第五幕 自由への火種⑥
第六章 騎士団との戦い
いつまでも制圧できない解放軍に業を煮やした帝国が第三騎士団を動かしたのは、ラファの自治宣言から一年もの後のことだった。
カルノワ将軍率いる六千の兵が、帝都からラファへ向けて進軍を開始したという報告は、ペトロスの商人情報網を通じてロンバルティアのもとに三日前に届いていた。
「予想より早いんじゃないのか」とアルビオンは言った。
「いや、予想通りだ」ロンバルティアは地図を広げた。「ラファで領主を裁いた時点で、帝国は動かざるを得なくなった。放置すれば他の地域が続く。六千というのも予想の範囲内だ」
「六千に対して、今うちが動かせる戦力は」
「ラファ周辺に二千。北部から呼べるのが五百。西部の自警団が三百。合計で二千八百だ」
「二倍以上の差がある」
「だから正面からは当たらない」ロンバルティアは地図の一点を指した。「ドゥクラ渓谷だ。第三騎士団の進軍ルートはここを通るしかない。渓谷の幅は狭く、縦列でしか進めない。六千の軍が縦列になれば、頭から尾まで数里に伸びる」
「渓谷で仕掛けるのか。それでも数の差は大きいぞ」
「仕掛けない。ここで時間を稼ぐだけだ。本命は補給だ」
作戦は三段構えだった。
第一段として、渓谷の両側の崖の上に三百の弓兵を配置する。崖上からの攻撃は、縦列の軍に対して圧倒的に有利だ。下から反撃しようにも、急な崖面では兵が登れない。
第二段として、渓谷の南の出口に五百の兵を待機させ、突破してきた先頭部隊を叩く。
そして第三段として、アルビオン率いる二百が大きく迂回して第三騎士団の補給部隊を奇襲する。食料と矢の補給を断つ。
「補給を断たれれば、六千の軍も動けなくなる。六千の兵士が食べる食糧と水は膨大だ。そこを潰すだけでいい」とロンバルティアは言った。「我々は戦いで勝つ必要はない。消耗させ、撤退させれば良い」
「なるほど」アルビオンは地図を見た。「俺が補給の奇襲を担当するのか」
「お前の動きの速さが必要だ。小柄で、地形を読む目がある。補給部隊への奇襲には向いている」
「分かった。任せてくれ」
「それとジュノ。君に頼みたいことがある」ロンバルティアはアルビオンのいつも隣にいるジュノを見た。「銃の射程と精度は、弓より長く正確だ。カルノワ将軍の指揮さえ断てれば、六千の軍は頭を失う」
ジュノはしばらく黙っていた。
「将軍を狙えということ?」
「頼めるか」
「……距離は」
「渓谷の東側の崖の上から、街道までおよそ二百メートルだ」
「銃の有効射程ぎりぎりね」ジュノは言った。「風と角度次第では外れちゃうかも。一発しか撃てないかもしれないよ」
「一発でいい。ただし、無理はしなくて良い。状況を見て判断してくれ」
「……わかった。やってみる」
第三騎士団の先頭が渓谷に入ったのは、夜明けから三時間後だった。
縦列に伸びた六千の兵が、両側の岩壁に挟まれた街道を進んでいく。崖の高さは三十メートル以上あり、空が細く見えた。数年前の戦いで、B中隊隊長だったロートがこの地形の危険を上申し、戦闘を回避させた場所だった。
しかし今回、第三騎士団の先頭部隊は止まらなかった。
帝国正規軍の自信と、解放軍への侮りがあった。ラファの一件で騒いでいる農民と若者の集団程度、正面から押せば蹴散らせると思っていた。
渓谷の中央付近に差し掛かった時、崖の上から矢が降った。
一斉射ではなく、断続的に続く矢だった。正確な間隔で、弓兵が消耗しないように交代しながら射続けた。縦列に並んだ兵への上方からの射撃は、盾を構えても完全には防げない。横から来る矢なら盾を横に向ければ良い。しかし上から来る矢は、盾の上部と下の体の間に隙間が生まれる。
先頭が前進しようとすると、渓谷の出口で解放軍の部隊が待ち受けていた。
渓谷の出口は、天然のボトルネックだった。騎兵が四列ほどしか並ぶのが精いっぱいの狭さだった。六千の軍と言えども、五百の解放軍の兵士と会敵できるのはたった数十人だった。
後退しようとすると、後方でも崖から矢が降り続けている。
渓谷の中で、六千の軍が詰まった。
カルノワ将軍は渓谷の入口付近で状況を把握しようとしていた。
伝令が次々と来た。前進できない、後退も難しい、崖の弓兵の位置が掴めない。将軍は崖の上を見上げながら、判断を下そうとしていた。
渓谷の東側の崖の上、ジュノはその姿を見ていた。
距離はおよそ百八十メートル。風は弱く、ほぼ無風に近かった。角度は急で、下方への射撃になる。弾道の計算を頭の中でやり直した。父が教えてくれた計算式を、静かに繰り返す。
一度大きく息を吸った彼女は、伏せた姿勢でマスケット銃を構えた。先頭で指揮を執る、騎士団長の眉間に狙いを定めた。息を止める。
『……父さん、力を貸して』
心の中で呟いて、静かに引き金を引いた。
ぱぁん、と、乾いた音が渓谷に響いた。
刹那、カルノワ将軍が馬上から崩れ落ちた。
周囲の騎士が泡を食って駆け寄った。指揮系統が乱れた。伝令が止まった。前線への命令が途絶えた。
その混乱の中で、アルビオン率いる二百が補給部隊を急襲した。食料の荷車に火をつけ、矢の束を奪って、煙を上げながら撤退した。
将を失い、補給を断たれた第三騎士団は、渓谷の中で身動きが取れなくなった。
撤退を決断したのは、副将が指揮を引き継いでから半日後だった。撤退の際も崖上からの矢に晒され、六千のうち半数近い損害を出して、第三騎士団は退いた。
勝利の報告を聞いたロンバルティアは、しばらく黙っていた。
それからジュノに言った。「嫌な思いをさせてすまなかった。辛かっただろう」
「……ううん、ロンバルティアさんは悪くない」ジュノは銃を布で拭きながら言った。「けど、これが正しかったかどうかも、今は判断できない。ただ、あたしも必要なことだと思ってやった」
「ありがとう、ジュノ」
「でも」ジュノは言った。「次はなるべく、これを使わなくて済む戦い方を考えてね。やっぱり、人を撃つって、怖いことだって、わかっちゃったから」
ジュノは震える声でそう言って、隣に座るアルビオンの腕を強く掴んた。アルビオンはそっと彼女の頬を撫で、ジュノは少しだけ泣いた。
第三騎士団の敗退から三週間後、帝国は第二・第四騎士団を同時に動かした。今までの慣例上、基本的に正規の騎士団が共同作戦を取ることはほとんどなかった。各騎士団長は基本的に世襲の上級貴族だからだ。何より面子を重んじる貴族社会、どちらが上、どちらが下、で必ず揉める。しかし今回は皇帝の命令で同時に作戦が下されたという。
皇帝が決定的な戦力で、解放軍を潰すつもりなのが明白になった共同作戦だった。
第二騎士団を率いるのは、ヴァイクス将軍だった。
氷のヴァイクス、という異名を持つ五十代の男だった。異名は魔法の使い手であることを示すが、その性格をも正確に表していた。感情を表に出さず、部下の苦情を聞かず、損害の報告を「それだけか」の一言で切り捨てる。帝国の内部でも評判は良くなく、しかし戦果を上げ続けているために重用されていた。彼の操る『こおりの魔法』は広域に冷気を放ち、兵の動きを封じる。大軍を率いた正面突破で、これまで幾つもの解放を鎮圧してきた。
第四騎士団を率いるのは、ボーデン将軍だった。
『だいちの魔法』の使い手で、地を揺らし、岩を砕く力を持つとされた。温厚な人柄で部下に慕われていたが、帝国の方針には忠実だった。今回の作戦では、南側からの挟撃を担当することになっていた。
合計八千の兵が、解放軍に向けて進軍を開始した。
ロンバルティアは第二・第四騎士団の進軍報告を聞きながら、地図に書き込み続けた。
「正面からは絶対に当たらない」と彼は言った。「特にヴァイクス将軍の『こおりの魔法』は、密集した集団に向かって使えば壊滅的な効果がある。こちらが集まれば集まるほど、相手が有利になる」
「では、どう動かす?散開か?」とアルビオンが聞いた。
「そうだ。散る。そして各地で小さく叩き続ける」
作戦の骨格は単純だった。しかし実行は複雑だった。
解放軍は五つの独立した部隊に分かれた。それぞれが百から三百の規模で、帝国軍の進軍ルート沿いの各地に展開した。一つの部隊が攻撃を受ければ、別の方向の部隊が動いて補給路を脅かす。帝国軍がそちらに向けば、最初の部隊が逃げる。常に帝国軍を引き回し、疲弊させる。
ペトロスの商人情報網が、帝国軍の動きを二日前に教えてくれた。その情報を基に、ロンバルティアが各部隊に指示を出した。
最初の一ヶ月は、小競り合いが続いた。
ヴァイクス将軍は、最初の二週間で解放軍の戦い方を把握した。
「解放軍どもは、ただ逃げ回っているだけだ」と彼は副官に言った。「追い詰めれば終わる」
「しかし補給路への攻撃が続いており、食料の輸送が間に合っておりません」
「ならば、補給を護衛する兵を増やせ」
「護衛を増やせば、前線の兵が減ります」
「では補給の輸送を増やせばよいだろう、間抜けが」
「輸送を増やすには、現地の協力が必要です。しかし各地の村落が物資の提供を拒否しており…」
正確な部下の反論に、さすがのヴァイクス将軍は押し黙るしかなかった。
それが問題の本質だった。帝国軍は現地調達に頼る部分が大きい。しかし解放軍が各地に根を張ったことで、帝国軍への協力を拒む村落が増えていた。脅せば従う村もあったが、脅した情報がすぐに解放軍に伝わり、補給部隊が待ち伏せにあった。
強硬策は逆効果だった。しかし旧態依然とした帝国軍、そしてヴァイクス将軍には、それ以外の手段を考えつくことはなかった。
二ヶ月が経った頃、帝国軍の中に疲弊の色が見え始めた。
常に動き続けることへの消耗。補給の不安定さからくる食料の不足。解放軍の姿が掴めない焦り。どこにいるか分からない相手と戦い続けることは、精神を削った。
対して解放軍は、各地の支持基盤から補給を受けていた。農村連合が食料を提供し、商人組合が物資を運び、西部の自警団が帝国軍の動きを監視した。
兵の士気の差が、じわじわと戦況に影響し始めた。
一方、第四騎士団のボーデン将軍は、南側からの挟撃という任務を果たせないでいた。
挟撃するためには、相手の位置が分かっていなければならない。しかし解放軍はどこにも「いない」のだ。各地に点在して、常に動いていた。
「あいつらは一体、どこにいるんだ」とボーデン将軍は地図を見ながら言った。
「目下捜索中であります」と参謀が答えた。「しかし、斥候を出しても見つかりません。それどころか、斥候が戻ってこないことがあります」
「戻ってこない?それはどういうことだ」
「解放軍の情報網に察知されて、先手を打たれているようです」
ボーデン将軍は大地の魔法を使える。地を揺らし、相手を転倒させ、岩を砕いて障壁を作る。しかしその魔法を使うためには、相手の位置を把握して、正面から対峙する必要があった。
見えない相手には、魔法を使う機会がなかった。
姿を見せない解放軍は、効果的に繰り返し夜襲を仕掛けた。姿が見えない敵にいつ襲われるかわからない恐怖。減り続ける食糧と水。真偽のつかないデマ。ついには南部特有の疫病も流行りだし、帝国軍の兵士の精神は砂時計の砂のようにすり減っていった。
三ヶ月目に入った時、第四騎士団の兵の一部が脱走し始めた。帝国への忠誠より、生き延びることを選んだ兵たちだった。ボーデン将軍はそれを知りながら、止める手段を持ていなかった。
転機は三ヶ月と二週間目に来た。
ヴァイクス将軍が、最後の手段として氷の魔法による大規模攻撃を決断した。解放軍の主力が集まっていると思われる地域に向けて、広域の冷気を放つ。それで一気に片をつけるつもりだった。
しかしその情報は、ペトロスやハルドの情報網を通じて二日前にロンバルティアに届いていた。
「全部隊を散らせ」とロンバルティアは即座に命じた。「魔法の範囲に誰も入れるな。ヴァイクス将軍が空に向かって魔法を使うことになるよう、位置を空ける」
ヴァイクス将軍が冷気を放った時、その範囲に解放軍は一人もいなかった。
膨大な魔力を消費して、広大な雪原を作り出しただけに終わった。
その隙に、解放軍の三つの部隊が別の場所で動いた。補給の中継地点を三箇所、同時に制圧した。
第二騎士団には、ついに食料が届かなくなった。
第四騎士団は三ヶ月と三週間目に撤退を決断した。
第四騎士団が根拠地とする西部で、ヴァルカたちが武装蜂起したのだった。もちろんこれもロンバルティアの指示だった。ヴァルカたち自警団は巧みな用兵で西部の各都市を次々に解放していった。
ボーデン将軍は焦った。ここでいつまでも足止めを喰らっていれば、自分の領地があっという間に解放軍のものになってしまう。
結局、ボーデン将軍は撤退命令を出す時も、大地の魔法を一度も使わなかった。使う機会がなかった。
その報告を聞いたロンバルティアは「僕らは彼らに、『だいちの魔法』を使う余裕すら与えなかった、ということだ。魔力を持つ者たちだけが力で統治する時代はもう終わった。時代は変わるんだ」と解放軍の仲間たちに言った。
「そうだな。ひとりひとりは小さくても、みんなで力を合わせれば、大岩を穿つことだってできる」
ロンバルティアの仲間の一人が大きくうなずいて答えた。
「ああ。その通りだ。今回だってヴァルカさんたちがいいタイミングで立ち上がってくれた」
第二騎士団のヴァイクス将軍は、第四騎士団が撤退した後も留まろうとした。しかし補給が完全に途絶え、飢えに苦しんだ部下たちの反対を押し切れず、四ヶ月目の初めに撤退を余儀なくされた。
撤退の際、ヴァイクス将軍は怒りから氷の魔法を使い続けた。周囲の地面を凍らせ、追撃してくる解放軍を阻もうとした。しかし解放軍は追撃せず、ただ見送った。
「あいつらを壊滅させるチャンスだ。追わないのか?」とアルビオンが聞いた。
「追う必要がない」とロンバルティアは言った。「退いてくれれば十分だ。そして将軍が無駄に魔力を使ってくれれば、次に対峙する時に使える力が減る。……それに」彼は目を伏せて続けた。「もうヴァイクスは無理だろう。信頼を失いすぎた」
百日以上に及んだ戦いが終わった夜、ロンバルティアは一人で地図を見ていた。
三つの騎士団が敗退した。帝国にとって前代未聞の事態だ。しかしロンバルティアの顔に、喜びはなかった。
アルビオンが入ってきた。
「勝ったんだ。もう少し喜んでも良いんじゃないか」
「勝ったのではなく、負けなかっただけだ」ロンバルティアは言った。「帝国はまだ手駒がある。第一騎士団がいて、第五騎士団がある。第六もだ。『ほのおの魔法』のグレイドル将軍がいる。最強と名高いロートリット将軍もいる」
「噂のロートリット・テンペストか」
「勝ったことで、人が集まってくる。それは良いことだ。しかし、勝ったと思って油断した瞬間に崩れる。帝国が三百年続いてきた理由の一つは、そこにある。解放した側が、勝った瞬間に油断した」
「お前は、勝っても油断しないのか」
「怖いから油断しない。怖いままでいる方が、正確に動ける」
アルビオンは少し笑った。「親父さんの教えが染み込んでいるな」
「僕の父は正しかった」
しばらくして、ジュノが入ってきた。報告書を持っていた。
「今回の戦いでの損害をまとめたよ。解放軍全体で、死者が三百四十三名。重軽傷者は千を超えたわ」
死者の数。失われた命の数字が、部屋に静かに落ちた。
「全員の名前を記録しておいてくれ」とロンバルティアは言った。「忘れないために」
「うん。わかった」
「それから」ロンバルティアは地図を見た。「次の準備を始める。休んでいる暇はない」
ラファの夜が深まっていた。
戦いは終わっていなかった。
しかし、確かに一歩、前に進んでいた。




