第八幕 白き剣・紅き炎①
第八幕 白き剣・紅き炎
第一章 帝都の炎
帝国歴三百四十年、秋。
解放軍の本陣から見える帝都ミレーニアは、かつての白亜の輝きを失っていた。立ち昇る黒煙が空を覆い、夕暮れの橙が血の色に変わっていた。帝都で最も高い尖塔の先端が、遠くから見ても赤く滲んでいた。
天幕の中に、刺すような緊張があった。
円卓を囲むのはロンバルティア、ロート、アラン、アルビオンの四人。中央の地図の上に、蝋燭の炎が揺れていた。
「五度目の使者も、戻りませんでした」
報告を上げた諜報の兵士は、声が震えていた。
「城門の前に吊るされた姿が確認されました。守備隊長シェルファニール・グランシールは、解放軍の接近を拒絶しています。交渉の言葉を口にする機会も与えられなかったようです」
「皇帝の動静は、どうなっている?」とロンバルティアが尋ねた。
「掴めておりません。宮殿区画からは連日、絶叫と破壊音が聞こえるとの報告があります。しかしアトラス三世の姿を確認した者は、ここ数日で一人もおりません」
「生存していても、していなくても、今の帝都に理知を持った指揮者はいない」とロートは言った。声が乾いていた。「残っているのは、シェルファニールだけだ」
アランが重い拳を地図に置いた。
「偵察の報告だと、帝都内部でかなり大規模な火災が起きている。普通の火事じゃない。石畳が溶け、空中の灰まで燃えているような光景だという。市民の被害は、もう数えきれない」
「暴走した、『ほのおの魔法』だ」とロートは言った。
全員が黙った。
「グランシール家に伝わる炎の魔法は、制御できる者が使えば精密な武器になる。グレイドル将軍が示した通りに。しかし制御を失えば、熱そのものが意志を持って広がる」ロートは続けた。「シェルファの魔法の源は、守りたいという祈りだった。それが逆流した。今の彼女は、全てを道連れにして消えようとしている。炎は彼女の心の具現化だ。止めなければ、帝都そのものが消える」
「彼女を止める方法はないのですか?」とロンバルティアが言った。
「私が、行く」とロートは言った。
「しかし、ロートさん」
「これは私がやる。彼女をここまで追い詰めたのは私だ。他の誰かが止めに行っても届かない。彼女が向き合う相手は、私でなければならない」
ロンバルティアは目を伏せた。「集団で行っても、まとめて灰になるだけ……か」
十八歳の指揮官が、こんなにも疲れた顔をすることは、これまでなかった。しかし顔を上げた時には、いつもの目があった。
「わかりました。作戦を開始します」とロンバルティアは言った。「これ以上の放置は、帝都に残る民への見殺しと同義です。ロートさん、アランさんは城門の突破を。アルビオン、遊撃隊を率いて炎の薄い箇所を探してくれ。防衛隊はもはや機能していない。無理に戦う必要はない。市民の避難路を作ることを最優先にする」
「了解だ」とアランが言った。
「任せろ」とアルビオンが言った。
「ロートさん」ロンバルティアはロートを見た。「必ず、帰ってきてください」
「ああ、きっと帰る」とロートは答えた。「しかし、どういう形で帰ってくるかは、約束できない」
「それでもいいのです。必ず、生きて帰ることだけを約束してください」
「……努力する」ロートはロンバルティアと目を合わせなかった。
軍議が終わり、将兵たちが配置へ向かう中、アルビオンは呼び止められた。
「アルビオン」
ジュノだった。
いつものように銃を肩に担いでいたが、指先が震えていた。声も、少し震えていた。
「包帯、また血が滲んでる」
アルビオンは右腕を見た。ハイラムでグレイドルの一撃を受けた時の傷だった。
「こんなの、ただの擦り傷だ。骨は無事だ」アルビオンは軽く笑った。
「笑い事じゃないよ!」
ジュノの声が跳ね上がった。それから急に沈んだ声になった。目に涙が溜まっていた。
「……怖いの、あたし」
アルビオンは何も言わなかった。
「あなたは、いつも一番前で戦う。魔法の中にも平気で突っ込んでいく。魔剣使いだからって、死なないわけじゃないよ。斬られれば血が出る。焼かれれば死ぬ」ジュノの目から涙が溢れた。「もしこの煙の向こうで、あなたが帰ってこなかったら、あたしどうすればいいかわからない」
「ジュノ…」
「アルビオン、聞いて」涙が止まらなかった。ジュノは続けた。「もういいよ、帝国なんて。ロンバルティアさんだってわかってくれる。二人で、誰も知らない遠くへ行こうよ。静かに暮らそうよ。あなたが剣を置いて、あたしが銃を置いて。それじゃいけないの?」
アルビオンはジュノを見た。
泣いていた。16歳の少女の偽りのない涙だった。
解放軍の戦士とはいえ、まだ少女だった。ジュノは声を上げずに泣いていた。頬を伝う涙を、拭おうともしていなかった。
「ジュノ」とアルビオンは言った。「そのわがまま、本当は俺も聞きたい」
「じゃあ」
「…でも、俺にはできない」
「……なんで?どうして?」
「ロンに約束した」アルビオンは言った。「あいつが背負っているものは、一人で担げる重さじゃない。俺が横にいなければ、あいつは孤立する。それは俺には許せない」
「ロンバルティアさんのためなの?」
「それだけじゃない」アルビオンは言った。「俺が守りたいものの中の一番は、お前だ。お前が笑って暮らせる世界を作るために戦っている。逃げた先には、怯えながら隠れて暮らす日々しかない。お前にそんな思いはさせたくない」
「……それは、今のあたしに戦えってこと?」
「そうじゃない。お前が戦うかどうかは、お前が決めることだ」アルビオンは言った。「ただ、俺は行く。俺はアホだから、自由とか平和とか、ロンみたいに細かいところまではわからない。でも、目の前にいるお前を守る為なら、俺は命を懸けて、戦う」
ジュノは何度か瞬きをした。袖で涙を拭いた。乱暴に拭いた。それから呟いた。
「……もう、バカ」
「俺もそう思う」
「本当に、救いようのないバカ」
「バカで悪かったな」
「じゃあ、約束して」ジュノは言った。「戦争が終わったら、ごはんを一緒に食べよう。あたしが作る。アルビオンが好きなもの、全部作る」
「ああ、約束する」
「絶対だよ」
「絶対だ」
アルビオンはジュノをそっと抱きしめた。一度だけ、強く。
ジュノは目を閉じた。その温もりを、記憶に刻むように。
それから銃を握り直した。
「ごめんね、アルビオン。大好き」と精一杯の笑顔でジュノは言った。「行こう。終わらせてこよう」
「ああ、行こう。ジュノ」
同時刻。帝都ミレーニアを包囲する解放軍の鬨の声が、地鳴りのように響いてきた時。シェルファニール・グランシールは、崩れゆく宮殿の三階、かつて、第一騎士団長の執務室だった場所の窓際に立っていた。
外の景色は、もはや彼女の知る帝都ではなかった。
白亜の家々は黒く煤け、美しく整えられた大通りは兵士と市民の死体で埋め尽くされている。三日前、ハイラムで父グレイドルが戦死したという急報が届いた瞬間から、シェルファの中で「世界」はその色彩を失っていた。
逃げ出す衛兵たちの足音が、廊下を騒がしく駆け抜けていく。
「逃げろ! 魔法が、魔法が暴走しているぞ!」
「あの方は狂った! 街ごと俺たちを焼き殺す気だ!」
絶望的な叫びが幾つも聞こえたが、シェルファの耳には届かない。彼女はただ、窓から見える燃える空を見つめていた。
彼女の中で、何かが決定的に壊れていた。
これまでの人生を支えていた強固な背骨――帝国への忠誠、家門の誇り、第一騎士団副長としての義務。それらすべては、父という唯一の重石を失った瞬間に、砂の城のように崩れ去った。
皇帝アトラス三世は、すでに奥の院で消息を絶っている。毒を飲んだのか、あるいは側近に刺されたのか、それすらもシェルファにはどうでもよかった。
「……何のために、私はここにいるの?」
掠れた声が、喉から漏れた。
答えは、足元から這い上がってくる熱気の中にあった。
怒りだ。
父を、私のすべてであったあの方を討った、ロートリットへの憎悪。
幼年学校の頃から、ロートは常に一歩先にいた。努力を積み重ねるシェルファを、天性の直感と合理性で軽々と追い越していく背中。卒業試験で「施し」のように首席を譲られたあの屈辱の日。南方で名を上げ、東部で英雄となり、ついには反旗を翻して父を殺した「裏切り者」。
「全部、奪っていった……」
シェルファの手のひらから、白い炎が噴き出した。
グランシール家に伝わる『ほのおの魔法』。それは本来、守るべきものを温める慈愛の力だったはずだ。だが、今の彼女が解き放っているのは、すべてを無に帰そうとする破壊の奔流だった。
「お父様を返して、ロート。……返せないなら、貴女もろとも、この汚らわしい世界を焼き尽くしてあげる」
シェルファは、制御という概念を捨てた。
魔力の回路を全開にし、己の魂を燃料として火を焚べた。
炎は、一瞬にして意思を持つ生き物へと変貌した。
宮殿の赤い絨毯が燃え、精緻な装飾が施された樫の木の扉が炭化していく。だが、火の勢いは可燃物を焼き尽くすだけでは止まらなかった。
シェルファの怒りに呼応するように、魔力の熱源は石造りの壁、果ては大気そのものにまで伝播した。宮殿を支える大理石の柱が赤熱し、溶岩のようにドロドロと溶け落ちる。
逃げ遅れた衛兵が、炎の壁に触れた瞬間に一筋の煙となって消えた。それを見ても、シェルファの心には波紋一つ起きなかった。
「……全部燃える。……綺麗」
シェルファはゆっくりと歩き出した。
彼女の歩く先々で、床が弾け、火柱が上がる。炎の継承者である彼女だけが、その地獄の中心で焼かれることなく、死神のような足取りで進んでいく。
父を失ったあの日から、彼女は「一人」だった。
母に邪険にされ、父の期待に応えようと必死に背伸びをし、唯一の親友だと思っていたロートには理解の及ばぬ場所へと行ってしまった。
もう、わたしには誰もいない。誰もわたしを助けてはくれない。
ならば、この寂しさも、この冷たさも、すべてを等しく焼き払えばいい。
シェルファは、帝都の正面門を見下ろす尖塔の最上階へと向かった。
螺旋階段を一段昇るたびに、帝都の火災範囲が広がっていく。宮殿区画を中心に、半径数百メートルが白銀の業火に包まれた。
ほどなくして、攻撃開始の銅鑼が鳴った。
解放軍の軍勢が進軍を開始した。
帝都の城門が近づくにつれ、空気が変わった。熱かった。呼吸のたびに喉が焼けるような熱気だった。足元の石畳が、遠くから見ても歪んで見えた。
「これは普通じゃねえな」とアランが呟いた。
城門の内側から、何かが燃えていた。通常の炎ではなかった。橙ではなく、白に近い色だった。意志を持っているように蛇行し、触れるものを選んで燃やしているように見えた。
先頭部隊が城門を潜ろうとした瞬間、轟音がした。
魔力の余波が、城門の内側から吹き出した。
前列の十数名が吹き飛ばされた。二人が炎の直撃を受け、声を上げる間もなかった。
「止まれ! 散開しろ!」
アランの怒号が響いた。部隊が散った。しかし炎の勢いは衰えなかった。
城門の向こう、炎の揺らめきの中に、人影が立っていた。
深紅の鎧。燃えるような赤い髪。その周囲だけ、大気が歪んでいた。
『来なさい』
彼女の、声が聴こえた。
笑い声が混じっていた。しかし歓喜ではなかった。張り裂けた何かが、笑いの形を借りて漏れ出している音だった。
『解放軍? 正義? 自由? ……お父様も、わたしの心も、何も救えなかったくせに』
シェルファニールの深紅の瞳から、一筋の雫が落ちた。彼女の頬を伝う前に、魔力の熱で蒸発した。
『一人残らず、お父様のところへ送ってあげる。この街ごと、全部灰にして、何もなかったことにしてあげる。そうすれば、もう誰も傷つかなくて済む。そうでしょう?』
両手が広げられた。
炎が大きくなった。
帝都の中心から、白い炎が柱のように立ち上がった。
階下からは、解放軍が城門を突破しようとする怒号が聞こえてくる。
だが、その声もまた、彼女にとっては心地よい「薪」の音に過ぎなかった。
塔の頂上。
激しい熱風が、シェルファの長く赤い髪を狂ったように振り乱していた。
彼女は、地平線から押し寄せる解放軍の軍勢を見下ろした。
先頭に、あの紺碧のマントが見えた。
泥と血に汚れながらも、なお誇り高く翻るテンペストの家紋。
「……来たわね。ロート」
シェルファの瞳が、深紅の魔力で発光した。
彼女は両手を大きく広げた。その動作に合わせて、城門の内側に溜まっていた魔力が一気に爆発した。
城門を潜り抜けようとしていた解放軍の精鋭たちが、一瞬で光の中に飲み込まれた。重厚な甲冑が紙細工のように捻じ曲がり、人間の悲鳴さえも蒸発させるほどの超高熱。
「もっと……もっと来なさい。 足りないわ。 この程度の火では、わたしの中の冷たさは消えない」
シェルファは静かに言った。その声は、笑い声と嗚咽が混ざり合った、この世の終わりのような響きだった。
彼女の視線の先、炎の壁を突き破るようにして、一人の騎士が馬を捨てて駆け寄ってくるのが見えた。
碧紺のマントを顔まで引き上げ、皮膚が焼けるのも構わず突き進んでくる、あの女。
「……ロート。待っていたわ」
シェルファは細剣を引き抜いた。
刃には、彼女の命を削るほどの高密度の炎が宿っている。
これから始まるのは、帝国の存亡をかけた戦いなどではない。
愛し合い、高め合い、そして互いを決定的に壊してしまった「二人の娘」の、救いようのない最期の語り合いだった。
「すべてを捨てて、わたしに会いに来て。……地獄の底で、お父様と一緒に待っているから」
シェルファは満足げに微笑むと、その身をさらに深い炎の渦へと沈めていった。
帝都ミレーニアを焼き尽くす白い炎は、彼女が流せなかった「血の涙」そのものだった。




