第七幕 父とふたりの娘②
第二章 グレイドルの内側
ハイラムの城塞、主塔の最上階にある執務室。
分厚い石壁に囲まれたその部屋で、帝国軍総司令官グレイドル・アルデン・フォン・グランシールは、ただ独り、沈黙と対峙していた。
机の上には、戦術地図の代わりに三通の手紙が、届いた順に並べられている。
一通目は、かつての戦友のような。二通目は、忠義を重んじる騎士のような。そして三通目は――幼い日の面影を残したままの、愛娘としての声だった。
グレイドルは最後の手紙を手に取った。己の指先ががわずかに震えるのを感じた。
思い出す。ふたりの娘との書斎での読書。ふたりの娘が並んで眺めた星空。ふたりの娘とともに味わう温かいアップルパイの香り。
それらはすべて、彼が「帝国」という冷徹な機構の一部として生きる中で、唯一、人間としての体温を感じられた時間だった。混沌とした帝国内での謀略と、誰が敵で誰が味方かわからない憎悪と嫉妬の渦の狭間で、日々精神を削り取られていた魂が、唯一安らげる安息の場所だった。
ふと、窓の外を見れば、遠く平原の端に、解放軍の陣火が星屑のように瞬いている。
「ミレーヌ……あの子は、お前に似て、誰よりも優しく、そしてゼイラムに似て、誰よりも頑固に育ったようだぞ……」
グレイドル・アルデン・フォン・グランシールの掠れた声は、激しさを増す雨音に消された。
手の中にある三通目の手紙――幼い日のアップルパイの香りや、共に星を見上げた夜の思い出が綴られたそれは、彼の鎧の隙間から染み出す冷たい汗よりも重く、彼の心臓を締め付けていた。
脳裏に、十八年前のあの光景が、地獄の底から這い上がってくる泥のようにまざまざと蘇る。
帝国歴三百二十一年、冬。
帝都の空は、呪われたように低く、灰色の雪が舞っていた。
処刑台へと続く石段。その上に立たされたのは、かつて共に戦場を駆け、命を預け合った無二の親友、ゼイラム・ヴィンド・フォン・テンペストだった。
断頭の刃が落ちる音。鈍い衝撃。
雪の上に、あってはならない「色彩」が広がった瞬間、グレイドルは崩れ落ちるように膝をついた。戦場では何万という屍を数えてきた。返り血を浴びて食事をすることも厭わなかった。だが、その日、首のない親友の身体が処刑台に横たわっているのを見た時、彼は人目を憚らず何度も胃液を吐き戻した。
それは悲しみによるものではなかった。
――自分が彼を殺したのだという、逃げ場のない「加害者としての自覚」による拒絶反応だった。
グレイドルは、ゼイラムの処刑後、連座して処刑されるはずだった幼い娘、ロートリットを救った。第一騎士団長という地位に与えられた絶大な『恩賞』をすべて差し出し、皇帝に膝を折って助命を請うた。
世間はそれを「親友の遺児を救った美談」と讃えた。だが、その慈悲の裏側には、血を吐くような卑怯な罪の意識が横たわっていたのだった。
始まりは、ほんの小さな『嫉妬』という名の、黒くちぎれた感情。
ミレーヌ・フランソワ・フォン・エギーユ。
彼女はグレイドルの幼馴染だった。平民に近い下級貴族の娘。けれど彼女の笑い声は、堅苦しいグランシール家の屋敷に唯一差し込む陽光だった。二人は将来を誓い合っていた。若き日のグレイドルにとって、騎士としての名誉など、彼女を守り、共に歩むための手段に過ぎなかった。
しかし、帝国はそれを許さなかった。グランシール家は皇帝の一族に次ぐ名門中の名門。政略結婚という名の「取引」により、彼は愛など微塵もない、高位貴族の女性を娶らされた。家名を守り、血脈を繋ぐための義務的な生活。そこに愛情が芽生える余地はなかった。
対照的に、親友のゼイラムは、グレイドルの結婚から数年後、独り身となっていたミレーヌと結ばれた。
「おめでとう、ゼイラム。お前なら、安心して彼女を任せられる」
あの日、グレイドルが浮かべた祝辞の笑みは、人生で最大の嘘だった。
心から愛した女性が、自分には手が届かなくなった宝物が、よりにもよって最も信頼する親友の腕に抱かれる。それを「正しい」と思おうとすればするほど、彼の心の奥底には、自分でも気づかぬうちにどす黒い澱が溜まっていった。
さらに、嫉妬に油を注いだのは「継承」だった。
ゼイラムは優秀な息子、エルヴィンを授かった。生まれながらにして『いかづちの魔法』の素質を持ち、聡明で、誰もが振り返るようなカリスマを纏った少年。
一方、グレイドルにはなかなか子ができなかった。ようやく授かった娘シェルファニールは、確かに愛らしかった。しかし、後継の息子を望んでいた妻は、シェルファを「失敗作」のように扱い、邪険にした。
エルヴィンが十歳で幼年学校の門を叩いたその年、ゼイラムに二番目の子、ロートリットが生まれた。
その報を聞いた時、グレイドルの胸に浮かんだのは「祝福」ではなく、「また負けた」という卑屈な敗北感だった。
(なぜ、あいつだけが。なぜ、あいつは俺のミレーヌと、理想の家族を作っている……?)
ミレーヌは、ロートリットが三歳の時に帝国を襲った流行り病で世を去った。グレイドルの妻も、ほぼ同じ時期に同じ病で亡くなった。
ゼイラムは憔悴し、墓前で泣き崩れていた。だが、弔問に訪れたグレイドルの心は、奇妙なほどに冷え切っていた。
(お前はミレーヌと、一秒でも長く結ばれたではないか。それだけで、お前の人生は満たされていたはずだ。何をこれ以上、嘆く必要がある)
それは、親友を恨むことでしか自分の欠落を埋められない、弱き男の傲慢だった。
その後、ゼイラムの息子エルヴィンは、士官学校始まって以来の秀才として頭角を現した。戦術眼、魔法の才、そして何より、兵士や民衆の心に寄り添う優しさ。その完璧な若者の姿は、第一騎士団長として『皇帝の目』を担うグレイドルにとって、眩しすぎた。
エルヴィン・テンペストが、圧政に苦しむ民草のために立ち上がろうとしている――。
その不穏な情報を、グレイドルはエルヴィンが士官学校三年生の時に、すでに掴んでいた。本来ならば、即座にゼイラムに伝え、あるいは軍務局へ報告し、芽のうちに摘み取るべき案件だった。
だが、グレイドルはそれを放置した。
(学生どもの武装蜂起など、大したことにはなるまい。少し暴れて、あの完璧なゼイラムを困らせるがいい。親の顔に泥を塗ってやれ)
そんな、取るに足らない嫌がらせのような気持ちが、報告書を隠蔽させた。
しかし、運命はグレイドルの計算を嘲笑った。
エルヴィンの指揮と『いかづちの魔法』は、帝国の築く防衛線を次々と突破し、反乱は半年も続く未曾有の大動乱へと発展してしまった。一部の民衆もエルヴィンを支持し、さらなる長期化が予想された。
慌てふためいた帝都の貴族たちは、議会で最悪の上奏を行った。
「騎士団を鎮圧に向かわせろ。これ以上の暴動を許すな。反乱軍の主力はテンペストの血筋だ。ならば、その掃討は、父親であるゼイラムの第五騎士団にやらせればいい。子の不始末は親が取るべきだ」
その決定を耳にした瞬間、グレイドルは全身の血が引いていくのを感じた。
自分の小さな、あまりに下らない嫉妬が、親友の家族に「親殺し、子殺し」という修羅の道を用意してしまった。
第五騎士団の出撃。ゼイラムの用兵は巧みだった。反乱軍は一週間ほどで瓦解した。
その戦場で、ゼイラムはエルヴィンを討ち取った。
愛する息子を、自分の手で。
その直後、ゼイラム自身も、反逆の首謀者を出した家門の長として、連座の刑に処された。
今際の時、ゼイラムは何も言わなかった。
ただ、「娘を、ロートを頼む」とだけ言って、小さく微笑んだ。
ゼイラムの青く透明な瞳が、全てを見透かしていたようにグレイドルを見た。
すべて、俺のせいだ。
俺が、あの時、一言伝えていれば。
俺が、ミレーヌの面影を追って嫉妬などしなければ。
俺が、ゼイラムとエルヴィンを……親友の家門を、殺してしまった。
ロートリットを引き取ったあの日。幼い彼女の目を見て、グレイドルは誓った。
自分はもう一生、幸福になってはならない。
この子を立派な騎士に育てること、テンペストの名を再興させること、それがミレーヌへの、そしてゼイラムへの、唯一の不格好な償いなのだと。
だが。
共に暮らすうちに、ロートリットという少女は、いつの間にか「罪滅ぼしのための器」ではなくなっていた。
彼女が初めて剣を握った日の震える手。
夜中に熱を出して寝込んだ彼女を看病した、あの心細い夜。
「御屋形様」と彼女が呼び、自分を本当の父のように慕ってくれるたびに、グレイドルの心は救われ、そして同時に、自らの罪の深さに焼かれた。
あの子が成長し、透明な瞳で自分を見つめるたび、彼は自問した。
(俺のような汚れた男を、お前は父と呼ぶのか? 俺はお前のすべてを壊した男なのだぞ)
蠟燭の光が窓に揺れる。
深紅の瞳に、決意が宿っていた。
かつての兄と同じように、民のために立ち上がったロートリットを、自分はまた「敵」として迎え撃たねばならない。
皇帝の手元には、シェルファニールがいる。
自分がここで矛を収めれば、実の娘が処刑される。だが、ロートリットを殺せば、彼はまたしても親友の血を絶やし、ゼイラムとの約束を裏切ることになる。
グレイドルは、雨に濡れた手紙を胸当ての奥に押し込んだ。
彼の目から零れたのは、雨水だったのか、それとも十八年分の懺悔の涙だったのか。
「すまぬ、ゼイラム。わしは結局、最後まで英雄にも、冷酷な軍人にもなりきれなかった……」
彼は壁を叩き、全軍へ向けて、悲痛な、しかし腹の底から絞り出した咆哮を上げた。
「第一騎士団、前へ! 帝国最後の壁として、その身をもって受け止めるぞ!!」
グレイドルの手から放たれた魔力の火花が、雨空を赤く染めた。
それは、かつて愛した女性に、そして死なせた親友に宛てた、最後にして最大の後悔の合図であった。




