第六幕 剣の行き先③
第三章 蒼く輝くアミュレット
ロートは、解放軍に向けて使者を翌日には送った。
伝えた内容はあえて簡潔にした。「指揮官同士の直接会談を求める。武装した状態で、中間地点で。第五騎士団団長ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト」
相手から返事が来るまで一日かかった。
「会談に応じる。ただし、指揮官本人が来ること。護衛は二名まで。解放軍代表ロンバルティア・ライム」
アランがそれを見て「俺も行く」と言った。
「なら、護衛の一人として来てくれ。もう一人はジャンだ」
「ジャンか。まあ良い。あいつは機転が利く」
「ああ。何かあった時に動ける」
アランは少し間を置いた。「銃への警戒はどうする?」
「向こうも使者に銃を向けるほど愚かではない。正義を謳う部隊なら、なおさらな。しかし、念のため遮蔽物のある位置を確認しながら進む。高所から狙われた時の退避経路も確認しておいてくれ」
「了解だ」
秋の陽光が金色の草原をなで、遠くの連峰から吹き下ろす風が草の海を波立たせていた。
ラファの街を望む街道の外れ、古びてはいるが、剛健な造りの武骨で大きな石橋が、今、歴史の分水嶺となろうとしていた。
ロートリット・テンペストは、愛馬をゆっくりと歩ませ、橋の手前で手綱を引いた。背後には、副長のアランと先日百人長に昇格したジャンが控えている。アランはその大剣の柄に手を置き、周囲の丘陵に伏兵がいないか鋭い眼光を走らせ、ジャンは落ち着かない様子で周囲の風の向きを確かめていた。
対岸から、三騎の影が近づいてきた。
中央を走る少年の姿が、霧が晴れるように鮮明になっていく。
――その瞬間、ロートの心臓が、跳ねるような鼓動を打った。
金色の髪。どこまでも深く、澄み渡った青い瞳。
それは、彼女が鏡を見るたびに目にした、自分の姿によく似ていた。そして今は亡き兄、エルヴィン・テンペストの面影を色濃く残すものでもあった。十八歳。少年と青年の狭間に立つその佇まいには、荒波を乗り越えてきた者だけが持つ、岩のような静謐さが宿っている。
「……あの子か」
ロートの呟きは、風にさらわれて消えた。
橋の中央で、双方は馬を止めた。
解放軍の指導者、ロンバルティア・ライム。彼の傍らには、漆黒の鎧を着こんだ銀髪の少年と、背中に無骨なマスケット銃を担いだ亜麻色の髪の少女が、守護者のように控えている。
「第五騎士団団長、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト卿とお見受けします」
少年の声は、澄んでいて、なおかつ重みがあった。
「僕はロンバルティア・ライム。この地の自由を求める民の、命を預かっている者です」
「……貴君が、ロンバルティアか」
ロートは努めて冷静を装い、軍人としての礼節を保った。
「私は帝国の命令により、この地の鎮圧に参じた。だが、剣を抜く前に、貴君の瞳に映るものが何であるか、確かめたいと思ったのだ」
「正直な方だ」
ロンバルティアはわずかに微笑んだ。その笑い方までもが、記憶の隅にある兄の面影をなぞるようで、ロートの胸を締め付けた。
「話し合いの席を設けていただいたことに感謝します。叔母上……いえ、騎士団長閣下」
ロンバルティアは言葉を慎重に選びながら、話を切り出した。
「まず、一つ聞かせてください。帝国は、なぜ最強と謳われる貴方の騎士団を、たった一個でここへ送り込んだのでしょうか? 三つの正規騎士団が壊滅した相手に、これはあまりに不自然な兵力配置だ」
「……私にも、正確な理由は分からん。だが、推測はつく」
ロートは視線を落とし、自らの紺碧のマント――テンペストの家紋を見つめた。
「帝国という巨体は、すでに自分の血管に流れる血を恐れ始めている。私のような『汚れ』を、新たな火種である貴君らとぶつけ合い、共倒れさせる。それが帝都の参謀共の描いた、冷徹な『計算』だろう」
「なるほど、消耗品扱いというわけですか」
ロンバルティアの声には、嘲りではなく、深い悲しみが混じっていた。
それから彼は、解放軍の目指すものを話した。帝国の支配からの解放。各地の自治。信教の自由。単なる権力の奪取ではなく、仕組みそのものを変えることが目標だと言った。
「今の帝国が腐敗しているのは、権力が一点に集中しているからです」とロンバルティアは言った。「皇帝と、その周りの上級貴族が全てを決め、教会が教えを煽り、騎士団がそれを実行し、民は従う。その構造が変わらない限り、皇帝が代わっても同じことが繰り返される。だから私たちは、構造を変えようとしている」
「構造を変える、というのは、具体的にどうするつもりなのだ」
「各地が自分たちで決める権利を持つことです。北部の農村は農村の事情で決める。西部の自警団は自分たちの判断で動く。それぞれが繋がりながら、しかし誰かに全部を決めらせない仕組みを作る」
ロンバルティアは情熱的に語り始めた。現在のの帝国国内の状況。重税に喘ぐ農村や商工、発掘された知識を封印される鉱山、『教化』の名の元に行われる粛清。さらに、ただ生きるために若くして傭兵として命を散らす少年たち。しかし一方で、一部の上級貴族や国家に守られた聖職者たちはその権益を吸い続け、どんどん肥大化しより豊かになる。結果、国家は腐敗していく。
「仕組みを変えなければ、同じことが繰り返されます。僕の父も、それを願って戦ったはずです」
「それは、帝国という枠組みの否定だ」
「そうです」ロンバルティアは言った。「帝国は三百年かけて大陸を統一しました。三百年前はそれでもよかったのかもしれません。しかしもう時代が違います。三百年前は猛威を振るった魔法の力も、今や廃れました。力による圧政はもはや歪みしか生みません。僕たちが本当の意味で自立するには、それぞれが協力して繋がる必要があるのです」
ロートは黙って聞いた。
反論できる部分を探した。しかし見つからなかった。
ロンバルティアの言葉を聞くたびに、ロートは喉の奥が乾くのを感じた。彼女がこれまで「忠誠」の名の下に守ってきた帝国は、今や機能不全に陥った、ただ肥大化しただけの死骸のように思えた。目の前の少年の言葉の方が、遥かに「合理」に満ちていた。
話を聞きながら、ロートは少年の首元に下がっているものに気づいた。
革紐のアミュレット。青い宝石。
見たことがある意匠ではなかった。しかし何かが引っかかった。グレイドルの手控えの冊子に書かれていた記述が、記憶の端にあった。
「そのアミュレット」とロートは言った。「どこで手に入れた?」
「これは、父の形見です。母から渡されました」ロンバルティアは手元を見た。
「貴君の父の名前を、教えてもらっても?」
「……僕の父は、エルヴィン・ドナー・フォン・テンペストです」
アランの息が止まる気配がした。
ロートは、少し間を置いた。
「……やはりな。……エルヴィンは、私の兄だ」
橋の上が静かになった。
川の水音だけが続いていた。
ロンバルティアがロートを見た。その青い目が、静かに動いた。予想していた、という動きだった。
「……卿も、ご存じだったのですね」
「お前がエルヴィンの息子だという情報は聞いていた。しかし、会ってみなければ確かめられなかった。そのアミュレットが本物なら」
「本物です」ロンバルティアはアミュレットを外して、差し出した。「確認してください」
ロートは受け取った。
青い宝石を見た。革紐の結び目の形。裏側に刻まれた小さな文字。『汝の勇気を、雷光に』ロートも知っている、テンペスト家に伝わる旧い銘文だった。グレイドルの冊子にあった記述と一致していた。
手が、少し震えた。
「間違いなく、本物だ」とロートは言った。声が、少し変わった。
アミュレットをロンバルティアに返した。
「実は僕も、貴方の事は知っていました。僕の叔母である、と」
蒼い『テンペスト家の遺品』を受け取った少年は、宝石と同じような青い瞳をロートに向けた。
それから、話の質が変わってきた。
「母から聞いていました」とロンバルティアは言った。「父には妹がいると。生き残って、グランシール家に引き取られたと」
「グレイドル将軍が助けてくださった。六歳の時のことだ」
「生きていることは知っていました。しかし、帝国の騎士団長として会うとは思っていなかった」
「私も、甥がいるとは思っていなかった」ロートは言った。「テンペストの血族は私で途絶えると思っていた。兄が死んで、父が死んで、『いかづちの魔法』と共に、一族は滅んだと思っていた」
「しかし、滅んでいなかった」ロンバルティアはロートの青く澄んだ瞳を見て言った。
「ああ。滅んでいなかった」ロートもロンバルティアの瞳をまっすぐ見返した。
しばらく、どちらも黙った。
「父とは、会ったことがないのです」とロンバルティアは言った。「僕が生まれる前に死にました。だから、父がどういう人間だったかは、母から聞いた話と、師匠から聞いた話しか知らない」
「私も兄とは、六歳で別れた。ほとんど覚えていない。大きな手で頭を撫でてくれたことだけが、身体の記憶として残っている」
「父はどんな人間でしたか」
「グレイドル将軍の手控えに、少し書いてあった」ロートは言った。「優しく、強く、仲間を大切にした、と。民を守りたいと言っていた、と」
「それで十分です」ロンバルティアは言った。「母も同じことを言っていました。父は、正しいことをしようとした。方法が時代に間に合わなかっただけだ、と」
「……そうかもしれない」
「僕は、父が果たせなかったことを果たすつもりです。方法を変えて、時代に合わせて、今度こそ」
その言葉を聞いて、ロートは少し目を伏せた。
兄が目指したものを、兄の息子が継いでいる。
そして自分は今、帝国の騎士団長として、それを鎮圧しに来た。
この子を、私が討てるわけがない。
彼女の背に背負った両手剣が、今日はとてつもなく重く感じた。
「一つだけ聞かせてください」とロンバルティアは言った。「あなたは今、何のために戦っているのですか」
ロートは答えるまでに、少し時間がかかった。
「……今まで、考えたことがなかった」とロートは言った。「命令があって、従って、戦ってきた。南方でも、東部でも、それが自分の生き方だと思っていた」
「今は、どうでしょうか?」
「今は、分からなくなってきた」ロートは言った。「お前の話を聞いて、お前の目指すものを聞いて、間違っていないと思った。民が苦しんでいる。それを変えようとしている。帝国がそれを鎮圧しようとする理由が、私には今、正確には言えない」
「帝国を守ることが、あなたの仕事ではないのですか」
「そう言われれば、そうだ。しかし、守るべき帝国が正しいことをしているかどうかを、私はずっと問わずにきた。問わずに来られたのは、目の前に仕事があったからだ。南方では戦術を考えることが忙しかった。東部では戦闘が続いた。考える暇がなかった。しかし、今ここでお前と話していると、問わずに来たことの重さが分かる」
「帝国は変われると思いますか?」
ロートは少し間を置いた。
「変われないと思っている」と言った。「正確には、今の仕組みのままでは変われない。私が南方で積み上げてきたことは、帝国の中では正当に評価されなかった。ハール城でも、手柄を奪われた。帝国の論理は、帝国の都合に従って動く。民の苦しみは、その論理の中に入っていない」
「だから私は、仕組みを変えようとしています」ロンバルティアは言った。「一人の皇帝と、限られた上級貴族が全てを決める仕組みではなく、それぞれが選んで繋がる仕組みを。父が目指したものは、自分の力だけで達成しようとした。僕は、人の繋がりで達成しようとしている」
「それを、貴君は十八年かけて準備したのだな」
「ええ。八歳から考えていました」ロンバルティアは言った。「この街の石畳を見ながら、諦めた顔の大人を見ながら、どうすれば変えられるかを考えていた。一人では変えられない。だから、各地の人たちと繋がった。北部の農村も、西部の元騎士たちも、商人組合も、それぞれの理由でここに来てくれた。僕の言葉だけを聞いて動いてくれたのではない。自分たちの理由で動いた。それが、今の解放軍の形です」
ロートはその言葉の意味を、ゆっくりと受け取った。
一人の英雄が全てを引っ張るのではなく、それぞれが自分の理由で動く。
それが帝国との、根本的な違いだった。帝国は命令で動かす。解放軍は、それぞれの意志で動く。
「貴君が言っていることは」とロートは言った。「貴君の父が、そして私の兄が目指した形の、次の段階だ」
「ええ、そうかもしれません」
「兄は一人で引っ張ろうとした。貴君は、一人で引っ張ることをしていない」
「僕一人では何もできません」ロンバルティアは言った。「僕には仲間がいます。アルビオンがいる。フォーマルハウトという師匠がいます。各地の指導者がいる。僕はただ、方向を示しているだけです」
「しかし、方向を示せる者がいなくなれば、それぞれがばらばらに動くだけになる」
「そうです。だから僕は、方向を示すことだけに集中しています」
「貴君の言いたい事はわかった。今日は、軍を引く」とロートは言った。「帰って考える。考えた上で、自分で決める」
「急かすつもりはありません」ロンバルティアは言った。「叔母上には、叔母上の時間が必要だと思います」と、少年は少し目を細めた。それが笑いだと分かるまで、ロートには少し時間がかかった。
「叔母、か」ロンバルティアは呟いた。「慣れない呼び方ですね」
「私にも慣れない呼ばれ方だ」ロートも苦笑いしながら呟いた。
それからロンバルティアは同行していた二人と共に馬に向かった。小柄で黒い鎧を纏った剣士の少年と、青いジャンパースカートを着て銃を担いだ少女。どちらも若かった。十代だろうか。この若き少年たちが、三つの騎士団を壊滅させた軍の実働部隊だと思うと、ロートは改めてその意味の重さを感じた。
「叔母上」とロンバルティアは言った。「いずれまた」
「ああ。次に会う時が、戦場でないことを願いたいものだ」
陣に戻ったロートを待っていたのは、固唾を呑んで見守っていた三千の将兵たちだった。
彼女は馬を下りると、背後につき従っていたアランを見た。
「アラン。……全部、聞いたな」
「ああ。全部聞かせてもらったぜ。……驚いたな。あの坊主、あんたにそっくりじゃねえか。理屈っぽいくせに、根っこのところが熱い」
「……十分だ。これ以上、この地を血で汚す必要はない。撤退する」
アランは驚かなかった。むしろ、清々したような顔で肩をすくめた。
「了解だ。最初からこうなるって予想してたさ。……だが隊長。報告書はどう書く? 反乱軍の指導者が甥でした、なんて書いたら、今度こそあんたは反逆者だぜ」
「事実を書く。……ロンバルティアがテンペストの血を引く正当な継承者であること。彼の主張には帝国が無視し得ない正当性があり、武力による鎮圧は、帝国の国益をかえって損なうと判断した。……それだけだ」
「ははっ! 相変わらず、可愛げのない完璧な報告書だな」
アランは愉快そうに喉を鳴らした。
「いいぜ。地獄の果てまで付き合うって決めたんだ。帝国に反旗を翻すってんなら、俺たちB中隊あがりの連中は、そっちの方が性に合ってる」
撤退命令が駐屯地に響き渡った。
整然と並び、来た道を戻り始めた第五騎士団の隊列。
ロートリットは最後尾で、一度だけラファの街を振り返った。
沈みゆく夕陽に照らされた街並みは、死にかけているようには見えなかった。むしろ、長い眠りから覚め、新しい呼吸を始めたかのような、瑞々しい活気に満ちていた。
(兄上。……あなたの息子は、本物でした。そして、私もようやく気づかされました。私が守るべきは『帝国』という名ではなく、この地を生きる『民』であったことを)
紺碧のマントが、逆光の中で大きく翻った。
北極星を背にし、ロートリット・テンペストは自らの運命を、自らの手で書き換えるための行軍を開始した。
それは、帝国の終わりの始まりであり、悲しみの連鎖を断ち切る、最初の朝へと続く道であった。




