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第四幕・下 東部戦線を駆ける鷲①




第一章 包囲の報




 東部戦線の要衝、ハール城が陥落してから三週間。


 勝利の祝杯はとうに乾き、戦場には新たな、そして酷く不穏な熱気が立ち込めていた。


 ハール城という鉄壁の守りを失った敵国側は、防衛線を維持できず、一時的に戦力を後退させた。これを「敵軍崩壊の兆し」と受け取った帝国軍東部前線司令部は、一気に勝負を決めるべく、大規模な追撃戦を決定した。


 主力として選ばれたのは、ハール城攻略で疲弊しつつも、なお四千の兵力を残している帝国第三騎士団である。


 B中隊の駐屯地。ロートリット・テンペストは、届けられたばかりの進軍計画書を広げたまま、彫像のように動かなくなっていた。

 その隣で、副長のアランが顔を覗き込む。


「……隊長、顔色が優れないな。ハール城を落とした勢いに乗って、敵を国境の向こうまで蹴散らす。地図の上では、最高の勝ち戦に見えるが?」


 ロートは視線を地図から外さず、喉の奥から絞り出すような低い声で答えた。


「……最悪だ。これは、勝ち戦などではない。巨大な首吊り台へ向かう行進だ」


「どういうことだ?」


 アランの表情から軽薄さが消えた。ロートがこういった強い言葉で断じる時、そこには常に血の匂いが漂うことを、彼は身をもって知っている。


 ロートは細い指で、地図上の一点を突き刺すように指し示した。


「進軍ルートを見ろ。前線司令部は、最短距離で敵を追撃するために、この『ドゥクラ渓谷』を抜けるよう命じている。アラン、お前はこの地形を覚えているか?」


 アランは地図を凝視し、記憶を探った。


「……ドゥクラか。確か、両側を切り立った絶壁に挟まれた、細長い底道だったな。しかも崖の上は深い森だ。……そんな、まさか」


「そうだ。幅が狭く、騎馬が横並びで進めるのは精々四頭分。四千もの兵が、重装備の荷馬車を引いてここを通れば、隊列は蛇のように細長く伸び切る。頭が渓谷を抜ける頃、尾はまだ入り口にも達していないだろう。……もし、敵がハール城を『あえて』捨て、この渓谷で待ち構えていたとしたら?」


 最悪の事態を想定した彼の背に、冷たい汗が流れる。。


「……崖の深い森に伏せた敵軍から、一方的に叩かれる。投げられるものなら何でもいい。岩、油、火矢。逃げ場のない縦深陣じゅうしんじんが、文字通りの地獄に変わるわけか」


「敵の指揮官がまともなら、必ずそうする。だが、功名心に駆られた帝都の参謀たちは、勝利の美酒に酔いしれて足元の沼に気づいていない」


「……警告は出せないのか。第三騎士団が壊滅すれば、東部戦線そのものが瓦解するぞ」


「私たちは傭兵団だ。正規軍の将軍たちに、兵法の講釈を垂れる権利などない。テンペストという呪われた名を持つ私なら、なおさらだ」


 ロートは立ち上がり、碧紺へきこんのマントを翻した。その瞳には、すでに戦場を見据える鋭い光が宿っている。


「だが、座して全滅を待つ趣味はない。カルノワ将軍に進言する。……聞き入れられなければ、その時だ」



 翌朝。霧が立ち込める中、ロートはカルノワ将軍の天幕を訪れた。


 天幕の中には、カルノワ将軍の他、本国から派遣されたばかりの参謀たちが顔を揃えていた。


 ロートは持参した地図を広げ、ドゥクラ渓谷を通る危険性を冷静に、しかし一切の妥協なく説明した。


「……以上の理由から、本隊の渓谷通過はあまりに危険です。敵は後退したのではなく、誘い込んでいると見るべきです」


 説明が終わると、カルノワ将軍は顎髭をさすり、深く沈黙した。将軍は実戦経験の豊富な武人であり、ロートの指摘するリスクを即座に理解したはずだった。


 しかし、その沈黙を破ったのは、将軍の傍らに立つ、痩せ細った顔色の悪い男だった。名をヴィルヘルムと言った。帝都の有力貴族の縁者であり、軍功を求めてこの戦線に送り込まれた参謀だ。


「……ハッ。傭兵風情が、一体何様のつもりだ?」


 ヴィルヘルムは、ロートを汚物でも見るかのような目で睨みつけた。


「ハール城の件で少しばかり手柄を立てたからといって、図に乗るなよ、小娘。偵察隊の報告によれば、渓谷周辺に敵の影など一片もない。敵はハールの恐怖に怯え、震えながら逃げ惑っているのだ。その好機を逃せと? 逆賊の娘が、我が騎士団の勝利を邪魔しようとするとは……不敬極まりない」


 ロートの青い瞳が、ヴィルヘルムを冷たく射抜いた。


「偵察が『確認できていない』ことと、『敵がいない』ことは同義ではありません、参謀。死角の多い崖の上は森です。そこに千人の伏兵がいても、下から見上げれば岩肌しか見えない。それがドゥクラの地勢です」


「黙れ! 貴様の卑怯な臆病風を、高貴なる我ら第三騎士団に吹き込むな!」


「ヴィルヘルム、控えよ」


 カルノワ将軍の重厚な声が天幕に響いた。将軍はヴィルヘルムを一度鋭く睨みつけると、ロートに向き直った。


「……テンペストよ。貴官の懸念は理解した。だが、参謀本部は一刻も早い前進を求めている。確証のない『予感』だけで、四千の行軍を止めることは、軍法上許されぬのだ」


 「その通りだ。今まさにわが第三騎士団は乾坤一擲の好機。憎き蛮族を皆殺しにして、勝利の栄光をこの手に掴むのだ。解ったらさっさと下がれ、傭兵団ごときが」カルノワの言葉に、勝ち誇ったように薄い笑みを参謀は見せた。


 ロートは敢えて、そちらに目を向けず続けた。


「……ならば、将軍。提案があります」


 彼女は一歩踏み出し、老将の目を真っ直ぐに見据えた。


「B中隊から選抜した少数精鋭を、先行偵察として送り出してください。本隊の進軍より半日早く、渓谷を通り抜け、出口の安全を確認します。もし罠があれば、私たちが知らせを持ち帰ります」


 将軍は少し目を細めた。


「……お前たちがおとりになる、ということか」


「先行偵察です。……囮は使い捨てるものですが、偵察は情報を持ち帰るのが任務です。私たちは、必ず帰ってきます」

 

「将軍!薄汚い傭兵隊なぞ信用なりませんぞ。特にこやつは逆賊の娘。お考え直しを」


「黙れ、ヴィルヘルム。……テンペスト、いいだろう。許可する」


 カルノワ将軍は、ヴィルヘルムの反対を制して力強く頷いた。


「B中隊、先行偵察を命ずる。……ただし、危険と判断せば即座に引け。これは決死隊ではない。貴官らの命は、このハール城を守るためにも必要なのだ。武運を祈る」


「――承知いたしました」


 ロートは静かに、しかし誇り高く頭を下げた。








 選抜されたのは、B中隊の中でも特に夜目が利き、身軽な者たち三十名。


 馬は音を立てるため除外された。徒歩のみ。装備は革鎧のみ。愛用の大剣さえも置き、腰には短刀一振りのみ。徹底した軽量化と隠密性を追求した編成である。


 出発直前の闇の中。アランが自らの短刀を点検しながらロートに問いかけた。


「……隊長。ドゥクラの全長は約四里。暗闇の中、遮蔽物もない底道を走り抜けるってのか。崖の上から誰かが見下ろしていれば、月明かりに照らされた俺たちは絶好の的だぜ?」


「だからこそ、月が雲に隠れる時間を狙う。風向きも調べた。今夜は風が北から吹く。私たちの足音は、後方へ流される」


 ロートは天を見上げた。雲の流れは速い。


「一時間半。それがタイムリミットだ。夜が明け切る前に出口を確認し、伏兵の有無を見極める」


「ハッ。相変わらず、俺らの隊長は無茶な計算が好きだな」


 アランは苦笑しつつも、その瞳には信頼の火が灯っていた。


「いいぜ。あんたの立てた計算通りに動いてやる」


 三十名が、ドゥクラ渓谷の入り口に足を踏み入れた。


 左右から迫る黒い岩肌は、まるで巨大な怪物の顎のようだった。見上げれば、細く切り取られた夜空に冷たい月が浮かんでいる。


 ロートは先頭を走った。


 足音を殺し、呼吸を整える。砂利を踏む微かな音が、絶壁に反響して不気味に響く。


 半里ほど進んだところで、ロートが不意に手を上げた。


 全員が、吸い付くように動きを止める。「……アルマン、来い」


 彼女は膝をつき、アルマンを手招きした。


「……右前方の、突き出した岩の陰。見えるか」


 ロートが耳元で囁く。アルマンは全神経を視覚に集中させ、目を凝らした。




 数秒後、アルマンが小さく指を二本立てる。


 二人。


 敵の斥候だった。あちらも、暗闇と同化している。


 彼らは崖の下を見下ろすようにして、じっと身を潜めていた。


「……排除するか?」


 後ろから這い寄ったアランが囁く。


「音を立てずに。……残る一人が声を上げれば、この渓谷全体に報せが回る」


「任せろ。ジャン、来い」


 二人の影が、音もなく夜の闇に溶けていった。


 ロートは心臓の鼓動を数えた。二十秒、三十秒。


 やがて、アランが岩陰から、手のひらをこちらに向ける合図を送った。


 死の静寂を保ったまま、見張りは消された。





 渓谷の中間地点に差し掛かった頃、不意に空が重い雲に覆われた。


 唯一の光源だった月が消え、視界が完全な「無」に包まれる。


 ロートは手を上げ、全員を停止させた。


 視界が塞がれた時、五感のすべては聴覚へと回される。



 ……ヒュウ、という風の音。

 ……仲間たちの、微かな、しかし熱い呼吸。

 ……そして。


(――聞こえる)


 ロートの指先が、隣に立つアランの腕を強く掴んだ。


 上だ。

 崖の上。


 カチ、と石がぶつかる音。それから、複数の人間が慎重に、しかし確実に移動している衣擦れの音。

 音は一つではない。数十、あるいは数百。


 彼らは崖の上で、自分たちの「真下」を通るはずの、帝国軍の大行列を待っているのだ。


 アランもそれに気づいた。彼の腕が緊張で硬くなる。


 崖の上に伏兵がいる。しかも、単なる見張りではない。数里にわたって配置された、大規模な包囲網だ。


 もし、四千の第三騎士団がこのまま進軍してくれば、彼らはこの逃げ場のない「石の棺桶」の中で、文字通り一方的に虐殺されることになる。


 やがて、雲が切れ、再び青白い月光が渓谷に降り注いだ。

 ロートの顔は、月の光を受けて青白く、しかし冷徹なまでの決意に満ちていた。


「……戻るぞ。アラン、狼煙のろしは上げない」


「了解だ。……この渓谷は丸ごと巨大な罠だ。本隊をこれ以上、一歩も進ませちゃいけねえ」


 三十名が、音を殺しながら、しかし最大限の速度で来た道を戻り始めた。


 確かな情報を掴んだ今、一刻も早くカルノワ将軍に報せなければならない。


 だが。


 あと一里で渓谷を抜けるという地点で、不吉な音が響いた。


 背後、崖の上から放たれた、一本の火矢。


 それは夜空に放物線を描き、乾燥した谷底に突き刺さって真っ赤な火を上げた。


「……気づかれた!」


 アランが叫ぶ。


 崖の上で、怒号が響き渡った。自分たちが消した斥候が交代の時間に現れなかったか、あるいは戻る際のわずかな動きを捉えられたか。


 上空から、矢の雨が降り注ぎ始める。


「走れッ!!」


 ロートの声が渓谷に轟いた。


遮蔽物しゃへいぶつの陰を縫って出口まで駆け抜けろ! 一人も欠けることは許さない!」


 三十名の偵察隊は、背後から迫る死の雨の中を、猛然と走り出した。


 夜明けの光が、東の空をうっすらと白く染め始めていた。


 その光は希望か、それとも破滅の合図か。


 ロートは、肩に食い込む短刀の重みを感じながら、ただ前だけを見据えて大地を蹴った。






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