第八幕 白き剣・紅き炎③
第五章 決闘
崩落を待つ尖塔の最上階。大気は酸素を奪い合う炎によって赤黒く濁り、石造りの床はマグマのように熱を帯びていた。
シェルファニールが赤い宝玉のついた細剣を抜く。
その細い剣身には、もはや物理的な質量を超えた「絶望」という名の炎が、不気味なほどに青白く渦巻いていた。彼女の父、グレイドルが戦場で振るった威厳ある炎とは違う。それは触れるものすべてを呪い殺そうとする、苛烈で孤独な命の火だった。
対するロートリットは、重厚な大剣を右手に、崩れそうな体を支えていた。
右目はすでに、永遠の闇に沈んでいる。
世界の半分が奪われた視界では、空間の輪郭がひどく曖昧だった。シェルファとの距離感も、床に刻まれた亀裂の深さも掴めない。一歩踏み出すたびに、奈落の底へ足を踏み入れるような幻覚に襲われる。
「……最後よ。ロート」
シェルファの声が、熱風を切り裂いて響いた。
彼女が地を蹴る。速かった。
士官学校の演習で見せていた華麗な剣筋は、いまや殺戮の最短距離を走る一条の閃光へと変じていた。感情の決壊が、魔法の出力を跳ね上げ、その身体能力さえも限界を超えさせている。
ロートは大剣の腹で受けた。
細剣が触れた瞬間、爆発的な火花が散り、熱波がロートの左腕を焼く。
「っ……!」
無理やり押し返すが、シェルファは炎のように実体を持たぬ速さで後退し、即座に次の間合いを詰める。今度は広範囲を焼く魔法ではない。針の穴を通すような精密さで、炎の魔力を一点に集約した一突き。
ロートは反射的に横へ転がった。直後、さっきまで彼女がいた場所の石床が、超高温の熱線によってドロドロと溶け落ちた。
立ち上がりざま、ロートは踏み込んだ。だが、シェルファの冷酷な横薙ぎがそれを阻む。炎を纏った細剣が、防ぐ術のないロートの左腕を深々と抉った。
「あああああッ!!」
絶叫。肉が焼ける嫌な臭いが鼻腔を突く。骨まで達した熱が神経を焼き切り、ロートの左腕は力なく垂れ下がった。感覚は消失し、ただ重いだけの「肉の塊」が肩からぶら下がっている。
ロートは声に出さぬ悲鳴を飲み込み、右手一本で大剣を握り直した。
それを見たシェルファが一瞬、動きを止めた。その瞳には、倒れぬ親友への恐怖と、救いようのない悲しみが入り混じっていた。
「……左腕を、殺したわ。もう、剣は振れないでしょう。お願い、もう……止まってよ。なんで倒れてくれないの。倒れて、死んでくれれば、これで全部、全部終わるのに……!」
「まだだ……」
ロートは血に濡れた右目を閉じ、左目だけで真っ直ぐにシェルファを見据えた。
「まだ、お前と本当の話をしていない」
「話すことなんて、もう何もないわよ!」
シェルファが全魔力を爆発させた。彼女自身が炎の巨鳥と化したかのように、燃え盛る紅蓮の奔流となってロートへ突っ込んでくる。
ロートに避ける力は残っていなかった。
視界は霞み、身体は鉛のように重い。
だが、右手の握力だけは、父から、そして仲間から受け継いだ「合理」を超えた執念によって維持されていた。
(――シェルファ、私の左腕を、お前に捧げよう)
ロートは、死んだ左腕をあえて前に突き出した。
シェルファの最速の一突きが、ロートの動かぬ左腕を貫く。肉を裂き、骨を砕く感触が細剣を通してシェルファに伝わった。勝利を確信したシェルファの体勢が一瞬、硬直する。
――その、刹那。
ロートは残された右腕のすべてを、大剣に込めた。
振り下ろしたのは「刃」ではない。彼女は剣を返し、その幅広な「腹」でシェルファの胸元を強打した。
愛する親友を、斬り裂くことだけはできなかった。
凄まじい衝撃音が塔を揺らし、シェルファの身体が紙細工のように吹き飛んだ。大理石の柱を粉砕し、壁に激突した彼女は、そのまま糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
主を失った炎が、潮が引くように静まり返り、塔の中には不気味な静寂が訪れた。
シェルファは壁に背を預け、ずり落ちるように座り込んでいた。
胸部は陥没し、喉の奥からは耐えず血が溢れ出している。内臓の損傷は致命的だった。
ロートはフラフラと幽鬼のような足取りで、彼女に歩み寄った。
ガラン、と右手の大剣を捨てる。その音は、彼女たちの騎士としての人生が終わった合図のようだった。
ロートは膝をつき、死んだ左腕を無視して、右手だけでシェルファの細い肩を抱き寄せた。
「……ロート……」
シェルファが、血を吐きながら小さく名を呼んだ。
「やっぱり、最後まで、勝てなかったわ……。あなたに……」
その瞳から、あの猛々しい怒りは消え去っていた。そこにあるのは、すべてを出し切り、燃え尽きた後の、ひどく透明で空っぽな光だった。
「わたし……ずっと、あなたが……羨ましかったのよ」
かすれた声が、ロートの耳元で震える。
「知っている。……気づいていたんだ、シェルファ。でも、私は臆病だった。お前の心に触れて、その痛みを分かってしまったら、私は私でいられなくなると思った。……確かめることを放棄した、私の負けだ」
「……謝らないでよ。今さら、許し合うなんて……滑稽じゃない」
「謝らない。ただ、伝えたかった。シェルファ……私は、お前のことが好きだった。ずっと、ずっとだ。お前がいなければ、私はただの、血の通わない機械になっていた」
シェルファの目が、ゆっくりと細められた。それは、幼年学校の裏庭で、二人で将来を語り合ったあの頃の優しい微笑みだった。
「……わたしも、よ。大好きだった……。だから、悔しかった。あなたの隣に並びたかった。羨ましくて、憎らしくて、でも……この世界で一人ぼっちになるのが、何よりも怖かったの……」
シェルファの手が、血に汚れたロートの右手に触れた。
かつては温かかったその指先が、いまや氷のように冷たくなっていく。
「ねえ、ロート……。なんで、わたしたち、こうなったの?」
ロートは答えられなかった。
帝国という歪な器。テンペストという宿命。グランシールという誇り。そして、不器用すぎる二人の愛。
積み重なったすべての必然が、彼女たちをこの地獄へと導いた。
「……わからない。でも、もういい。もう、何も背負わなくていいんだ」
「……寒い」
シェルファが身震いした。
周囲の壁は赤熱し、塔全体が炎に包まれているというのに、彼女は寒いと言った。消えゆく命が、最後に手放すのは、憎しみではなく「温度」なのだということを、ロートは悟った。
「そうか。……なら、こうしていよう」
ロートは、震える右手でシェルファの冷たい手を握り締め、残された自らの体温を分け与えるように強く抱きしめた。
「ロート」
「ああ」
「……お父様に、会いに行くわね。きっと、叱られちゃうけど」
「……ああ。御屋形様なら、きっと『よく頑張った』と笑ってくださるさ」
「……ふふ、そうね。……ロート、ありがとう」
「……何にだ?」
「全部。……あなたに会えて……よかった」
握られていた指先から、ふっと力が抜けた。
シェルファニールの瞼が、ゆっくりと、そして永久に閉じられた。
塔の内部を走る炎の咆哮だけが残った。
ロートは、物言わぬ親友の亡骸を抱いたまま、声を上げずに泣いた。右目からの血と、左目からの涙が混ざり合い、紺碧のマントを黒く汚していく。
白銀の業火は、嘘のように消え失せていた。
主を失った魔法が霧散した塔の最上階には、ただ、崩れかけた石壁の間から流れ込む薄暗い煤煙と、鼻を突く焦げた石の匂いだけが立ち込めている。
ロートは、動けなかった。
崩落した大理石の破片が散らばる床に座り込み、その腕の中に、冷たくなり始めたシェルファを抱きかかえたまま、石像のように固まっていた。
二つに分かれた彼女たちの人生が、いま、ようやく一つの静寂へと辿り着いた。




