第四幕・下 東部戦線を駆ける鷲④
第四章 英雄の凱旋
帝国歴三百三十七年、秋。
ハール城陥落とドレヴァ渓谷での劇的な勝利の報は、帝都ミレーニアを震わせた。
それは単なる軍事的な勝報ではなかった。丸一年にわたる膠着という重苦しい閉塞感を、正規軍ではない「独立傭兵隊」が、それも「逆賊」の烙印を押された家門の末裔が打ち破ったという事実は、帝都に住む民衆にとって格好の熱狂の火種となった。
帝都ミレーニア。白亜の城壁を誇るその巨大な門へ向かう街道を、傭兵団B中隊の一団が進んでいた。
三年前、逃げるように帝都を去った時とは、すべてが違っていた。
街道の入り口から帝都の正門に至るまで、信じられないほどの群衆が埋め尽くしている。民衆は色とりどりの布を振り、兵士たちの無事を祝う叫びを上げていた。
「……何だ、これは」
最前列で愛馬を進めるロートが、困惑に声を震わせた。
その背には、愛用の鋼色に輝く大剣と、テンペスト家の碧紺のマントが翻っている。描かれた金の鷲が、晩秋の陽光を受けて眩しく輝く。
「決まってるだろ。歓迎だよ、隊長。俺たちの帰還を、この街中が待ち侘びていたんだ」
隣を歩くアランが、少し得意げに、それでいて感慨深そうに笑った。
「なぜだ。私たちはただ、任務を果たしただけに過ぎない」
「民衆にとってはそうじゃない。正規の騎士団が一年間攻めても、落とせなかった鉄壁の城を落とした。それも、高慢な貴族の騎士様じゃなく、自分たちと同じ平民の寄せ集めがな。さらに言えば……」
アランは声を潜め、周囲の熱気を示すように顎を振った。
「平民のために戦って散ったお前の兄、エルヴィン・テンペスト。その息子を悲憤の涙を流しつつ斬ったお前の父、ゼイラム・テンペスト。その血に連なる残された娘、ロートリット・テンペスト。英雄の物語の再来だよ。民は、こういう熱狂に飢えていたのさ」
群衆の中から、誰かが叫んだ。
「テンペスト! 雷光の鷲の末裔だ!」
その声は一瞬で伝播した。
「テンペスト!」「テンペスト!」「テンペスト!」
かつては憎悪、あるいは沈黙と共に囁かれたその名が、今は地鳴りのような歓声となって帝都を揺らしている。
ロートは前を見据えた。視界が、不意に歪んだ。
熱いものがこみ上げてくる。それは砂漠の砂による刺激でも、川の冷気によるものでもない。
記憶の中にあるのは、父が処刑され、家門が引き裂かれた日の、あの冷たい嘲笑と罵声だけだった。それから十五年。自分はただ、この名前を「呪い」ではなく「誇り」として持ち歩くために死線を越えてきた。
「……アラン、ラサール。旗を、高く掲げろ」
震える唇を固く結び、ロートが絞り出すように命じた。
「言われなくても、掲げるさ。掲げなきゃ、この歓迎の嵐に飲み込まれちまう」
アランがテンペストの家紋が入った軍旗を力強く掲げ、反対側ではラサールが、汚れ、傷つきながらも勇壮なB中隊の旗を天高く突き上げた。
二つの大きな旗に先導され、独立傭兵隊は帝都の目抜き通りを、一歩、また一歩と誇り高く踏み締めた。
民衆が花を投げ、名前を呼ぶ。
ロートは涙をこぼさぬよう、ただ前だけを向き、唇を噛み締めていた。その表情は、どんな戦場よりも険しく、そして気高かった。
三日後。ロートは皇帝アトラス三世への謁見に臨んだ。
白大理石の床に軍靴の音が響く。玉座の間は、かつて士官学校の卒業式で見た時と同じ、重苦しいまでの威厳に満ちていた。
両側には、煌びやかな礼装に身を包んだ廷臣たちが立ち並ぶ。その中には、複雑な表情を浮かべるグレイドル将軍の姿があり、さらにその後方には、一際鋭い眼差しを向けるシェルファニールの姿もあった。
「南部方面軍・独立傭兵隊B中隊隊長、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト。御前に参上いたしました」
ロートが深々と頭を下げると、豪奢な外套に包まれた老皇帝が、ゆっくりと口を開いた。
「面を上げよ。……ロートリット・テンペスト」
その声は枯れ木のようであったが、眼光には老練な覇気が宿っていた。
「貴官の戦功、聞いた。南方の砂塵に耐え、東部の難攻不落を落とした。かつて余の不興を買い、霧の彼方に消えた一族の末裔が、これほどの武功を立てるとはな」
「すべては、共に戦った部下たちの力にございます」
「……謙虚だな。だが、事実は曲げられぬ。民衆の声を聞いたか。彼らは貴官を、帝国の新たな盾と呼んでいる」
皇帝は玉座に座り直し、広間に響き渡る声で宣言した。
「余は決定した。テンペスト家への恩赦を発する。ロートリット・シュトラム・フォン・テンペストを、正当なる家門の当主として認め、騎士爵を復権させる。そして――」
廷臣たちの間に、氷が割れるような動揺が走った。
「傭兵隊B中隊は、独立した正規騎士団として再編する。名は『第五騎士団』。ロートリット・シュトラム・フォン・テンペストをその初代団長に任命する」
「陛下!」
廷臣の一人が声を上げようとしたが、皇帝の鋭い一瞥に沈黙した。
グレイドル将軍が、その場でわずかに目を細めた。それは、彼が心から安堵した時に見せる、微かな、そして確かな微笑だった。
「……謹んで、拝命いたします。陛下」
ロートは再び、深く首を垂れた。
「テンペスト」の名が、呪いから「使命」へと変わった瞬間だった。
謁見を終えたロートが、長く荘厳な廊下を歩いていると、曲がり角で一人の女性が立ちはだかっていた。
第一騎士団制式の赤い軽鎧と白いサーコートを纏い、燃えるような赤い髪を漆黒のリボンで束ねたシェルファニールだった。
三年の歳月は、彼女の美しさに鋭さを加えていた。燃え上がるような誇りと、一切の不正を許さぬと誓った瞳。二人は、かつて共に夢を語った幼年学校の廊下を彷彿とさせる距離で立ち止まった。
「……おめでとう。と言っておくわ。テンペスト団長殿」
シェルファニールが先に口を開いた。その声は、相変わらず冷徹で、しかしどこか弾んでいた。
「ありがとう。……上奏の件、私の部下から聞いた。礼を言う」
「礼なんていらないわ。言ったはずよ、わたしは嘘が嫌いなだけ。あの報告書は、帝国の騎士道に対する冒涜だった。だから、正した。それだけのことよ」
「知っている。お前はそういう奴だ」
ロートが静かに答えると、シェルファニールは眉を寄せ、鋭い眼差しを投げた。
「……言っておくけど、私はまだ怒っているのよ。士官学校のあの試験、あなたの勝手な『判断』でわたしを置き去りにしたこと。一生、許すつもりはないんだから」
「……ああ。それは、お前が決めることだ」
「ふん。相変わらず可愛げのない言い方ね。……少しは日焼けして、たくましくなったみたいだけど、中身は全然変わっていない」
シェルファニールはロートを上から下まで眺め、最後にその肩に翻る碧紺のマントに視線を止めた。
「……そのマント、似合っているわよ」
「グレイドル将軍から頂いた。お前も知っているのだろう」
「ええ。お父様が嬉しそうに話していたわ。『やはり、雷光の鷲の紋章はあの子に相応しい』ってね」
ふっと、沈黙が降りた。
廊下の窓からは、秋の柔らかい光が差し込み、二人の影を長く伸ばしている。
「……シェルファ」
「なに?」
「話したいことが、たくさんある。今日でなくてもいい。お前の怒りが、少しだけ静まった時でいいから。昔みたいに、夜通し語り合いたい」
「……昔みたいに?」
シェルファニールは少しだけ視線を逸らした。
「私たちはもう、ただの学生じゃないのよ。あなたは第五騎士団団長。私は第一騎士団副長。対等な、ライバルよ」
「それでも、話したいんだ。御屋形様の屋敷にいた時のように。士官学校の時のように。これから先のことも。……私には、お前が、必要なんだ」
「…………」
シェルファニールは答えず、踵を返した。赤い髪が、翻る。
三歩歩き、彼女は足を止めた。振り返りはしなかったが、その声は廊下の壁に反響して、不思議な温かみを帯びていた。
「ロートリット・テンペスト!」
「……ああ」
「その名前……捨てなかったのね」
「ああ。お前に言われた通り、捨てなかった。捨てなくて……本当によかったと思っている」
「……そう。なら、いいわ」
シェルファニールは再び歩き出した。今度は止まらなかった。
「考えておくわ! その『話し合い』ってやつ!」
その声は少しだけ震え、弾んでいた。赤い髪が廊下の角に消えていくのを、ロートはいつまでも、見送っていた。
アランが後方から歩み寄り、ロートの隣に立った。
「良い友人だな」
「……ああ。…私は、彼女に少しは、許してもらえただろうか」
ロートは碧紺のマントを翻し、前を向いた。
帝国の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
テンペストの名を冠した新たな伝説が、今、ここから始まろうとしていた。




