第五幕 自由への火種③
第三章 今夜
クロム領主の私邸は、街の中心部からほど近い場所に建つ石造りの館だった。
二階建て、壁が厚く、窓が少ない。外から見れば小さな要塞のようだが、実際には要塞としての設計ではなかった。権威を示すために厚く積まれた石壁が、皮肉なことに内側の死角を増やしていた。ロンバルティアは三ヶ月かけて、この建物の構造を頭に入れていた。夜間の警備の動き方、幹部たちの会食の習慣、使用人の出入りの時間帯。その全てを、フォーマルハウトの廃屋の机の上に広げた図面と向き合いながら記憶した。
夜の八時。会食が始まって一時間が経つ頃だった。
十名が二手に分かれた。アルビオンが五名を率いて正面玄関へ向かい、ロンバルティアが残る三名と共に裏口から入る段取りだった。
出発前、路地の暗がりで二人は向き合った。
「合図は俺が出す」とアルビオンは言った。声を落として、しかしはっきりと。「正面の警備が引きつけられたら動け。それまでは待て」
「分かった」ロンバルティアは言った。それから一拍置いて、小声で付け加えた。「死ぬなよ、アルビオン」
「こっちの台詞だ。お前こそ、こんなところで死ぬなよ。ロンバルティア、俺と約束しろ」
「……ああ。約束する」
「よし」アルビオンは小柄な体を伸ばすようにして頷いた。「俺も約束する。全員で終わらせて、師匠のところに報告しに行こう」
「師匠は心配性だからな」
「あの顔で心配症なんだから、笑っちゃうよな」
二人は短く笑い合った。それから互いに背を向け、それぞれの方向へ動き出した。
裏口の鍵は、協力者の書記が事前に細工していた。
鍵穴に細かな砂を詰め、錠が完全に噛まない状態にしておいた。外からは気づかれない。しかし内側から押せば開く。ロンバルティアが肩で一度押すと、扉は音もなく内側に動いた。
廊下は暗かった。奥から蝋燭の明かりが漏れていた。
三名が音を殺して続いた。
正面の方向で物音がした。鈍い衝撃音と、短い叫び声。アルビオンたちが警備に当たった音だ。予定通りだった。
廊下を進んだ。会食の間に続く扉が見えた。
扉の向こうで声が上がり始めた。警備の声が混じっていた。正面の騒ぎを聞いて、中の者が立ち上がっている。
「侵入者だ!」「正面玄関に回れ!」「捕らえろ、殺しても構わん!」
邸内を警備兵たちの怒号と軍靴の音が駆け抜ける。ロンバルティアは冷徹に状況を把握した。守備兵の意識は完全に正面へと向けられた。
「走るぞ」
ロンバルティアは影のように廊下を突き進んだ。彼の動きには一切の無駄がない。母シルヴィアから叩き込まれた実戦剣術と、フォーマルハウトから学んだ空間把握能力。廊下の角で鉢合わせた警備兵が声を上げるより早く、ロンバルティアの手が動いた。剣を抜くことさえせず、抜き手で喉を突き、怯んだ隙に後頭部を壁へ叩きつける。
目指すは二階、会食の間。
扉の向こうからは、狼狽する幹部たちの声と、抜剣の鋭い金属音が聞こえていた。
「……終わりだ、ダーヴィッシュ・クロム」
ロンバルティアは一気に加速し、扉を蹴破った。
広々とした会食の間には、豪華な食卓を囲むクロム領主と三名の幹部、そして彼らを護衛する二名の警備兵がいた。
「貴様、何者だ!」
警備兵が反射的に剣を構え、ロンバルティアへと肉薄する。
ロンバルティアの視界は、スローモーションのように彼らの動きを捉えていた。左側の兵士の突きを僅かな身のこなしでかわし、右側の兵士が振り下ろした剣を、鞘のままの剣で弾き飛ばす。
カンッ、と高く乾いた音が室内に響く。
ロンバルティアは弾いた勢いをそのまま回転に変え、右側の兵士の頸部へ鞘の柄を叩き込んだ。衝撃で意識を断たれた兵士が崩れ落ちる。
「ひっ……!」
左側の兵士が立て直そうとするが、ロンバルティアの足払いがそれより速く床を払った。無様に転倒した兵士の胸元に、ロンバルティアのブーツが容赦なく踏み下ろされる。
同時に、後に続いた三名の仲間が、逃げようとした幹部たちの背後を完璧に押さえた。
すべての制圧が終わるまで、僅か三十秒。
「お、お前……! 誰に許可を得てここへ……! これは反逆だぞ! 帝国軍が黙ってはおらん!」
クロム領主は椅子に縛り付けられ、脂ぎった顔を歪ませて叫んだ。
ロンバルティアは返答せず、静かに彼の目の前に立った。その佇まいは、怒りに震える復讐者ではなく、冷徹な法を執行する死神のようであった。
「叫ぶな。無駄だ。正面の警備は、僕の親友が一人残らず叩き伏せている」
ロンバルティアの声は、驚くほど静かだった。しかし、その静寂がクロムの心臓を鷲掴みにした。
「お、お前は何者だ」震える声だった。長年、誰かを怯えさせることしかしてこなかった男が、今夜初めて自分が怯える側に立っていた。
「僕はロンバルティア・ライム。この街の生まれだ」
「ライム……だと?そんな名前は聞いたことがない」
「母がここに来た時に名乗った名前だ。本来の名前は別にある」
「本来の名前を言え」
ロンバルティアは外衣の内側から、革紐のアミュレットを取り出した。青い宝石が、室内の蝋燭の光を受けて静かに輝いた。
「聞きたいか。僕はエルヴィン・ドナー・フォン・テンペストの息子だ」
クロムの顔から血の気が引いた。
「テンペスト……反、反逆者の……」
「父は帝国の記録に反逆者と記されている。しかしそれは帝国側の記録だ」ロンバルティアは言った。声は静かだった。怒りではなく、事実を述べる声だった。「父は、この街の人間が苦しんでいるのを見て立ち上がった。それが父の理由だった」
クロムは何か言おうとして、言葉が出なかった。
「今夜、お前を裁く」ロンバルティアは続けた。「街の代表者の前で、証拠を示す。お前がこの十八年でやってきたことを、全部だ。もう逃げることはできない。叫ぶことも無意味だ。ただ、明日の朝まで大人しくしていろ」
クロムは口を閉じた。
それ以外に、できることがなかった。
翌朝。ラファの街の中央広場は、これまでに見たこともないほどの熱気に包まれていた。
夜明け前、領主私邸の正面玄関が粉砕され、独裁者が拘束されたという噂は、風よりも速く街中に伝播した。人々は戸惑い、恐れながらも、心の底に眠っていた「何か」が疼くのを止められず、広場へと集まってきた。
広場の中央には、即席で組まれた演台。その上には、縛られたクロム領主と、彼を監視するアルビオン。そして――。
ロンバルティア・ライムが、民衆の前に立った。
十八歳の少年。鍛え抜かれた騎士のような体躯でも、威圧的な巨漢でもない。朝日に透き通るような金色の髪と、理知的な青い瞳を持つ、線の細い少年。
集まった数千の民衆は、最初、彼を見て拍子抜けした。この子供が、あのクロムを捕らえたというのか、と。
ロンバルティアは静かに口を開いた。
「僕の名前は、ロンバルティア・ライムです」
凛とした、透き通るような声。しかし、その声は広場の端まで、驚くほど明瞭に届いた。
「この街で生まれ、皆さんと共に同じ空気を吸い、同じ泥道を歩き、同じ不当な徴税に頭を下げて生きてきました。僕は、特別な人間ではありません。皆さんの隣で、共に絶望を分け合ってきた一人の若者に過ぎません」
人々のざわめきが、波が引くように静まっていく。
「十八年前、この街で一人の男が立ち上がりました。エルヴィン・ドナー・フォン・テンペスト。僕の父です」
広場に衝撃が走った。十八年前の記憶を持つ者たちが、ハッとして顔を上げる。
「父は失敗しました。準備が足りず、時機を誤り、帝国の力に押し潰された。それは認めます。しかし父が戦った理由は間違っていなかった」
ロンバルティアは続けた。
「皆さんが今も苦しんでいる現実を、見てください。十八年前と、何が変わりましたか。税はさらに重くなった。工房は奪われた。子供を学校に通わせる余裕がある家が、この街にいくつありますか。夜に安心して眠れる日が、いつ最後にありましたか」
誰も声を上げなかった。
ロンバルティアは、傍らに転がされたクロムを指差した。
「昨夜、この男を拘束しました。ここにあるのは、彼がこの十八年間、帝国への上納金を誤魔化し、私腹を肥やすために皆さんから奪い取った資産の記録です。そして、異を唱えた者を密かに処刑してきた名簿です。……今日、ここで裁判を行います。裁くのは、僕でも帝国でもない。この街で最も苦しんできた皆さん自身です」
群衆の中から、誰かが叫んだ。
「そんなことをして、帝国が黙っているはずがない! 軍が来たら、私たちは皆殺しだ!」
不安が、火が燃え広がるように群衆を浸食しようとした。
ロンバルティアは一度だけ、深く息を吐き、そしてフォーマルハウトの言葉を胸に抱いた。『感情を、隠すな』と。
「……そうです。帝国は必ず、この街を潰しに来ます。戦いは避けられません」
ロンバルティアの声の色が変わった。それは力強い勇者の叫びではなく、痛みを分かち合う者の独白だった。
「僕も、怖い。正直に言います。僕は今、震えるほどに怖い。帝国の大軍を相手に、生き残れる保証などどこにもない。死ぬかもしれない。大切な人がいなくなるかもしれない。昨夜、僕の足は恐怖ですくんでいました。今、皆さんの前に立っている僕の手も、本当は震えています」
ロンバルティアは自分の右手を掲げた。それは僅かに、しかし確かに震えていた。
「英雄なら、恐怖など感じないのでしょう。でも、僕は英雄ではない。僕はただの人間です。……けれど、僕はこう思う。恐怖を感じない強さよりも、恐怖を抱えたまま、それでも一歩前に踏み出す強さこそが、この街を、この世界を変えるのだと」
静寂が、広場を支配した。
ロンバルティアの震える手。その脆さと、しかし逃げ出さない覚悟が、民衆の心の最奥にある「誇り」という名の琴線を震わせた。
「変わらない明日をただ受け入れることは、死ぬことよりも苦しい。僕は、たとえ明日死ぬとしても、今日という日を自分の意志で戦って生きたい。……皆さんに強制はしません。逃げ出す者は逃げてもいい。けれど、もし、自分の人生を自分たちの手に取り戻したいと願うなら、僕に……いえ、僕たちに、力を貸してほしい!」
しばらくの間、広場は静寂に包まれた。
最初に声を上げたのは、白髪の老人だった。広場の端、石畳の上に杖をついて立っていた老人だった。
「エルヴィン・テンペストの子供か」と老人は言った。「本物か」
「本物です。僕は間違いなく、エルヴィンの息子です」ロンバルティアはアミュレットを掲げ、はっきりと答えた。
「……お父上に会ったことがある。若い頃だ。良い人だった。目が真っ直ぐで、嘘をつかない人だった」
老人は杖を持つ手に力を込めた。「十八年待った。また誰かが立ち上がるのを、ずっと待っておった」
その言葉が、広場の空気を変えた。
誰かが拍手した。一人が始めると、続いた。拍手は大きくはなかった。歓声でもなかった。しかしそれは確かに、この街の人間の、長い沈黙の果ての応答だった。
ロンバルティアは広場を見渡した。
諦めた顔が、まだたくさんあった。すぐに変わるとは思っていなかった。十八年で積み重なったものが、一つの演説で消えるはずがない。
しかしその顔の奥に、何かが灯り始めていた。
小さな火だった。吹けば消えるかもしれない火だった。
しかし、確かに灯っていた。
広場の端に、アルビオンが立っていた。
演説を聞きながら、腕を組んでいた。
隣にいた仲間の一人が小声で言った。「すごいな、ロンバルティアさんは。俺たちと同い年とは思えない」
「あいつは昔からああだ」とアルビオンは言った。
「幼馴染なのか?」
「ああ。あいつが八歳の時から、何かを考えていた。今日まで考え続けてきた。ようやく言葉にできた、ということだ」
「それを支えてきたのが、お前か」
「支えた、というより」アルビオンは少し考えた。「俺はあいつが動く時のために、強くなった。それだけだ」
広場に、街の人々の拍手が続いていた。
ロンバルティアの言葉が、まだ空気の中に残っていた。
アルビオンは腕を組んだまま、親友の背中を見た。
あの背中を守るために、五年間修行した。黒い剣を手に入れた。これから何が来ても、隣に立てる。
それだけで十分だった。




