第六幕 剣の行き先④
第四章 投獄
帝都ミレーニアの巨大な城門をくぐり抜けた瞬間、ロートリット・テンペストは自らの肌を刺す異質な空気を感じ取った。
三年前の凱旋、あの熱狂と歓喜に沸いた大通りには、今や人っ子一人いない。広大な石畳の道は、まるで巨大な墓標のように沈黙し、立ち並ぶ家々の窓はことごとく閉ざされている。その異様な静寂を切り裂くように、規則正しく重厚な金属音が近づいてきた。
現れたのは、帝国の正規騎士団ではない。皇帝直属の「近衛兵」の一団だった。彼らの纏う漆黒の甲冑は、鈍く黒ずんだ光を放ち、周囲を威圧している。
「第五騎士団団長、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト」
近衛兵の隊長が、感情を排した声で宣告した。その手には、皇帝の印章が捺された召喚状がある。
「北東部における独断専行、並びに勅命違背の疑いにより、皇帝陛下がお呼びだ。即刻、武器を預け、出頭せよ」
背後で、第五騎士団の将兵たちが一斉にざわめき、剣の柄に手をかけた。
「……ふざけるな! 隊長が戦場で行った判断は、すべて俺たちが証言する!」
副長のアランが、獣のような殺気を放ちながら近衛兵の前に立ち塞がった。その巨躯は近衛兵の倍近い威圧感を放っていたが、近衛兵たちは眉一つ動かさない。
「退け、第五騎士団副長。これは陛下のご指名だ。抵抗は反逆とみなす」
「アラン、よせ」
ロートの静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。彼女は愛馬から降りると、背中の大剣を鞘ごと外し、近衛兵に手渡した。
「私は一人で行く。第五騎士団の者たちは、命令に従い撤退したに過ぎない。彼らをこの件に巻き込むな」
「隊長! ……地獄の底まで付き合うと言ったはずだぞ!」
アランが食ってかかるが、ロートは彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「アラン、これは私の戦いだ。お前には騎士団を管理し、兵たちの命を守る義務がある。……わかっているな?」
ロートリットの瞳は、冷徹なまでに澄んでいた。アランはその奥にある「覚悟」を読み取り、血が滲むほどに奥歯を噛み締め、道を空けた。
玉座の間は、もはや「帝国の心臓」とは思えぬほどに荒廃していた。
かつて立ち並んでいた高潔な廷臣たちの姿は疎らで、代わりに壁際を埋め尽くしているのは、無表情な近衛兵の影ばかりだ。香炉から立ち上る重苦しい香料の匂いが、何かが腐敗しているような不吉な予感を漂わせている。
グレイドルの姿がないことに、ロートはすぐ気づいた。シェルファの姿もなかった。
そして、玉座に座るアトラス三世。
ロートリットは、その変わり果てた姿に息を呑んだ。
三年前の威厳に満ちた老皇帝はどこにもいなかった。頬は異様にこけ、浅黒い皮膚が骨に張り付いている。血走った瞳は一点を凝視できず、常に周囲の影を疑うように泳いでいた。その指先は、絶えず膝の上でカタカタと震えている。
「……説明せよ、テンペスト」
皇帝の声は、枯れた蔦が擦れるような、不気味な響きを帯びていた。
「余が命じたのは『鎮圧』だ。ラファの暴徒どもを根絶やしにし、その指導者の首を、余の足元に転がせと命じたはずだ。それをお前は……一滴の血も流さず、尻をまくって逃げ帰った。これはどういうことだ?」
ロートリットは冷たい大理石の床に膝をつき、淀みなく答えた。
「陛下、申し上げます。解放軍の指導者ロンバルティア・ライムは、先の大戦で散ったエルヴィン・ドナー・フォン・テンペストの嫡子であることが確認されました。彼は単なる暴徒ではなく、帝国の統治に対する正当な異議を申し立てる民の代表です。武力による鎮圧は、火に油を注ぐ結果にしかならないと判断いたしました」
「……正当な、異議だと?」
皇帝が身を乗り出した。その顔に浮かぶのは、怒りよりも深い「恐怖」から来る狂気だった。
「余の言葉は法だ。余の支配に異を唱える者はすべて病だ。病を焼き払うのに、理由など要らぬ。それを、あろうことか軍の長である貴様が、敵の言い分を認めたというのか!」
「私は現状を報告しているのです。陛下、地方の実情は悲惨です。度重なる重税と、地方官吏の腐敗により、民は今日を生きるパンさえ奪われています。彼らが武器を取ったのは、帝国を壊すためではなく、ただ『生きたい』と願ったからです。今、あそこで彼らの命を奪えば、帝国全土で同じような火の手が上がるでしょう。第五騎士団の撤退は、帝国の破滅を先延ばしにするための……」
「黙れッ!!」
皇帝が叫び、手元にあった金の杯を投げつけた。杯はロートのすぐ脇で砕け散り、ワインが返り血のように彼女の頬にかかった。
「……貴様は、懐柔されたのだ。あのゼイラムの出来損ないの息子の子……甥だと知って、身内の情に流されたのだな! 貴様ら一族は呪われている! 十五年前も、そして今も、余の眠りを妨げようとする。あのような毒虫を、余は生かしておかぬと言ったはずだ!」
皇帝は立ち上がろうとしたが、足がもつれ、近衛兵に支えられて不格好に揺れた。その姿は、かつての大陸の覇者ではなく、ただの怯えた老人にしか見えなかった。
「……お前も同じだ、ロートリット。余がお前を拾ってやった恩も忘れ、逆賊の血に跪いた。救いようのない裏切り者め。貴様を信じた余が愚かだった……いや、誰一人として信じてはならなかったのだ!」
「私は陛下を裏切ってはいません」
ロートリットは顔を上げ、狂乱する皇帝の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「私は、帝国を真に守るために判断を下しました。もし陛下がこれ以上の暴政を続けられるのであれば、帝国そのものが、陛下を拒絶することになるでしょう。私は軍人として、その未来を回避したかったのです」
「…そうか。テンペスト家は、代々帝国への反逆者だったのだな」急に皇帝は静かに言った。今度は怒鳴らなかった。それがかえって不気味だった。「父も、兄も、そして娘も。血は争えんということか」
玉座の間が、墓場のような静寂に包まれた。近衛兵たちの息遣いさえも止まったかに思えた。
皇帝の顔から表情が消え、粘りつくような殺意が滲み出した。
「余の意に従わぬ者は、全て反逆者だ。お前が何を言おうと、余の判断は変わらない」
そしてゆっくりと言った。
「投獄せよ。処刑は五日後とする。テンペストの最後の一人を、民衆の前で無様に吊るしてやる」
牢は地下の石造りの部屋だった。
城の地下に続く階段を、近衛兵二人に挟まれて降りた。松明の光が揺れ、石壁に歪んだ影を作った。湿った空気が鼻を刺した。地面の水はけが悪いのか、石畳が所々濡れていた。
重厚な鉄扉が閉じられ、ガチャンという冷酷な音が響く。
彼女の肩から、あの紺碧のマントが乱暴に剥ぎ取られた。
「罪人のくせに、いい女だな」獄卒たちが、下卑た舐めるような視線で見た。
「私に触るな。汚らわしい」
「おい、これを見ろ。こんな高価な布を逆賊の女が羽織ってやがった」
一人の獄卒が、奪い取ったテンペストのマントを地面に放り投げ、泥のついた軍靴で踏みつけた。
「……返せ。それは、大切なものだ」
ロートリットの声は、地下の冷気に混じって弱々しく響いた。だが、獄卒は冷ややかな笑いを浮かべ、彼女の顎を粗末な杖で突き上げた。
「大切なもの? ああ、これか? お前の父親が首を撥ねられた時と同じ紋章だっけな。笑わせるなよ。お前はもう騎士団長でも、上品なお貴族様でもない。ただの、死を待つ肉塊だ。精々、その泥だらけの布がお前の死装束にふさわしいか考えてるんだな」
獄卒は汚れた唾を吐きかけると、松明の明かりと共に去っていった。
残されたのは、骨まで凍みる冷気と、耐え難いほどの沈黙だけだった。
ロートリットは、泥にまみれたマントを引き寄せ、膝を抱えて丸まった。
騎士団長としての地位も、磨き上げられた鎧も、すべてを失った。今の彼女は、煤けた肌着一枚に身を包み、寒さと飢えに震える無力な女性でしかなかった。滴り落ちる水滴が肩を濡らし、暗闇のどこかで鼠が走る音が聞こえる。
――処刑まで、五日。
怖いか、と彼女は心の中で問いかけた。
……怖い。
合理的な判断の結果としてここに至ったとはいえ、肉体が感じる死への恐怖は、知性で消し去れるものではなかった。手の震えが止まらない。
だが。
彼女の脳裏に、あの橋の上で見たロンバルティアの姿が浮かんだ。
あの時、彼は「叔母上」と自分を呼んだ。その透明な瞳には、憎しみではなく、未来への希望が宿っていた。
そして、アラン。
あの不器用で、熱く、自分を信じ抜いてくれた副長。彼なら、この五日間をただ泣いて過ごすはずがない。
「……私は、間違っていない」
ガチガチと音を立てる歯を食いしばり、ロートリットは闇の中で呟いた。
「兄上が目指した光を、あの子が継いでいる。私がここで消えたとしても、あの光だけは守らなければならない。それが、私がこの名を選び取った理由なのだから」
エルヴィン兄上の子供が、十八歳で、正しいことのために戦っている。
その子供を鎮圧しに行って、戻ってきたら投獄された。
帝国とは何だったのか、とロートは思った。
南方で傭兵として戦っていた時、民が諦めた顔をしていた。東部でハール城を落とした時、手柄を奪われた。テンペスト家の復興を認めておきながら、今度は投獄した。
帝国は変わらない。変われない。
ロンバルティアは正しかった。仕組みを変えなければ、誰が皇帝になっても同じことが繰り返される。
彼女は、泥と汚れにまみれた「黄金の鷲」の紋章を、掌の中で強く握りしめた。
視界は暗く、希望は絶望に押し潰されそうになっていたが、ロートリット・テンペストの心の中に灯った「合理」という名の火は、まだ消えてはいなかった。
諦めてはいない。
ただ、今は動けないだけだ。
彼女は暗闇の天井を見上げ、静かに呼吸を整えた。外の世界で、彼女の「剣」となるべき者たちが動き出すのを、信じることだけが、今の彼女に残された唯一の戦いだった。




