第四幕・下 東部戦線を駆ける鷲⑤
第五章 第五騎士団
独立傭兵隊B中隊が、帝国正規軍「第五騎士団」として再編されることが正式に公示された翌朝。
帝都ミレーニアの西区に仮設された第五騎士団駐屯地。そこのロートの執務室に、一人の男がノックもそこそこに踏み込んできた。副長のアラン・モールだった。
その顔は、ハール城の城門を抉じ開けた時よりも険しく、どこか迷子のような困惑の色を浮かべていた。
「どうした、アラン。朝からそんな顔をして」
ロートリットは山積みになった書類から目を上げずに問いかけた。
「……隊長。今さっき届いた通達を読んだ。俺が……貴族だと? 『ヴィニュロー・フォン・モール』なんて、舌を噛みそうな名前がついてやがる」
アランの声は低く、拒絶の響きを含んでいた。
「ああ。騎士団の再編に伴い、上位士官には相応の地位が必要になる。副長であるお前が貴族位を受けるのは、軍政上の必然だ」
「……いらねえよ、そんなもん」
アランは吐き捨てるように言い、ロートリットの机を両手で叩いた。
「俺は農家の五男坊だ。食い詰めて、剣一本で這い上がってきた叩き上げの傭兵だ。俺たち平民にとって、貴族ってのは私腹を肥やすために民から税を絞り取る、憎むべき敵なんだ。それと同じ側になれってのか? そんなの、反吐が出る」
ロートリットは筆を置き、ゆっくりと背筋を伸ばしてアランを見た。
「貴族のすべてが敵ではない。だが、お前が守ろうとしている矜持は理解できる。仲間の平民兵たちとの間に、地位という壁ができるのを恐れているのだな」
「当たり前だ! ジャンも、ラサールも、泥にまみれて一緒に飯を食ってきた。俺一人が銀の皿で食事をするようになれば、あいつらは俺に本音を話さなくなる。俺は、変わりたくねえんだ」
アランの瞳には、かつて「狂犬」と呼ばれた凶暴さではなく、仲間を想う愚直なまでの誠実さが宿っていた。ロートリットはしばらく沈黙し、それからわずかに口角を上げた。
「一度与えられた貴族位を断るのは難しい。ならば、こうしよう。貴族位は軍事的な名目として受領するが、お前の生活様式は一切変えさせない。生活規定の例外を私が認めよう。お前はこれからも、兵士たちと同じ天幕で寝起きし、同じ大鍋の飯を食えばいい」
「……そんなことが通るのか?」
「名前だけ貴族。実態は傭兵時代のまま。文句を言う奴がいれば、騎士団長である私がすべて説き伏せる。お前が私の副長であり続けるためには、その肩書きという『重荷』を背負ってもらう必要があるのだ。協力してくれないか、アラン」
アランは虚を突かれたように目を見開き、それから頭を乱暴に掻いた。
「……ったく。あんたのその、理屈をこねくり回して人を動かすやり口には勝てねえな。分かったよ、引き受けてやる。その代わり、俺の部屋を豪華にしようとしたら、その家具を全部訓練場に放り出すからな」
「ああ。私の部屋も質素なままだ。約束しよう」
「……ふん。なら、まあ、仕方ねえな」
アランはそっぽを向いたが、その耳の端は赤く染まっていた。ロートリットは再び書類に視線を落とした。その口元に、部下には決して見せない、春の陽光のような微かな微笑が浮かんでいたことに、アランは気づかなかった。
第五騎士団の結団式は、春の暖かな光が降り注ぐ帝都ミレーニアの中央広場で執り行われた。
帝都の民衆が幾重にも取り囲む中、広場を埋め尽くしたのは、一糸乱れぬ隊列を組んだ千人の将兵たちだった。
ロートリットはその先頭に立ち、まばゆいばかりの白銀の板金鎧を身に纏っていた。かつての機能性重視の革鎧とは異なり、テンペスト家当主として授与されたその鎧は、白銀の地に青い意匠が施され、白地に金の刺繍がなされたサーコートには雷光を抱く鷹の家紋が美しく浮き彫りにされている。
そして、その肩に翻るマントは、南方から共に戦い抜いてきた紺碧のままであった。
ロートリットはゆっくりと演台に上り、千人の顔を見渡した。
砂漠の乾きを共に耐えたジャン。東部の激流を共に渡ったラサール。幾多の戦場を潜り抜け、生き残った者たちの瞳が、かつてない期待と信頼を持って自分に向けられている。
「我ら第五騎士団は、今日この時をもって、帝国の正式な盾となる」
ロートリットの声は、魔法の拡声を使わずとも、広場の隅々まで凜として響き渡った。
「だが、諸君にこれだけは言っておく。名前が変わり、鎧が新しくなったところで、お前たちの本質は何も変わらない。いや、変えてはならない」
民衆がざわめく。騎士団としての忠誠を説く場において、彼女の言葉は異質だった。
「諸君は傭兵だった。金のために剣を振るい、故郷の家族に糧を送るために死線を越えてきた者たちだ。私はその泥臭い誇りをこそ、慈しむ。家族を生かすために戦うという理由は、どんな高潔な騎士道よりも重く、真実だ。第五騎士団は、名誉のために戦う組織ではない。今日ここにいる仲間を、そしてこの帝国に生きる民を、誰一人取りこぼさぬために存在する『家』である。私はこれからも、お前たちの隊長として、お前たちの家族として、最前線に立ち続ける。我が第五騎士団に、栄光あれ」
一瞬の静寂。
その静寂を破ったのは、副長のアランだった。彼は一歩前に出ると、自身の大剣を抜刀し、右胸に当て天を指した。騎士の敬礼だった。
「第五騎士団に――栄光あれ!」
「栄光あれッ!!」
ジャンが、ラサールが、続いて千人の兵士たちが一斉に抜刀し、刀礼の構えを行った。それは帝国の権威にひれ伏す音ではなく、自らの居場所を守り抜くという、魂の共鳴であった。
ロートリットは目元を熱くし、震える手を隠すように、同じ騎士の礼を返した。
春の風が紺碧のマントを大きく揺らした。白銀の鎧に反射した陽光が、暗い過去を塗り潰すように白く、強く、帝都の石畳を照らしていた。
その夜、ロートは一人、懐かしい「家」を訪れた。第一騎士団長、グレイドル・アルデン・フォン・グランシールの屋敷である。
三年前、ここを出る時は士官学校を次席で卒業しながらも、血の『穢れ』が明るみになり、帝都を一人で去った。今、テンペストの家紋を背負う騎士団長として戻ったグランシール邸は、驚くほど何も変わっていなかった。
大理石の廊下の冷たさ、壁を飾る無骨な鹿の剥製。そのすべてが、十五年前の冬、雪の馬車に揺られて辿り着いたあの日を呼び覚ます。
台所からは、不意に懐かしい香りが漂ってきた。
「……コルベルトか?」
ロートリットが声をかけると、白髪が一段と増えた老料理長が、オーブンから天板を引き出しながら顔を上げた。
「ええ、ロートリットお嬢様。……いえ、騎士団長閣下。お帰りなさいませ」
「ここでの私は、ただのロートだ。それより、その香りは……」
「お嬢様のお好きな、アップルパイでございます。今ちょうど焼き上がりましたよ。冷めないうちに食堂へ」
食堂では、グレイドルが一人、暖炉の火を見つめて待っていた。
三年の月日は、帝国最強の老将の肩をわずかに細くしていた。だが、ロートリットが席に着き、背筋を伸ばして一礼すると、彼の鋭い瞳には往年の覇気が戻った。
「……よくやった、ロート。お前が南方と東部で上げた戦果、そして今日の演説、すべて耳に入っているぞ」
「御屋形様のご指導と、あの日、私を救ってくださった慈悲があったればこそです」
「わしは本を数冊送ったに過ぎん。あのハール城の閂を叩き折ったのは、お前自身の意志だ」
グレイドルは少し笑った。その低く地響きのような笑い声は、ロートリットが幼い頃、初めて「御屋形様、この剣は重すぎます」と不満を言った時に見せたものと同じだった。
グレイドルは、手元の冷めた茶を一口啜り、不意に視線を遠くへ向けた。
「……ゼイラムはな」
実の父の名前が出た瞬間、ロートリットの肩が僅かに揺れた。
「刑場へ向かう直前、わしと最期の言葉を交わした。あいつは、ただ一言、『娘を頼む』と。……それだけをわしに託して、笑って逝ったよ」
ロートリットは初めて聞くその事実に、息を呑んだ。
「ゼイラムは確信していたのだ。お前がいつか、テンペストの名を誰にも恥じさせぬ、気高く強い騎士になることを。今日のお前の姿を見れば、あの頑固な親友も、さぞかし鼻を高くしていることだろう。……お前は、あいつの願いを完璧に叶えてみせた」
ロートリットは答えられなかった。
視界が不意に歪んだ。今度は抑えなかった。溢れ出した涙が頬を伝い、白銀の胸甲に落ちて砕ける。
十五年前、絶望の淵にいた少女を救ったのは、父の親友の、不器用で深い愛情だった。
台所から、コルベルトが焼きたてのアップルパイを運んできた。
甘いリンゴとシナモンの香りが、重苦しい沈黙を優しく包み込んでいく。
かつて赤い髪の少女――シェルファニールが「仲良くしましょうね」と笑い、半分に分けてくれたあの味。
そのシェルファニールは、今は別の場所にいて、別の道を歩んでいる。
しかし、あの雪の夜に始まった絆は、決して断ち切られてはいなかった。
形を変え、時には傷を負い、それでもなお続いていく。
ロートリットは、差し出されたパイを一口、ゆっくりと口に運んだ。
熱い果実の甘みが、喉の奥を、そして心の底を温めていく。
それは、彼女が「テンペスト」として、そして一人の「娘」として、新しい時代の扉を開くための、祝福の味であった。




