第五幕 自由への火種①
第五幕 自由への火種
第一章 ラファの街
ラファは死んでいた。
正確には、死を待つ抜け殻のように横たわっていた。
かつて帝国北東部の交易の要衝として栄えたこの街には、三本の主要街道が交わり、人々の声と荷馬車の軋み、そして行き交う貨幣の音が絶えなかった。しかし今のラファを支配しているのは、重く澱んだ沈黙だった。
十八年前から続く領主ダーヴィッシュ・クロムの支配は、街の血管を一本ずつ縛り上げるようにしてその活力を奪い去った。商人の屋敷は接収されて徴税吏の詰め所となり、職人たちが誇りとした工房は領主直属の御用商会に飲み込まれ、宿場に灯るわずかな明かりさえも「安全保障費」という名の略奪によって消えかけていた。
石畳を歩く人々の顔には、もはや怒りすら残っていなかった。
怒りは燃え上がるためのエネルギーを必要とする。しかしここにあるのは、灰にすらなれない諦念だった。人々はただ、今日という苦役をやり過ごし、明日という絶望を受け入れるためだけに、うつむいて歩く。
その灰色の静寂の底で、一つの火種が静かに呼吸を始めていた。
ロンバルティア・ライムが目を覚ますのは、太陽が地平線の端を噛む直前だった。
夜明け前の冷気は、彼にとって思考を研ぎ澄ませるための触媒だった。ラファの東側、城壁の影が長く伸びる石造りの古い家。その二階の窓を開け、ロンバルティアは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
金色の短い髪が風に揺れ、青い瞳がまだ眠りの中にある街の輪郭を静かになぞった。
「……変わらない。昨日も、その前の日も」
呟きが白い息となって消えた。石畳の染み、崩れかけた壁の角、路地の端でうずくまる痩せた老犬。ロンバルティアにとってそれらは、懐かしい故郷の景色であると同時に、解決すべき問題の一部だった。
机の上には、青い宝石が埋め込まれた革紐のアミュレットが置かれていた。父、エルヴィン・ドナー・フォン・テンペストの遺品。十八年前、この街で自由を求めて立ち上がり、そして散った男の形見だった。
ロンバルティアはアミュレットを握りしめた。宝石の冷たさが掌に伝わる。
「父さん。あなたの意志は今もこの街に漂っている。しかし理想だけでは腹は膨れず、祈りだけでは鎖は壊れない。僕は今日、あなたが届かなかった場所まで行く」
彼が求めるのは英雄の名声ではなかった。父が手に届かなかった「圧政からの自由」。それだけを欲していた。
階下へ降りると、母シルヴィア・ライムが食卓に座っていた。
かつて彼女は貴族の生まれで、士官学校でロンバルティアの父・エルヴィンの同期だった。帝国の圧政に苦しむ民を救うため、エルヴィンとともに解放軍としてと立ち上がった同志の一人であり、彼の恋人だった。エルヴィンの死後、密かに妊娠していた彼女はロンバルティアを産み、育てた。帝国の記録上、シルヴィア・ライムは存在しない。本名は別にある。別の名前の記録には「反乱軍に参加した裏切り者、行方不明」とある。
母シルヴィアはパンを千切る手を止めず、息子の気配だけで口を開いた。
「今日、決行ね」
「ああ。アルビオンが戻る。準備は整った」
ロンバルティアは向かいに座り、簡素なスープに匙を入れた。母の灰色の瞳が、射るように自分を見ていた。
「クロムを捕らえる。成功の見込みは七割だ。残りの二割は撤退の道を確保してある」
「最後の一割は」
「僕の命と引き換えになるかもしれない」
シルヴィアの手が、一瞬だけ止まった。パンを強く握りしめたまま、絞り出すような声で言った。
「……一割。その一割が、私にとっては世界の全てだということが、お前には分かるか」
彼女の心は今も十八年前の戦場に置き去りにされていた。愛したエルヴィン。彼を支えた自負があった。しかし彼女が教えた騎士としての誇りは、帝国の物量と冷酷な策略の前に敗れ去った。彼は敗戦の間際、妊娠しているシルヴィアを命がけで脱出させた。夫を死なせたのは自分だったでのはないか。そう自問し続ける日々が、十八年間続いていた。
「お前を誰よりも強く育てた。帝国騎士の技も、戦術の機微も、すべて叩き込んだ。しかし心のどこかで、お前がその力を使わずに済む世界を願っていたのも事実だ」
シルヴィアは続けた。
「エルヴィンも、決戦の朝に同じ顔をしていた。……死なないで、ロン。勝利がなくてもいい、大義が潰えてもいい。生きて、この家に帰ってきなさい」
ロンバルティアは食卓越しに母の手を取った。その掌の厚みは、もはや守られるだけの子供のものではなかった。
「怖がらないでくれ、母さん。僕は大事な人を残して倒れるつもりはない」
声は静かだった。しかし迷いがなかった。
「一割の死を恐れて九割の未来を捨てるのは、僕の計算にない。怖いままでも動くことができる。それは母さんが教えてくれたことだ。……誓う。必ず生きて戻る。自由の空の下で、また一緒にパンを食べよう」
シルヴィアは息子の言葉の中に、亡き夫にはなかったものを見た。執念に近いほどの生への意志だった。それが彼女の胸を、痛みと誇りが入り混じった形で打った。
「……『怖いままでも、動くことはできる』か。エルヴィンも同じことを言っていたな」と彼女は言った。「言い方まで似ている」
シルヴィアは立ち上がり、壁に立てかけてあった一振りの剣を息子に差し出した。
「昨晩磨いておいた。刃に欠けはない。……行きなさい」
ロンバルティアがこの覚悟を手に入れるまでの十年間、彼を導いたのは母だけではなかった。
八歳の時、街の外れの廃屋に住む老人、フォーマルハウトと出会った。どこから来たのか、本当の名は何か、誰も知らない人物だった。しかし彼の語る言葉には、この世界の外側を知る者だけが持つ、不思議な深みがあった。
フォーマルハウトがラファの廃屋に住み始めたのがいつのことか、街の誰も正確には知らなかった。
気づいたら、いた。それが街の人々の共通した記憶だった。
廃屋は街の外れの、人通りの少ない場所にあった。壁の一部が崩れており、屋根も雨漏りがした。しかし老人はそこを掃き清め、崩れた壁を積み直し、屋根の穴を塞いで住んでいた。
近所の子供たちが最初に近づいたのは、好奇心からだった。
不思議な老人が廃屋に住んでいる、という噂は子供の間で広まりやすい。何人かが偵察に来た。
老人は追い払わなかった。
かといって、歓迎もしなかった。
ただ、本を読んでいた。
子供が「何を読んでいるの」と聞くと、「字が読めるか」と逆に聞いてきた。読めると答えた子には本を見せた。読めないと答えた子には「では教えよう」と言った。
そういう形で、老人は街の子供たちに関わるようになった。
教えることを、老人は厭わなかった。
ただし、教える相手を選んだ。
やみくもに全員に教えるわけではなかった。来た子供を観察し、何かを見出した者だけに関わった。
何を見出しているのかを、老人は説明しなかった。
「全部を教えてほしい」
ある日、そう言ってきた少年に、老人は皺だらけの顔をわずかに緩めて言った。
「全部、か。よかろう。しかし知識は劇薬だ。一度持てば、無知という幸福には二度と戻れん。その重荷を背負う覚悟があるか」
「幸福など、ラファのどこを探しても見つかりませんでした。僕は重荷を背負ってでも、道を切り開くための目が欲しい」
それからの十年間、フォーマルハウトはロンバルティアに帝国が隠してきた歴史の真実、諸国の政治の機微、各国の言語、様々な薬学、さらにありとあらゆる雑学、そして人の心の動かし方を授けた。母が教えた剣が技術であるならば、老人が授けたのは世界を俯瞰する視座だった。
十八歳の別れの日、フォーマルハウトは静かに言った。
「お前は優れた理を手に入れた。しかし人は理屈だけでは動かん。理屈と感情が同じ方向を向いた時に、初めて火が点く。お前自身の感情を、隠すな」
「感情を見せれば、指導者としての隙になりませんか?」
「逆だ」老人は言った。「隙を見せない者は、誰からも愛されん。お前が何かを失う覚悟を見せた時、震えるほど何かを愛する姿を見せた時、人は初めてお前のために動く。完璧な機械には、誰もついていかんのだ」
母から受け取った鋭く光った剣を腰に差し、ロンバルティアは玄関の戸口に立った。
空はすっかり明るくなっていた。ラファの街には、いつもと変わらない絶望の日常の音が響き始めていた。
「行ってくる、母さん」
「……ええ」
シルヴィアはあえて息子を抱きしめなかった。今抱きしめれば、騎士の仮面が剥がれ、ただの母として彼を引き留めてしまうと分かっていたからだ。
門を出て、人の流れに混じっていくロンバルティア。
首元のアミュレットの青い宝石が、昇り始めた朝の光を静かに受けて輝いた。
ラファは今日も、死んでいるように見える。
しかしその心臓を再び動かすための秒読みは、すでに始まっていた。
「見ていてくれ、フォーマルハウト師匠。見ていてくれ、父さん。……今日、この街に火を灯す」
静かな決意を帯びた足音が、石畳を踏み、未来へ向かって進んでいった。




