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第四幕・下 東部戦線を駆ける鷲③




第三章 川岸の夜




 ベレジナ川の強行渡河を終え、ヒュルトゲンの森の包囲を切り裂いた祝祭の裏側で、B中隊の面々は凍えるような現実に直面していた。


 夕闇が迫る川岸。戦場から引き揚げたばかりの兵士たちは、泥と水に濡れた体を震わせ、立ち上がる焚き火の煙を必死に追いかけていた。


 隊長であるロートもまた、川辺の平らな石の上に腰を下ろし、凍りついたように動かなくなっていた。彼女の愛用の革鎧は、水を吸って鉛のように重く、その下のプールポワンは冷気を内側に閉じ込める氷の器と化している。


 ガチガチと、奥歯が勝手に音を立てる。指先の感覚はとうに消え、大剣を握りしめていた掌には、水膨れと裂傷が痛ましく刻まれていた。


「……死にそうな顔だな、隊長」


 低く、どこか呆れたような声と共に、厚手の羊毛のマントがロートの肩を包み込んだ。


 見上げると、そこにはアランが立っていた。彼もまたずぶ濡れのはずだが、その体からは湯気が立ち上り、不屈の生命力を誇示している。


「あ、アランか……。だ、大丈夫だ。少し、こ、呼吸を整えて……」


「唇が紫色だぞ。呼吸を整える前に、まず自分を温めろ。今のあんたは、戦術を語る指揮官じゃなくて、川に落ちた野良猫だ」


 アランは強引に彼女の隣へ座り込むと、焚き火の薪を蹴って火を強めた。パチパチと爆ぜる音が、夜の静寂に響く。


「……暖かい飯を、持ってこさせよう。それと、強い酒もな」そう言って、アランは近くにいた兵士に用を伝えた。


「……すまない、アラン。恩に着る」


 ロートはアランに掛けて貰ったマントの端をギュッと握り、焚き火のゆらめきを見つめた。羊毛のマントはほんのりと温かく、戦う男の汗の匂いがした。不思議と嫌な気持ちはしなかった。


「……川を渡りながら戦う。戦術書の一節をなぞるだけなら簡単だが……実際にやってみると、想定外のことばかりだった」


「想定外、とは?」


「……水温だ。十月の水の冷たさが、これほどまでに思考を停止させるとは。……どんなに本を読み漁っても、指先の感覚が麻痺する感覚までは、文字になっていなかった」


 アランは豪快に喉を鳴らして笑った。


「ははっ! あの『情報の獣』ともあろうお方が、川の温度まで計算に入れ忘れたか。……川に入った瞬間のラサールの顔を見たか? 『俺の心臓は今にも止まりそうだ』って顔をしてた。あんたも似たようなもんだったぞ」


「……そんなバカな。私は冷静に……」


「冷静に凍えてたな。眉間に皺を寄せたまま、瞬き一つせずに凍りついてた。俺から見りゃ、お前ら二人とも同じ顔をして川底の石を踏み締めてたよ」


「……証人がいないことをいいことに、適当なことを言うな」ロートは、自分の顔が赤くなるのが分かった。


「俺が証人だ。副長の言葉は重いんだぞ」


 アランの言葉に、ロートはわずかに口角を上げ、温まり始めた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


「……アラン。今回の作戦、副長としての率直な評価を聞かせてくれ」


 アランは焚き火の枝を弄りながら、少しだけ真剣な表情になった。


「……川渡りの発想は最高だった。敵の意識を背面に固定し、心理的な盲点デッドスポットを突いた。あの一撃がなければ、森の中の連中は全滅していただろう。だが、伝令にジャンを一人で行かせたのは……あれは、薄氷を踏む判断だったな」


「ジャンは、あの中隊で最も気配を消すのが上手い」


「わかってる。適性で言えばあいつしかいなかった。だがな、もしあいつが途中で捕まっていれば、川を渡っていた俺たちは、岸に上がった瞬間に殲滅されていただろう。隊長。あんたは時々、個人の技量に頼りすぎる癖がある」


「……ジャンを、信じていたからだ」


「信じることと、リスクの管理は別だ。ジャンのような機転の利く若手は、中隊の未来だ。あいつを失うのは、そこらへんの剣を一本折るのとはわけが違う。次からは……複数の伝令を、別ルートで走らせろ。それくらいの手間を惜しんじゃいけねえ」


 ロートは、アランの言葉を噛み締めるように頷いた。


「……お前の言う通りだ、アラン。私は、兵士一人ひとりの命を駒として数えていたのかもしれない。……傲慢だった。修正する。努力しよう」


「『善処する』じゃなくて『努力する』、か。……なら、いい」


 アランは焚き火から立ち上がり、炊き出しの大きな鍋を運んでくる兵士たちに手を振った。


「ほら、食え。懐かしい南方の酒もある。さっさと飲んで温まれ」



 翌朝。朝靄あさもやが立ち込める中、昨夜の激しい包囲戦から生き延び、無事に生還できた部隊と共に、一人の小柄な影がB中隊の陣営に帰還した。


 ジャンだ。彼は帝国正規軍の汚れたマントを羽織り、ひどく疲弊した様子だったが、その瞳には達成感が宿っていた。



「……よお、B中隊の一番星。無事だったか」


 アランがジャンの肩を乱暴に叩く。


「ひどい目に遭いましたよ。……包囲を抜ける時より、脱出した後のほうが大変だったんですから」


 ジャンはロートの前に立ち、少し困ったように頭を掻いた。


「隊長……報告があります。森から脱出した部隊の指揮官に捕まって、根掘り葉掘り聞かれました。『あの川を渡ってきたイカれた部隊はどこだ』って」


「それで、何と答えた」


「包囲網に風穴を開けたのは、南部方面軍所属、独立傭兵隊B中隊のロートリット・テンペストだと。……そしたら、その指揮官が、変な顔をしましてね」


 ジャンは周囲を気にしながら、声を潜めた。


「『テンペスト……、あの逆賊の一族か』って呟いてました。でも、その後でこう言ったんです。『あの一族の末裔が、帝国のために、泥水を啜りながら川を渡ったのか。それを自分はどう評価すればいいのか分からない』と」


 ロートは無言で、薪の燃えカスを見つめた。


「褒めているのか、それとも、侮蔑か」


「……どちらでもない、不思議な顔でした。でも、最後にはこう付け加えましたよ。『あの自らの命を顧みない勇敢な戦い方は、まるで地獄で天使に会った気分だった。名前がどうあれ、あれは本物の騎士の戦い方だ』とね」


 アランがロートの顔を覗き込む。彼女の表情は読めなかったが、握り締めた手の力がわずかに緩んだのを、彼は見逃さなかった。


「……そうか。ならば、川を渡った甲斐もあったというものだ」


 ロートはそれだけ言うと、立ち上がって軍装を整え始めた。






 翌日、ハール城の城門を背にした特設の司令天幕。ロートは、再びカルノワ将軍の前に立っていた。


 天幕内は将軍一人のみ。昨日まで彼女を罵っていたヴィルヘルムら参謀たちの姿はなく、静謐せいひつな沈黙が流れていた。


「……昨日の戦い。実に見事であった」


 カルノワが、重厚な声を響かせた。


「北側からの強行渡河。わしも、そして机上の空論ばかりを並べる参謀共も、誰一人として想定していなかった。ドゥクラの先行偵察に始まり、今回の奇襲……貴公がいなければ、今頃、第三騎士団は壊滅、東部戦線は帝国軍の墓場となっていただろう」


「私は、与えられた戦力で勝利を導いただけです。称賛には及びません」


謙遜けんそんは美徳だが、時には毒になるぞ」


 カルノワは少しだけ表情を和らげ、机の上に置かれた公式報告書の草案をロートに示した。


「……この報告書には、B中隊の独断……いや、独創的な立案と実行によって、八百の命が救われたと、克明に記した。これだけは、何者にも書き換えさせん。わしの名にかけてな」


 ロートは、ハッとして顔を上げた。


「……ハール城の件では、正確な記録が残せなかったことを詫びたい。あの時は、わしの目が届かぬところで帝都の圧力がかかった。……わしは、武人としてあの不誠実を恥じている」


 カルノワの告白に、ロートは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……将軍が詫びることではありません。私は、目の前の部下たちが生き残ったことだけで、報われております」


「……ふむ。やはりお前は、ゼイラムによく似ているな」


 カルノワは懐かしげに目を細めた。


「あいつも、自分への評価には無頓着で、部下が腹いっぱい飯を食えているかどうかだけを気にするような男だった。……逆賊の名を継いでも、本質は変わらぬか」


 ロートは何も答えなかった。しかし、父の名がカルノワの口から温かな響きを持って語られたことに、救われたような気がした。


「……将軍、一つ伺ってもよろしいでしょうか。今後の東部戦線、どう動くと見ておられますか」


「しばらくは膠着こうちゃくだろうな。今回の包囲劇で、我が軍の拙速な進軍意欲は完全に削がれた。敵もまた、ハール城という拠点を失った痛手は大きい。双方が守りを固め、冬を待つことになるだろう」


 カルノワはロートを真っ直ぐに見据えた。


「……B中隊も、一度後方へ下がれ。お前たちは働きすぎた。戦うことだけが騎士の務めではない、休むことも、また役割だ」


「――承知いたしました。ご配慮に感謝します」





 天幕を出ると、アランが柱に寄りかかって待っていた。


「どうだった、ジジイの説教は」


「説教ではない。……報告書に、私たちの戦功を正しく記録すると約束してくれた」


「……本当かよ。あいつも、少しは良心が戻ってきたのかね」


 アランは嬉しそうに鼻を鳴らし、ロートと並んで歩き出した。


「アラン」


「なんだ?」


「……お前は、あの激流の中で戦っていたとき、何を考えていた?」


 不意の質問に、アランはキョトンとした顔をした。


「……おかしなことを聞くな。何をって、別に何も。……ただ、足元の石が滑らないようにすることと、目の前の敵の首をどう落とすか、それだけだ。考える余裕なんて、あの冷たい水の中に置いてきたよ」


 アランは笑って、逆に問い返した。


「隊長はどうだったんだ? また、古代の将軍、バルカスの戦術書の暗唱でもしてたのか?」


「……私は、川底の石の形を確かめながら、向こう岸の敵の弓兵が、次の矢をつがえるまでの時間を数えていた。水の冷たさに、凍えながらな」


「…………」


 アランは足を止め、心底呆れたように天を仰いだ。


「……隊長、おまえ本当に人間か? あの氷みたいな水の中で、よくそんな冷静でいられるな。もはや怖いぞ」


「私は人間だ。……冷静でいなければ、死ぬ。それだけのことだ」


 ロートが少しだけ憮然として言い返すと、アランはしばらく彼女の顔をじっと見た後、呆れたような中にも、はっきりと尊敬するような表情をして言った。


「……いや、それがおまえの強さだ。俺は現場で瞬間的に動くことしかできない。だが、隊長はその瞬間が訪れるまでの『正解』を常に探している。……だからこそ、俺たちは隊長についていけるんだ。誰も死なせずに済むって、信じられるからな」


「……褒めているのか?」


「最大限の称賛だ。……おっさんの分かりにくい褒め言葉だがな」


「……ありがとう、アラン。……単なる事実の指摘かも知れんが、礼を言う」


 東部の空は高く、秋の澄んだ光が戦場の惨状さえも慈しむように照らしていた。


 駐屯地からは、B中隊の炊き出しの匂いが漂ってくる。


 暖かいスープの匂い。

 仲間たちが笑い、生きている実感を噛み締める音。





 それから五日後。


 夕映えの中、B中隊の元へ、一通の命令書が届いた。


 それは、――帝都ミレーニアへの、帰還命令だった。


 ロートはその命令書を読み、深く、深く息を吐いた。

 帰れる。帝都へ。御屋形様に会える。コルベルトのアップルパイが懐かしい。

 

 帝都に帰れば、シェルファニールに会える。

 彼女に、シェルファニールに会いたい。


 ロートは、懐かしいシェルファニールの深紅に燃える瞳を思い出した。










 東部の霧は晴れた。


 ハールの城跡に別れを告げ、彼女たちは帝都へと凱旋する。


 肩に翻る碧紺のマントが、勝利を祝う風に踊った。






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