランの決意に揺らぎがないことを見た。それは、根拠や論理を超えた、魂の根源から湧き出る「真実」の声だった。


「……重すぎる、約束だ」


「お前を一人で背負わせるよりは、よっぽど軽い」


「……お前は、三十年後も同じことを言っている自信があるのか?」


「自信じゃない。言っている自分の姿が、今から見えている。俺の勘は、お前の戦術と同じくらい正確だぞ」


ロートは、涙の向こう側で微かに微笑んだ。それは「合理」の壁を突き抜けた、一人の女性としての、心からの微笑みだった。


「……その言葉、ありがたく受け取る。お前のその誓い、私の残りの人生で、すべて受け取ろう」


「ああ。それでいい」


「……アラン」


「なんだ」


「私も、ずっとお前のことが、好きだったのかもしれない。南方のあの駐屯地で、私を値踏みするように睨んでいたときから……。今まで私は、誰かに恋をしたことが一度もなかった。お前へのこの気持ちは、口には出せなかったし、自分としても理解不能なものだったが、お前がそばにいない夜は、いつも戦場の霧の中に一人でいるような気がしていたんだ」


アランは不意を突かれたように目を見開いたが、すぐに満足げに鼻を鳴らした。


「……知っていたさ。お前の目は、嘘をつけないからな。だが、お前の口から聞くのは、悪くない気分だ」


「私の気持ちに、気づいていたのか?」


「お前と六年以上も一緒にやってきたんだ。第五騎士団の副長を舐めるなよ」


夜が深まり、帝都の喧騒が完全に消え去った頃、ロートはアランの手のぬくもりに抱かれるようにして、再び深い眠りへと落ちた。




夢の中に、シェルファは現れなかった。グレイドルも現れなかった。


ただ、どこまでも続く金色の草原を、誰かと肩を並べて歩いている……そんな、穏やかで温かな夢。





数時間後、東の空が白み始め、夜明けの光がカーテンを透かして差し込んできた。


ロートが目を覚ますと、アランはまだそこにいた。椅子に座ったまま、一度も眠りに落ちることなく、窓の外から差し込む新しい時代の光を、静かに見つめていた。


「……起きたか」


アランが顔を向け、穏やかに微笑む。


「ああ。……見張りをしていたのか」


「いや。お前の寝顔が、あまりに安らかだったからな。見ていて飽きなかっただけだ」


「……やはり、変な男だ」


「お前に言われたくないな」


二人は並んで、帝都に訪れる「初めての朝」を見つめた。


戦場のそれとは違う、平和を孕んだ橙色の光。


右目の視界は欠け、左腕は動かない。それでも、ロートの心に絶望はなかった。


アランがそこにいる。それだけで、彼女が進むべき道は、どこまでも明るく照らされていた。


秋の朝風が、二人の絆を祝うように、部屋の中を優しく吹き抜けていった。






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