第四幕 ハール城の攻防④
第四章 奪われた手柄
ハール城が陥落し、東部の重苦しい湿気の中に勝利の咆哮が消えてから数日が経過した。
城内にはまだ灼けた土埃と血の匂いが漂っていたが、帝国第三騎士団の兵士たちは、自分たちが成し遂げた「偉業」を祝うように、忙しく戦後処理に走っていた。
夕闇が降りてくる頃、副長のアランが泥にまみれた長靴を鳴らし、ロートの天幕に飛び込んできた。その顔は怒りに赤黒く染まり、手には一枚の紙を握りつぶさんばかりに握りしめていた。
「隊長ッ! これを見てくれ、今すぐだ!」
アランの叫びに、地図を睨んでいたロートが静かに顔を上げた。
「どうした、アラン。心臓が口から飛び出しそうな勢いだな」
「飛び出すどころか、怒りで爆発しそうだ! 第三騎士団の副官が作成した戦果報告書……その写しを盗ってきた。信じられるか? 城門を内側から抉じ開けたのは、『第三騎士団の志願者による決死隊』だと記されてやがる!」
ロートの筆が止まった。だが、彼女は驚くこともなく、ただ静かに溜息をついた。
「……B中隊の名は?」
「支援任務として末尾に数行だ! 『陽動により敵の注意を逸らすことに貢献した』だと? ふざけるな! 針の穴を抜けて、閂を叩き折ったのは俺たちだ。あんたの右腕が痺れ、俺たちが血を流して開けたあの門の功績が、全部あの連中の手柄に書き換えられてるんだぞ!」
アランの怒号が天幕を揺らす。しかし、ロートの青い瞳は凪いでいた。
「……そうか。参謀本部直々の命令だったからな。どこかで歪みが生まれるとは思っていたが、これほど露骨とは」
「怒らないのか、あんたは!? あんたの名を、家紋を、俺たちの誇りを、命まで泥靴で踏みにじられたんだぞ!」
「怒っていないわけではない、アラン」
ロートは立ち上がり、天幕の隙間から見えるハール城の尖塔を見上げた。
「だが、怒りは判断を曇らせる。今、私がここでカルノワ将軍に怒鳴り込んだところで、何が変わる? 報告書はすでに帝都へ向かう早馬に乗っているだろう。参謀の誰かが、周到に準備していたことだ」
「じゃあ、黙って手柄を盗まれるのを見過ごせっていうのか!」
「私が黙っていても、事実は消えない。カルノワ将軍は嘘をつく男ではない。そして何より、アラン。お前と、ジャンと、ラサールと、そして死線を越えた千人のB中隊の兵たちが、誰が門を開けたかを知っている。それで……今は十分だ」
アランは歯を食いしばり、言葉を飲み込んだ。ロートの横顔が、あまりに冷徹で、それゆえに酷く孤独に見えたからだ。
「……十分なはずがないだろう。だが、隊長がそう言うなら……クソッ!」
「それよりも、アラン。優先すべきことがある」
ロートはアランに向き直り、その声を低く沈めた。
「死者七名、重傷者十二名。……間違いないか」
「……ああ。侵入中に気づかれた時の乱戦でな。七人とも、最後まで声を上げずに戦い抜いた」
「その七人の名前と、故郷の家族の連絡先を、私の元へ。それから……重傷者には最も良い薬を使わせろ。費用は私の取り分から出せばいい。……終わったら、全員、しっかり飯を食え。アラン、お前もだ。腹が減っていては、正当な怒りもただの呪いになる」
アランは何かを言いかけ、結局は力なく頷いて天幕を去った。
その夜遅く。ロートはカルノワ将軍の天幕に呼ばれた。
天幕内には老将が一人、灯火のそばで険しい表情をして座っていた。参謀たちの姿はどこにもない。
「報告書の件は、すでに耳に入っているな。テンペスト」
「ええ。第三騎士団の勇猛果敢な決死隊に、心からの敬意を」
ロートの皮肉に、カルノワは顔を歪めた。
「……わしが命じたことではない。だが、わしの不徳だ。参謀の連中が本国の有力貴族と通じ、このような歪んだ功績の奪い合いを画策した。わしにはそれを止める権限がなかった。申し訳ない、とは言わん。言っても許されることではないからな」
「将軍を責めてはいません。貴殿が騎士道の男であることは、この数週間で理解しました」
「……それが、余計に胸に刺さるわ」
カルノワは重い溜息をついた。
「テンペスト。お前が聞きたいことは一点だけだろう。……わしは、ハール城で何が起きたかを知っている。門を開けたのはお前たちだ。あの針の穴を抜ける『狂気』を実行し、夜明け前に勝利の狼煙を上げたのは、B中隊だ。それはわしの魂に刻まれている」
「……その言葉だけで、今は足ります」
ロートは静かに頭を下げた。
「ただ、将軍。一つだけ頼みがあります。いつか、本国でこの戦いの実情を話せる機会が訪れたなら……その時だけで構いません。真実を口にしていただけないでしょうか」
「……わしにか」
「裏切り者の血を引く私の言葉より、戦歴ある将軍の言葉の方が、遥かに重い。……真実の重さを、帝国という天秤に載せていただきたいのです」
カルノワはロートをじっと見つめ、やがて力強く頷いた。
「分かった。わしの名にかけて、機会があれば必ず話そう。……約束だ、ロートリット・テンペスト」
天幕を出たロートの頬を、冷たい秋の風が撫でた。
三本の鉄の閂を叩き折った衝撃で、腕はまだ微かに痺れている。
手柄は奪われ、名声も騎士団のものとなった。
それでも、彼女の背にある碧紺のマントは、夜の闇の中で誇り高く翻っていた。
ハール城陥落から十日後。戦勝に沸く帝都ミレーニアで、一人の女性が動いていた。
第一騎士団副長、シェルファニール・フローレス・フォン・グランシール。
彼女が父グレイドル将軍から東部戦線の「実情」を聞かされたのは、第三騎士団の歪んだ報告書が参謀本部に届いた翌日のことだった。
「第三騎士団の決死隊?……嘘ね。あのカルノワのジジイがそんな大胆な作戦を思いつくわけがないわ」
シェルファニールの紅い瞳に、火花が散った。彼女はロートという女を誰よりも「憎み」、そして誰よりも「知って」いた。彼女はすぐに情報を集めることに奔走した。帝都の近衛騎士団である第一騎士団には諜報部隊としての側面もある。必要な情報は、すぐに集まった。
「…ロートの率いるB中隊が到着した途端にこの戦果…?情報と索敵を最も重視する作戦、こんな考えを思いつくのはあの子しかいないわ。ちょっと貴方、すぐに伝令を出してちょうだい」
彼女は独断で動いた。第一騎士団の権限を使い、ハール城から戻ったばかりの負傷兵たちから秘密裏に証言を集めた。さらに、カルノワ将軍の副官に宛てて「第一騎士団による軍法監査」を匂わせた公式文書を送付し、詳細な戦闘記録を提出させた。
集まった事実は、報告書の記載とあまりに乖離していた。
傭兵隊B中隊から選抜された精鋭部隊が、山道の崩落跡を抜け、夜闇の潜入を成功させたこと。城門の閂を物理的に破壊したのが、大斧を振るう一人の女性騎士であったこと。
「やっぱりね。だろうと思ったわ。ロート、わたしの情報網もなかなかでしょ?」シェルファは次々に上がる新しい記録が記された書類を見た。その目は、心なしか嬉しそうに見える。
シェルファニールはその資料を握りしめ、父グレイドルすら通さずに、皇帝アトラス三世への直接上奏を求めた。
「シェルファ、正気か。これは第三騎士団だけでなく、参謀本部の面子を潰すことになるぞ」
グレイドルの制止に、娘は毅然と言い放った。
「お父様、これはロート個人の問題ではありません。帝国の軍紀、そして武人の正義の問題です。不正義の上に築かれた勝利など、砂上の楼閣に過ぎません。……わたしは、わたしの信じる『騎士道』を貫きます。それに…」シェルファは紅い瞳をわずかに伏せ、一瞬だけ口籠った。「それに、ロートは、わたしの…、わたしの……。……いえ、なんでもありません」
第一騎士団副長という地位、そして「グランシール」の名は、アトラス三世の重い腰を上げさせるのに十分だった。
玉座の間で披露された証言と物証の数々に、皇帝は氷のように冷たい声で命じた。
「……報告書を書き換えよ。帝国の栄光は、真の勇者にのみ与えられるべきものだ。傭兵隊B中隊の名を、第一功労者として筆頭に記せ」
その知らせがロートの元に届いたのは、彼女たちが東部戦線の部隊の再編を急ぐ、さ中であった。
黄金の紋章が入った早馬が土煙を上げ、B中隊の停泊する駐屯地、ロートの天幕の前で止まった。
「帝都よりの緊急伝達! ハール城攻略戦の公式報告書が再編纂されました!」
渡された文書を、ロートは自らの机に広げた。
そこには、B中隊の山道発見の功績、夜間侵入による城門開放の詳報が、余すところなく記されていた。
アランが横から覗き込み、驚愕の声を上げた。
「……本当に書き直されてる。それも、参謀本部が自ら認めただと?一体どんな魔法を使ったんだ」
「魔法ではない。……シェルファだ」
ロートの指先が、文書の末尾に小さく記された『第一騎士団副長 上奏により』という文字の上で震えた。
「シェルファ……? あの、あんたの友人か。まだ怒っているって言っていた……」
「ああ。かつての、友人だ」
「かつての、か。……でもよ、隊長。そいつはあんたのために、帝都の権力者たちを敵に回してまで動いてくれたんだぞ。これはもう、立派な『友人』だろ」
ロートは答えなかった。
シェルファニールは、不正義を嫌う女だ。彼女はロートを助けたのではない。自らの美学、自らの正義を貫いただけなのだ。ロートへの個人的な遺恨と、武人としての公正さは、彼女の中で明確に区別されている。
「……喜んでいるのか、珍しく」
アランの問いに、ロートは遠い空を見つめたまま、独り言のように漏らした。
「……喜んでいる。だが、それ以上に……胸が痛いな」
「胸が痛い?」
「彼女を独りにしたまま、私はまた、彼女の正義に救われてしまった。……私はやはり、彼女に何も返せていない」
アランはロートの横顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。彼女の天幕の前に立てられた、紺碧の旗が風に踊り、黄金の鷲が苦しげに翼を広げているように見えた。
「……帝都に戻ったら、礼を言いに行こうぜ、隊長。いつになるかはわからねえが」
「そうだな。いつか……必ず行こう」
ロートは少しだけ、ほんの少しだけだったが、頬に安堵の笑みを浮かべた。
帝都ミレーニアへの道はまだ遠い。だが、戦場という名の暗闇の中に、かつての親友が灯してくれた一筋の光が、今は確かに見えていた。




