第八幕 白き剣・紅き炎②
第二章 城内へ
ロートが宮殿の尖塔を目指して駆けていく時に、アランは彼女を止めた。
「一人で行くなんて、無茶だ。俺も同行する」
「だめだ。来るな」
「隊長一人で行くなんて、死にに行くようなもんだ。中は炎の魔法で満ちている。あんたも焼かれて灰になるだけだ」
「それでも、私はシェルファと話さなくてはならん」ロートは言った。「これは私たちの問題だ」
「話し合うって、本気で言ってるのか。話だけで済むとは思えない」
「だろうな。私も思っていない」
「だったら止めろ」
「それでも、だ。ここは私が行かなければならない」ロートは言った。「シェルファが向き合う相手は私だ。他の誰かが入っても、彼女には届かない。届かないだけならまだいい。他の者が入れば、辿り着く前に全員が焼かれる」
アランは何か言おうとして、止めた。
それから、声の質が変わった。
「……頼む」とアランは言った。「一人で行くのは、どうか止めてくれ」
「アラン……」
「俺は」アランは続けた。「お前を失うのは、嫌だ」
ロートはアランを見た。
この男が「嫌だ」と言う場面を、今まで見たことがなかった。感情が大きく、声が大きく、しかし自分の恐れを弱さとして出すことは、決してしなかった男だった。南方の荒地でも、東部の川の中でも、帝都の地下牢に向かう時でも。
それが今、「嫌だ」と言っていた。彼の本心だった。
「アラン。それならば城門の手前で待っていてくれ」とロートは言った。「私が夜明けまでに出てこなければ、迎えに来てくれ」
「夜明けまでは長い」
「短くもない。それが限界だ」
「……ロート」
「シェルファに、全部話す」ロートは言った。「御屋形様が何を選んで、何を抱えて、最後に何を言ったか。届くかどうかは分からない。しかし、話さずに剣を抜くことは、私にはできない」
「届かなかったら、あんたはどうするんだ」
「届かなくても、話す。それが私にできる、御屋形様への最後の返答だ」
アランはロートの肩を掴んだ。
ロートの目を見た。決心していた。もう動かなかった。
「わかった。…もう止めん。だが、必ず生きて戻ってこい」
「ああ」
「必ずだ。約束してくれ」
「……約束しよう」ロートは言った。「私が約束を破ったことが、今まであったか」
アランは掴んだ手を離した。
その手が、少しだけ震えていた。
ロートはそれを見た。見て、何も言わなかった。
言葉にしなかった分だけ、受け取った。
城内に踏み込んだ瞬間、別の世界に入ったような感覚があった。
床が燃えていた。壁が燃えていた。天井の一部が既に崩れ、瓦礫が燃えたまま床に転がっていた。普通の炎ではなかった。橙ではなく、白に近い色だった。温度が違った。近づくだけで鎧の表面が焦げ始めた。
ロートは大剣を背に負い、マントを引き上げて顔の半分を覆い、進んだ。
一歩踏み込むたびに、熱が皮膚に貼りついた。呼吸のたびに喉が焼けた。炎の熱さを気にして、立ち止まっている暇はなかった。
それでも進んだ。
制御を失った炎は、一点に向けられた意志を持たない。触れれば燃えるが、避けながら進むことはできる。ロートは炎の隙間を読みながら、宮殿の奥へ進んだ。
宮殿の深部は、ロートにとって知らない場所ではなかった。
幼年学校に入学する前の夜、シェルファとグランシール邸の屋根に上ったことがある。並んで座って、帝都の夜景を見た。遠くに見える王城の尖塔を指差して、シェルファが言っていた。
「あの一番高い塔、いつか登ってみたいな。きっと、帝都全部が見えると思うのよ」
「ああ。いつかふたりであそこから星を見よう」
子供の頃の言葉が、今の答えになることがある。
最も炎の輝きが強い方向を目指した。宮殿で一番高い塔は、そこにあった。
塔の入口は炎に閉ざされていた。
壁のように立ち昇る業火が石造りの通路を塞いでいた。熱だけで皮膚が裂けそうだった。
ロートは止まらなかった。
マントを顔まで引き上げた。一歩踏み込んだ。
灼熱が全身を貫いた。肺が焼けるような感覚。金色の髪が焦げる匂い。鎧が軋み、熱で皮膚に貼りついてくる。右手に握る大剣が、炎の中でじりじりと熱を帯びた。
それでも進んだ。一歩。もう一歩。
背後で炎が唸った。
抜けた時、テンペストのマントの裾は黒く炭化し、右腕の手甲は一部が溶け落ちていた。痛みはあった。しかしそれに構う余裕は、もうなかった。
螺旋階段を上った。
石段を踏むたびに、赤い光が上から漏れ出してきた。炎の光ではない。それよりも深く、意志を持つように脈打つ光だった。制御を失った魔法の輝き。
上るにつれて、熱が増した。空気が薄くなっていくような感覚があった。酸素が炎に食われていた。
嫌な予感が、胸の奥を冷やした。
頂上の扉に手をかけた。一瞬だけ躊躇した。
しかし押した。
扉が開いた瞬間、熱波が顔を打った。
シェルファニール・フローレス・フォン・グランシールは、そこにいた。
彼女は、紅く燃えていた。
衣服が燃えているのではない。彼女自身から、炎が噴き出していた。荒れ狂う魔力が渦を巻き、周囲の空気を歪ませていた。まるで生き物のように揺れる赤い炎が、壁を、床を、天井の端を舐め続けていた。風もない塔の中で、燃えるように美しい赤い髪が揺れていた。そして深紅の瞳だけが、静かに扉の方を向いた。
シェルファニールはロートを見た。
炎が一瞬、大きく脈打った。
「やっと来たのね」とシェルファニールは言った。声が穏やかだった。穏やかすぎて、かえって怖かった。「待ってたわ。来るって、分かってた」
「……シェルファ」
「最後には必ず来てくれる。放っておけないって顔をして。昔から、ずっとそうだったじゃない」かすかに唇が動いた。笑みに似た何か。しかし目は笑っていなかった。
「話を聞いてくれ」
「聞かない」即座に言葉が返ってきた。静かな声だったが、有無を言わせない重さがあった。「もう聞かない。聞いても意味がないって、ようやく分かったから」
「シェルファ」
「お父様を殺したのは、あなたでしょう?」
声の温度が変わった。
シェルファニールの赤い髪が波打ち、空気が断裂するように炎が奔った。ロートは反射的に横へ跳んだ。背後の石壁が赤熱し、表面が熔け落ちた。
「違う。私はグレイドル将軍を――」
「殺したのはあなたでしょう!」
今度は部屋全体を包む奔流が来た。天井まで届くような炎の壁だった。ロートは大剣を盾のように差し出し、直撃を逃れた。しかし左腕に熱が走り、感覚が遠のいた。
「シェルファ、聞いてくれ!」
「嫌よ」
シェルファニールは言った。単純な怒りではなかった。怒りよりも深い場所から来る言葉だった。壊れたものを長く抱え続けた人間だけが持つ、崩れかけの声。
「絶対に許せない。お父様を奪っておいて、何もなかった顔をして……。あなたはいつもそう。全部分かっているような顔をして、わたしには何も言わないで、全部一人で決めて」
「御屋形様は――」
「黙って!」
炎が溢れた。
逃げ道がなかった。後方への道は既に塞がれていた。ロートはあえて前へ踏み込み、炎の中に体ごと飛び込んだ。
右目に鋭い痛みが走った。
世界が弾けるように歪み、視界の右半分が消えた。膝をついた。右手を目に当てると、掌が濡れていた。自分の血だった。
「やっぱり、あなたとはわかりあえない」
シェルファニールの声が続いた。怒鳴り声ではなかった。むしろ静かなほどだった。全てを使い果たした者の、透明な声だった。
「上から目線で、何でも知ってる顔をして。いつだってそうだった。いつだって先にいて、いつだってわたしが追いかけて、いつだって届かなくて」
炎が揺れた。
「わたしは、あなたのずっと後ろにいた。ずっと」
ロートは顔を上げた。
「シェルファ」
右目が見えない。左腕は感覚が薄く、剣を正確に握ることが難しかった。それでも立ち上がった。大剣を構えた。右手一本で、構えた。
「追いかけても届かない。悔しくて、羨ましくて……でも嫌いにもなれなかった。そのくせ、あなたは一度だって本当のわたしを見ようとしなかった」
深紅の瞳が揺れていた。
「聞いてくれ」とロートは言った。「弁解はしない。お前の言っていることは、全部正しい。私はずっと間違い続けてきた。お前の気持ちを読もうとしなかった。読もうとしなかったのではなく、読めると思い込んでいた。推測を確かめずに、判断を先に出した。それが間違いだった」
「いまさら、何を。だったら、何だというの」
「いまさらだ。分かっている。今更では遅い。しかし言わなければならない」ロートは言った。「私はお前のことが好きだった。シェルファニール・グランシール、お前のことが、ずっと好きだった。子供の頃から、幼年学校でも、士官学校でも、その後も。友として、仲間として、家族として。言葉にしなかったが、ずっとそうだった」
シェルファニールの炎が、一瞬だけ揺れた。
「……嘘をつかないで」
「嘘じゃない」
「嘘じゃないなら」シェルファニールの声が、初めて揺れた。怒りでも憎しみでもない。長い年月、胸の奥で燻り続けたものが崩れていく音だった。「嘘じゃないなら、どうして」
深紅の瞳に、薄く光が滲んだ。
「どうして、わたしたちは、こうなったの?」
その問いは、責める言葉ではなかった。
置き去りにされた少女が、ようやく口にできた問いだった。
炎だけが、塔を満たして鳴り続けていた。
ロートは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「……私の所為だ」
掠れた声だった。
「全部ではないかもしれない。帝国も、時代も、全部が重なった。しかし、お前が傷ついた理由の一つは、確かに私にある。お前を独りにしたのは、私だ」
「違う」シェルファニールは言った。「帝国の所為よ。アトラス三世の所為。でも」
目から、何かがこぼれ落ちた。
炎の熱で、すぐに蒸発した。
「でも、お父様はもういない。帝国も間もなく滅ぶ。……わたしにはもうここしかない。ここで燃えて、燃え尽きて死ぬ。それしか、ない」
「シェルファ」
「ロート、聞いて」シェルファニールは言った。声が少し変わった。怒りではなく、ただ疲れ果てた者の声だった。「あなたを道連れにするつもりはないわ。帝都ごと燃えれば、全部終わる。わたしも終わる。あなたは逃げて。まだ間に合うから」
「……」
「逃げなさい。あなたには、まだやることがあるでしょう。ロンバルティアがいる。あなたを助けた副長さんも。それだけの人間がいるなら、やりなおせるわ」
「……私は、逃げない」ロートはシェルファを見つめ返した。「御屋形様の最後の言葉を、お前に伝えに来た。それを言わずに逃げることは、私にはできない」
シェルファニールの炎が、一瞬小さくなった。
「……お父様の、言葉?」
「ああ」ロートは言った。「御屋形様は最後に、シェルファを頼む、と言った。あの子は強いが、一人にすると寂しがる、と。お前が一番よく知っているはずだ、と言った」
シェルファニールは動かなかった。
「それだけじゃない」ロートは続けた。「御屋形様は、炎の魔法を最後まで使わなかった。使えなかったのではない。使わなかった。第一騎士団の兵士たちを巻き込みたくなかったからだ。最後の吶喊で、解放軍の本陣に踏み込んだ時も、自分の剣だけで戦った。自らの兵士を、最後まで守ろうとしていた」
「……お父様が」
「御屋形様は、私に言った。ゼイラムに少し顔向けができる気がする、と」
シェルファニールの炎が揺れた。大きく揺れた。制御ではなく、感情の揺れが炎に伝わっていた。
「……嘘よ」
「嘘じゃない」
「だって、お父様は。お父様はわたしを置いて」シェルファニールの声が割れた。「わたしを置いて逝ったじゃない。なんで、なんでロートが傍にいて、わたしは傍にいられなかったの。なんでわたしじゃなくて、あなたに最後を看取らせたの」
その言葉の核心に、ロートは触れた。
シェルファが怒っていたのは、父を殺した者への怒りだけではなかった。父の最期に立ち会えなかったことへの、どうしようもない悲しみがあった。
「……そうだ」とロートは言った。「お前がいるべき場所に、私がいた。それは、お前が怒って当然だ」
「当然よ!」シェルファニールの炎が膨れ上がった。「当然じゃない! わたしの父なのに! わたしのお父様なのに、なぜあなたが、なぜあなたなのよ!」
「……ごめんなさい」
ロートは言った。謝罪の言葉だった。初めての、謝罪の言葉だった。今まで使ってこなかった言葉だった。弁解するか、事実を述べるか、どちらかだった。しかし今は、それ以外の言葉が出てこなかった。
「ごめんなさい、シェルファ。お前がいるべき場所に、私がいた」
シェルファニールは何も言わなかった。
炎が揺れ続けていた。
しかしその揺れ方が、少し変わっていた。攻撃ではなく、内側からの震えに見えた。
「お父様はお前のことを、最後まで話していた」ロートは続けた。「強いが、一人にすると寂しがる。それが分かっているから、頼むと言った。頼める者が傍にいることを、御屋形様は知っていた」
「……知っていたなら、なぜ最後まで戦ったのよ。降りれば良かったじゃない。降りれば、生きられたじゃない」
「降りなかった理由は、御屋形様から直接聞いた」ロートは言った。「降りれば、三千の兵士が皇帝の次の命令で動く。それを防ぐために、最後まで前に立っていた。その三千を守るために、最後の盾であろうとした」
「……そんな、ことって……」
「御屋形様は、ご自分の命より三千の命を選んだ。それが御屋形様の騎士としての、最後の選択だった」
シェルファニールの炎が、小さくなった。
わずかだった。しかし確かに、小さくなった。
「それでも」とシェルファニールは言った。声が変わっていた。怒りではなく、途方に暮れた声だった。「それでも、お父様はもういないの。どんな理由があっても、もういないの。わたし、これからどうすれば良いか、分からないのよ。分からなくて、全部焼いてしまえば終わると思って、でもそれも違うとどこかでは分かっていて」
「シェルファ」
「わたしは、どうすれば良いの?」
その言葉は、敵への問いではなかった。
ずっと親友だった者への、子供の頃から変わらない声だった。
「分からない」とロートは言った。「私にも、分からない。御屋形様を失って、どう生きれば良いか、私にも分からない。しかし」
「しかし?」
「お前と一緒に分からないままでいることは、できる」
シェルファニールは動かなかった。
「御屋形様を失った痛みを、お前は一人で抱えている。しかし私も抱えている。それは同じ痛みではないかもしれない。しかし、同じ人を失った痛みだ。一人で抱えるより、二人で抱えた方が、少しは違うかもしれない」
「……ロート」
「シェルファ」
「あんたは」シェルファニールは言った。声が揺れていた。「あんたは、お父様を討って、それでわたしのところに来て、それを言うの」
「そうだ」
「……本当に、あんたって」
「言いたいことがあれば、言ってくれ」
「全部あんたの所為なのに」シェルファニールは言った。「全部あんたが悪いのに。それでも……それでも、あんたが来てくれたのは、嬉しかった。来てくれると思っていた。来てくれないはずがないとも、思っていた」
炎が、また小さくなった。
シェルファニールの体から噴き出す炎の勢いが、確かに落ちていた。
「来なければ良かったか」とロートは聞いた。
「……来なくて良かったとは思わない」シェルファニールは言った。「でも、許せない。許せないのよ。それだけは、変わらない」
「分かっている」
「許せないまま、どうするの」
「許せないまま、続きを生きる」ロートは言った。「御屋形様は最後に、シェルファを頼むと言った。それを受け取った。お前が私を許せなくても、私はその言葉を受け取っている。だから、どういう形でも、傍にいる」
長い沈黙があった。
炎の音だけが続いた。
「ロート。あなたの言いたい事は、わかったわ。お父様の言葉も、確かに受け取った。でも、でもね」シェルファニールは細剣を抜いた。「もう、遅いの。わたしは帝都を焼き払った。みんな灰にした。敵も味方も、守るべき市民も。何人殺したかわからない。皇帝陛下だって、わたしが殺したようなもの」
剣身に炎が宿り、刃が赤く燃えた。その炎は、今までで最も大きかった。
「わたしはここで戦って死ぬ。最後まで紅蓮の炎となって灰になる」
彼女は言った。「来なさい、ロート。あなたを許せない気持ちは、変わらない」
深紅の瞳に、再び火が灯った。右手で細剣を構え、左手からは再び炎が溢れ出した。それから、彼女は静かな声で言った。その瞳には、諦念にも似た鈍い光があった。
「なんで、わたしたちはこうなったの?なんでこういう形でしか、向き合えないの?」
「……わからない」とロートは言った。「しかし、お前が問うならば、私も問い続ける。終わるまで、問い続ける」
ロートは大剣を構えた。
右目が見えない。左腕が動かない。それでも、剣を降ろすことはできなかった。
シェルファが待っていた。
答えを、ずっと待っていた。
二人の間に残っているのは、剣と炎の言葉だけだった。
しかしその剣の下には、子供の頃から変わらない何かが、まだ残っていた。




