第四幕 ハール城の攻防②
第二章 第三騎士団の陣営
南方の灼熱に焼かれた肌に、東部の湿った霧がまとわりつく。
出発から十三日目、強行軍の果てにB中隊が辿り着いたのは、ハール城を包囲する帝国軍の巨大な本陣だった。
それは、戦場というよりは一つの「都市」のようであった。
第三騎士団四千の兵が展開する陣営は、どこまでも整然としていた。補給の馬車が絶え間なく泥を跳ね上げ、立ち並ぶ天幕からは規律正しい炊飯の煙が立ち上っている。だが、その整いすぎた光景の裏側に、ロートは不気味なほどの「停滞」を嗅ぎ取った。
「見てみろよ、隊長。鎧は磨かれ、馬の毛並みも整っている。だが、兵士の目が死んでるぜ」
アランが馬を並べ、低く呟いた。
「一年間、同じ城を見上げ続けて、何も変えられなかった男たちの目だ。あれは『包囲』じゃない。ただ、城の前に居座っているだけだ」
ロートは無言で頷き、本陣の中央にそびえる指揮官用の巨大な天幕を見据えた。
「……巨大な獣が、眠りながら毒を溜め込んでいるような気配だ。第三騎士団の『毒』がどんなものか、見に行くぞ、アラン」
第三騎士団団長、オスベルト・エーデルハイン・フォン・カルノワ将軍は、天幕の奥で一人、冷めた茶を口にしていた。
五十代後半の小柄な男。白髪混じりの顎鬚は短く整えられ、軍服には皺一つない。その目は小さく鋭く、まるで獲物の価値を瞬時に見定める商人のような光を湛えていた。
「南方方面軍独立傭兵団B中隊、ロート・グランシール……いや、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト。貴様がテンペストの名を継ぐ娘か」
カルノワは顔を上げず、机の上の書類に目を落としたまま言った。その声は低く、枯れ葉が擦れるような響きがあった。
「参謀本部の決定には従うが、私は傭兵の投入には反対した。戦場とは、規律と伝統が支配する神聖な場所だ。金で雇われたはぐれ者たちが、我々でも苦戦している一年の膠着を打破するなど、騎士道の冒涜でしかない」
ロートは不遜なほどに背を伸ばし、老将の視線を受け止めた。
「率直な御挨拶に感謝します、将軍。ですが、私に騎士道の講釈を垂れるために、わざわざ南部から呼び寄せたわけではないはずです。将軍の『伝統』が一年間、あの城壁の一欠片も崩せなかったという事実こそが、我々がここにいる理由ではありませんか?」
天幕の中の空気が、一瞬で凍りついた。控えていた副官たちが腰の剣に手をかけるが、カルノワはそれを手で制し、初めてロートを正面から見据えた。
「……なるほど、さすが逆臣ゼイラムの娘だ。その傲慢なまでの自尊心、父親譲りか。よかろう、お世辞を言う気はない。我が騎士団が落とせなかった城だ、たかが千の傭兵が加わったところで、何かが変わるとは思わん。お前たちはただの『数合わせ』だ。わしの目の届かぬ場所で、適当に死んでいればいい」
「ご配慮痛み入ります。ですが、死に場所くらいは自分で選ばせていただきます。将軍、城周辺の地形を確認する許可を。それから、過去の攻撃記録の全閲覧権限を要求します」
「好きにしろ。ただし」
カルノワは冷酷な笑みを浮かべた。
「城壁の射程距離には近づくな。矢が届く範囲で傭兵を無駄に死なせれば、後で参謀本部に言い訳をするのが面倒だからな。……下がれ」
天幕を出ると、冷たい東部の夜風が吹いた。アランが待機していた場所へ歩み寄り、ロートに耳打ちした。
「隊長、どうだった。あのクソジジイは」
「……カルノワ将軍は、良くも悪くも『古い軍人』だ。我々を信用してはいないが、意図的に陥れるような姑息な真似もしないだろう。……手に負えない問題は、勝手にやらせて失敗するのを待つ、という考え方だ」
「問題は、あのジジイの部下たちだぜ」
アランの表情が険しくなる。彼は来る途中の補給隊から、いくつかの「毒」を仕入れていた。
「カルノワ将軍はまだまともだが、参謀の中に本国の有力貴族……それもテンペスト家やグランシール家を目の敵にしている連中の息がかかった者が紛れ込んでいる。そいつらは、あんたをここで確実に『処分』したがっているはずだ」
「やはりか」
ロートは自らの紺碧のマントに刻まれた鷲の刺繍を見つめた。
「参謀本部が直々に命令を出した時点で、察してはいた。アラン、偵察には細心の注意を払え。背後から射たれるのは、サンドワームに飲み込まれるより不愉快だ」
「わかってる。隊長の真似をしてみるぜ。……考えながら、動くってやつをな」
翌日の午前三時。
本陣が深い眠りに沈んでいる中、ロートはアランと精鋭の十五名を連れ、ハール城の周辺偵察へと向かった。
「頼むぞ、アルマン。この闇夜の中、お前の『目』が頼りだ」
アルマンという背が高く痩せた、山育ちの寡黙な男は、ロートの言葉に頷いた。
東部の森は深く、霧が視界を奪う。三重の城壁を持つハール城は、闇の中でも不気味な巨体としてそびえ立っていた。
正面の城壁は、隙のない堅牢さを誇っていた。だが、ロートの狙いはそこにはなかった。彼女たちは霧に紛れ、城の裏側――切り立った断崖が続く山岳地帯へと回り込んだ。
「設計図によれば、ここから先は断崖絶壁。大軍の展開は不可能……のはずだが」
ロートは古い羊皮紙の図面と、目の前の現実を照らし合わせた。
三十年の月日は、自然という名の彫刻家によって地形を変えていた。かつては滑らかな絶壁だった場所が、数年前の地震か落雷か、あるいは長年の浸食によって崩れ、巨大な岩が道を塞いでいた。
「…隊長」先を行くアルマンが、暗がりに指を差した。
「……ああ。あの岩の脇か」
アルマンが指し示すその先には、崩落した岩と山肌の間に、微かな「隙間」が生まれていた。
彼女は馬を降り、その隙間に歩み寄った。
「隊長、こいつは……」
アランが後を追う。
「ああ。設計図にはない。大人ひとりが、横向きになればようやく通れる幅だ。だが、この先は……城の裏壁、物資搬入口の真横に出る」
城の裏側は、正面に比べて驚くほど守備が薄かった。険峻な地形そのものが「最強の壁」であるという過信が、そこにはあった。
「鎧を薄くすれば通れる。板金鎧は論外だが、B中隊の革鎧なら可能だ」
ロートの目が、冷たく冴え渡った。
「アラン、ここを抜けるのは百人が限界だ。それ以上は時間がかかりすぎ、夜明けまでに展開できない。……百人で、この針の穴を抜ける」
「……百人か。正気かよ、隊長。裏から百人入ったところで、四千の騎士が一年もかけても落とせなかった城が、落ちると本気で思ってるのか?」
「百人で落とす必要はない。我々の役割は、ただ一つ。――内側から城門を抉じ開けることだ。ハール城の城門は三重だが、連動している。一番内側の門を制圧し、機構を破壊すれば、外側の門も無防備になる」
アランは隙間の奥に広がる闇を見つめ、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「……だが、門を開けた瞬間に、表の連中が突っ込んできてくれなきゃ、俺たちは内側でミンチにされるぜ。あのカルノワ将軍が、傭兵の合図で全軍を動かすなんて信じられるか?」
「信じさせるのではない。利用するのだ」
ロートは立ち上がり、本陣の方角を睨みつけた。
「将軍は騎士道の男だ。……そして、名誉を重んじる。もし『傭兵に先を越された』と知れば、騎士団としての面目を保つために、動かざるを得なくなる」
「……最悪の交渉術だな。だが、B中隊らしいぜ」
「戻るぞ、アラン。夜明けと共に、老将の天幕を再び訪ねる。……我々が、この東部戦線の沈黙を終わらせてやると告げにな」
霧に濡れた紺碧のマントが、夜闇の中で静かにはためいた。
ハール城の攻略作戦。それは、合理という名の狂気を孕んだ、最初の一歩であった。




