第五幕 自由への火種②
第二章 アルビオンの帰還
アルビオン・ブロムウィッチは、十三歳の夏まで、ラファの街以外を知らなかった。
父の仕立て屋の二階で生まれ、ラファの石畳で転び、ラファの広場で喧嘩をして育った。広い世界があることは知っていた。旅の商人が持ち込む話を聞けば、帝国の北には雪の山があり、南には砂漠があり、東には蛮族がいると分かった。しかし知っていることと、見たことがあることは違う。
アルビオンは見知らぬ世界を、特別に欲しいとは思っていなかった。
ラファで喧嘩をして、ラファで走り回って、それで十分だった。十分だと思っていた。
フォーマルハウトという老人と、親友ロンバルティアに出会うまでは。
廃屋の前に初めて行ったのは、八歳の時。ロンバルティアに引っ張られてのことだった。
「変な老人がいるんだ」とロンバルティアが言った。「何でも知ってる。僕はもう何度も話を聞きに行っている」
「本当か。面白そうだな」
二人で廃屋の前まで行った。扉が開いていた。中を覗くと、老人が本を読んでいた。こちらを見ていなかった。しかし扉に手をかけた瞬間、老人が言った。
「誰だ。……なんだ、またお前か。今日はふたりか。まあ入れ」
ロンバルティアが「師匠、今日も来ました」と言いながら中に入った。アルビオンは後に続いた。
老人がアルビオンを見た。こちらを見ていなかったのに、もうひとりいることをなぜか知っていた。
「お前の名前は、何という」
「アルビオン」
「アルビオンは、何が好きだ」
「走ること。喧嘩も好きだ」
「勝てるから、好きなのか」
「そう。俺は誰にも負けない」
「もし、負けた時はどうする」
「また挑む。勝てるまで何度でも」
老人は少し目を細めた。何かを確かめるような目だった。
帰り道、ロンバルティアが「お前も目をつけられたな」と言った。
「そうか?」
「師匠の目が変わった。最初に僕を見た時と同じ目だ。お前の中に、何かを見つけた顔だった」
「見つけるものなんて、俺にはないと思うけどな」
「師匠が見つけるものは、本人が気づいていないものだ」
アルビオンはその言葉を半分だけ受け取り、残り半分は流した。しかし廃屋のことは、忘れなかった。
それから二人は毎日のように廃屋に通うようになった。老人はいつも本を読んでいた。二人が来ると、本を閉じた。
「今日は何を聞きたい」
「何でも良い」とアルビオンが言った。
「何でも良い、というのは、何も考えていない、ということだ。考えろ」
「じゃあ……師匠はなぜここにいるのか」
「良い問いだ。昨日より考えている」老人は言った。「答えは、必要だったからだ」
「誰が必要としたのですか」
「それを考えるのは、お前だ」
アルビオンは考えた。
「……俺ですか?俺が必要しているから、師匠がいる?」
「そうだ。その答えで正解だ。今日はそれだけ理解できれば十分だ」
帰り道、アルビオンは考え続けた。老人がラファにいるのは、自分が必要としているから。しかし自分は老人を必要としていると、意識していなかった。意識していなくても、必要としていた。それはどういうことだろう。答えは出なかった。しかし、問い続けることが大事だということは、なんとなく分かった。
それからの五年間、二人はフォーマルハウトから多くのものを学んだ。歴史、地理、人の心の動かし方。老人が教えることに底はなく、二人の友情はその時間の中でより深くなった。
十三歳の夏の終わり、老人がアルビオンだけを残して言った。
「お前には、特別な才能がある」
「俺に?俺に何の才能ですか?」
「暗黒剣の才能だ」
「暗黒剣……?」
「生命力と精神力を刃に宿し、並の鋼では斬れぬものを断つ、魔剣の技だ。誰でも使えるものではない。選ばれた資質を持つ者だけが扱える業だ」とフォーマルハウトは言った。「才能だけでは開花しない。厳しい修行が必要だ。一緒に来るか」
「どこへ?」
「別の場所だ。ここではない。五年はかかる」
アルビオンは即答した。「行きます」
「理由は聞かないのか」
「ロンバルティアが師匠に何かを必死に学んでいるのは、あいつが将来何かを成し遂げるからだ。五年間一緒に学んでいれば、それくらいは分かる。あいつが動く時に、俺は戦える隣にいたい。それだけです」
フォーマルハウトは少し間を置いた。
「……単純な動機だな」
「単純が一番強いと思います」
「そうかもしれん」老人は言った。「ただし、一つだけ言っておく。暗黒剣は扱う者の内側を映す鏡だ。弱い心で振れば、刃は持ち主に向く。お前が修行の中で何者になるか、そこが全てだ」
「なれるかどうかは、やってみなければわかりません」
「それでいい。やってみなければわからないことは、やればわかる」
その夜、父のガレットに話した。
ガレットは長い間黙っていた。仕立て屋の仕事で荒れた手を、膝の上で組んで、黙っていた。
「あの廃屋の老人のところへ、か」
「はい」
「何を習うんだ」
「まだ分からないけど、大事なことだと思います」
「大事なことって何だ」
「それも今はわからない。でも、師匠が言うなら、本当に大事なことだと思います」
ガレットはまた黙った。
「五年、帰ってこないのか」
「わかりません。でも、五年はかかると言っていた」
「仕立て屋を継ぐつもりはないのか」とガレットは言った。責めるような声ではなく、ただ確かめるような声だった。
「……すみません」
「謝るな。お前の好きなことを聞いたんだ」
「走ることと、喧嘩が好きです。布を縫うのは、苦手で」
「知っている」ガレットは少し笑った。「針を持たせると、すぐ刺すからな」
「はい」
「行けばいい」と父は言った。「五年でも、十年でも。ただし、死ぬな。死んだら承知しないぞ」
「死にません」
「約束しろ」
「約束します」
父の手が、アルビオンの頭を一度だけ乱暴に撫でた。
翌朝、アルビオンは荷物をまとめ、廃屋に向かった。
出発の前に、ロンバルティアが待っていた。
「師匠に聞いたぞ。修行に行くんだってな」ロンバルティアは言った。
「そうだ。五年かかるらしい」
「五年か。長いな」
「お前が何かをやり遂げようとしている時に、俺は傍にいたい。そのために強くなって帰ってくる。待っていろ」
ロンバルティアはしばらくアルビオンを見た。
「……待っている。必ず待っている」
「約束だ」
「約束だ」
二人は短く頷き合った。言葉はそれだけで足りた。
それから五年。
アルビオン・ブロムウィッチは、夜のラファの街に戻ってきた。
身長はさほど変わっていなかった。元々小柄な体格は修行を経ても変わらず、同年代の男に比べれば頭一つ分は低かった。しかし体の質が変わっていた。無駄のない、凝縮された体だった。鍛え抜かれた筋肉が皮膚の下で静かに息をしており、動けば瞬時に全力が出る、獣に近い体だった。銀の髪は以前より長くなり、緑の目の光が五年前とは違う深さを持っていた。
しかし笑い方は変わっていなかった。
「ロン!」
裏通りで再会した瞬間、アルビオンはロンバルティアの肩を両手で掴んで揺さぶった。
「痛い、揺さぶるな」とロンバルティアが言った。声は呆れていたが、口元が緩んでいた。
「五年ぶりだから良いだろ」
「五年ぶりでも揺さぶる理由にはならない」
「なる」
「ならない。……お前、体がまた変わったな。小さいくせに、妙な重さがある」
「俺が小さいんじゃなくて、お前が伸びすぎたんだ」
「同じことだ」ロンバルティアは苦笑した。「顔は変わっていないな」
「お前こそ。五年でずいぶん大人の顔になったが、変なところで生真面目なのは変わっていない」
「変なところとはどこだ」
「笑う時に一瞬だけ迷う顔をする。そこだ」
ロンバルティアは少し黙った。それから「よく見ていたな」と言った。
「五年分の再会だ。親友の顔は、ちゃんと見る」
二人は並んで廃屋に向かった。
フォーマルハウトは椅子に座って本を読んでいた。二人が入ってきても、顔を上げなかった。しかし言った。
「良く戻った、アルビオン」
「ただいま戻りました、師匠」
老人がゆっくりと顔を上げた。アルビオンを見た。何かを確かめるような、静かな目だった。
「修行の成果を見せてみろ」
「はい」
アルビオンは背中の大きな荷物から、包みを解いた。
現れたのは、黒い刃の長剣だった。刃が緩やかに湾曲し、通常の金属とは明らかに質が異なった。黒みがかった刃は光を吸い込むように見え、柄の部分に細かい刻印が刻まれていた。刻印の模様は、見る角度によって微かに揺れるように変化した。
「暗黒剣の一形式だ」とフォーマルハウトは言った。「普通の人間は触れることもできない金属で作られている。アルビオン、お前の体格と気質に合わせて選んだ。その剣の使い方は、一通り習得できたか」
「一通りは」アルビオンは言った。「ただ、向いていない部分もあるように思えます」
「どの部分がお前に向いていないのだ」
「繊細な操作が要る技が苦手です。細かい動きより、大きく踏み込んで一撃で決める方が性に合っている」
「それはお前の性格だ。変えようとするより、得意を伸ばせ」とフォーマルハウトは言った。「しかし、向いていないと分かっているということは、自分を見ている、ということでもある。それは良いことだ」
「ただ……」アルビオンは少し言いよどんでから、ロンバルティアを見た。「ロンの動き方を見ていると、俺に足りないものが分かる気がする。速さより正確さを重んじて、無駄な動作がない。俺にはない動き方だ」
ロンバルティアが言った。「僕にも、お前にない動き方がある。お前の瞬発力と踏み込みは、僕には真似できない」
「それは俺の体格のせいだ。俺は小さい分、重心が低くて踏み込みが速い」
「体格を活かした動き方が出来ているなら、それは技術だ。偶然ではない」
フォーマルハウトが二人を見た。
「二人とも、良い目をするようになった」と老人は言った。「五年前は、自分の外しか見ていなかった。今は自分の内側と、相手の内側を同時に見ている。それが全ての技術の土台だ」
「今夜の件を話す」とロンバルティアは静かに言った。
三人が机を囲んだ。
「クロム領主への直接行動。標的は領主と、徴税吏の幹部三名。目的は殺害ではなく、拘束と公開裁判だ」
「殺さないのか」とアルビオンが言った。
「殺せば同じ失敗を繰り返す」ロンバルティアは地図を広げながら言った。「父がやった反乱が失敗した一因は、帝国に『反乱軍は残虐だ』という宣伝を許したことだ。こちらは法と公正を求めている、という立場を最初から取る。残虐な行為は、その立場を自ら崩すことになる」
「分かった。それで、証拠はあるのか」
「三年かけて集めた」フォーマルハウトが口を開いた。「街の記録官や、クロムに不満を持つ書記たちが協力してくれた。何年分の横領か、誰を不当に処罰したか、文書と証言で示せる」
「今夜の動きを具体的に教えてくれ」
「クロムは月に一度、今夜、私邸で幹部三名を集めて会食をする。その席に踏み込む。私邸の警備は常時六名だが、会食の夜は四名に減る。俺とお前と、信頼できる仲間八名で動く」
「十人か」アルビオンは地図を見た。「出入り口はどこだ」
「正面が一つ、裏が一つ。裏口は使用人の出入り用で、警備が手薄だ」
「俺が正面で暴れて警備をひきつけよう。ロンは裏から突入してクロムを縛り上げろ。修行の成果、見せてやるぜ」
「……それは、俺が頼もうとしていたことだ」ロンバルティアは少し目を細めた。「読んでいたのか」
「地図を見れば分かる。裏口の方が二階の会食の間まで近いからな」
「あの暴れ者が、思慮深くなったものだな」とフォーマルハウトが言った。
二人が老人を見た。
「褒めておる」と老人は言った。皺だらけの顔が、わずかに緩んでいた。
作戦の細部を詰めた後、ロンバルティアがアルビオンを見た。
「ロン」とアルビオンが先に言った。
「なんだ」
「お前、八歳からこれを考えていたのか」
「ああ」
「……俺が修行に行っている間、ずっと一人でこれを考えていたのか」
「一人じゃない。師匠がいた。それに」ロンバルティアは少し間を置いた。「お前が帰ってくることが分かっていた。だから一人ではなかった」
「……大げさなことを言う」
「事実だ」
フォーマルハウトが二人を見ていた。
「一つだけ言っておく」と老人は言った。「今夜は始まりに過ぎん。始まりの夜に無謀な死に方をするな。勝利は、生き続ける者だけが手にできる」
「それは、常に理解しています」とロンバルティアは言った。
「アルビオン、お前はどうだ」
「俺もわかっています。死ぬつもりはありません」
「つもり、ではなく、死なない選択を常にしろ」フォーマルハウトは言った。「死を恐れないことと、死を軽んじることは違う。暗黒剣は魂を削る。戦いの愉楽に取り込まれると戻れなくなる。一歩引く判断を、今夜は特に意識しろ」
「……それは、俺のことをよく見ているから言えることですね」
「五年間、報告を受け続けていた。お前がどこで無茶をするかは、おおむね分かっている」
アルビオンは少し笑った。「兄弟子にだいぶ絞られましたから」
「あやつらも、儂も、お前を見守っていた。支える人がいることを、忘れるな」
ロンバルティアがアルビオンの肩に手を置いた。
「頼りにしているぞ、親友」
「任せろ」アルビオンは言った。「五年待っていたんだ。ようやく出番だ」
「出番という言い方をするな、楽しんでいるみたいだぞ」
「じゃあ何と言えば良いんだ?」
「……お前らしく言えば良い」
「それが『出番だ』だ」
ロンバルティアは少し溜め息をついた。しかし口元が緩んでいた。
「全く変わっていないな、お前は」
「変わっていないところが強みだろ、俺の」アルビオンはニヤリと笑った。
「確かにそうだな」ロンバルティアも口の端を上げて答えた。
フォーマルハウトが立ち上がった。二人を順に見た。
「行ってこい」と老人は言った。「儂はここで待っている。終わったら、ここに戻って来い」
ここに戻ってこい、という言葉に、アルビオンは少し驚いた。
老人がそういう言い方をするのは、珍しかった。
「……師匠も、心配するんですね」
「当たり前だ」フォーマルハウトは言った。「教えた者が死ぬのは、何度見ても慣れん」
その言葉の重さを、アルビオンは受け取った。
老人がこれまでに何人の若者を見送ってきたのかは分からなかった。しかし、その数は少なくないだろうと思った。そして戻ってこなかった者も、たくさんいたはずだ。
「必ず戻ります」
「そうしろ。儂は、ここで待っておる」
夜の街に出た。
ラファの石畳は静かだった。いつもと変わらない、諦念に満ちた夜の沈黙だった。
しかし今夜だけは、その沈黙の下で何かが動いていた。
アルビオンは腰の剣の重みを確かめた。黒い刃が、夜の空気を吸い込むように静かにあった。
小柄な体が、夜の闇に溶けるように進んでいく。
隣でロンバルティアが、静かに、しかし確かな足取りで歩いていた。
八歳から十年、考え続けてきた夜が始まった。




