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第四幕・下 東部戦線を駆ける鷲②




第二章 変わる戦局





 ドゥクラ渓谷の「石の棺桶」を命からがら抜け出し、B中隊の偵察隊が本陣へ帰還したのは、東の空が白み、冷たい霧が陣営を包み込んだ頃だった。


 ロートの革鎧は夜露に濡れ、走り抜けた際の泥が膝までこびりついている。彼女は休息も取らず、そのままカルノワ将軍の執務天幕へと踏み込んだ。


「――報告します。渓谷は死の罠です」


 ロートの声は、極度の緊張と疲労により、硬く冷たい石を擦り合わせたような響きを持っていた。彼女は地図上に、昨夜確認した斥候の位置と、崖上に潜んでいた伏兵の気配を迅速に書き記していく。


 カルノワ将軍は眉間に深い皺を刻み、沈痛な面持ちでその図面を見つめた。


「……四千が、あそこで詰め殺されるところだったか」


「たかが傭兵の『予感』を、そこまで重く受け止める必要はありませんな、閣下」


 遮るように、皮肉に満ちた声が響いた。


 昨日もロートを罵ったあの痩身の参謀、ヴィルヘルムだった。彼は磨き上げられた軍靴を鳴らし、優雅な仕草でロートの書いた地図を払いのけた。


「たった三十人の小隊で、暗闇の渓谷を覗き見て何が分かったというのだ。敵の斥候が二人? 崖の上に足音? ハッ、野うさぎの足音を見張りの軍靴と聞き間違えたのではないか、テンペスト隊長。いや、あるいは……我ら正規軍の進軍を遅らせ、敵に時間を稼がせるための虚報きょほうという可能性も捨てきれんな。なにしろ、貴公の血管には逆賊の血が流れているのだから」


 アランが激昂し、剣の柄に手をかけた。だが、ロートはそれを片手で制した。彼女の瞳は、ヴィルヘルムという人間を通り越し、ただ戦術的な合理性のみを射抜いている。


「参謀。私の血筋を疑うのは貴公の自由だが、戦場において主観的な憎悪を優先させるのは無能の極みだ。崖の上に配置された伏兵の動き、配置の間隔。あれは明らかに、渓谷に縦列で入り込んだ大軍を両側から粉砕するための布陣。行軍を強行すれば、貴公が誇る騎士団の栄光は、あの谷底の塵となるだろう」


「貴様……! 騎士団を愚弄するか!」


「静まれ、ヴィルヘルム!」


 カルノワ将軍の怒号が天幕を揺らした。将軍はヴィルヘルムを冷徹な眼差しで射すくめ、吐き捨てるように言った。


「貴官の言葉には、一兵卒の命に対する敬意も、戦場の現実に対する恐れも欠けている。……テンペスト、貴公の報告を採用する。四千の進軍は即座に停止。ドゥクラ渓谷を放棄し、迂回ルートへと切り替える」


「しかし閣下! 迂回すれば三日は遅れます! その間に敵は態勢を整えてしまう!」


 ヴィルヘルムが絶叫に近い異議を唱えるが、カルノワは動じなかった。


「整えさせておけ。……死者に勲章は与えられても、勝利は与えられん。全滅よりは、三日の遅延の方が遥かにましだ」




 事態が動いたのは、カルノワが懸念した「三日後」だった。


 渓谷という最大の罠を回避し、迂回ルートで東進を続けていた帝国軍だったが、敵将もまた凡庸ではなかった。帝国の動きが鈍ったことを察知した敵軍は、即座に「待ち伏せ」から「包囲殲滅」へと戦術を切り替えたのである。


 進軍の右翼を担っていた帝国軍第二、第三大隊――計千二百名の将兵が、進軍経路上にある「ヒュルトゲンの森」の中で、突如として出現した敵の包囲網に捕らわれた。

 敵は森の起伏と密林を巧みに利用し、瞬く間に千二百を円陣の中に閉じ込めた。退路を断たれ、補給から切り離された孤立無援の状態。


 救援に駆けつけようとする帝国本隊だったが、森の入り口には敵の堅牢な防御陣地が築かれ、正面突破を試みるたびに損害を重ねるばかりだった。


「……包囲された一団の食料は三日分。節約しても、五日が限界ですな」


 ヴィルヘルムが、冷や汗を流しながら地図を見つめていた。彼の傲慢さはどこへやら、自分たちの策がことごとく先読みされている恐怖に怯えていた。


「正面から圧力をかけても、森の迷宮が敵を隠し、味方の騎士たちを迷わせる。これでは包囲を解く前に全滅だ」


 カルノワ将軍が、苦渋の色を浮かべて地図を指で叩く。


 参謀たちが口々に無責任な提案を投げかける中、ロートはただ一点、地図上の「空白」を見つめていた。


「……包囲の輪は、決して均等ではありません」


 不意に発せられたロートの声に、全視線が集まった。ヴィルヘルムが毒づこうとするが、カルノワの鋭い眼光に黙らされる。


「敵の総兵力は二千前後。対して、包囲されている我が軍は千二百。二千で千二百を完全に、かつ強固に包囲し続けるのは不可能。必ず、薄い点がある。……将軍、この北側を流れる『ベレジナ川』周辺の情報はありますか?」


「ベレジナ川か……」


 カルノワが地図の北端を見据える。


「北は断崖とこの急流が天然の障壁となっているため、敵も兵力を割いてはいないだろう。だが、渡河は困難だ。馬の腰、人間なら胸まで浸かる深さがある。今の季節、山からの雪解け水を含んだあの川を渡れば、戦う前に凍死するか、体力を使い果たして岸でなぶり殺しにされるのが落ちだ」


「逆を言えば、敵もそう考えている。だからこそ、そこが『死角』になります」


 ロートの瞳に、合理という名の冷たい火が灯った。


「夜に渡る必要はありません。――真昼、白日の下に堂々と渡ります」


「正気か!? 川の中で丸見えの標的になれと言うのか!」


 ヴィルヘルムが再び声を上げた。


「高貴な帝国軍に、川底の泥を啜りながら戦えと? そんな無様な戦い、歴史に恥を残すだけだ!」


「参謀、歴史に残る名誉よりも、今日を生き残る命の方が重い。川の中では、確かに足場は最悪です。しかし、川岸で待ち構える敵にとっても、水流によって絶えず位置を変える標的に照準を絞るのは至難の業。さらに、水の中から突き上げてくる兵を、彼らは想定していない。……恐怖を感じるのは、敵の方です」


 アランが口角を上げ、ロートの横で拳を鳴らした。


「川を渡りながらの乱戦か……。泥臭いが、B中隊にはお似合いだ。な、隊長?」


「面白くはないが、確実だ。……将軍、決断を」


 カルノワ将軍は、天幕の外で渦巻く風の音を聞きながら、ロートを見つめた。


「……B中隊。この無謀な川渡り、貴公らに任せてもよいか」


「――承知いたしました。我らが包囲に風穴を空けてみせます」




 作戦は電撃的に決定した。


 B中隊が北側のベレジナ川を強行渡河し、包囲の背後を突く。同時に本隊は正面と東側から総攻撃を仕掛け、敵の注意を完全に引きつける。内と外、そして背面。三方向からの圧力で包囲の輪を歪ませ、その隙に孤立した千二百を脱出させる。


 だが、この作戦には不可欠な要素があった。


 ――包囲された部隊が、B中隊の突撃に合わせて内側から連動すること。


「伝令を一人、包囲網に潜り込ませる」


 ロートは、まだ幼さの残る顔立ちのジャンを指名した。


「あいつは器用で素早い。音を消して歩く技術は中隊で一番だ。それに、あいつは小さい」


 ジャンは「たしかに隊長や副長に比べりゃ俺は小さいですよ」と、いつものようにぼやきながらも、その目には隠しきれない緊張が宿っていた。


「……分かってます。夜明け前にあの中に潜り込んで、北を向いて吠えろ、って伝えりゃいいんでしょ?」


「死ぬな、ジャン。この作戦の肝はお前だ。失敗すれば、B中隊の全員が川の中で無駄死にする」


 ロートの冷たくも重い信頼の言葉に、ジャンは短く「……了解」と答え、闇夜に溶けるように陣を去っていった。



 翌日、昼前。


 ベレジナ川の川辺に、革鎧を固く締め直したB中隊の猛者が集結した。


 十月の東部、山々から流れる水は、もはや液体というよりは流動する氷そのものだった。


 ロートが、誰よりも早く川へ足を踏み入れた。


「――ッ」


 膝まで浸かった瞬間、鋭い刃物で脚を斬られたような激痛が走った。芯まで凍えるような冷気が骨を侵食し、呼吸が止まりそうになる。


「……冷てえ、なんてレベルじゃねえぞ、これは」


 巨漢のラサールが、歯の根を合わぬほど震わせながら呻いた。


「おい、アラン……俺の心臓、まだ動いてるか?」


「知るかよ。止まったら、岸に着く前に流されるだけだ。文句があるなら敵に言え、ラサール。奴らが冷たくない季節に戦ってくれれば、こんな苦労はしねえんだよ」


 アランもまた、顔を歪めながらもロートに続いた。


 B中隊の面々が、横一列になって川を渡り始める。


 水深は徐々に増し、流れは速くなる。腰から胸まで。水の重圧が体力を奪い、滑りやすい川底の石が平衡感覚を狂わせる。


 ロートは中央で、重厚な大剣を頭上に掲げていた。


「――止まるな! 一歩ずつ確実に踏み込め! 川を見下ろすな、向こう岸の獲物だけを見ろ!」


 川の中ほどまで進んだその時、対岸の茂みに動きがあった。


 敵の歩兵隊が、水しぶきを上げて近づく奇妙な集団を発見したのだ。驚愕の叫びが上がり、即座に銅鑼どらの音が包囲網に鳴り響いた。


「敵襲! 川からだ! 弓兵、狙え!」


 対岸の崖から、矢の雨が降り注ぐ。


 川の中で、B中隊の動きは鈍い。水に足を取られ、盾を構える余裕もない。


 バシャ、という音と共に、ロートの視界の端で一人が崩れ落ち、赤い筋が川面に広がった。


「怯むな! 川の流れが私たちを守っている!」


 ロートの咆哮が、激流の音を上回る。


「水が標的をずらし、矢の威力を殺している! あと三十歩だ! 死にたくなければ、大地を掴め!」


 死の恐怖と冷気による麻痺。その限界を超えたとき、彼らの精神は「怒り」へと転じた。


 もはや寒さを感じる神経すら焼き切れ、一刻も早く岸にたどり着き、自分たちを射落とそうとする敵を斬り伏せること。その狂気じみた一念が、彼らを猛獣へと変えた。




 アランが、咆哮と共に泥にまみれた岸辺を駆け上がった。


 川水を滴らせながら、彼は一撃で最初に出迎えた敵兵の兜を叩き割った。


「――よくも、こんな冷てえ思いをさせてくれたなァ!!」


 次々にB中隊の戦士たちが、濡れた獣のように岸へと這い上がる。


 水を含んだ革鎧は重く、腕は冷気で痺れていたが、彼らの剣筋には、待機していた敵兵が予想もしなかった「怨念」にも似た力が宿っていた。


 ロートもまた、岸へ上がると同時に大剣を閃かせた。


 北側の防御は、カルノワが言った通り極めて薄かった。三方向からの帝国本隊の猛攻に意識を奪われていた敵軍にとって、この北側からの「強行渡河」は、まさに計算外の奇襲であった。


「北側が崩れたぞ! 援護だ!」


 混乱する敵兵。だが、その背後からさらなる地響きが上がった。


 ヒュルトゲンの森の深部から、千二百名の帝国将兵が、北の空を見据えて一斉に突出してきたのである。


 ジャンの伝令が、絶望の縁にいた彼らに火をつけた。


「――北の風穴を突け!!」


 内側からの突出と、外側からのB中隊による猛攻。


 挟み撃ちにされた北側の包囲網は、薄氷が砕けるように脆くも崩れ去った。


 一時間後。


 ベレジナ川の川辺は、帝国と敵国の死体で埋め尽くされたが、包囲されていた千二百名の兵の多くが、その「風穴」から脱出を遂げた。


 合流地点で、泥と血、そして川水でずぶ濡れになったロートの前に、カルノワ将軍が馬を寄せた。


 将軍は言葉もなく、ただ泥にまみれた傭兵隊長をじっと見つめた。かつて「雷迅」と呼ばれた名将ゼイラム・テンペストを彷彿とさせる堂々とした指揮、荒くれ者の傭兵たちに信頼され、まとめ上げる手腕。合理的で冷静な判断で、対抗する勢力を黙らせる胆力。まぐれの勝利では、決してない。将軍の視線は、一人の武人として最大級の敬意が宿っていた。

 

「……八百名余りが助かったか。テンペスト。貴官の立てた『合理』が、名誉を重んじる我が騎士団の無能を救ったな」


「将軍。……私はただ、合理的な勝利を求めただけです」


 ロートは痺れる右手で大剣を鞘に収め、冷たく震える声で答えた。


「……ですが、この川の冷たさだけは、二度と御免です」


 その傍らで、アランとラサール、そしてロートの部下たちが、震えながら焚き火の火を囲んで笑い合っていた。


 東部の秋の陽光が、戦場の惨状を照らし出していたが、独立傭兵団B中隊の赤い軍旗は、泥にまみれてもなお鮮やかに輝いていた。






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