第七幕 父とふたりの娘③
第四章 ハイラムの朝
決戦の朝は、晴れていた。
昨夜の雨が嘘のように、秋の空が高く澄んでいた。ハイラム城を望むゼーロウ高地に朝の光が差し込み、両軍の鎧が冷たく輝いた。草原に残る雨の湿りが、靴底に伝わってくる。
解放軍八千が、北側の丘陵から平原に展開した。
南側に、第一騎士団三千が布陣していた。
数の差は歴然だった。しかし、平原に立つ三千の静けさには、数で測れないものがあった。隊列が乱れなかった。旗が風に揺れても、兵の体は動かなかった。三十年かけて育てられた、帝国最精鋭の静止だった。
ロートは解放軍の先頭に馬を進めた。
白い鎧。テンペストのマント。大剣を背に負っている。そして、はためくのは雷光を抱いた鷲の旗。そのもとにロートはいた。
「将軍は最前線だ」と隣に轡を並べたアランが馬上で言った。「後方の本陣ではなく、先頭にいる」
「あの方は、そういう方だ」とロートは言った。
対岸の第一騎士団の旗の下に、白髪交じりの大きな体が見えた。炎を薄く帯びた長剣を持ち、馬の上に静かに座っていた。年齢を感じさせない姿勢だった。
「……アラン」
「なんだ?」
「今日は、どんな形になっても最後まで付き合ってくれるか」
「ふん、そんなの言うまでもない。どこまででも、付き合うさ」
ロートはアランを見た。それだけで良かった。
「すまない、アラン。頼りにしている」
戦闘の火蓋が切られたのは、太陽が地平線を完全に離れた頃だった。
第一騎士団が動いた。
騎馬によるくさびだった。横に広がらず、縦に深く、解放軍の正面中央に向かって一点集中で突き込んできた。グレイドルの用兵は常にそうだった。敵の最も強い部分を、最も鋭い刃で貫く。回避なぞしない。側面を突かない。真正面から錬成された騎兵の突破力で押し割る。
解放軍の正面部隊がその圧力を受けた。
ロートの作戦では、正面を厚く受けながら両翼で包む形を取る予定だった。数の優位で側面から圧縮し、第一騎士団の集中を分散させる。教科書通りの包囲殲滅だった。
しかしグレイドルは、それを予見していた。
くさびが解放軍の正面部隊の中に食い込んだ瞬間、馬上のグレイドルが剣を高く上げた。
炎が来た。
一点から噴き出した火球ではなかった。扇状に、大きく、解放軍の密集した前線部隊全体を包むような炎だった。炎の色が通常の火とは違った。橙と白が混じり、生き物のように動いていた。
前線の一角が、そのまま消えた。
悲鳴が上がる暇もなかった。百人近い兵が、一瞬で炭になった。
後続の兵が恐怖で止まった。止まった兵の密集に、再び炎が来た。
「散れ! 密集するな!」
ロートが叫んだ。声が平原に響いた。
しかし炎の速度の方が早かった。
二波目の炎で、また数十人が倒れた。
解放軍の正面が崩れ始めた。
ロンバルティアが本陣で地図を握りしめていた。表情に焦りが見えた。
「被害報告は」
「正面前衛、二百以上の損害」と参謀が報告した。「炎の魔法が広域に展開されています。密集した部隊への効果が甚大です」
「散開させろ。前衛を薄く広く展開させ直せ。密集すれば標的になる。数を活かすより、魔法の効果を薄くすることを優先しろ」
「しかし散開すれば、第一騎士団のくさびに対する防御力が失われます」
「分かっている。それでも散開させろ。今のままでは炎で焼き尽くされる」
アルビオンが隣で言った。「ロン、本陣を下げるか」
「まだだ」ロンバルティアは言った。「下げれば全体の士気が落ちる。ただし、配置を変える。両翼の騎馬を外側に大きく回らせろ。第一騎士団の後方補給路に圧力をかけながら、正面から魔法を誘導する」
「魔法を誘導する?」
「グレイドル将軍が炎を使う方向は、密集している場所だ。ならば意図的に密集した囮を作り、実際の主力をその周囲に薄く配置する。囮が炎を引きつけている間に、外側の実力部隊が動く」
「しかしそれでは、囮になる兵が死ぬ」
「分かっている」ロンバルティアは目を伏せた。一秒だけ。それから上げた。「それでも作戦を変えなければ、今のままでもっと多くが死ぬ」
平原の中央では、解放軍の再編成が進んでいた。
ロートが前線を駆け回っていた。馬上から指示を出しながら、自ら盾になって崩れかけた防衛線を支えた。
「後退するな! 後退すれば炎の前に押し込まれる! 横に展開しろ、間隔を取れ!」
第一騎士団のくさびが、なおも食い込んでくる。正面からの圧力と、後方からの炎の恐怖。二重の圧力が解放軍の前線兵士の精神を削った。
グレイドルが再び剣を上げた。
三波目の炎が来た。
今度は囮の密集部隊に当たった。囮の兵、七十名が炎に消えた。
しかし外側に展開していた実力部隊が動いた。炎が放たれた直後のグレイドルの隙を狙い、両翼から急速に圧縮をかけた。
第一騎士団の側面に、初めて有効な圧力がかかった。
戦闘が中盤に入った頃、第一騎士団の様相が変わった。
数の差が、じわじわと効いてきていた。
炎の魔法は強力だった。しかし無尽蔵ではなかった。グレイドルが放つたびに、その間隔が少しずつ長くなっていた。魔力の消耗だった。
解放軍の両翼が第一騎士団を包み込む形になってきていた。くさびで突き込んでいた第一騎士団の前進が止まった。圧縮された。
それでも、彼らは崩れなかった。
第一騎士団の兵士たちは、包囲されながらも隊形を保っていた。後退しなかった。逃げなかった。三十年、グレイドルが育てた兵士たちは、囲まれた状況でも戦い続けた。
ジャンが馬を駆りながらロートに言った。「すごいな、あの人たちは。包囲されているのに、顔が変わらない」
「誇りがあるからだ」とロートは言った。「あの騎士団は、プライドで動いている。帝国が腐敗しても、自分たちが正しいと信じることをやめなかった。それが今も足を止めさせない」
「それは、勝てないということですか」
「いや、勝てる。しかし、簡単には崩れない」
グレイドルは戦闘の中で、状況を把握していた。
包囲されている。魔力が消耗している。数の差は覆しようがない。
それでも止まらなかった。
止まれば終わりだから、ではなかった。
止まることが、違うと思ったからだ。
三十年、この騎士団を育てた。この兵士たちと共に戦ってきた。その積み重ねが、今日ここにある。最後まで、この場所で立つことが、自分にできる唯一の誠実さだとグレイドルは考えていた。
炎をもう一度使おうとして、止めた。密集した今ここで使えば、団員にも被害が出る。
外側の兵士たちを見た。解放軍に囲まれながら、それでも隊形を保っている騎士たちを。第一騎士団は貴族の出身の者がほとんどだ。本来ならば戦わなくてもいい身分でもある。しかし、今ここにいる者たちは自らを鍛え、高め、この戦場に立っている。帝国を、グレイドルを『正義』だと信じているからだ。
この者たちを、炎で終わらせることはできない。
グレイドルは炎を噴き上げる自らの剣を構えた。
魔法は使わない。最後はこの剣一本で行く。
「第一騎士団!」
グレイドルの声が平原に響いた。
「本陣を突く! わしについてこい!」
それが、第一騎士団最後の突撃だった。
包囲の中でグレイドルの駆る青鹿毛の馬を先頭に、縦列が疾走した。外側の包囲を突き破り、解放軍の本陣に向かって一直線に突き進んだ。
包囲の壁を、グレイドルの剣が開いた。一人、また一人、解放軍の兵が弾き飛ばされた。年齢を感じさせない力だった。騎士としての鍛錬が体の芯に宿った、本物の剣だった。
解放軍の前線が乱れた。
第一騎士団の縦列が、本陣に向かって伸びた。
ロンバルティアの本陣に、報告が飛び込んだ。
「第一騎士団、本陣に向けて吶喊! グレイドル将軍を先頭に、解放軍の前線を突破しつつあります!」
「距離は?」
「間もなくです!……二百メートルを切りました!」
アルビオンが漆黒の剣を抜いた。「俺が行く!」
「待て!」ロンバルティアは言った。地図を手放した。「人数は」
「縦列で、百前後。ただし将軍が先頭を切っているため、前の兵が吹き飛ばされています。実質、将軍一人が道を開いている状態です」
「囲むんだ。本陣の周囲の全員を使って囲め。将軍を一点に集めるな、分散させながら足を止める」
「囲んでも、将軍の炎が!」
「炎はもう来ない」ロンバルティアは言った。「将軍は今、炎を使っていない。魔力が尽きたか、使わない選択をしたか、どちらかだ。今の将軍は剣だけで戦っている。囲めば止まる」
参謀が動いた。
しかし、すでに遅かった。
その瞬間、本陣の前方で爆発的な音がした。
第一騎士団の縦列が、本陣の外壁を突き破っていた。
ロンバルティアの前方、五十メートルの距離に、グレイドルが馬上に立っていた。
周囲の護衛が応戦した。しかしグレイドルの剣が、次々と兵を跳ね飛ばした。護衛の数が減っていった。
三十メートル。
二十メートル。
グレイドルの剣がロンバルティアに向いた。
これまでか。ロンバルティアの背中を冷たい汗が流れた。
将軍が、駆ける。一気に距離が縮まった。
「ロン!」
アルビオンが叫んで飛び込んだ。グレイドルの剣の軌道に入り込み、暗黒の刃で受けた。
すさまじい金属音と、一瞬の衝撃。一撃を受け、ニ撃目でアルビオンは弾き飛ばされた。ジュノが小さく悲鳴を上げた。
グレイドルの剣がまたロンバルティアに向いた。
「終わりだな、反乱軍よ」
炎を纏った長剣が、馬上でひときわ大きく輝いた。大きく振りかぶる。
その時。
白い鎧が飛び込んできた。
ロートだった。
馬から飛び降りて、グレイドルとロンバルティアの間に体ごと入った。大剣を横に構えて、グレイドルの斬撃を受けた。
衝撃が全身に走った。腕が限界まで痺れた。それでも弾かなかった。受け切った。
二人が静止した。
グレイドルが、ロートを見た。
ロートが、グレイドルを見た。
周囲の戦闘が、この一点を中心として、自然に間が空いた。
「来たか、ロート」とグレイドルは言った。
声は静かだった。戦場の中にいるとは思えない、落ち着いた声だった。
「はい、御屋形様」
「甥を守ったな」
ロートは、大きく後方に吹き飛ばされ、地に伏したアルビオンに視線を送った。
「心配するな。さっきの子供は殺してはおらん」
「アルビオン!」と後方からジュノの涙声がした。「生きてる!よかった……!」
「……いい動きだったぞ、魔剣使いよ」グレイドルは少し目を細めた。
それからグレイドルはロートを見た。白い鎧、テンペストの青いマント。澄んだ目の光は変わっていなかった。
「御屋形様、どうか、お考え直しを」
グレイドルは長剣を正眼に構えた。
「退くつもりは、ない」
「……なぜ、そこまで」ロートも大剣を構えた。
「お前が来たということは、ここで決着をつけるということだな」
「御屋形様が望むなら、そうします。しかし」ロートは言った。「最後にもう一度だけ、言わせてください。退いてください。御屋形様が退けば、第一騎士団は生き残る」
「第一騎士団を生かすために、わしが退くか」グレイドルは言った。「しかしわしが退けば、兵士が残る。残った兵士は、皇帝の次の命令で動く。それがどういう命令かは、お前にも分かるだろう」
「解放軍が守ります」
「解放軍に帝国全土を守る力があるか。今はまだない。この戦いが終われば、次の戦いがある。次の戦いが終われば、また次がある。その間に、兵士の命がどう使われるか」
ロートは少し間を置いた。
「それは、御屋形様が前に立ち続けることで解決できる問題ではありません」
「そうかもしれん」グレイドルは認めた。「しかし、今のわしにはここで立つことしかできない」
「なぜです」
「お前に説明できる言葉が、わしには見つからない」グレイドルは言った。「ただ、騎士として、ここで立つことが正しいと思っている。それだけだ」
「御屋形様」
「来い、ロート。手を抜くな」
グレイドルが踏み込んだ。
重かった。
五十代後半の体とは思えない踏み込みだった。三十年の鍛錬が、体の芯に宿っていた。長剣が横に薙いできた。
ロートは一歩後退して受けた。大剣の腹で受け流し、体の向きを変えて衝撃を逃した。
「まだ手を抜いているな」とグレイドルは言った。
「抜いていません」
「お前の一撃は、こんなものではないはずだ。来ないのなら、こちらからいくぞ」
グレイドルがまた動いた。
今度は上段から来た。ロートは横に跳んで、大剣で受けながら体を回した。グレイドルが追ってきた。連続した攻撃だった。一撃目、二撃目、三撃目。
ロートは全て受けた。
カウンターを返さなかった。
「なぜ返さない」とグレイドルは言った。打ちながら言った。「受けるだけでは押し切られるぞ」
「……御屋形様を傷つけたくない」
グレイドルの動きが、一瞬止まった。
長い年月、多くの者と戦ってきた。その誰も、こういう言い方をした者はいなかった。
「第一騎士団長・赤炎のグレイドルも、舐められたものだな」とグレイドルは皮肉めいて言った。
グレイドルは攻め続けた。
ロートは受け続けた。
四度目の攻撃で、グレイドルの動きに微かな乱れが生じた。
体力の問題ではなかった。精神の揺らぎが、長年鍛えた体の動きに伝わっていた。
ロートは見た。
攻撃の隙間に、グレイドルの目が一瞬だけ揺れた。
その目は、ロートを見ていた。
戦場の敵ではなく、ロートを見ていた。
十八年間見てきた、育ての娘を見ていた。
それが、ロートの体を動かした。
感情ではなく、戦士の本能として。
大剣を横薙ぎに払った。グレイドルの長剣を弾き飛ばした。金属が跳ぶ音がした。
そのまま踏み込んだ。グレイドルの体に肩からぶつかった。大きな体が崩れた。
ロートが下から突き上げた。
彼女の大剣が、紅い鎧の隙間を貫いた。




