第七幕 父とふたりの娘④
第五章 許しと罪
喧騒が引いていった。
ハイラムの平原を埋め尽くしていた怒号も、金属の触れ合う音も、今はこの二人を中心とした円の外へとはじき出されていた。第一騎士団の兵士たちも、解放軍の兵士たちも、武器を構えたまま動かなかった。
ロートは眼下を見ていた。
グレイドル・アルデン・フォン・グランシールが、石畳に膝をついていた。節くれだった大きな手が、地面を支えていた。白髪交じりの髪が、秋の風に揺れていた。
その手を見た瞬間、ロートの中で何かが崩れた。
六歳の記憶が濁流となって帰ってきた。処刑台へ向かう父ゼイラムが最後に自分の頭を包み込んでくれた手の重さ。今目の前にある、泥と血に汚れた老将の手が、あの記憶と重なった。
「お、御屋形様……」
声が震えた。こんなに声が震えたことは、今まで一度もなかった。
「御屋形様、もう、いいのです。これ以上、傷つく必要はありません。医師を呼びます。だから」
「ロート、聞いてくれ」
グレイドルが口を開いた。かつて書斎で戦術を語り合った時と同じ、穏やかな声だった。
「一つだけ、聞いてくれ。この命が尽きる前に、墓場まで持っていってはならぬ話がある」
「だめです、御屋形様。全部、後で聞きます。今は傷の手当を」
「もう、『後で』はない」グレイドルは静かに言った。「わかっているだろう、お前には」
ロートは答えられなかった。
大剣の切っ先が、グレイドルの胸甲を貫いていた。致命の深さに達していた。
グレイドルは痛みを感じていないかのように、ロートを見た。
「十八年前のことを話す」
グレイドルは語り始めた。
エルヴィンが士官学校で反乱を計画していることを、グレイドルが知っていたこと。報告を遅らせたこと。その理由が、ゼイラムへの嫉妬から来ていたこと。ミレーヌへの未練から来ていたこと。
語りながら、グレイドルの声は揺れなかった。十八年間、自分の中で何度も繰り返してきた言葉だった。繰り返すことで、声に出す準備だけは、いつの間にかできていた。
「エルヴィンを死なせたのは、わしだ」とグレイドルは言った。「ゼイラムを処刑台へ送った遠因を作ったのも、わしだ。あの時、一言伝えていれば、反乱はあそこまで大きくならなかった。第五騎士団が動員されることもなかった。ゼイラムが息子を討つ必要もなかった」
平原が静かだった。
「なぜ、ですか」ロートの声は、かすれていた。「なぜ、伝えなかったのですか」
「嫉妬だ」グレイドルは言った。「ゼイラムへの、下らない嫉妬だ。ミレーヌを、お前の母を愛していた。しかし帝国に政略結婚をさせられて、ミレーヌはゼイラムのところへ行った。それを、わしは笑顔で祝福した。しかし心の奥底では、許せなかった。その毒が、十年かけて積み重なって、あの判断になった」
ロートは動かなかった。
「お前を引き取ったのも、最初は罪の意識からだった」グレイドルは続けた。「お前の家族を壊したのはわしだ。だから、せめてお前だけは守ろうと思った。それが唯一の、不格好な償いだった」
「償い…」
「しかし」グレイドルの声が少し変わった。「いつからか、それは償いではなくなっていた。お前が初めて剣を握った日の、震える手。夜中に熱を出して寝込んだ夜、看病しながら眠れなかった夜。お前が書斎に本を借りに来るたびに感じた、お前の目の賢さ。それを見るたびに、わしは心から愛おしいと思うようになっていた。それはもう、義務などという冷たい言葉では縛れないものだった」
グレイドルはロートを見た。
「許してくれとは言わない。エルヴィンのことも、ゼイラムのことも、お前が恨むのは当然だ。ただ、わしが犯した罪を知った上で、それでも、お前には生きてほしかった。……それだけだ、ロート」
ロートは動けなかった。
視界が歪んでいた。
父の最期。兄の死。雪の中に消えた馬車の音。グランシール邸の暖炉の爆ぜる音。コルベルトのアップルパイのシナモンの香り。書斎の本棚と、手控えの冊子。南方に届いた手紙。「どんな結果になっても、わしはお前の側にいる」という言葉。
全部が本当だった。
今語られた罪も、十八年間の愛情も、どちらも本当だった。
二つが同時に本当でありえるということを、ロートの頭は理解していた。人間とは、そういうものだということも、知っていた。
知っていたが、受け取る準備ができていなかった。
頬を、熱いものが伝った。
指で触れた。
涙だった。
六歳で家族を失った日も泣かなかった。グランシール邸の夜に一人で泣いたことはあったが、人前では泣かなかった。地下牢でも泣かなかった。感情を、ずっと抑えてきた。それが『合理』だと思ってきた。
そんな彼女が、今、泣いていた。
「…形様」
声が出なかった。もう一度呼んだ。
「御屋形様」
グレイドルが目を細めた。聞こえていた。
「怒っていますか」とロートは聞いた。「私を、怒っていますか」
「なせ、お前に怒る?」
「こういう形で終わらせてしまったことを。もっと別の選択ができたかもしれないのに、できなかったことを」
「いいや、怒ってはいない」グレイドルは言った。「お前は正しいことをした。わしが、そう育てた」
「御屋形様が育ててくださったから、ここまで来られたのです」
「そうかもしれないし、そうでなかったかもしれない。どちらにしても、お前はお前だ。わしが与えたものより、お前が自分で積み上げたものの方が、ずっと多い」
ロートは大剣から手を離した。
グレイドルの傍に膝をついた。
グレイドルの手を取った。大きな手だった。泥と血に汚れていた。しかし、確かに温かかった。
「御屋形様」
「……なんだ」
「一度だけ」ロートは言った。「呼ばせてください」
「……ああ」
「……お父様」
グレイドルは目を閉じた。
一秒、二秒。
目を開けた。その目が、濡れていた。帝国で最も長く第一騎士団を率いた男が、今初めて人前で泣いていた。
「……よかった」とグレイドルは言った。
「御屋形様、怒らないでください。もっと早く呼べば良かった。一度も呼べなかったのは、私が臆病だったからです。お父様と呼ぶことで、甘えてしまうと思っていた。甘えたら、弱くなると思っていた」
「弱くなっても良かったのだ」
「今までは、わかりませんでした。でも、今はわかります」
「……そうか」
「お父様が育ててくださったことに、感謝しています。罪の意識から始まったとしても、私にとっては、御屋形様はお父様でした。それは変わりません」
グレイドルの手が、ロートの手を握り返した。
力が弱くなっていた。しかし確かに、握り返した。
「ゼイラムに、少し顔向けができる気がする」とグレイドルは言った。「友人の娘が、こういう形で最後に傍にいてくれた。それだけで、十分だ」
グレイドルの呼吸が、少しずつ乱れてきていた。
「お父様、嫌です。まだ、逝かないでください」
「……シェルファを頼む」グレイドルは言った。「あの子は強いが、一人にすると寂しがる。お前が一番よく知っているはずだ」
「シェルファ…」
「……お前は」グレイドルは言った。「誰よりも正直で、誰よりも強い。ゼイラムとミレーヌの子供に、恥じない生き方を、お前はしてきた。それを、ゼイラムに伝えてくる」
「お父様」
「……ああ」
「……ありがとうございました」
グレイドルの手の力が、ゆっくりと抜けた。
ロートの手の上に、重く落ちた。
老将の目が閉じられた。秋の風が、白髪を静かに撫でた。
ロートはしばらく、その手を握ったまま動かなかった。
周囲は完全に静かだった。
第一騎士団の兵士たちが、将軍の死を見て剣を下げて跪いた。号令はなかった。一人が膝をつくと、隣が続き、それが広がっていった。
解放軍の兵士たちも、攻撃を止めていた。
ロートは泣いていた。
声は出なかった。しかし流れ続けた。
六歳の時から、ずっと抑えてきたものが、今ようやく出口を見つけたように流れた。
アランが来た。
後ろに膝をついて、ロートの肩に手を置いた。
何も言わなかった。
何も言わないで欲しかった。
言葉は要らなかった。ただそこにいてくれることが、今のロートに必要なものだった。
ロンバルティアが近づいてきた。
グレイドルを見た。ロートを見た。
少し間を置いて、グレイドルの傍に膝をついた。
「貴殿の事は、母からも聞いています」とロンバルティアは静かに言った。「高潔で、誠実な人物だった、とも」
「……ああ、それは違いない」
「敵でも、味方でも、誠実な人間は誠実だ」ロンバルティアは言った。「この方と第一騎士団への礼を尽くしたい。解放軍として、丁重に葬ります」
「……ありがとう、ロンバルティア」とロートは言った。声がかすれていた。
「……ロートさん」
「……」ロートはロンバルティアに振り向いた。その目には、いつものような力はなかった。
「泣いてもいいのですよ」ロンバルティアは言った。「今夜は泣いてください。明日からのことは、明日考えましょう」
ロートは答えなかった。
涙はずっと流れた。
夕方になった頃、第一騎士団の残存兵士たちが、全員武器を地面に置いた。
自発的な行動だった。誰かが命じたわけではなかった。
将軍が逝った。戦う理由が消えた。彼らにとって、帝国への忠誠よりグレイドルへの忠誠の方が大きかったのかもしれない。あるいは、最後まで自分たちを巻き込まないために炎を使わなかった将軍の選択を、今になって受け取ったのかもしれない。
どちらにしても、戦いはそこで終わった。
ハイラムの広場に、夕闇が降りてきた。
石畳に染み込んだ血の匂いは、秋の風に煽られてもしつこく漂い続けていた。勝利の声はとうに遠くへ去り、残されたのは静まり返った街の輪郭だけだった。
「隊長、飯を食え」
背後からの声は、無作法で、しかし重かった。振り返らなくても分かる。アランだ。
「今は、喉を通る気がしない」
「それでも食え。生き残ったなら、明日のために体を維持するのが兵隊の仕事だ」
「わかっている、わかってはいるが…」
「わかっているなら来い」
アランの手がロートの手首を掴んだ。強引で、温かかった。一人にさせまいとする、この男の不器用な意志がそこにあった。
「……わかった、食うから引っ張るな」
ロートは立ち上がった。砂と血に汚れたマントを、体の震えを隠すように纏い直した。
夜空を見上げた。北の星が、低い位置に瞬いていた。父と見上げ、兄と語り、育ての父に教わったあの星が、地上の惨劇に関わりなく、いつもの場所にあった。
その夜、軍幕の片隅でロートは一冊の冊子を開いた。
擦り切れた革装丁。幼年学校に入学する前の夜、グレイドルから渡されたものだ。孤独に耐えかねた夜、戦略に迷った朝、何度もページをめくってきた。
最後のページに、一行だけあった。
「ゼイラムは死ぬ間際、俺に言った。娘を頼むと」
その文字の下に、小さな染みがあった。経年で色は褪せていたが、インクの滲みではなかった。雫が乾いた紙に吸い込まれた跡だった。
ロートはその染みを、指先で静かに触れた。
この一行を書いた時、あの老将は一人で泣いていた。友を裏切った自責と、託された命の重さを抱えて、一人で。
今日、その老将が語った言葉が、まだ耳に残っていた。
嫉妬から始まった。ミレーヌへの未練から始まった。その小さな毒が積み重なって、エルヴィンの反乱を見て見ぬふりをした。その結果が、ゼイラムに息子を討たせ、ゼイラムを処刑台に送った。
あまりに下らない動機だった。
しかし同時に、十八年間の愛情は本物だった。
罪の意識から始まったとしても、私にとってはお父様でした、とロートは言った。その言葉は嘘ではなかった。今もそう思っている。
ロートは冊子を閉じ、懐にしまった。
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、ロートは眠れなかった。
まぶたを閉じれば、グレイドルに剣を突き立てた瞬間が浮かぶ。大きな体が崩れた時の感触が、手に残っていた。最後に「お父様」と呼んで、グレイドルが目を濡らした場面が、繰り返し来た。
呼べて、良かったと思った。
もっと早く呼べば良かった、とも思った。
どちらも本当だった。
遠くない未来、自分は帝都の前に立つ。
そこにシェルファニールがいる。
父を殺した者として、シェルファはロートを待っているだろう。炎の魔法を纏い、全てを燃やすつもりで立っているだろう。
対話は成り立たないかもしれない。
グレイドルが言い残したことを、シェルファに話しても、届かないかもしれない。届かないとしても、話さなければならない。グレイドルが何を選んで、何を抱えて、最後にどんな言葉を残したか。それを知らないまま、シェルファに終わりを迎えさせることは、できなかった。
一縷の望みがある、とは言えない。
ただ、話す前に諦めることは、ロートにはできなかった。
シェルファを頼む、とグレイドルは言った。
その言葉を受け取った以上、剣を抜く前に言葉を使い切ることが、今のロートに残されたグレイドルへの応答だった。
結果がどうなるかは、分からない。
シェルファの怒りは本物だ。父を殺されたシェルファの痛みは、正当だ。それを論理で否定することは、ロートにはできない。
ただ、歩みを止めることもできない。
ここで止まることは、父ゼイラムへの裏切りであり、罪を背負いながらロートを育てたグレイドルへの侮辱だ。
テンペストの名を、最後まで持って歩く。
それがロートの答えだった。
暗闇の中で、ロートは剣の柄を握った。
鋼の冷たさが、今自分が生きていることを教えてくれた。
北の星は、今もあの位置にある。
嵐の前の静寂が、軍幕を包んでいた。




