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第八幕 白き剣・紅き炎④




第四章 号泣





 世界の半分は、すでに闇だった。


 焼かれた右目はもはや光を捉えず、熱い血が頬を伝って顎から滴り落ちている。折れ、焼かれた左腕は感覚を失い、自分の体ではない重石のようにぶら下がっているだけだ。全身の皮膚は火傷で疼き、呼吸をするたびに肺の奥が焦熱の残滓に焼かれる。


 だが、そんな肉体の苦痛など、今の彼女にとっては遠い世界の出来事のようだった。


 腕の中にある、柔らかな重み。


 つい数分前まで、あれほど激しく、あれほど残酷に、そして誰よりも美しく燃え盛っていた命の灯火が、今はもう、どこを探しても見当たらない。


「シェルファ……」


 掠れた声が、喉の奥から漏れた。


 返事はない。ただ、秋の湿った風が、彼女の赤い髪をわずかに揺らしただけだ。


「シェルファ……ねえ、聞こえる? シェルファ……」


 ロートは、まるで眠っている子供を起こす母親のように、何度もその名を呼んだ。しかし、深紅の瞳が再び開かれることはもう、なかった。


「ねえ、なんで……()()()()()()()()()()()()()()……?」


 シェルファが最後に遺した問いを、ロートは壊れた機械のように繰り返した。


 答えは、この灰色の塔のどこにも落ちていなかった。戦術書の中にも、帝国の法典の中にも、彼女が積み上げてきた「合理」の計算式の中にも。


 あるのはただ、取り返しのつかない「喪失」という事実だけだった。



「……っ、ううううっ……っ」


 ロートの左目から、熱い雫が溢れ出した。


 それはすぐに、嗚咽へと変わった。


 かつて父ゼイラムが処刑台に消えた雪の日、六歳の彼女は泣かなかった。


 グレイドルの手帳に記された真実を知った夜も、一人で唇を噛み締めて耐えた。


 帝都の冷たい地下牢に繋がれた時でさえ、彼女は「泣くことは非合理的だ」と己に言い聞かせ、涙を必死に封じ込めた。



 けれど、いま、ロートを縛っていたすべての鉄の鎖が砕け散った。



 彼女は、獣のような悲鳴を上げて泣いた。


 誰に聞かれても構わなかった。帝国の騎士団長としての誇りも、戦術家としての冷徹さも、すべてを投げ捨てて、彼女はただの一人の「女の子」として、親友の亡骸に縋り付いて慟哭した。


「ねえ、シェルファ……。わたし、また食べたかったよ……。あの、あったかいアップルパイ。シェルファが『ロートの分も食べてあげる』なんて言いながら、結局半分以上取っちゃって……。コルベルトに『もう一つ焼いて!』って、無理やりお願いしてさ……。あの台所の匂い、また一緒に、嗅ぎたかった……」


 ロートの言葉は、かつての幼年時代に戻ったように、たどたどしく、幼い響きを帯びていた。


 軍人としての「私」ではない、グランシール邸の隅っこで、赤い髪の少女の背中を追いかけていた「わたし」が、そこにいた。


「星の名前……。シェルファが教えてくれたよね。わたし、本ばっかり読んでたから、空の見方なんて知らなかったのに。お前が夜中にわたしを起こして、庭に連れ出して……。『あれが北極星よ、ロート。迷子になったら、あのお星様を探すのよ』って。……わたし、今、迷子だよ、シェルファ。どこに行けばいいのか、全然わかんないよ……」


 涙が止まらない。血と泥に汚れた彼女の視界の中で、シェルファの顔だけが、淡い月光を浴びて白く浮かび上がっている。


「『その名前、捨てないで』って言ったよね。……捨てなかったよ。見てよ、シェルファ。わたし、テンペストのロートリットとして、最後まで戦ったよ。あなたに胸を張って会えるように……。あなたに、認めてほしくて……」


 だが、認めてくれるはずの声は、もう二度と響かない。


 言いたかったことの百分の一も、千分の一も伝えていない。


 「好きだ」とだけは言った。けれど、「ありがとう」も、「ごめんね」も、もっとたくさん、日常の些細な言葉として、笑いながら伝えたかった。


 すべてが遅すぎた。


「……ずるいよ。先に、お父様のところへ行っちゃうなんて……。わたしを、置いていかないでよ……」


 塔の隙間から吹き込む風が、シェルファの赤い髪を撫でる。


 その髪が、一瞬だけ生きているように彼女の頬を掠めた。ロートは、それがシェルファからの最後のいたずらであるかのように感じて、さらに激しく泣きじゃくった。



 どれほどの時間が過ぎただろうか。


 ロートの泣き声は、次第に弱々しい喘ぎへと変わっていった。


 出血が、限界を超えていた。


 右目から流れる血は、紺碧のマントをどす黒く染め上げ、床に小さな水たまりを作っている。左腕の傷口からも、彼女の生命がじわじわと体外へ漏れ出していた。


 急激な体温の低下が彼女を襲う。さっきまであんなに熱かった塔の中が、いまは冬の夜のように冷え切って感じられた。


「シェルファ……。わたしも少し、眠ってもいいかな……」


 ロートは、シェルファの冷たい頬に、自分の血に濡れた頬を寄せた。


「もう少しだけ……ここにいてもいいよね。あなたが寂しくないように……わたしも、一緒に……」

 

 意識の混濁が、彼女を過去の幻影へと誘う。




 ――あの日。


 雪の降る夕暮れ、黒い馬車から降り立った幼い自分の前に、一陣の風のように駆け寄ってきた赤い影。


『――ねえ、あなたがロートね。わたしはシェルファニールよ!今日からここで、一緒に暮らすの。仲良くしましょ!』


 差し出された、小さくて温かな手。


 あの瞬間に、ロートの止まっていた時間は動き出したのだ。あの「仲良くしましょ」という一言が、孤独だった彼女の魂を、十三年間という幸福な夢へと繋ぎ止めてくれたのだ。


(……ああ。あの日から、全部が始まったんだ……。わたしの、大切な……全部……)


 視界が、真っ白な霧に包まれていく。


 ロートは、シェルファの手を、壊れ物を扱うようにそっと右指で握りしめた。


 そのまま、彼女の瞼はゆっくりと閉じられた。


 崩れゆく帝国の頂上で、二人の「少女」は、寄り添い合うようにして静止した。





 東の地平線が、ようやく不吉な赤色から、薄紫色の夜明けの色へと変わり始めた頃。


 瓦礫の山となった宮殿の影から、一人の巨漢が、狂ったような勢いで塔へと駆け寄ってきた。


 アラン・モールだった。


 彼は解放軍の制止を振り切り、まだ煙の上がる塔の中へと飛び込んだ。


「隊長!どこだ!ロート!返事をしろ!」


 アランの声が石造りの階段に反響する。


 入口を塞いでいた炎の壁は、すでに霧散していた。彼は一段飛ばしで階段を駆け上がり、最上階の重厚な扉を、肩ごとぶつけるようにして蹴り飛ばした。


 扉が開き、煙が外へと流れ出す。


 そこには、朝の光に照らされた、あまりにも悲痛な光景があった。


 灰にまみれた床の上、二人の女性が重なるように倒れている。


 アランは、息を呑んで立ち尽くした。


「……嘘だろ」


 彼はよろめきながら、二人のもとへ膝をついた。


 まず目に入ったのは、動かなくなったシェルファニールの姿だった。かつての傲慢なまでの美しさは、いまは透き通るような静謐さへと変わっている。


 そして、その腕に抱かれたまま、青白い顔をして横たわるロート。


「ロート! しっかりしろ! おい!」


 アランが震える手でロートの頸動脈に触れる。


 ……わずかに、血が流れる手ごたえがあった。


 ほんの微かな手ごたえだった。しかし確かな鼓動があった。


 アランは肺から一気に空気を吐き出し、天を仰いだ。


「生きてる……。クソっ、まだ生きてやがる。……死なせねえぞ、医官を呼べ!間に合わせろ!」


 外に向かって怒鳴り声を上げながら、アランはふと、ロートの右手に目を止めた。


 彼女の指は、シェルファの手を、死んでも離さないという強い意志を込めたまま、固く握りしめていた。


「…………」


 アランは、その手をすぐには引き離せなかった。


 彼は、物言わぬシェルファニールの方へと視線を移した。


 かつて、帝都の地下牢からロートを救い出したあの夜。この赤い髪の女性は、帝国の騎士という立場を捨ててまで、自分に鍵を託してくれたのだ。


『――ロートリットを、連れて行って。あの子は、ここで死ぬべき人間じゃないわ』


 あの時の、決然とした彼女の声をアランは忘れていなかった。


「……シェルファニール・グランシール」


 アランは重厚な兜を脱ぎ、彼女の前に深々と頭を下げた。


「あんたのおかげで、俺の隊長は二度も救われた。……あの夜と、そして今、この地獄でも。………本当は、あんたも一緒に連れていってやりたかったが」

 

 アランはそっと、ロートの指を一本ずつ解いていった。


 冷たくなったシェルファの手を、彼女の胸の上で、安らかに組ませる。

 そして、彼女の傍らに落ちていた、折れた細剣をその横に静かに置いた。


「……礼を言う。あんたの分まで、あいつを生きさせる。あいつの進む道に泥が跳ねないよう、今度は俺が、最後まで盾になる。……だから、安心して、親父さんのところへ逝きな」


 アランは、満身創痍のロートを、壊れ物を扱うような手つきでその太い腕の中に抱き上げた。


 彼女の碧紺のマントが、血と灰を纏いながら重く垂れ下がる。


「行くぞ、ロート。新しい朝だ。あんたが作った、あんたの見たかった、世界が始まるんだぞ」


 アランは、一度も振り返ることなく、一歩ずつ慎重に階段を下りていった。





 数分後、崩落を待つ尖塔の出口から、アランはよろめきながら這い出した。


 全身を煤と灰にまみれさせ、肩で激しく息を吐く彼の腕の中には、もはや物言わぬ人形のようにぐったりとしたロートが抱えられていた。


「隊長ッ!!」


 真っ先に声を上げたのはジャンだった。その背後からは、解放軍の軍装に身を包んだ医療班が、担架を手に血相を変えて駆け寄ってくる。


 アランは膝を折り、地面に倒れ込むようにして、腕の中の重みを医療班へと委ねた。その手は、彼女を離すまいとするあまり、強張って感覚を失っていた。


「……右目だ。右目を焼かれている。それと左腕……骨まで達しているはずだ。出血がひどい。一刻を争う、急いでくれ」


 アランの声は地を這うように低く、掠れていた。


「副長、あなたも……その顔、腕が」


 医療班の一人が、アランの痛々しい姿に息を呑んだ。炎の中を強引に走り抜け、爆発の余波を真っ向から浴びたアランの顔の右半分と両腕には、皮膚が爛れた凄惨な火傷が刻まれていた。だが、アランは自分に向けられた手を乱暴に振り払った。


「俺なんか後でいい。 ロートを……ロートリットを先に診ろ! 絶対に死なせるな、いいか、絶対にだ!」


 咆哮に近い叫びを投げ、アランは崩れるようにその場へ膝をついた。医療班が慌ただしく応急処置を施し、ロートを救護陣地へと運んでいく。碧紺のマントが、地面に血の尾を引きながら遠ざかっていった。


 嵐が去った後のような静寂が訪れる。


 背後から近づいてくる足音があった。金髪を揺らし、沈痛な面意を浮かべたロンバルティアだった。


「……連れ出せましたか」


 ロンバルティアの声は静かだったが、その瞳には深い揺らぎがあった。アランは顔を上げず、地面に突き立てた拳を強く握りしめた。


「ああ。……だが、俺が着いた時には、もう手遅れだった」


「シェルファニールさんは……」


「……逝った。あいつの腕の中で、笑いながらな」


 アランの言葉に、ロンバルティアは天を仰ぎ、静かに目を伏せた。


「そう、ですか。……すべて、終わったのですね」


「まだだ。終わってなどいない」


 アランは絞り出すように言った。


「ロートは意識がないままだ。命は取り留めるかもしれんが……失った右目も、動かなくなった左腕も、おそらく二度とは戻らない。あいつは、世界の半分をあそこに置いてきたんだ」


「……分かりました」


「俺は、もう少しここにいる。あそこに、シェルファニールを一人にしておきたくない。脱獄の時の恩も、まだ返せていないからな」


「そうしてください。お願いします、アラン副長。……後は、僕たちの仕事です」


 ロンバルティアが去った後、帝都には深い夜が訪れた。


 白亜の都を包み込んでいた白い炎は鎮火し、代わりに重苦しい黒煙が星空を覆い隠している。塔の最上部では、まだ僅かに残った火種が、命の終わりのように赤く明滅していた。





 アランは一人、石畳に腰を下ろし、塔を見上げ続けていた。


 救護所からは、絶えず絶望的な報告が届いていた。止まらぬ出血、深い火傷。右目の眼球は熱によって破壊され、視力の回復は絶望的だという。左腕の神経も焼かれ、動かすことも、二度と剣を握ることも叶わないだろうという、残酷なまでの「合理的な」診断結果。


 アランは、自らの震える両手を見つめた。


 守ると決めたはずだった。あの日、南方の駐屯地で一騎打ちを演じ、彼女の孤独な背中を見た時から。俺がこいつの盾になり、剣になると誓ったはずだった。


(……間に合わなかった。俺が、もっと早くあの塔に踏み込んでいれば。あいつらの間に割って入り、力ずくでも止めていれば……!)


 後悔が、鋭い刃となってアランの胸を抉る。


 ロートが求めていたのは、勝利などではなかった。彼女は、かつての親友と、積み重なった誤解を、命を削り合うことでしか埋められなかった。その不器用で、あまりに悲痛な「対話」を、アランはただ、塔の下で見守ることしかできなかったのだ。


 盾になると言いながら、彼女が最も傷つく瞬間、隣にいてやれなかった。その事実が、火傷の痛みよりも遥かに熱く、アランの魂を焼いていた。


 だが、その暗い後悔の底に、わずかな、けれど温かい光が灯った。


 ――あいつは、生きている。


 たとえ右目の光を失い、左腕が動かなくなったとしても。ロートリット・テンペストという名の鼓動は、まだこの世界から消えてはいない。


 あんな地獄のような光景の中で、彼女はシェルファニールの手を握りしめ、冷たい石の床の上で踏み止まったのだ。


「……生きてるだけで、いい」


 アランは誰に聞かせるでもなく、夜風に向かって呟いた。


「片目だろうが、片腕だろうが、そんなことはどうでもいい。あんたが生きてさえいれば、俺は何度だってあんたの盾になる。今度こそ、死ぬまであんたを一人にはさせない」


 頬を伝った熱い雫が、煤で汚れた肌に筋を作った。


 アランは再び塔を見上げた。


 塔の頂で揺れる小さな炎が、まるでシェルファニールが最後に残した微笑みのように、夜の闇を密やかに照らしているように見えた。


 秋の夜はどこまでも深く、静かに更けていく。


 帝都ミレーニアの終焉と、新しい時代の産声。


 アランはその境界線に立ち、愛する女性(ひと)が目覚める朝を、ただ静かに待ち続けた。






 背後では、崩れかけた塔の窓から、混じりけのない真っ白な朝光が差し込み、眠るシェルファニールの姿を優しく包み込んでいた。


 帝都ミレーニアの長い夜が、いま、ようやく明けた。






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