最終幕 雷光を抱く、鷲の旗の下に①
終章 雷光を抱く、鷲の旗の下に
第一章 目覚め
最初に感じたのは、耳が痛くなるほどの静けさだった。
意識を支配していたあの不快な金属音も、すべてを飲み込もうとする業火の咆哮も、そして何より――喉を掻き切るような親友の悲しい悲鳴も、そこにはなかった。
ただ、凪いだ海のような、深くて冷たい静寂だけが横たわっていた。
それから、遅れて「痛み」がやってきた。
右目の奥を熱い錐で貫かれているような鋭い激痛。そして左腕全体を這い回る、重く、鈍い圧迫感。呼吸を一つするたびに、肺の奥が焦げた大気に焼かれたかのように疼く。
しかし、ロートリットはその苦痛を、どこか冷めた心地で受け入れていた。痛みを感じるということは、まだ肉体がこの世界に繋ぎ止められている証左に他ならないからだ。
ゆっくりと、瞼を持ち上げようとした。
だが、右側の視界は開かなかった。重い、厚手の包帯が頭部に幾重にも巻き付けられ、右半分の光を完全に遮断していた。
残された左目だけで、ぼんやりとした視界をなぞる。
目に飛び込んできたのは、汚れ一つない白い石の天井だった。
そこには、窓から差し込む朝の柔らかな光が淡い幾何学模様を描き、埃の粒子が光の奔流の中で静かに踊っている。
窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえた。帝都ミレーニアを彩る、春の訪れを告げる小鳥の声。それは戦場の空を舞い、死肉の臭いに群がる不吉な鳥たちの声とは全く異なる、生を謳歌するだけの無垢な響きだった。
首をわずかに動かそうとしたが、強烈な目眩が彼女を襲い、思わず呻きが漏れた。
「……っ……」
視界が揺れる中、寝台の傍らに、人影があることに気づいた。
椅子に深く腰掛け、背中を丸めてうつむいたまま、眠っている男。
アランだった。
彼もまた、無事ではなかったようだ。顔の半分を覆う包帯と、袖から覗く火傷の跡が、あの炎の塔へ彼がいかに無謀に飛び込んだかを物語っていた。身に纏った服は煤けて汚れ、磨き上げられていたはずの銀の鎧も無惨にひしゃげている。
傭兵時代から見慣れた男の横顔。だが、今の彼はロートの知る「狂犬アラン」でもなく、「第五騎士団の副長アラン」でもなかった。ただ、守りたかったものを失う恐怖に打ちのめされ、疲れ果てた一人の男の顔をしていた。
ロートは、その無防備な寝顔をしばらく見つめていた。
彼は、一度もここを離れなかったのだろう。その安堵の色が混じった、深い疲労の蓄積が、見ていて胸を締め付けた。
声をかけようとしたが、喉が砂漠のように乾ききっていた。何度か喉を鳴らし、ようやく掠れた音が唇からこぼれ落ちる。
「………ア、ラン」
その小さな震えを、男の耳は逃さなかった。
アランは弾かれたように顔を上げた。焦点の合わぬ目で周囲を見渡し、やがて視線がロートの左目と重なった。
アランの瞳が数回、信じられないものを見たかのように瞬きをした。そして、みるみるうちに歓喜の輝きに染まっていく。
「……お、起きた……」
アランの声は、地を這うように震えていた。
「起きたのか、隊長。……おい、本当に分かるか?」
「……ああ。……うるさいぞ、アラン。……そんなに、叫ばなくても、聞こえている」
軽口を叩こうとしたが、言葉は途切れ途切れで、覇気はなかった。
「……すまん、悪かった。よせ、無理に動こうとするな。顔色が幽霊みたいだぞ」
「鏡がないから……。自分の顔が、見えない。……そんなに、ひどいか?」
「ああ、ひどいな。…だから、俺を信じろ。今は、寝てろ」
「……わかった。……お前を、信じる」
アランは椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りでロートの傍らに歩み寄った。彼は自らの大きな、節くれだった手で、ロートの動かぬ左手を包み込んだ。
左腕の感覚は薄かったが、アランの手のひらの、火傷の熱と、激しい震えだけは、確かに彼女の魂に伝わってきた。
「傷が痛むか?」
「……ああ、全身が、八つ裂きにされているようだ」
「ちょっと待っていろ。すぐに医師を呼んでくる」アランは椅子から立ち上がろうとした。
「いや……」ロートは、アランの指を弱々しく握り返した。
「アラン……少しだけ、待ってくれ。……まだ、行かないでほしい」
口にしてから、自分でも驚いた。
こんなにも甘えたような、弱さを晒した言葉。
幼年学校でも、傭兵団でも、騎士団長となってからも、ロートリット・テンペストは常に「独り」で立つことを己に課してきた。誰かに寄り添うことを拒み、論理と合理の鎧を纏って、自分を律し続けてきた。父が処刑台に消えた、あの日から、ずっと。
だが今、彼女はその鎧をすべてあの塔に置いてきた。
「……そばに、いてほしい」
アランは一瞬、呆然としたように目を見開いた。
しかし、すぐに彼はその場に深く座り直した。彼女の手を離すまいと、さらに力を込めて。
「……ああ。……ずっと、ここにいる。どこへも行かないさ」
アランの低い、包み込むような声が、冷え切った彼女の体温を少しずつ戻していくようだった。
やがて医師が訪れ、ロートの状態を詳細に確認した。
軍医らしい、感情を排した簡潔な説明だった。だが、その声には無視できない重みが宿っていた。
「……右目については、眼球そのものが熱によって破壊されています。光を感じるための神経も焼けており、現代の医術では……回復の見込みは、ありません」
医師はロートの左目を見つめ、残酷な事実を淡々と告げた。
「そして、左腕。深部の筋肉と神経が著しく損傷しています。命を取り留めたのは奇跡ですが、以前のように自由自在に動かすことは、まず叶わないでしょう。……残念ながら、あのような大剣を振るうために必要な筋力を取り戻すのは、不可能です」
ロートは黙って、その宣告を聞いていた。
計算し、分析する。
自分はもう、右側の敵を捉えることはできない。
自分はもう、両手で武器を構えることはできない。
武人としての死。ロートリット・テンペストという名の完成された「剣」は、あの日、親友と共に折れたのだ。
「……分かりました。……処置を、感謝します」
ロートは静かに頷いた。取り乱すことも、泣き喚くこともなかった。そのあまりの冷静さに、医師の方が戸惑ったように部屋を出ていった。
扉が閉まった後、室内に沈痛な沈黙が降りた。
アランは窓の外を見つめたまま、拳を固く握りしめていた。
「……隊長」
「……アラン。聞いた通りだ。私はもう、大剣を担ぐことも、戦場を駆けることもできなくなった」
「…………すまん」
アランの声が、嗚咽に混じって漏れた。
「俺が、止めるべきだった。あんたがあの塔に踏み込む前に、力ずくで、足を折ってでも止めていれば……あんたが、こんな目にならずに済んだんだ」
「お前が止めても、私は行ったよ。お前も、わかっているだろう?」
「わかっている………わかっているが、それでも……!」
「アラン」
ロートは鋭い声で彼の言葉を遮った。
「……その顔を、やめてくれ」
「……え?」
アランが振り返る。彼の頬には、隠しきれなかった雫が筋を作っていた。
「全部自分のせいだ、と言いたげなその顔だ。……お前が責任を感じているのはわかっている。だがな、お前がそんな、死ぬより辛そうな顔をしていると……私は、気になって休めない」
「……俺の顔なんて、どうでもいいだろうが」
「よくない。……南方の頃から、ずっと気になっていた。お前は私の知らないところで、いつも私の背中を見て、私が傷つくたびに自分の心を削ってきただろう。……私は、そんなお前に救われてきた。だが、これ以上、私への情で自分を責めるのはやめてほしい」
アランは言葉を失った。
この三年、彼女には自分の想いなど一欠片も伝わっていないと思っていた。ただの有能な道具として、あるいは少しだけ仲の良い副長として扱われているのだと。
だが、彼女は見ていた。
自分の不器用な忠誠も、言葉にならない愛情も、彼女の「透明な目」はすべてを見透かしていたのだ。
「私は生きている。……お前が、あの地獄から私を連れ出してくれたから、私は今、この朝の光を見ることができている。それだけで、十分ではないか」
「十分じゃない……。俺には、そんなのじゃ足りないんだ」
「私には、十分だ」
ロートは残された右指を少しだけ動かし、アランの手をそっとなぞった。
「……お前が来てくれた。……それだけで、私の選択は正解になったんだ」
アランは耐えきれず、ロートのベッドに額を押し当てた。
「……身勝手なやつだ。……あんたは、本当に……」
「よく言われる」
ロートは、アランの乱れた髪に触れようとして、やめた。
今はまだ、この温もりだけでいい。言葉にすれば壊れてしまいそうな、しかし岩よりも強固な絆。
秋の朝風が、カーテンを白く揺らしていた。
目覚めから一週間ほどが経った。
アランは、その間ずっとロートの側にいて、甲斐甲斐しく看病をしていた。
そのおかげなのか、彼女の鍛え上げられた肉体と、驚異的な精神力によってなのかは定かでないが、ロートの容体は急速に安定し、寝台の上で上体を起こせるまでになった。
かつての仲間たちが、ひっきりなしに部屋を訪れた。
ジャンは部屋に入るなり、「隊長ぉぉ!」と大声を上げて泣き崩れ、ロートに「うるさい、ここは病院だ。……泣くなと言っているだろう」と叱られた。
「泣いてません、これは……目から汗が出てるだけです!」
真っ赤な目で言い張るジャンの背後で、ラサールもまた、静かに、しかし深く頭を下げた。彼は何も言わなかったが、その拳が白くなるまで握りしめられているのを、ロートは見逃さなかった。
そして夕刻、ロンバルティア・ライムが訪れた。
十八歳の少年の顔には、もはや「指導者」としての揺るぎない覚悟が刻まれていた。だが、その目の下にある深い隈が、彼が背負わされた責任の重さを物語っていた。
「……現状を、ご報告します」
ロンバルティアは簡潔に、しかし丁寧に帝都の状況を語った。
「帝国は終わりました。皇帝アトラス三世は、宮殿の奥で死亡が確認されました。自殺か他殺かはわかっていませんが、帝国が崩壊したのは事実です。……今、各地のパルチザンの指導者、そして旧体制の穏健派を交えた協議が始まっています。新しい秩序が生まれるまで、まだ時間はかかりますが……もはや、止まることはありません」
「そうか。……お前が、やり遂げたんだな」
「父さんと叔母上、いえ、ロートさんが、道を拓いてくださったからです」
ロンバルティアは一瞬、言葉を切った。
「……御屋形様、グレイドル公の葬儀は、昨日ハイラムで執り行われました。敵将としてではなく、この国の礎を築いた英雄として。……そして」
「シェルファは……?」
ロートの声が、微かに震えた。
「帝都の東墓地に。……グランシール家の廟の、グレイドル公の隣に埋葬しました。彼女が、一番寂しくない場所を選んだつもりです」
ロートはゆっくりと目を閉じ、深い溜息をついた。
「……そうか。……ありがとう、ロンバルティア。お前に頼んで良かった」
「僕にできる、精一杯の供養です。……僕の父エルヴィンに繋がる、大切な家族ですから」
ロートは、自分と同じ金色の髪を持つ甥を見つめた。
「お前は、大丈夫か? 疲れていないか?」
「疲れていますね。……でも、フォーマルハウト師匠が言っていたんです。やるべきことが目の前にある時の疲れは、毒ではなく薬になる、と」
「……お前の師匠は、なんでもお見通しなのだな」
ロートはふっと微笑んだ。その表情は、以前よりもずっと柔らかく、慈愛に満ちていた。
「ロートさんが動けるようになったら、話したいことが山ほどあります。これからの『仕組み』について、戦術家としての知恵を貸していただきたいのです」
「……片目、片腕の戦術家か。あまり、期待するなよ」
「期待していません。……僕は、一人の人間としてのロートさんに、隣にいてほしいだけですから」
ロンバルティアはそう言って、再び深く礼をして去っていった。
夜が訪れた。
帝都の空には、まだ火災の名残である薄い煙が棚引いていたが、その向こうには、かつてシェルファと一緒に見上げたあの北極星が、変わらぬ冷徹な光を放っていた。
アランが、温かいスープの入った器を持って部屋に入ってきた。
「おい、冷める前に食えよ。……それと、これ。ジャンの野郎が勝手に持ってきた」
彼の手には、一輪の白い花が添えられていた。
ロートはスープを一口飲み、それからアランを見た。
「アラン」
「なんだ」
「……お前は、これからどうする?」
アランは少し意外そうに眉を上げたが、すぐにその意味を悟った。
「……決まってるだろ。あんたが一人で歩けるようになるまで。いや……あんたの左側の視界を、俺が埋められるようになるまでだ」
「……一生、かかるかもしれないぞ」
「望むところだ。……俺は、あんたの剣になると誓ったんだ。剣が、主を置いてどこかへ行くはずがないだろう」
ロートは静かに笑った。
失ったものはあまりに大きく、背負った後悔は一生消えることはない。
だが、彼女の右手には、確かな誰かの温もりが残っていた。
白き剣の行方は、もはや血塗られた戦場にはなかった。
それは、これから生まれる新しい世界の、誰かの小さな幸福を守るための「楯」になろうとしていた。




