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第七幕 父とふたりの娘①




第七幕 父とふたりの娘




第一章 最後の壁




 秋の長雨が、ハイラムの街を叩き続けていた。


 帝都ミレーニアまで、二日の距離。かつて「帝国の真珠」と称えられたこの第二都市は、東西の街道が交差する繁栄の象徴だった。今は解放軍の本陣が北側の丘陵に展開し、南の平原には第一騎士団が布陣を固めていた。


 天幕の中央に広げられた軍用地図の上で、蝋燭の炎が揺れていた。雨水が天幕の端を伝って滴り、石畳に静かな音を立てた。


 その音が、場の重さを余計に際立てていた。


 地図の一角、帝都へと続く最後の平原に、深紅の駒が並んでいた。


 帝国第一騎士団。


 建国以来、一度として敗北を知らなかった軍勢。他の五つの騎士団が次々と崩れていく中で、ただ一つ残った帝国の柱。


 第二騎士団の「氷」ことヴァイクス将軍は、遊撃戦での独断撤退を不忠と見なした皇帝によって、弁明の機会すら与えられず帝都の処刑場に消えた。腐敗の果てに、皇帝は有能な将軍から順に切り捨てていた。


 第四騎士団の「土」ことボーデン将軍は、泥沼の遊撃戦の中で行方不明になった。生存の報告はなく、暗殺されたという噂が解放軍の内部でも囁かれていた。部下に慕われた将軍の末路としては、あまりに惨かった。


 第六騎士団はいつの間にか消滅していた。どこにも情報が無かった。解散したとも、自壊したとも言われていた。解放軍の情報を持ってしても誰もその真相を掴めなかった。


 六つの騎士団は、こうして解放軍の猛攻と、帝国内部の自滅によって崩れていった。

 残されたのは、グレイドル・アルデン・フォン・グランシール率いる第一騎士団のみだった。




 解放軍の前線基地。素朴だが剛健な天幕の中で、ロンバルティアが口を開いた。


「第一騎士団の残存兵力、およそ三千」地図の駒を指で押さえながら言った。「布陣はハイラムの南側、オーデル川を背にした形です。川を背にするということは、退路を自ら断っている。撤退しないという意思表示です。副官のシェルファニールさんは帝都ミレーニアの防衛司令として残留しているようです。となると、この平原で我々を待ち構えているのは…」


「……御屋形様だ」


 ロートが言った。声が掠れていた。しかし、その一言の重さは、天幕の全員に届いた。

 青い瞳が地図の駒を見ていた。穴が開くほど、見ていた。


「グレイドル将軍の用兵に、籠城という選択はない」とロートは続けた。「敵の最も強い瞬間に、その中心を正面から砕く。それがあの方の戦い方だ。数に劣しても、そうする。それを三十年続けてきた方だ」


「数的には、こちらが圧倒している」とアルビオンが言った。腕を組んで地図を覗き込んだ。「解放軍は八千。向こうの倍だ。正面を厚く固めて、左右から包囲すれば、どれだけ精鋭でも数には勝てない。理屈の上では、明日の昼には終わる話だ」


「通常の相手ならばな」


 アランが冷えた声で言った。


「相手は『ほのおの魔法』のグレイドル将軍だ。密集した陣形は、あの将軍の魔法にとって最も効果的な標的になる。囲めば囲むほど、一度の炎で消える命が増える」


「報告によれば」とロンバルティアが言った。「かつての会戦で将軍は、一個大隊の重装歩兵を一瞬で消し炭にしたとあります。数で押せば押すほど、こちらの損害が跳ね上がる。それは単純な包囲戦では対処できない問題です」


「魔法ってのは、そんなにすごいものなのか」アルビオンが呟いた。


「僕の父、エルヴィンが操った『いかづちの魔法』もそのくらいの威力があったと聞いている」


「そんだけの威力があって、なんで前の解放軍は負けたんだ」もっともな問いだった。


「力があっても、使いどころを誤れば意味がないってことだよ、アルビオン」


 ロンバルティアの言葉に、ロートが不意に顔を上げた。


「そうだ。しかし、あの方は使いどころを誤らない。だから三十年、第一騎士団の頂点に立ち続けた。私はその戦い方を間近で見てきた。勝てないという意味ではない。しかし、正面から当たれば、解放軍に大きな損害が出る。それは確かだ」


「ロートさん」とロンバルティアが言った。「明日の決戦、どう考えていますか」


 ロートは天幕の入口を向いた。外で降りしきる雨が、地面を叩く音が聞こえた。


「まず、使者を送る」


 場が静まった。


「降伏勧告ではない。対話を求める手紙だ。一度で応じなければ、二度送る。二度で駄目なら、三度送る」


 アルビオンが目を剥いた。「本気かよ、ロートさん。明朝には開戦の時機が来る。相手は第一騎士団だぞ。あんたが一番よく分かっているはずだ。話し合いが通じる相手と思えない」


「それでも送る」


 ロートの声が、雨の音を切った。


「御屋形様は、狂った皇帝に盲従しているのではない。帝国という概念そのものに忠誠を誓っている。秩序を、法を、この国の形を守ろうとしている。しかしその帝国は今、法を失い、証拠もなく将軍を処刑し、功臣を捨て駒にしている。その現実を、あの方に伝えなければならない。伝える義務が、私にはある」


「伝えたところで、将軍が動くと思うか」アランが低い声でロートに問うた。


「動くかどうかは分からない」とロートは言った。「しかし、全ての手を尽くした上でなければ、私はあの方に剣を向ける理由を、自分の中に見出せない」


 天幕の中が静かになった。


 ロンバルティアが言った。「ロートさん、この決戦はあなたが無理に出る必要はありません。指揮は僕が引き受けます。甥として、叔母であるあなたを、育ての親と戦わせる真似はしたくない」


「その申し出はありがたい。だが、断る」


 迷いのない瞳でロートは、ロンバルティアを見た。


「これは御屋形様と私の問題だ。他の者に背負わせることはできない。あの方の前に立ち、その言葉を受け、その炎を正面から受け止めるのは、私にしか許されていない」


「感情が判断の邪魔をする可能性があります」とロンバルティアは言った。声は冷静だった。しかし冷酷ではなかった。「戦場で情愛を重しにすれば、沈むのはロートさんだけではない。解放軍全員の命が、その迷いに引きずられる」


「邪魔をするかもしれない」とロートは認めた。「あの方を前にすれば、私の合理性は簡単に揺らぐだろう。しかし」


 胸に手を当てた。


「感情を切り捨てて機械のようにあの方を討つことは、私にはできない。そんな形の勝利を、兄上の意志が求めているとは思えない。心の曇りも含めて、私が背負う。それが私の決断だ。頼む、ロンバルティア。私に行かせてくれ」


 天幕の蝋燭が、風もないのに一度大きく揺れた。


 ロンバルティアはしばらく黙っていた。


「……分かりました」と彼は言った。「ロートさんに任せます。しかし条件が一つあります」


「条件とは」


「三度目の使者が戻るまで、僕たちは軍を動かない。しかし三度目の使者が拒絶されれば、その時点で僕の判断で全軍を動かします。ロートさんの個人的な情愛が、解放軍の兵士たちの命より重くなることを、僕は許可しません」


「……ああ。それでもいい」


 ロートは深く頭を下げた。


「感謝する、ロンバルティア」





 解放軍の八千を超える軍勢が、第二都市ハイラムを遠くに望む「ゼーロウ高地」に差しかかった頃。


 ロートリット・テンペストは、自らの天幕で最初の手紙をしたためていた。


 羽ペンの先が羊皮紙を叩く音だけが、天幕を撃つ雨音に混じって響く。彼女は軍人としての体裁を捨て、ただ一人の教え子として、かつての恩師へ言葉を紡いだ。


「御屋形様。私です、ロートです。

 あえて不躾な問いを投げます。今、この平原で私たちが血を流し合うことに、どのような合理性があるのでしょうか。御屋形様が守ろうとしている帝国の『秩序』と、私たちがこの旗の下に求めている『自由』は、根底では同じ地平を目指しているはずです。

 狂った皇帝の疑心に殉じることは、騎士道ではありません。どうか、剣を抜く前に、対話の場を設けてください。

 ――ロートリット・テンペスト」


 最精鋭の伝令がこの手紙を携え、第一騎士団の陣へと消えていった。


 返事が戻ってきたのは、翌日の夕刻だった。届けられた紙には、懐かしい、しかし以前よりどこか角が取れ、微かに震える筆跡があった。


『ロートよ。お前が息災で、そして立派な軍を率いる将となったこと、まずはそれを確認できただけで、老い先短いわしには十分な報酬だ。

 だが、答えは一つ。わしは皇帝に忠誠を誓ったのではない。帝国の「礎」を成す法と軍規に、この身を捧げると誓ったのだ。勅命がある限り、わしは動かぬ盾としてここに立ち続ける。

 会談には応じられん。情を捨てよ。わしを討たねば、お前たちの時代は来ぬ。どうか、妥協なき「敵」として、わしを踏み越えて行け。

 ――グレイドル』


 ロートはその返信を読み終えると、一度だけ深く目を閉じた。


「……御屋形様らしい。あまりにも、あの人らしい拒絶だ」


「隊長、もう十分だろう。あの人は自分を『帝国の壁』として完成させようとしているんだ」


 アランが、苦々しく吐き捨てた。だが、ロートは再びペンを執った。


「まだだ。もう一度、送らせてくれ」



 ハイラムまであと二日。


 周囲の木々は秋の深まりとともに赤く染まり、まるでこれから流れる血を予感させているようだった。ロートは、感情の堰を切るように二通目の手紙を書き上げた。


「御屋形様。再度の不敬を許してください。

 あの日、十五年前の燃える帝都で、行き場を失った逆賊の娘を拾い上げ、グランシール邸へ連れて行ってくださったのは貴方です。帝国中が私を殺せと叫ぶ中、貴方が私の盾となり、テンペストの名を絶やさぬよう育ててくださった。

 今の私がここに在るのは、御屋形様の慈悲があったからです。その貴方に、どうして私が大剣を振り下ろせましょうか。私の剣は、貴方を守るために磨いてきたものです。どうか、これ以上の沈黙をやめ、心を開いてください。

 ――ロートリット・テンペスト」


 返信は、数時間後という異例の速さで戻ってきた。そこには、軍人としての仮面が剥がれ落ちた、一人の「父親」としての苦悩が滲んでいた。


『ロート。お前がそう言ってくれることを、わしは生涯の誇りに思う。わしの人生に意味があったとするなら、それはお前という娘に出会えたことだ。

 だが、わしには降伏という選択肢はない。わしがここで膝を屈すれば、帝都に残る者たちがどうなるか、お前なら分かるはずだ。

 ……降伏できぬ「理由」がある。それを話せる機会が、いつか訪れることを願っている。だが今は、ただ一兵卒として、死力を尽くしてわしを越えていけ。それが、わしへの最大の報恩だと心得よ。

 ――グレイドル』


 手紙を持つロートの手が、微かに震えた。


「……降伏できぬ理由、か。御屋形様、なぜそこまで…」


「それがわからん隊長ではないだろう。シェルファニールのことだ」


 低い声で指摘する。シェルファニールは現在、帝都で近衛兵たちの監視下にある。グレイドルが叛旗を翻せば、人質となっている彼女の命はない。


 息をついて、アランは続けた。


「もっとでかい理由がある。それは『帝国第一騎士団』という枷だ。第一騎士団はグランシール家を筆頭に、主だった上級貴族の子弟で構成されている。平民ばかりの解放軍とは考え方が違う。ロンバルティアは誰もが平等な世界を望んでいるが、彼らはそうじゃない。平民と手を組むくらいなら、『高潔な貴族』のまま、戦場で潔く散る、って考えだ。将軍一人で戦いをやめておしまい、ってわけにはいかんのだろう。違うか?」


「シェルファと兵士たちを守るため、か。……でも、だからこそ、私は送り続けなければならない。三度目を」



 ハイラムの城壁が地平線の向こうに、不気味な巨体として現れた日。


 第一騎士団の深紅の軍旗が、秋風を孕んで勇壮にはためいているのが見えた。


 ロートは、最後の手紙を書いた。それはもはや戦術的な交渉でも、恩義の確認でもなかった。



「お父様。

 これが、最後の手紙になるかもしれません。

 私は、貴方を実の父だと思って生きてきました。父ゼイラムの親友であったから私を助けたのだと、貴方はいつも仰っていました。でも、それだけではない何かを、私はずっと感じていました。

 寒かった冬の夜、貴方の書斎で黙々と本を読んだこと。シェルファと二人、眠い目をこすりながら夜の庭で北極星を探したこと。キッチンから漂ってきた、コルベルトのアップルパイの優しくて甘い香り。そして、貴方が南方で戦う私のためにわざわざ送ってくださった、テンペスト家の紋章のマント。

 すべてを覚えています。すべてが、私の大切な宝物です。

 お願いです、お父様。私は、貴方を殺してまで手に入れる未来など、欲しくはないのです。……どうか、どうか。

 ――貴方の娘、ロートリットより」



 手紙を送り出してから、時計の針が刻む音が、死刑判決へのカウントダウンのようにロートの神経を逆なでした。




 一時間。




 三時間。




 夜が明け、朝が来た。


 だが、第一騎士団の陣から伝令が来ることはなかった。


 返事は来なかった。


 ロートは、灰色の空を見上げた。目元を熱いものが掠めたが、彼女はそれを拭うことすらしなかった。



「……返事はないのか」


 アランが、沈痛な面持ちで尋ねる。


「返事の代わりに、あの方は『覚悟』を掲げた。見ろ」


 ロートが指を差した先には、ハイラムの城壁の上に、グランシール家の燃えさかるグリフォンの巨大な紋章旗が、誇らしげに、そしてあまりに残酷に翻った。それは、言葉による対話の終焉を告げる、無言の宣戦布告だった。


「御屋形様……」


 ロートは自らの大剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。


「……わかりました。それが御屋形様の選んだ『愛』ならば、私は私の『愛』をもって、それを真っ向から打ち砕きましょう」


 彼女の碧紺のマントが、風に激しく鳴った。


 透明だった彼女の瞳に、覚悟の火が灯った。育ての父と、その愛娘。血よりも濃い絆で結ばれた二人が、歴史という名の無慈悲な舞台の上で、ついに刃を交える瞬間が訪れようとしていた。


 解放軍全軍に、開戦の号令が下ったのは、その数分後のことだった。






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